第4話 『女神の歓喜』
1 「地図を睨む王」の呪縛
内務省の執務室。
膨大な物流拠点と関所の配置が記された王国の広域地図を前に、リュートは静かに息を吐き出した。
現在、彼が内務卿から実務として任されているのは、「北のアイギス公爵家」と「東のオルディナ公爵家」を繫ぐ、流通網の調整作業であった。しかし、この二つの巨大な領域を連携させるという試みは、絶望的な暗礁に乗り上げていた。
両家の間には、単なる利権争いを超えた、建国初期から続く『決して交わらないイデオロギーの断絶』が横たわっているからだ。
歴史書において『地図を睨む王』と称される初代国王は、王都を物流の絶対的な中心として独占し、地方貴族への物資の流れを中央で完全にコントロールする体制を敷いた。それは武力を用いずして諸侯の首を真綿で絞める、極めて冷酷な「無血の兵糧攻め」であった。
この王家の専横に対し、王国最強の武力と誇りを持つ北のアイギス公爵家は軍事決起の準備を進め、東のオルディナ公爵家に経済的支援を求めた。
だが、東の決断は北の期待を冷酷に裏切るものであった。自給自足の基盤が強い北とは異なり、東の経済は王都を経由する陸路網に依存していた。オルディナ家は「ここで戦端を開けば、物流を止められた東は確実に干上がり、経済が死ぬ」と冷徹に演算したのだ。
結果、東は貴族としての誇りや北との連帯を早々に放棄し、王家から提示された「貴族院での莫大な俸禄と特権」という利に飛びつき、あっさりと王家に膝を屈した。
最大のスポンサー(東)が戦線を離脱したことで、アイギス家の戦略は破綻し、無念の内に王家に恭順せざるを得なくなった。
以来、武門の誇りを重んじる北は、東を「誇りを金で売った卑劣な守銭奴」と憎悪し、実利を重んじる東は、北を「地政学的な経済の死すら見えない狂犬」と冷笑し続けている。
これが、数百年経った今も続く、両家の絶対的な断絶の歴史であった。
『……この歴史的怨念の棚上げを東に要求し、同じ盤面に引きずり込むには、通常の利益提示だけでは不可能だ。オルディナ家を根本から僕の陣営に縛り付ける決定的な楔が必要になる』
地図の上に置かれた東の駒を見つめながら、リュートの脳裏に浮かんだのは、長男テオドールに代わり、東の資本と実務を牽引している公爵家長女・アイリスの顔であった。
彼女と完全な同盟を結び、東の力を掌握するための最も確実な手段。それは、血縁という不可逆の契約――『婚約』である。
だが、そこでリュートの思考は、前世の記憶に根ざした倫理観の壁に直面し、微かな淀みを生じさせていた。
前世の現代社会において、結婚とは家同士の政治契約ではなく、個人の感情に基づくものが優位であった。共働き世帯が過半数を占める時代にあっても、結婚とは単なる「仕事のパートナー」ではなく、安らぎを共有する「生活のパートナー」であるべきだという価値観が根底にあったのだ。
『理屈だけで伴侶を決め、己の戸籍を政治の道具にすることが本当に正しいのか……?』
リュートは自問する。
もし生活のパートナーとしての無難な平穏を求めるならば、例えば今、妹のリーゼロッテが側近として可愛がっている内務卿の娘ティナあたりを妻に迎えるのが、政治的にも角が立たない正解なのだろう。彼女は大人しく、家庭的な安らぎを与えてくれるかもしれない。
対してアイリスは、極めて優秀で冷徹な「仕事のパートナー」だ。そこに甘い恋愛感情や安らぎは介在しない。
『だが、現代社会でも同じだ。結婚という不可逆の契約を純粋な合理性や損得だけで測りきることなど、誰にもできない』
