表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
リーガル・レジスタンス 〜法治国家を目指して〜  作者: ムササビ-モマ
第5章『基盤の構築』
46/66

第6話 『弾劾と責任』

1 最強の盾、特権状


 南のヴィレノール公爵領を発ち、海路で王都へと帰還する魔導船の特別室。

 季節は巡り、四月一日。王国における年の切り替わりを迎えたこの日、リュート・セシル・ローゼンタリアは名実ともに十四歳となっていた。


 潮風が吹き込む船室で、彼は祝杯を上げることもなく、机上に広げた羊皮紙と冷徹に睨み合っていた。

 作成しているのは、内務省へ提出するための『南の食料問題に関する公式報告書』である。


『……南の大量の麦を王都へ流し込み、人為的な物価高騰を叩き潰す。だが、問題はその「輸送手段(海運)」の報告の仕方だ』

 南の次期公爵ライとの密約により、すでに食料の一部は陸路の関所を迂回し、東の資本が作り上げた海運組合の船で運ばれようとしている。


 だが、これをただ「無名の新規海運業者が運びました」と正直に報告すれば、陸路の流通利権を独占している中央の特権商人や保守派貴族たちは即座に危機感を抱き、非合法な武力や不当な法解釈を用いて、組合の船団ごと物理的に沈めにくるだろう。


『海運のインフラが完全に根付く前に、中央の寄生虫どもに潰されるわけにはいかない。奴らが手を出せない、完璧な「合法の盾」が必要だ』

 リュートは自らの鞄から、一枚の古びた羊皮紙を取り出した。


 それはかつて彼が幼い頃、国王ゼノンを「お昼寝の邪魔をしないため」と言いくるめ、王妃マルガレーテにすら「王家の品位(責任)を守るための防壁」だと錯覚させてサインを奪い取った、王国の法を無効化する最強の切り札――『特権状』である。


「……王妃はあの時、これを単なる『責任逃れの盾』だと冷笑し、承認した。だが、王家の責任が切り離されているとはいえ、この紙には間違いなく『国王陛下の正式な認可印』が押されている」

 リュートは前世の法曹知識を全開にし、その特権状の効力を極限まで拡大解釈した報告書を淀みない速度で書き連ねていく。


『この度、王都の深刻な食料危機を憂慮された【国王陛下の特別認可(特権状)】を受けた新鋭の海運組合が、特例として独自の海路を開拓し、南からの緊急輸送を支援する運びとなった』

 法的に、一文字の噓もない。


 実際に彼が保有している「王室公認の特権状」を、自らの私兵である海運組合の事業に適用させただけだ。

 だが、この報告書が受理されれば、保守派の貴族たちは迂闊に海運組合へ手を出せなくなる。「国王の認可事業」を物理的に妨害すれば、それは即座に『王家への反逆』とみなされるからだ。


『彼らがこの海運組合(僕の基盤)を潰そうと思えば、暗殺や武力行使といった手荒な真似はできなくなる。残された道はただ一つ……』

 リュートは黒曜の瞳を細め、完璧に仕上がった報告書に自らの承認印を押した。


『「貴族院議会という公の場に僕を召喚し、合法的に弾劾する」ことだけだ』

 相手から物理的な暴力という選択肢を奪い、自らが最も得意とする「法廷(議会)での論戦」という盤面へ、敵を強制的に引きずり込むための撒き餌。


 十四歳となった稀代の策士は、遠からず巻き起こるであろう中央貴族との法廷闘争の盤面までを完璧に計算し尽くし、冷たい海風を帆に受けて王都へと帰還していくのであった。




2 ガールズトーク


 一方その頃、王都にある東の海運組合の隠れ家。

 極秘裏に集まっていた女性陣(リーゼロッテ、アイリス、ヴィオラ)の前に、天井裏から音もなく舞い降りた護衛のルリカが、ひざまずいて一報をもたらした。


「――以上が、南の次期公爵との密約の全容です。そして……殿下はその後、南の地下歓楽街にある娼館のVIPルームにて、酒を呷りながら密室で夜を明かされました」

 ルリカの淡々とした、しかし事細かな事後報告が落ちた瞬間。


 室内の温度は、物理的な錯覚を覚えるほどに急激に低下し、絶対零度に達した。

 密かに「アイリス様こそが第一党(正妻)」と支持しているルリカは、主君の偉業を報告すると同時に、手綱を握らせるべく南での泥遊びを一切の忖度なく暴露したのである。


 内務省の健気な見習い文官ティナを密かに兄の伴侶に推しているリーゼロッテは、完璧な淑女の笑みを顔に張り付けたまま、ピキリ、と手に持っていたティーカップにヒビを入れた。


