第3話 『独占契約』
1 完璧な王妃候補と、息の詰まる鳥籠
本宮の奥深く、第一王子グラクトの婚約者であるヴィオラに与えられた豪華なサロン。
そこは、最高級の調度品と美しい花々に彩られた、国中の令嬢たちが羨む『次期王妃の玉座』への控え室であるはずだった。だが、今のヴィオラにとって、そこは空気が薄く息の詰まる『鳥籠』でしかなかった。
「ヴィオラ様。午後からの『他国における王室外交の歴史』の課題、完璧でございました。引き続き、夕食前までに『東部と北部の税収差から読み解く流通の課題』についての論文を仕上げてくださいませ」
氷のように冷たい声で指示を出すのは、王妃マルガレーテが直接差し向けた筆頭教育係の老女であった。
狂犬セオリスの処刑以降、第一王子グラクトの王宮内における威信は致命的なまでに失墜している。その事態に焦りを覚えた王妃マルガレーテは、自らが主導する盤面の均衡を保つため、「次期王妃の能力の絶対的な底上げ」を至上命題として掲げたのである。
グラクトの政治的弱体化を、妻となるヴィオラの実務能力で補う。その冷酷なまでに合理的な計算のもと、ヴィオラに対する王妃教育の時間は、常軌を逸した水準へと引き上げられていた。
「……承知いたしました」
ヴィオラは完璧な令嬢の微笑みを顔に貼り付け、恭しく頷く。
だが、その内心では悲鳴を上げていた。
『どうしてこうなるのよ……! 私が前世の知識を使って課題を効率よく終わらせれば終わらせるほど、空いた時間に新しい課題が際限なくねじ込まれていくじゃない!』
ヴィオラは、本来なら王妃教育など適当にこなし、空いた時間を自らの愛する『研究(魔導具の開発と論理構築)』に充てるつもりだった。
しかし、彼女が前世の知識を無意識に流用して叩き出す「完璧な回答」は、王妃や教育係から「極めて優秀な次期王妃の器」として高く評価されてしまい、結果としてさらなる高度な教育(重圧)を招くという悪循環に陥っていたのである。
大好きな研究時間は、ついにゼロになった。
さらに悪いことに、グラクトはセオリスの処刑と自己嫌悪から自室に引きこもり、茶会すらも中止している状態だ。王宮の社交界では、早くも「第一王子と西の令嬢の不仲説」がまことしやかに囁かれ始めていた。
「このままではいけません。ヴィオラ様には、より王家の空気に馴染んでいただく必要があります」
数日前、王妃マルガレーテは極めて冷徹な判断を下した。未婚の公爵令嬢であるヴィオラを実家の公爵邸から引き剝がし、本宮の後宮へと住み込ませたのだ。
表向きは「次期王妃としての自覚を促すための特別措置」であった。だが、その真の狙いは、ヴィオラが「忌み子」である第二王子リュートの主の離宮へ逃げ込み、不要な接触を持つことを物理的に遮断するための『完全なる軟禁』であった。
監視の目は昼夜を問わず光り、少しでも気を抜けば「次期王妃としての品位に欠ける」と叱責が飛ぶ。
机に向かい、山積みになった論文の課題を見つめながら、ヴィオラの思考回路は完全にオーバーヒートを起こしかけていた。
『……限界。もう、絶対に限界。このままじゃ、私の脳が完全に焼き切れて、ただの王家の操り人形にされちゃう……!』
彼女は、この息の詰まる鳥籠から脱出するための、極めて合理的かつ切実な『SOS』の暗号を、離宮にいる『共犯者』へと送る決意を固めた。
2 前世の切り札の単独掌握
限界を迎えたヴィオラのSOSは、完璧な隠語を用いた手紙として、離宮の第一王女リーゼロッテのもとへ届けられた。
事態を察知したリーゼロッテは、即座に孤児院慰問という誰も大義名分を掲げ、ヴィオラを王妃の鳥籠(後宮)から連れ出すことに成功した。