どれほど論理を積み上げても、最後に背中を押すのは、理屈を超えた若き『勢い』と『覚悟』である。
彼は、優しくも無力だった前世の常識を捨て、血統による人治国家を解体する為政者として生きると決めたのだ。ならば、無害な平穏など端から捨てる。その勢いをもって合理の壁を踏み越えるまでだ。
『仕事のパートナーか、生活のパートナーか。……そんな境界線は僕が吞み込み、彼女の人生のすべてを盤上の共犯者として背負う』
リュートの黒曜の瞳から、一切の迷いが消え去った。
東の強大な資本を自らの陣営に縛り付けるため。彼は、甘い愛の言葉など微塵も介在しない、己の命と国家の心臓(中央銀行)を対価とした『極重の契約』を提示する決意を固めた。
2 ルリカの報告と、論理の女神の「焦り」
東の海運組合、王都本部に設けられたアイリスの専用執務室。
新たな保険事業の莫大な資金移動を示す書類の山を、アイリスが恐るべき速度で処理し終えた頃。音もなく執務室の窓から滑り込んできたのは、離宮の護衛にして暗殺者のルリカであった。
ルリカはリュートの臣下であるが、同時にアイリスの冷徹な知性と覚悟を深く敬愛しており、密かに彼女を「主君の隣に立つべき正妻」として支持していた。
「――アイリス様。本日は内務省の盤面について、至急お耳に入れておくべき事儀が」
「ご苦労様、ルリカ。……北のアイギス家との調整は、やはり難航しているようね?」
「はい。ですが、問題はそこではありません」
ルリカは表情を変えぬまま、アイリスの机の前に歩み寄り、声を潜めた。
「現在、殿下の内務省での実務を、ある一人の『見習い文官』が異常な速度で補佐しています。類似判例の抽出において、殿下の思考を先読みするほどの献身を見せ、あの殿下が顔も上げずに『完璧だ』と称賛の言葉をこぼすほどに」
「……ほう?」
「殿下ご自身はお気づきではありませんが……私の調べによれば、その文官の正体は、内務卿の令嬢、ユスティナ様です」
その報告を聞いた瞬間。
アイリスは優雅に広げた扇で口元を隠し、余裕に満ちた完璧な令嬢の微笑みを浮かべた。
「まあ。内務卿の御息女が、自ら身分を偽って埃っぽい書庫で泥臭い実務を? ……健気で可愛らしいこと。殿下もさぞ、便利な手足を得てお仕事が捗っておいででしょうね」
表面上は、恐るべき冷たさと余裕を保った『論理の女神』。
だが――その内心では、年相応の少女としての激しいパニックと、これまでにないドス黒い焦燥感が大音量で警報を鳴らしていた。
『どういうことですの!? なぜそんな物語の悲劇のヒロインのような真似を!? しかもあの、他人の能力に一切の期待をしない殿下が「完璧だ」と!?』
アイリスは極めて高い知能を持つがゆえに、この事態の「論理的な危険性」を即座に弾き出していた。
リュートは恐ろしいほどの合理主義者である。愛や情熱といった不確かなものを、彼は決して政治の基盤にはしない。だからこそ、自分の実務を無言で補佐し、自己主張もせず、さらに内務省という巨大な権力基盤(内務卿)とのパイプを持つ『従順で無害な令嬢』は、彼にとって「最も費用対効果が高く、政治的摩擦を生まない伴侶の最適解」になり得るのだ。
『だめ、だめですわ! 殿下は本当に、そういう冷酷なまでの合理計算で、あっさりとあの凡庸な令嬢を生活の伴侶に選んでしまいかねない……!』
ギリッ、と。扇を握る手に思わず力がこもる。