「まあ。兄様ったら、南の不潔な掃き溜めで、随分と楽し気な夜をお過ごしになられたのですね」

 対してアイリスは、扇を持つ手を微かに震わせ、東の次期当主としての冷徹な仮面に隠しきれない動揺と怒りを滲ませていた。


 だが、この凍りつくような修羅場において。前世の記憶を持つ転生者であり、精神年齢が一人だけ「大人」であるヴィオラだけは、どこ吹く風と優雅に紅茶を啜り、極めてオブラートの薄い毒を吐き捨てた。


「まあ、男ってみんなそんなもんじゃない? 目くじら立てるようなことでもないわよ」

「ヴィオラ様!? 娼館で夜を明かしたのですよ!?」


「だって、第一王子のグラクト殿下なんて、毎晩ソフィア様の寝室に入り浸って、『情交の練習』に励んでいらっしゃるんだし。それに比べたら、密室で同性のガキと酒を飲むくらい、王族の男にしては随分と健全よ」

 女性しかいない密室ゆえの、あまりにも露骨で生々しい大人の発言。


 高度な教育を受け、才気煥発とはいえまだ十四歳の処女である貴族令嬢の二人にとって、その「エグいガールズトーク」は完全に許容量を超えていた。


「っ……!!」

 リーゼロッテは完璧な笑顔を引きつらせ、耳まで真っ赤に染めて絶句する。


「ヴ、ヴィオラ様! いくら何でも破廉恥ですわ! 殿方同士の密談とはいえ、場所が場所です! 殿下の……っ、貞操観念が疑われます!」

 アイリスは扇を取り落としそうになりながら、裏返った声で抗議した。


 だが、ヴィオラの遠慮のない毒舌と、正妻候補としての余裕を失うほどの「嫉妬」によって致命的に動揺したアイリスは、ここで痛恨のミスを犯してしまう。

「だいたい、私にあんな『命を懸けた重い契約書』を渡しておきながら、南の掃き溜めで泥遊びとは、どういう神経をして……あっ」

 言葉に出した瞬間、アイリスはハッと自らの口を塞いだ。


 だが、遅かった。

「…………契約書?」

 リーゼロッテの氷のような視線が、ゆっくりとアイリスへと向けられた。

「あんな重い……? アイリス様。貴女、兄様と一体どのような密約を交わして……?」

「い、いえ! 今のはただの比喩表現と言いますか、東の資本に関する業務的な――」

「……アイリス様。後で私と一対一でお茶を飲みましょうか。何の話か、一文字残らず吐かせますわよ」


 兄の「無難な生活のパートナー」としてティナを据えようと画策しているリーゼロッテにとって、アイリスと兄の間に己の知らない『極重の契約』が存在するなど、絶対に見過ごせない事実であった。


「あらあら。怖い怖い」

 ヴィオラは一人、クスクスと意地悪く笑いながら二人の舌戦を眺めている。

『リュートとアイリス様の間に、命を懸けた契約ね……。ふふ、これは後々、私の盤面でも良い切りカードになりそうだわ』


 ヴィオラという大人の前で飛び出した、論理の女神の痛恨の自爆。

 国家の根幹を揺るがす簒奪計画の裏側で、王都の隠れ家は、帰還する稀代の策士を待ち受ける「絶対零度の弾劾裁判」に向けた、カオスな前哨戦へと突入していた。 




3 リュート帰宅と、氷の弾劾裁判


 特権状を用いた「法理のハッキング」という完璧な盤面を構築し、南からの帰還を果たしたリュート。

 だが、彼が東の海運組合の隠れ家の扉を開けた瞬間、その場を満たしていたのは、次なる闘争への高揚感などではなかった。


「…………」

 出迎えたのは、絶対零度の殺気を放つ三人の女性陣(リーゼロッテ、アイリス、ヴィオラ)であった。

 部屋の空気は凍りつき、前世で数多の修羅場(法廷)をくぐり抜けてきたリュートの防衛本能が、即座に「致死の危機」を警告する。背後に控えていたはずの護衛のルリカは、すでに気配を絶ち、天井裏の安全圏へと退避していた。