向かった先は、王都の裏路地に位置する東の海運組合の隠れ家である。
分厚い扉が閉まり、王家の監視が完全に途絶えたその瞬間。完璧な令嬢の仮面を被っていたヴィオラは、糸が切れたように長椅子へと倒れ込んだ。
「あぁぁぁっ……! もう駄目、限界! このままじゃ過労で脳が焼き切れる! 意味のないお茶会の作法なんてどうでもいいから、私に図面を引かせてぇぇっ!」
優雅さなど微塵もない、純粋な技術者としての悲痛な叫び。
その様子を冷ややかに見下ろしながら、第二王子リュートは一枚の羊皮紙と羽根ペンを彼女の前に滑らせた。
「安心しろ、ヴィオラ。王宮の軟禁から君を合法的に救い出す手はずは、僕がすでに整えつつある。……だが、ただで助けるわけではない。僕たちがこれから始める『保険・投資事業』に不可欠な、天文学的な計算処理と数万人規模の顧客管理を可能にする魔導具。その設計図を、君の頭脳で引いてほしい」
「天文学的な計算処理……数万人のデータ管理……!」
その言葉を聞いた瞬間、死んだ魚のようだったヴィオラの瞳に、極彩色の光が灯った。彼女は跳ね起きるようにペンを握りしめ、水を得た魚のように歓喜の声を上げる。
「できるわ! 今の王国の魔導具は、構造が原始的すぎるのよ! 火を出す石は火を出すだけ、記録する石は記録するだけ。『入力・演算・出力』の術式がひとつの魔石に固定されているから、複雑な計算をさせようとすると魔石がパンクするの!」
ヴィオラは狂ったような速度で、羊皮紙に複雑な魔法陣と構造図を書き殴り始めた。
「だから、機能を完全に分離させるの! 文字盤からの『入力』、それを一時的に保持する『記憶魔晶』、そこに刻まれた命令を読み取って計算だけを行う『演算回路』、そして結果を映し出す『出力』。一時記憶と演算を物理的に分ければ、記憶魔晶に流し込む術式を変えるだけで、どんな複雑な計算でも無限に処理できるわ!」
それは、既存の「単一機能の魔導具」の常識を根底から覆す、極めて汎用性の高い計算処理の概念だった。
さらに彼女のペンは止まらない。
「データ管理も同じよ。数万人分の『名前・住所・年齢』を毎回記録石に書き込んでいたら、すぐに容量が尽きるし、探すのに何時間もかかる。だから、顧客一人一人に短い『識別符号(ID)』を割り振るの!」
「識別符号、だと?」
「そう! 個人情報は巨大な『基礎情報庫』に一度だけ記録しておく。そして、毎月の掛け金や配当の計算には、その短いIDと金額だけを別の記録石に書き込むのよ。あとは、そのIDだけを高速で並べ替えて検索するための専用の『索引石』を嚙ませれば、複数の記録石を紐づけて、一瞬で特定の個人のデータを引き出せるわ!」
荒い息を吐きながら、ヴィオラは書き上がったばかりの二枚の設計図をバンッと机に叩きつけた。
「これが、私の考えた最強の『汎用計算機』と『情報管理庫』の理論よ!」
その革新的な図面を覗き込んだリーゼロッテは、あまりの高度な概念に目を白黒させていた。だが、リュートの反応は全く違った。
彼は一切の表情を崩さず、極めて冷徹な為政者の顔を保っていたが――その内心では、激しい衝撃と戦慄が吹き荒れていた。
『記憶と演算の分離……間違いない、前世におけるノイマン型コンピュータの基本構造だ。そして、短い識別符号をキーにして複数のデータ群を紐づけ、索引で高速検索する構造……これは完全にリレーショナル・データベースの概念そのものじゃないか!』