アイリスは自らの頭脳と実務能力、そして東の資本力に絶対の自信を持っている。しかし、「家庭的な安らぎ」や「打算なき無償の献身」という土俵で戦えば、自分はあの小動物のような令嬢には絶対に勝てないという、鋭い自己分析もあった。
『私だって、殿下のためなら身も心も、東の資産のすべてだって差し出せますのに……! ……い、いえ、落ち着きなさい、アイリス。そんなみっともない感情論を殿下にぶつけては、ただの愚かな女に成り下がりますわ』
深呼吸を一つ。
アイリスは、胸の奥で暴れ回る「私だけを選んでほしい」という切実な乙女の悲鳴を、分厚く冷徹な『論理の装甲』で幾重にも覆い隠した。
愛や嫉妬で訴えても、あの怪物は動かない。彼を縛り付けるには、彼自身が最も好む「逃げ場のない論理と契約」を突きつけるしかないのだ。
「……ルリカ。有益な情報を感謝します。どうやら、私から殿下に『東の資本を動かすための最終交渉』を仕掛ける時が来たようですわね」
「はい。ご武運を、アイリス様」
ルリカが静かに影へと消えると同時に、アイリスは立ち上がった。
北のアイギス家との歴史的怨念を棚上げし、東の莫大な資本を、本宮の権力闘争というリスクに晒す。その極めて危険な譲歩に対する、『相応の担保』の要求。
完璧な大義名分(論理)を盾にした、最強の同盟者への宣戦布告。
アイリスは、絶対に悟られてはならない恋心と焦りを氷の微笑みの奥に隠し、足早にリュートの待つ王都の隠れ家へと向かうのであった。
3 最強の担保と、選ばれた少女の「歓喜」
王都の裏路地に位置する、東の海運組合の隠れ家。
アイリスが一人でその薄暗い一室を訪れた時、リュートは長椅子に深く腰掛け、東の物流網とアイギス家領地の関所を記した分厚い資料に目を通していた。
「……夜分に申し訳ありません、殿下。至急、確認しておきたい儀がありまして」
アイリスは完璧な令嬢の微笑みを浮かべ、優雅に頭を下げた。だが、その声の奥には、ルリカからの報告によって引き起こされた、隠しきれない刃のような冷たさと焦燥が微かに混じっていた。
「北のアイギス家との流通調整の件ですわ。殿下は、我がオルディナ家が、あの誇りばかり高くて不愉快な『北の脳筋』と同じ盤面に乗り、東の資本をリスクに晒せとおっしゃるのですか?」
「ああ。アイギス家の武力と流通網をこちらに引き込まなければ、王都の完全な包囲網は完成しないからね」
「……そうですか。ですが殿下、私に『歴史的怨念の棚上げ』という致命的な譲歩を強いるのであれば、殿下も私に『相応の担保』を示すべきですわね」
アイリスは一歩踏み出し、リュートの黒曜の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
歴史的背景を盾にした、極めて論理的な牽制。しかしその裏には、「あなたを支えるのはあの文官ではなく、私だ」「私を選んでほしい」という、年相応の切実な感情が隠れていた。
かつて、母ルナリアの凄惨な死と復讐の業火に焼かれ、己の行いに絶望しかけていた夜。あの孤独な暗闇の中で、誰よりも論理的に彼の罪を肯定し、その背負う重荷を共に分かち合うと誓ったのは自分なのだ。あの夜の抱擁と誓いは、決して政治的な駆け引きなどではなかったはずだ。
『もしここで、彼が私をただの便利な金庫番として扱い、あの文官を伴侶に選ぶというのなら……私は、すべてを壊してしまうかもしれない』
アイリスの瞳が、僅かに揺れる。