「……待ってくれ。君たちがルリカからどういう報告を受けたかは推測できるが、誤解だ。あれは南の次期当主の器を測るための不可避の政治的テストであり、地下歓楽街という人間の欲望が可視化された場所でこそ――」

 稀代の策士は、瞬時に状況を把握し、前世の法曹知識と論理的思考をフル回転させて「理路整然とした無罪弁論」を展開しようとした。


 南の流通網を握るための正当な業務行為であり、そこに個人的な欲求は一切介在していない。国家転覆という目的から逆算すれば、極めて合理的で必要な手順であると。


 だが、どれほど完璧な法学・政治的ロジックを構築しようとも。この盤面において、彼が直面しているのは『論理』ではなく『女性たちの剝き出しの感情(生理的嫌悪と怒り)』であった。


「不潔です、兄様」

 リュートの弁論を冷徹に一刀両断したのは、リーゼロッテだった。

 彼女は淑女としての完璧な笑顔を顔に張り付けたまま、その瞳には一切の光を宿さず、実の兄をゴミでも見るかのように冷たく見下ろしていた。


「どのような高尚な理屈を並べようと、言い訳は不要です。十四歳という年齢で不衛生な娼館に足を踏み入れ、密室で夜を明かすなど……王族としての品位以前の問題ですわ」

 妹からの身も蓋もない「不潔」という絶対的な有罪判決。

 さらに、東の次期当主にして絶対の共犯者であるアイリスが、扇を握りしめ、本気で腹を立てた様子で一歩前に詰め寄ってきた。


「そうですわ! だいたい殿下は、私にあんなご自身の命を懸けるほどの重い契約書を送っておきながら浮気ですか!? これから盤面を共にしようという第一の投資家への、重大な背信行為ですわ!」

 論理の女神は、嫉妬という感情を「投資家への背信行為」という強引なビジネス用語に変換して弾劾の弾幕を張る。

 国家の命運を懸けた極重のプロポーズを受け入れ、身も心も捧げる覚悟を決めた少女にとって、直後に別の地で泥遊びをされた怒りは、いかなる政治的合理性をもってしても鎮められるものではなかった。


「……っ」

 盤面を完全に支配していたはずの怪物は、この理不尽とも言える猛追及の前に、為す術もなく項垂れるしかなかった。

 相手が政敵であれば反論もできるが、彼女たちは自分の命を預け、共に死線を潜る大切な身内(共犯者)である。ここで論破したところで、何の利益も生まない。


 頭を抱えて沈黙するリュート。その肩を、ポン、と軽く叩く手があった。

 精神年齢が一人だけ大人であるヴィオラだ。彼女は凍りつく室内で一人だけ余裕の笑みを浮かべ、呆れたようにため息をついた。


「まあ、元気出して。所詮それが男の性分ってもんよ。本命がいようとフラフラよそ見をする。私はそういう生き物だって分かってるし気にしないから、次からは私たちにバレないようにもっと上手くやりなさいな」

 それは、大人の女性としての余裕を見せた慰めのようでありながら、リュートの倫理観を「下半身で動く一般的なオス」レベルにまで引き下げる、極めてえげつない追撃であった。


「…………」

 慰められているのか、さらに深く抉られているのか。

 王国の四公爵家を手玉に取り、法治国家の創設という壮大な計画を進める第二王子の知性は、この日、十四歳にして初めて「女性たちの理不尽な弾劾裁判」の前に完全敗北を喫し、深く深く頭を抱え込むのであった。




4 リーゼの『全責任』


 理不尽な弾劾裁判によって稀代の策士が完全に沈黙した後。

 隠れ家の奥にある別室にて、リーゼロッテとアイリスは二人きりで対座していた。先ほどのカオスな空気は完全に払拭され、室内には冷たく、極めて高度な政治的緊張感が張り詰めている。


「……なるほど。国家の中央銀行の設立と、兄様の命そのものを担保とした絶対の密約。それが、貴女が兄様と交わした『契約』の全容というわけですね」

 アイリスの口から語られたプロポーズ(国家転覆への共犯契約)の全容を聞き終え、リーゼロッテはほう、と感嘆の息を漏らした。


 己の命すら盤上のチップとして平然とベットし、既存の国家体制を根本から破壊しようとする兄の底知れぬ狂気と覚悟。そして、その修羅の道に自らのすべてを賭ける決断を下した目の前の令嬢に、リーゼロッテは身内として深い敬意を抱かずにはいられなかった。