ただのオセロの考案者というだけでは、単なる天才で片付けられたかもしれない。だが、この極めて現代的でシステマチックなITインフラの概念を、魔法という代替手段を用いてゼロから構築しようとするこの発想は、この世界の住人から出てくるものではない。
『こいつは、僕と同じ「同郷(転生者)」だ』
リュートは、目の前で興奮冷めやらぬ表情で胸を張るヴィオラが、前世の記憶を持つ人間であることを完全に確信した。
もしここで「お前も日本人か」と尋ねれば、彼女は歓喜し、二人は手を取り合って前世の絆で結ばれただろう。だが、リュートの冷徹な為政者としての戦略的思考は、その『感情的な共有』を瞬時に切り捨てた。
『いや、僕の正体(手札)を明かす必要はない。彼女が転生者であったとしても、「僕だけが知っている」というこの圧倒的な情報の非対称性こそが、今後の交渉において最強の武器になる』
相手の思考の根底を完全に把握していれば、誘導も搾取も自由自在だ。リュートは自らが転生者であるという事実を分厚い仮面の下に隠し通し、ヴィオラの持つ前世の技術知識を、自らの法治国家創設のために『盤面の切り札として都合よく使い潰す』ことを冷酷に決意した。
「……素晴らしい理論だ、ヴィオラ。君のその魔導具があれば、僕たちの計画は早まる」
リュートは感情を一切交えず、ただ純粋な実務家としての称賛を口にした。
「約束通り、君を王妃の鳥籠から解放し、この研究に没頭できる完璧な環境を用意しよう。……僕の盤面のために、その頭脳を存分に振るってくれ」
何も知らないヴィオラは「任せて頂戴!」と無邪気に笑った。
こうして、前世のITインフラという悪魔の技術が、冷徹な第二王子の手によって王国の裏側へと静かに実装されようとしていた。
3 「大義名分」の創出
ヴィオラの持つ前世の技術インフラを搾取し、盤面に組み込むと決意したリュートの行動は迅速であった。
彼は自らが表舞台に立つことなく、内務省の調整役という立場を最大限に利用し、直属の上司である内務卿メルカトーラ侯爵を盤上で動かし始めた。
「閣下。現在、王都を中心に爆発的に普及している盤上遊戯『オセロ』ですが、法務と治安維持の観点から、少々看過できない事態が生じつつあります」
内務卿の執務室。リュートは集積された各地区の報告書を机に広げ、極めて実務的で冷静な声で進言した。
「非公式な大会や賭け事でのルール解釈の対立が頻発し、平民だけでなく貴族間でも無用な摩擦を生んでいます。これは放置すれば、いずれ内務省の管理不行き届きを問われかねない治安悪化の火種です。早急に国家主導でルールを統一し、管理する機関――『王立オセロ協会』の設立が必要かと存じます」
「ふむ。確かに、あの遊戯の流行り病のような熱狂ぶりには、私も眉を顰めていたところだ。だが、たかが遊戯のためにわざわざ王立の機関を作るなど、大袈裟ではないか?」
難色を示す内務卿に対し、リュートはあらかじめ用意していた『本命の毒(餌)』を差し出した。
「単なる遊戯の管理組織ではありません。この協会の名誉総裁に、オセロの発案者である次期王妃・ヴィオラ嬢を据えるのです。……現在、グラクト殿下の威信は先の処刑劇で大きく揺らいでいます。ここで『美しき次期王妃が、自ら民草の文化と娯楽を保護し、国民に寄り添う』という慈愛に満ちた美談を打ち出せば、低迷する第一王子陣営と王家の権威を回復する強烈なアピールとなります」
「……なるほど。国家のバランサーたる王妃様が、喉から手が出るほど欲しがる名分だな」
内務卿の目が、老獪な政治家のそれに変わる。リュートは間髪入れず、恭しく頭を下げた。