だが、リュートは一切の動揺を見せなかった。彼は手元の資料をゆっくりと閉じると、ほのかに魔力を帯びた特注の羊皮紙と、王族でさえ滅多にお目にかかれない希少な『魔墨』の入ったガラス小瓶を、机の上を滑らせて彼女の前に提示した。
「……これが、君への担保だ。確認してくれ」
アイリスは訝しげに眉をひそめながら、その羊皮紙を手に取った。
そこに記されていたのは、甘い恋文でも、一時的な利益の確約でもなかった。
『将来、リュート・セシル・ローゼンタリアが国家の盤面を完全に制した暁には、新国家における「中央銀行の設立権」および「通貨発行権」をオルディナ公爵家に独占的に委譲し、アイリス・オード・オルディナを第一の共同経営者(伴侶)として迎える。本契約に違約が生じた場合、リュート・セシル・ローゼンタリアの命、および全資産をオルディナ家に譲渡するものとする』
その文面と、添えられた魔墨を目にした瞬間、アイリスの『論理の女神』としての冷徹な仮面が、音を立てて崩れ落ちた。
魔法契約――署名者の魂と魔力に直接縛りをかける、絶対の呪縛。
この術式は、少しでも脅迫されていたり、心に迷い(ノイズ)があれば、魔力が不協和音を起こして絶対に成立しない。莫大な対価と、互いの完全なる『合意と覚悟』がなければ紙ごと燃え尽きてしまう、ごまかしの利かない劇薬だ。
愛や感情を綴った言葉は、ただの一文字も存在しない。
あるのはただ、己の命と、国家の心臓(経済の絶対的支配権)そのものを天秤にかけ、一切の逃げ道を断った極重の魔法契約のみ。
それは、合理主義の怪物であるリュートなりの、「お前だけが、僕の隣に立つ絶対の共犯者だ」という、ひどく不器用で、しかしこれ以上ないほど完璧な証明であった。
「……殿下、これは……」
「北と東の怨念など、僕がすべて吞み込んでやる。だが、僕は君の資本と知能がなければこの国を作り替えられない。だから、僕の命と国家の未来のすべてを、君に預ける」
リュートは静かに立ち上がり、アイリスの前に立った。
「この魔墨は、君の心に少しでも不満や迷いがあれば定着しない。……仕事のパートナーか、生活のパートナーか。そんな境界線はどうでもいい。アイリス。僕の人生のすべてを、盤上の共犯者として背負う覚悟が君にあるなら、サインしてくれ」
かつて、絶望の淵にいた彼を論理で救い上げてくれた少女に対する、彼なりの不器用で誠実なプロポーズ。
その重すぎる羊皮紙と、彼の真っ直ぐな言葉を受け止めた瞬間。アイリスの目から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
ティナへの不安など、完全に吹き飛んでいた。自分こそが、彼の命を預かる唯一無二の存在として選ばれたのだという圧倒的な優越感と幸福感が、彼女の全身を震わせていた。
「……ああ。素晴らしいですわ、殿下……!」
アイリスは震える手で羽ペンを握り、ガラス小瓶の魔墨に浸した。
「私のすべては、すでにあの夜から貴方のものです。……この契約、東の資本を預かるオルディナの長女として、そして何より、貴方の絶対の共犯者として、謹んでお受けいたしますわ!」
迷いなど、微塵もない。
彼女の魂から溢れ出す極上の歓喜と独占欲が、一切のノイズを持たない純粋な魔力となってペン先から流れ込み、羊皮紙の上にまばゆい光の軌跡(絶対の誓約回路)を完成させた。
二人は再び、あの夜のように静かに抱擁を交わした。
甘い言葉も、ロマンチックな口づけもない。だが、国家の心臓を対価とし、互いの魂の純度を証明した魔法契約書を挟んで抱き合う二人の姿は、どんな純愛小説よりも深く、強固な信頼によって結ばれていた。