「アイリス様。貴女の覚悟と、兄様が貴女に預けた信頼の重さはよく理解いたしました。……その上で、貴女に一つ問わねばならないことがあります」

 リーゼロッテは、冷めた紅茶の入ったカップを見つめたまま、静かに、だが鋭く切り出した。


「現在、内務省には身分を隠し、兄様の手足となって働いている見習い文官の少女がいます。彼女の正体は、内務卿メルカトーラ侯爵の令嬢。……兄様は彼女に対し、『功績を挙げれば迎えに行く』と約束を与えています。兄様の伴侶……すなわち『側室』として、彼女をこの陣営に迎え入れることを、貴女は許容できますか?」

 それは、東の次期当主にして、実質的な「第一位の契約者(正妻)」の座を確約されたアイリスに対する、極めて残酷な踏み絵であった。


 先ほどリュートの南での行動に激しく嫉妬していた一人の等身大の少女が、別の女の存在を突きつけられ、果たしてどう動くか。

 だが、アイリスは一切取り乱すことはなかった。

 先ほどの嫉妬に狂う少女の顔は完全に消え去り、そこにあるのは、王家の規範という息の詰まる籠の中で足搔き、自らの意思と実力のみで資本の盤面を支配してきた『東の次期当主(論理の女神)』としての、極めて冷徹な為政者の顔であった。


「……契約の第一位が私であるという絶対の前提が揺るがないのであれば、殿下が必要とする駒(側室)が増えることに、私から異議を唱えるつもりは一切ありません」

 アイリスは扇を静かに閉じ、淀みない声で断言した。


「彼女の出自が内務卿の令嬢であるなら、中央貴族の動向を探り、内部から切り崩すための手札として極めて有用です。殿下の覇業において利益をもたらす『優良な投資先』であるならば、私個人の独占欲や嫉妬でその可能性を摘み取るような真似はいたしません。……それが、第一位の契約者としての私の『責任』です」

 個人的な感情を完全に切り離し、陣営の利益と合理性を最優先する。


 その見事なまでの『正妻の器』を前に、リーゼロッテは内心で深く安堵し、そして戦慄した。この論理の女神を正妻に据えた兄の眼力は、血統などという安易な指標ではなく、彼女の持つ「冷徹なまでの実力と品性」を正確に見抜いていたのだと。

 だが、アイリスの冷徹な演算はそこで終わらなかった。彼女は鋭い視線をリーゼロッテへと射抜くように向ける。

「……ですが、リーゼ様。今の彼女に、私が直接会うのは殿下の陣営として『リスク』が高すぎます」


「リスク、ですか」

「はい。彼女がどれほど優秀でも、所詮は中央貴族の娘。もし彼女が土壇場で裏切り、東のオルディナ家が殿下と結託しているという最高機密が内務卿に漏れれば、私たちの計画はすべて水泡に帰します。……ゆえに、リーゼ様。貴女が彼女を味方に引き込むというのなら、貴女自身が『全責任』を負って対処なさいませ」

 アイリスの指摘は、あまりにも正論であった。


 ティナを陣営に引き入れることは利益だが、同時に致死の劇薬でもある。その管理をリュートやアイリスに丸投げするのではなく、引き入れたいと願うリーゼロッテ自身が、命懸けの担保(責任)を負うべきだという極めて論理的な判断。


「……ええ。おっしゃる通りですわ、アイリス様。見事な判断です」

 リーゼロッテはアイリスの冷徹な条件を、笑みすら浮かべて全面的に肯定した。

 兄が与えた「功績を挙げれば迎えに行く」という約束。稀代の策士である兄のことだ、いずれ何らかの形で彼女を盤面に組み込む算段はついているのだろう。だが、待っているだけではいけない。


 兄の約束を絶対に違えさせないため、そして、いずれ中央貴族との全面戦争に突入する兄の陣営に、喉元を喰い破るための『狂犬』を確実に引き入れるため。

「彼女の首輪は、私がこの手で握ります。……陣営の最高機密を守るための『全責任』は、王女である私がお引き受けいたしましょう」

 身内としての、そして一人の王族としての重い覚悟を決めたリーゼロッテ。


 彼女の氷のように澄んだ瞳は、すでに次なる標的――暗闇の中でただ一人、一途な初恋を抱きながら実務をこなし続ける内務卿の令嬢、ティナの姿を冷酷に見据えていた。




5 初恋の終焉と、王女の絶対の腹心


 翌日の夜。王都の片隅に用意された、暖炉の火だけが赤々と燃える薄暗い一室。

 極秘裏に呼び出された内務省の見習い文官――内務卿メルカトーラ侯爵の令嬢であるティナは、緊張に身を強張らせながら、目の前に座る王女リーゼロッテが卓上に滑らせた一枚の羊皮紙を見つめ、息を呑んだ。