「しかし、第一側妃派閥から忌み嫌われている私がこの案を出せば、間違いなく余計な反発と王家の不和を招きます。……ですから閣下。どうかこの案を、内務卿たる閣下の憂国からの進言として、王妃様に奏上していただけないでしょうか」
それは、「兄と王家を立て、己の功績をすべて義理の父に譲る、謙虚で賢い実務の駒」という完璧な演技であった。
内務卿は内心でほくそ笑んだ。治安維持の実績と、王妃への絶大な貸しを同時に、しかも無償で手に入れられるのだ。これほど都合の良い話はない。
「……殿下のお心遣い、感謝する。この件、内務卿の権限において私が責任を持って進めよう」
こうして、リュートの描いた完璧な台本は、内務卿という強大なスピーカーを通して王妃マルガレーテの元へと届けられた。
事の推移は、リュートの計算通りに完璧に運んだ。
次期王妃の能力の底上げと、グラクトの威信回復に腐心していた王妃は、この提案を「次期王妃としての極めて知的で誉れ高い公務」として絶賛し、即座に承認したのである。
ヴィオラの王妃教育の理論部分はほぼ修了しており、後宮に軟禁して復習の論文を書かせるよりも、協会のトップとして華々しく社会事業を行わせる方が、王家にとって遥かに有益な『政治的装飾』となるからだ。
さらにこの『国民に寄り添う慈愛の王妃候補』という輝かしい大義名分は、副産物としてもう一つの重要なルートを開拓することになる。
将来的にヴィオラが、民間施設――すなわち、リーゼロッテが資金を投じて準備を進めている『教育機関としての孤児院』――へと慰問に訪れるための、誰にも怪しまれない完璧な視察の口実が、この瞬間に確立されたのである。
◇
数日後。ヴィオラは王妃教育という息の詰まる後宮の軟禁から、完全に解放されていた。
表向きは「王立オセロ協会本部」の看板が掲げられた王宮外の広大な施設。だがその実態は、彼女が前世の知識を現実の魔導具として組み上げるための、誰にも干渉されない『専用の技術工房』であった。
「……信じられない。本当にあのクソ真面目な教育係たちを黙らせて、こんな完璧な研究施設を用意してくれるなんて……!」
真新しい机や、厳選された最高品質の魔法陣の刻印機材を前に、ヴィオラは震える手で頰を押さえ、歓喜に打ち震えていた。
王家は「次期王妃の美談」という果実を得て満足し、内務卿は「自らの手柄」に満足し、ヴィオラは「自由な研究環境」を得て満足している。
だが、この盤面において真の勝利者たる第二王子は、自らは一切の権力も名誉も被らず、ただ暗がりの裏舞台で冷徹に微笑んでいた。
国家の体制を裏から乗っ取る影の政府、その『最強の物理的基盤(演算ハードウェア)』を生み出すための環境構築が、大人たちの愚かな打算を利用して完璧に完了したのである。
4 パトロンの誕生と、技術の二重契約
ヴィオラが王都の工房で「王立オセロ協会の成績管理魔導具」というダミーの製作に励む裏で、本命たる『計算機』と『情報庫』の真の設計図は、密使カイルの手によって西のクロムハルト公爵領へと極秘裏に運び込まれていた。
公爵邸の地下深く、厳重な結界に守られた実験室。
届けられた図面を一瞥した瞬間、王立学園の長期休暇を利用して実家に帰省していた公爵家の長男・クラヴィアは、金髪を振り乱して歓喜の絶叫を上げた。
「記憶と演算の物理的分離だと!? なんだこの狂った、いや、完璧すぎるまでに美しい論理構造は! これまでの『一つの魔石に全機能を持たせる』という魔導工学の常識を根底から否定している! これを考えた奴は神か!?」
『〇・〇一ミリの守護者』の異名を持ち、魔力伝導の微小なロスすら許さない苛烈な完璧主義者であるクラヴィアは、妹が前世の知識を叩きつけて引いたその圧倒的な理論の美しさに、完全に魅了されていた。