論理の女神は、この最強の担保を胸に抱き、父と弟が待つ東の領地へと、完全なる勝利の足取りで帰還していくのであった。
4 オルディナ家族会議と、公爵夫人の一喝
東のオルディナ公爵領、本城。
王国の経済を束ねる心臓部たる、豪奢にして実務的な当主の執務室に、重く硬質な怒声が響き渡った。
「莫大な利権とはいえ……愛する娘を、いつ首が飛ぶかもわからん本宮の権力闘争の只中にいる『忌み子』に差し出せというのか!」
分厚いマホガニーの執務机を激しく叩いたのは、現当主であるオルディナ公爵その人であった。
机の上に放り出されているのは、アイリスが王都から持ち帰った、リュート直筆の『密約書』である。
オルディナ公爵は、利益を至上とする冷徹な資本家である。だが同時に、自らの手足となって東の基盤を支えてきた優秀な長女を、心から愛する父親でもあった。
「国家の通貨発行権と中央銀行設立権……確かに、建国以来いかなる大貴族も手にしたことのない天文学的な利権だ。東の悲願と言ってもいい。だが、相手は盤面において圧倒的に不利な第二王子だぞ! お前をそんな底なしの泥沼へ放り込み、あまつさえあの北の『狂犬ども』と同じ陣営に並べというのか。歴史の反逆にも程がある!」
「お父様の言う通りだ! 俺は絶対に認めない!」
父の怒声に続き、次期当主である長男テオドールが血相を変えて立ち上がった。
「ふざけるな! 姉上がどれだけ身を粉にして東の実務を回してきたか、あんな得体の知れない王子にわかってたまるか! 第一側妃派閥や王家の連中を敵に回して、東の資本をリスクに晒すだけでも正気の沙汰じゃないのに、姉上の戸籍(人生)まで巻き上げるつもりか!」
テオドールは次期当主として、アイリスの頭脳と東への献身を誰よりも尊敬している。だからこそ、この命と資産を天秤にかけた極重の契約は、彼にとって「利益のために姉を差し出す生贄の儀式」にしか見えなかった。
「俺は東の次期当主として、姉上を玉座の権力闘争の生贄になど絶対にさせない! あんな紙切れ一枚で、姉上を渡してたまるものか!」
激昂する父と弟を前にして、アイリスは静かに息を吐き、扇で口元を隠したまま毅然と言い放った。
「……お父様、テオドール。冷静におなりなさい。これは生贄などではありません。私を第一の共同経営者として迎えるという、極めて対等で合理的な契約です。殿下はご自身の命と国家の心臓を担保に――」
「言葉遊びだ、アイリス! その男が敗北して死ねば、お前も東の資本もすべて道連れになる、逃げ道のない死の契約ではないか!」
公爵は血を吐くような声で長女の言葉を遮った。
そこにあるのは、東の当主としての経済的なリスクヘッジだけではない。娘を確実に死地へと向かわせる契約に対する、家族としての純粋な拒絶であった。
リュートが提示した「最強の担保」は、アイリスの心を完全に陥落させた。しかし、家族としての情愛と、北に対する数百年の歴史的怨念を抱える男たちにとって、それは到底受け入れられる代物ではなかった。
「……話になりませんわね。感情で盤面を見誤らないでいただきたいのですけれど」
「お前こそ、その男にたぶらかされて目が曇っているだけだ!」
膠着する主張。東の莫大な資本の行く末を決める執務室は、歴史的怨念と、それ以上に「家族を想うがゆえの感情的決裂」によって、完全に機能不全に陥ろうとしていた。
その混沌を切り裂いたのは、鋭く、乾いた音だった。
――パチンッ!