 それは、第二王子陣営が国家転覆を企てているという最高機密と、その全責任がリーゼロッテ自身にあることを記した、王女の命を懸けた『自白書』であった。

「ティナ。兄様が貴女を迎えに手を伸ばす時、それは兄様が中央貴族すべてを敵に回す時です」

 リーゼロッテの氷のように澄んだ声が、静まり返った室内に響く。


「……ですが、貴女にそれ以上に残酷な現実を言います。兄様の隣(正妻の座)には、別の女性が座ります。貴女がこれからどれほど血を吐くような努力をして、生家を裏切り、実務の泥を被ったとしても……貴女は『側室』に過ぎず、一生、兄様の一番にはなれない。それが、身分と資本が支配する盤面の絶対ルールです」

 その言葉が落ちた瞬間。ティナの中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。


 内務省の薄暗い書庫で、いつか王子様が迎えに来てくれると信じて耐え抜いてきた。その甘く、フワフワとした「初恋の熱」が、冷徹な政治的現実の前に完全に冷え、焼け落ちていくのを感じた。

 一番にはなれないという絶望。

 リーゼロッテは、初恋を無残に打ち砕かれた少女に対し、最後の選択を突きつけた。


「……恐ろしいなら、この自白書を持って内務卿の元へ駆け込みなさい。私一人が、断頭台に上がります」

 ティナは震える手で、卓上の自白書に触れた。この紙切れ一枚で、彼女は修羅の道から降り、元の安全な令嬢としての生活に戻ることができる。


 だが。初恋という幻想が完全に死に絶えた後、ティナの胸の奥底から湧き上がってきたのは、絶望でも恐怖でもなく――極めて冷徹な、自らの置かれた『現実への憎悪』と、目の前の王女に対する『圧倒的な共鳴』であった。

 ティナは自白書を手に取ると、一切の躊躇なく、傍らで燃え盛る暖炉の火へとそれを投げ捨てた。

「っ……ティナ……?」

「……一番の座など、最初から私のような凡才には分不相応な夢でした」

 羊皮紙が灰へと変わっていくのを背に。

 ティナは極めて理知的な、実務官僚としての冷たい瞳で、王女リーゼロッテを見つめ返した。


「リーゼ様。私が内務省の地下で、毎日何をさせられているかご存じですか? ……冬を越せない平民のための『救済麦の給付帳簿』の改竄です」

 ティナの口から、中央貴族が日々行っている生々しい腐敗の実態が語られ始めた。

「父上たち特権貴族は、国庫から出た救済用の麦を中抜きし、裏で高値で売り捌いて懐を潤しています。そして帳簿の辻褄が合わなくなると、私のような末端の文官に偽造書類を作らせる。もし不正が監査でバレそうになれば、実務を担当した平民出身の官僚を『横領犯』に仕立て上げ、責任をすべて押し付けて物理的に首を刎ねるのです」

 利益は上が独占し、泥を被る実務と失敗の責任は、すべて下の者に押し付けられる。それが、人治国家の枢密である内務省の日常であった。


「……私は、あの理不尽なシステムが憎い。懸命に数字を合わせ、実務を回している者たちが使い捨てにされるこの国が、心底嫌いでした。……ですが、リーゼ様」

 ティナは一歩、リーゼロッテへと歩み寄る。


「この一年、暗号を通じた裏のやり取りの中で、貴女は違った。私たちが陣営の資金を内務省から密かに迂回させる危険な帳簿操作を行った時、貴女は必ず『最終承認者:リーゼロッテ』の暗号印を書類の末尾に刻ませましたね」

「……ええ。万が一内務省の監査が入った時、トカゲの尻尾切りで末端の貴女が消されないよう、最終的な書類の責任の所在を、王族である私に帰属させるための防壁ですわ」


「そうです! 貴女は、私が被るリスクを正確に把握し、いざという時のすべての責任を、絶対安全な高台からではなく、ご自身の首を懸けて被ろうとしてくださっていた!」

 ティナの瞳に、強い熱が帯びる。


 実務を下の者に押し付け、責任から逃げ続ける父親たちの醜悪さ。それに対し、現場の泥臭い努力を評価し、自らが矢面に立って責任を負うリーゼロッテの『為政者としての美しさ』。