興奮で顔を紅潮させる息子の傍らで、当主ディーゼルもまた、図面に添えられたリュートからの親書を読み、息を呑んでいた。
『――王家には適当な成績管理の魔導具を納めておけばいい。だが本命は、この設計図の裏の機能(計算と情報管理)だ。私を最優先とし技術を独占させてくれるなら、王家の窮屈な予算とは別に、私がクロムハルト家の個人的な実験の裏のパトロンとなり、無尽蔵の資金を援助しよう。その代わり、クラヴィア殿にはこの図面をベースに、芸術的な過剰性能ではなく、極限まで無駄を削ぎ落とした演算速度と量産効率の最大化に特化した改良設計を依頼する』
「研究資金……無尽蔵……ッ!」
「演算効率の極限化! 素晴らしい、機能美の追求こそ技術の頂点だ! やるぞ親父、俺の休暇のすべてをこの『神の基盤』の最適化に捧げる!」
ディーゼルは、ヴィオラが帰省した際に聞いた娘を救ってくれたルナリアと離宮陣営への深い恩義から。クラヴィアは、提示された未曾有の技術的命題と、自らの完璧主義を肯定し出資してくれる『絶対的なパトロン』の誕生から。
西の公爵家は、王家(本宮)への忠誠をあっさりと棚上げし、リュートとの間に強固な『技術の二重契約』を結んだ。クラヴィアの狂信的な技術力により、ヴィオラの理論はまたたく間に「量産可能かつ極限まで効率化された魔導端末」へと再設計されていった。
◇
クラヴィアの手によって効率重視の最適化が施された図面と、ヴィオラが王都で組み上げた数台の『試作機』。
それらは即座に、二つの全く異なる戦場へと秘密裏に送られた。
一つは、東のオルディナ公爵領である。
莫大な資本と流通網を握る『論理の女神』アイリスのもとへ届けられた図面は、東の誇る工業力をもって極秘の量産体制へと移行した。
さらにアイリスは、完成した端末を自陣営の信頼できる商人や書記官たちに触れさせ、徹底した『使用感覚の調査』を実行していた。
「……魔力を持たない平民でも、この識別符号を打ち込むだけで、瞬時に該当の顧客情報が呼び出せるのですね。素晴らしいわ。ですが、この入力盤の配列は実務に不向きです。人間の指の動線に合わせて、文字盤の配置を再設計させなさい」
アイリスの冷徹な実務目線による容赦のないフィードバックが西へと送り返され、誰もが直感的に操作できる洗練された端末へと、システムは急速に進化を遂げていく。
◇
そしてもう一つの戦場は、王都の東区画に位置する『孤児院』であった。
かつてカイルが育ち、現在はリーゼロッテが『王家の人気取りのための慈善慰問』という大義名分のもと、定期的に通い詰めている場所。その実態は、将来の海運組合や新国家の実務を担う『平民官僚』を育成するための極秘の教育機関である。
陽の光が差し込む明るい教室。リーゼロッテが護衛のカイルを伴って姿を現すと、孤児たちは目を輝かせて駆け寄ってきた。
「あ、リーゼ様だ! カイル兄ちゃんも!」
「今日はオセロの続きを教えてくれるの?」
彼らにとってリーゼロッテは、美味しいお菓子を与え、読み書きや計算、そして『オセロ』という盤上遊戯を教えてくれる心優しい慈愛の聖女であった。
リーゼロッテは完璧な微笑みを浮かべ、子供たちの頭を優しく撫でながら、ヴィオラが組み上げた数台の『試作機』を机の上に並べた。
「今日はね、オセロの代わりに、少しだけ頭と指を使う『新しいゲーム』を持ってきたのよ」
「新しいゲーム!」
「ええ。ここに書かれた短い記号を見て、この箱の文字盤を誰が一番早く、正確に叩けるか競争しましょう。一番点数が高かった子には、とびきり甘い焼き菓子をプレゼントするわ」