扇が閉じられたその一音で、公爵とテオドールの声が喉元で止まる。
それまで窓際で沈黙を守っていた公爵夫人が、ゆっくりと愛する夫と息子の方へ向き直った。彼女の瞳には、感情に溺れる二人への、冷ややかなまでの失望が浮かんでいた。
「……情けない。二人とも、自分が今、誰を相手に吠えているのか分かっているの?」
「し、しかし母上、この契約はあまりに――」
「黙りなさい、テオドール。……あなたたち、東の当主と次期当主でしょう? 相手の覚悟の重さすら見抜けず、感情で喚き散らして商機を潰すのは、ただの『弱者の遠吠え』よ」
夫人の氷の刃のような正論が、男たちの熱を奪う。彼女は机上の密約書を指先でなぞり、アイリスを見つめた。
「アイリス。あなた、この契約の毒を理解した上で選んだのね?」
「はい、お母様。これは私の人生を賭けるに値する、唯一無二の盤面です」
「よろしい。……あなたたち、聞きなさい。武家の気概すら失い、あなたたちは彼ら(アイギス家)以下の臆病者に成り下がったの? 命を懸けるべき選択を自ら掴み取れることは、何よりも喜ばしいことですわ」
夫人は、狼狽える夫を射抜くような視線で制した。
「何も準備ができぬまま、ある日突然、王家の気まぐれや歴史の濁流に吞み込まれて死ぬ。そんな無為な最期に比べれば、自らの意志で、自らの命の値段を吊り上げ、逃げ道のない戦場へ赴く……。これほど誇り高く、合理的で、清々しい選択が他にあるかしら?」
公爵は、妻の言葉に見えない刃で喉元を突きつけられたかのように息を呑んだ。
「歴史の濁流に吞み込まれて死ぬ」。その言葉は、建国以来、王家に生殺与奪の権を握られながら、首に黄金の鎖を巻かれて生き長らえてきた東の根源的な恐怖であり、屈辱そのものであった。
常に冷徹な現実を直視してきた夫人の一喝は、単なる娘を案じる父親に成り下がっていた公爵の眼を、再び『東の最高権力者(資本家)』のそれへと引き戻した。
公爵はゆっくりと視線を落とし、机上の密約書をもう一度、今度は感情を完全に排した「冷徹な投資家」の目で読み込む。
『国家の通貨発行権および中央銀行設立権』。
それは王家の首輪を外すどころか、国家の心臓を物理的に握り潰し、東が真の支配者となることができる究極の利権だ。対する担保は、違約の際の『王子の命』。
『……これは愛娘を差し出す生贄の儀式などではない。東の全資本と歴史をベットするに足る、狂気的で、しかし極めて合理的な「究極の投資」だ』
公爵の顔から、迷いと狼狽が完全に消え失せた。
そこにあるのは、莫大なリターンと背中合わせの致死のリスクを前にして、静かに血を滾らせる勝負師の顔であった。
「……妻の言う通りだ。これを蹴るのは、東の誇りと未来に関わる、取り返しのつかない大損害だ」
一方、次期当主であるテオドールもまた、母の言葉と、冷徹さを取り戻した父の横顔を見て、己の未熟さを恥じるように強く唇を噛み締めていた。
見れば、密約書を胸に抱く姉アイリスの瞳には、悲壮感や犠牲者のような怯えは微塵もない。あるのは、東の未来と自らの人生のすべてを懸けるに足る「真の怪物(王)」を見定めた、絶対的な確信と誇りだけだ。
自分が姉を守ろうと激怒したこと自体が、彼女の極めて高い知性と覚悟に対する最大の侮辱であったと気づいたのだ。
「……っ」
テオドールは、握りしめた両拳が白く変色するほどの力で、自らの中に燻る「弟としての私情」を完全に押し潰した。
優秀な姉が自ら最前線に立つというのなら、次期当主である自分がなすべきことは、後方で安全を説くことではない。東の全力を挙げて彼女の背中を支え、共に盤面を制圧することだ。
「……姉上が選んだのなら。俺も東の次期当主として、二度と私情は挟みません。共に、王家の喉元を喰いちぎりましょう」
強硬な反対意見を、夫人の論理とアイリスの覚悟が完全に粉砕した。
父と弟が己の内の私情を切り捨て、冷徹な資本家としての牙を取り戻したこの瞬間。禍根を残さず家族全員の『合意』を形成したオルディナ公爵家は、数百年の怨念を飲み込み、東の莫大な力を一本にまとめてリュートの背後に並ぶことを公式に決断したのであった。
5 東の譲歩と、王都の物価(見えない中抜き)