 白馬の王子様の優しい言葉などではない。この一年間、危険な実務を通じて交わされた「確かな責任の共有」こそが、ティナの心を完全に射抜いていたのだ。

「そして今夜も、貴女は私のような一介の文官のために、ご自身の命で責任を取るという行動を示された。……こんな美しい世界が創れるのなら、私が殿下の一番になれるかどうかなんて、どうでもいい」

 それは、ティナの忠誠がリュートから完全に離れ、リーゼロッテの『上に立つ者が責任を負うという思想』へと明確にベットされた瞬間であった。


「私は武力も資本も持ち合わせていません。ですが、内務省の深奥で、中央貴族どもが隠している数十年分の不正の記録、賄賂の証拠、裏帳簿……そのすべてを抜き出し、この腐った国を完全に破壊するための『致死の弾薬』を精製し続けることはできます」

 ティナは完璧な淑女の礼をとり、極めて優秀な官僚として言い放った。


「白馬の王子様など、もう必要ありません。……リーゼ様。貴女がその命を懸けて、実務者が報われる理にかなった法治国家を創るというのなら、私の命と、私が握る内務省の全情報(帳簿)は、永遠に貴女のものです。どこまでも貴女の影に潜み、中央貴族どもの喉元を内側から食い破りましょう」

 その凄絶で、極めて論理的な覚悟の言葉を聞き――。


 リーゼロッテの顔から、これまで完璧に張り付いていた「冷徹な王女」としての氷の仮面が、ふっと音を立てて崩れ落ちた。

『……ああ。兄様でも、ルリカでも、ルナリア様でもない』

 リーゼロッテの瞳の奥底から、熱いものが込み上げてくる。


 これまで彼女が宮廷で得てきた称賛や成果は、政略結婚の回避にせよ、外交の場での立ち回りにせよ、常に背後にいるリュートの知略や、ルナリアの慈愛、ルリカの武力という『絶対的な庇護(虎の威)』があってこそのものだった。周囲が評価していたのは、リーゼロッテ個人ではなく、彼女の背後にいる「陣営の力」に過ぎない。

 だが、目の前にいる同い年の少女は違う。


 ティナは、他の誰の影も介さず、ただ暗闇の中で泥まみれになりながらも責任を負おうと必死に足搔いていた『リーゼロッテ個人の努力』だけを見て、その思想を評価し、命を預けると言ってくれたのだ。

「……ありがとう、ティナ」

 リーゼロッテの口から紡がれたのは、計算高い政治的な台詞ではなく、声の震えすら隠しきれない、十四歳の少女としての純粋な感謝だった。


 彼女はゆっくりと歩み寄り、完璧な淑女の礼をとるティナの両手を、自らの手でぎゅっと強く握りしめた。

「今まで、私は兄様やルナリア様たちに守られてばかりで……私の評価はいつも、背後にいる彼らの力込みのものだったわ。だから、貴女が……私個人の戦いを見て、私自身を選んでくれたことが……本当に、涙が出るほど嬉しいの」

 冷たい政治の盤面で、初めて自らの足で立ち、自らの手だけで勝ち取った「真の理解者」。


 リーゼロッテの金色の瞳には、安堵と歓喜の涙が微かに滲んでいた。

「ええ……信じますわ、私のティナ。我々の理想の道行き、その最も暗い泥の部分を……貴女に託します。これからは貴女が、私の初めての、そして最高の同志パートナーよ」

 王女からの、虚飾をすべて捨て去った純粋な感謝と信頼の言葉。


 それを真正面から受け止めたティナもまた、かつての気弱な令嬢の顔ではなく、共に国家を引っくり返す同志としての、美しくも不敵な笑みをこぼした。


「はい、リーゼ様。……ふふっ、雲の上の白馬の王子様より、共に泥を被ってくださる貴女のほうが、ずっと素敵なお方ですわ」

「……ふふ、兄様が聞いたら傷つくかもしれないわね」

 薄暗い部屋の中、燃え盛る暖炉の光が、固く手を握り合う二人の少女の横顔を赤く照らし出していた。


 初恋という甘い幻想は死んだ。だがここに、互いの努力と責任を正当に評価し合い、中央貴族の首を静かに絞める恐るべき『共犯者たち』が、確かな産声を上げたのである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