その言葉に、孤児たちは歓声を上げて端末の前に陣取った。
彼らは魔導具の複雑な理論など一切理解していない。ただ純粋に「聖女様が持ってきてくれた、正確に叩いて数を競う遊び」として、夢中になって文字盤を叩き始めた。
子供たちの吸収力と順応性は驚異的だった。彼らは大人のような先入観がない分、指の動かし方や記号の配列をスポンジのように吸収し、遊びの中で互いに教え合い、競い合いながら、またたく間に『タイピング』の技術を肉体に刻み込んでいく。
その様子を壁際で見守っていたカイルが、感嘆の息を漏らす。
「……驚きました。あの子たち、もう大人の書記官を超える速度で入力作業をこなしています」
「ええ。このまま競争を続ければ、数ヶ月後には一切のエラーを出さない完璧な操作手が数十人規模で完成するわ」
リーゼロッテは優雅に扇で口元を隠し、子供たちを見守りながらクスクスと笑った。
「彼らにはこのまま、楽しくゲームを極めてもらうわ。……そして数年後、この遊びの延長線上に、東の海運組合での一生食べることに困らない『特別な仕事』と安定した居場所を与えてあげるの。兄様の創り出す新しい国を、下支えする最高の歯車としてね」
西の天才が極限まで効率化した設計図。
東の資本が推し進める量産化と、実務に即した使用感の洗練。
そして、王都の陽だまりの中で「聖女の遊戯」として育成される、絶対の忠誠と最高峰の入力技術を持った無垢なる操作手たち。
リュートが構想した『影の政府』の心臓部は、大人たちが本宮の権力闘争と威信回復の茶番に現を抜かしている間に、致死量の毒のように静かに、そして完璧に王国中へと根を張り巡らせていたのである。
5 伝統の王道と、金融の魔物の産声
本宮の第一王子私室。
かつて絶望と狂気に沈んでいたその部屋は、今や整然とした静けさと、微かな熱気を帯びていた。
「グラクト殿下。先のセオリスの処刑は、民衆に強烈な恐怖と一時の『血の娯楽』を与えましたが、王家への親愛を育むものではありませんでした。今、殿下の威信を真に回復させるためには、あの凄惨な記憶を上書きするほどの『圧倒的で、熱狂的な娯楽』を提供する必要があります」
側近たるエドワルドは、円卓に置かれたオセロ盤を指し示し、極めて理知的な声で進言した。
「王妃様が名誉総裁となられたヴィオラ嬢を立て、『王立オセロ協会』を設立されました。これを利用し、殿下ご自身の主催による『王都オセロ大会』を開催するのです。身分を問わず参加を認め、勝者には殿下から直接恩賞を与える。これは民衆の熱狂を王家への賛美へと変換する、最高の政治的催しとなります」
その提案に、グラクトの瞳が強い光を帯びた。
彼にとって『オセロ』とは、単なる遊戯ではない。絶対的勝利の呪縛から自分を解き放ち、割合的な勝利(七割の勝ち)という為政者のロジックを教えてくれた、いわば己の精神を救済した『聖域』であった。
「素晴らしい案だ、エドワルド! すぐに手配を進めてくれ。予算も人員も惜しまなくていい!」
グラクトは身を乗り出し、高揚した声でかつてのように「丸投げの了承」を下した。
だが、エドワルドは恭しく頭を下げたまま、静かに、しかし断固として動かなかった。
「……エドワルド?」
「殿下。手配を進めるのは、私ではありません。殿下ご自身です」
「なっ……僕が、自ら動くというのか?」
驚くグラクトに対し、エドワルドは氷青の瞳で真っ直ぐに見据え、真の『帝王学』を説き始めた。