東のオルディナ公爵家による、リュートへの完全なる結託。
この見えない最強のカードが盤面に切られたことで、リュートの内務省における最初の実務は、誰も予期し得なかった『歴史的成果』として結実した。
それは、東側からの「北へ向けた流通網の関税免除および流通拠点の効率化」という、実利における大幅な譲歩の確約である。
無論、そこには歴史的怨念の和解などという甘い感情は一切介在していない。アイリスはただ冷徹に、リュートという次期国家の絶対的支配者への「投資」として、東の利益を一時的に削るという純粋な経済的判断を下したに過ぎない。
だが、裏の事情を知らない内務卿メルカトーラ侯爵から見れば、それは奇跡に等しい手腕であった。あの徹底した利益至上主義の東から、武門の北に対する譲歩を引き出したのだ。内務卿は歓喜し、この前代未聞の功績を自らの差配によるものとして王家に奏上。リュートへの実務官僚としての評価は、内務省内で決定的なものとなった。
『……これで、第一段階は完了だ』
内務省の薄暗い執務室。リュートは提出書類の承認印を淡々と押し進めながら、脳内で自らの盤面を再確認していた。
『誇り高い北のアイギス家を交渉のテーブルに着かせるには、ただの言葉では足りない。だが、この東からの莫大な物流コスト削減という実利を手土産にすれば、彼らの軍備維持の要請と完全に合致し、必ずこちらへ引き込むことができる。……時期を見て、僕自身が北へ赴こう』
東の強大な資本と、アイリスという絶対の共犯者を掌中に収め、北の武力(アイギス家)を取り込むための「最強の交渉材料」まで手に入れた。王都を包囲する外堀は、極めて順調に埋まりつつあるかに見えた。
だが――その時である。
執務室の空気が、分厚い報告書を睨みつける内務卿の重い溜息によって沈み込んだ。
「……また上がっているな。小麦をはじめとする、王都の基礎食料品の物価が」
「はい。突発的な暴騰ではありませんが、ここ数年、年々じわじわと上がり続けており……平民たちの生活水準から見ても、そろそろ『限界点』が近付いております」
リュートは手元の物価推移の統計を冷徹な視線でなぞりながら答えた。
急激な飢餓や暴騰であれば、王家も即座に強権を発動する。だが、この「数年かけて気付かぬうちに真綿で首を絞めるような物価の上昇」は、権力者たちの危機感を麻痺させ、限界を迎えた瞬間に一気に暴動という致死の炎を燃え上がらせる、極めて悪質な時限爆弾であった。
「このままでは、遠からず王都の治安は崩壊する。市場を安定させるには、王国の胃袋(穀倉地帯)を握る南のヴィレノール公爵領からの『食料供給の絶対量』を増やすしか手はない」
内務卿は頭を抱えながら、目の前の優秀な第二王子へと重い決断を下した。
「……リュート殿下。東からの歴史的譲歩を引き出した貴方の交渉手腕を見込んで、お願い申し上げる。至急、南のヴィレノール公爵家への特使として赴き、王都への『食料供給の増加』を勝ち取ってきてはいただけないだろうか」
「承知いたしました、閣下。直ちに南へ向かう準備を整えましょう」
恭しく頭を下げながら、リュートの脳裏には冷酷な法曹的・経済的演算が高速で走り始めていた。
『不作の報告もないのに、年々王都の物価が上がり続けている。南のヴィレノール家が意図的に供給量を絞り、王都の胃袋を人質に取って静かに権力を誇示しているのか……。いや、あるいは南からの供給量自体は変わっていないにも関わらず、王都へ至る街道を管理する中央貴族たちが、関所での不当な中抜きや通行税の吊り上げを貪欲に繰り返している結果か』
どちらにせよ、現在の物価高騰はただの自然現象などではない。人の欲望が引き起こした『盤面の歪み』だ。
北のアイギス家へ赴くための手土産を手に入れた直後に突きつけられた、王都の限界という物理的なタイムリミット。
リュートは東の譲歩という成果を懐に忍ばせ、その物価高騰に潜む真の腐敗の構造(原因)を見極めるべく、いまだ底知れぬ不気味さを漂わせる南の公爵領へと、その鋭利な知性の矛先を向けるのであった。
ここから、いよいよ四公爵家の最後のピース「南のヴィレノール家」が登場するのですね!
王都の物価高騰の裏に潜む真実とは……!? 続きをお待ちしております。