「これまでの教育係たちは、殿下のお言葉を全肯定し、実務のすべてを代行してきました。しかし、現場の実務の摩擦を知らずして、上から号令を下すだけの者は、いずれ組織の空転を招く暴君となります。……大会を開くには、財務省から予算を引き出し、内務省から会場の認可を得て、近衛騎士団に警備の協力を要請しなければなりません。各機関にはそれぞれの縄張りと都合があります」
エドワルドの言葉は厳しい。だが、そこには第一側妃のような「無謬性の強要」も、第三側妃ソフィアのような「思考を奪う甘い毒」もない。ただ純粋に、彼を次代の名君へと育て上げようとする、伝統的な官僚としての確かな忠誠があった。
「各行政機関の役割をその目で直接確認し、責任者たちと対話し、利害を調整する『根回し』を行うのです。その泥臭い実務の経験こそが、殿下を真の王へと成長させる血肉となります。……私が横で、各機関の力学をすべてご指導いたします。どうか、ご自らの足で歩いてはいただけませんか」
その言葉に、グラクトはハッと息を呑んだ。
耳触りの良い肯定だけを与えられ、温室で育ってきた自分。だが、目の前の冷徹な側近は、自分に「汗をかき、頭を下げ、組織を学ぶこと」を求めている。それは、彼を一人の自立した為政者として扱ってくれている何よりの証左であった。
「……分かった。君の言う通りだ、エドワルド」
グラクトはオセロの白石を一つ握りしめ、力強く頷いた。
「僕に、王宮の仕組み(実務)を教えてくれ。この大会は、僕自身の手で成功させてみせる」
こうして第一王子グラクトは、エドワルドという優秀な指南役の下、本宮の各機関へと自ら足を運び、伝統的な貴族政治の絶対ルールである『根回しと調整』を学び始めた。
それは、彼が為政者としての器を確かなものへと成長させていく、王道にして正当な回復のプロセスであった。
◇
だが、彼ら保守派の若きエリートたちが、既存の王宮行政という枠組みの中で正当な成長を遂げ、大会の準備に奔走していたまさにその頃。
王宮の外、王都の商業区画に堂々と構えられた東の海運組合・王都本部では、既存のルールそのものを無価値にする『未知の怪物』が、ついにその産声を上げていた。
「――次の顧客、東区画の準男爵家の者です。希望プランは『家職喪失時の大口補償』。掛け金は月額金貨二枚」
「識別符号『E-〇四九二』として新規登録。記憶魔晶へ入力完了、基礎情報庫との紐づけを確認」
本部の広大な窓口の裏側。そこには、数台の洗練された魔導端末が並び、リーゼロッテの孤児院から送り込まれた十代のオペレーターたちが、感情を交えぬ正確な動作で文字盤を叩き続けていた。
その恐るべき処理速度により、次々と持ち込まれる貴族や富裕層の契約処理が、瞬く間に『データ』として蓄積されていく。
下階の窓口から微かに響き続ける、孤児たちによる魔導端末の規則的な打鍵音。
それは、古い人治のシステムが形骸化し、新たな経済と情報の網の目が王国の心臓部に深く根を下ろしていく、極めて事務的で静かな足音であった。
リュートは二階の特別室からその光景を見下ろすこともなく、机上に提出された初日の『契約数と莫大な掛け金』の報告書に、冷徹な筆致でただ「確認」のサインを書き込んでいた。
第一王子グラクトが、エドワルドと共に「伝統的な貴族政治の頂点」を目指して正当な成長を遂げようとする表の盤面。
対して第二王子リュートが、法の隙間を突く『経済と情報』という未知のシステムで「国家機構そのものの簒奪」を開始した裏の盤面。
決して交わることのない二つの為政者の道筋が、ここに決定的な対比として描き出され、静かに、だが確実に激突の時へと向かっていくのであった。




