第2話 『金融の魔物』
1 離宮会議で「先延ばし」
離宮の奥に設けられた、リュート陣営の秘密の作戦室。
分厚い帳が下ろされたその密室で、第一王女リーゼロッテは、優雅に紅茶のカップを置き、氷のように冷たく、そして極めて美しい微笑みを浮かべて兄をねめつけたままでいた。
「……それで? 兄様はあの健気な令嬢に、内務省の権限を引き出すためにずいぶんと都合の良い甘い噓を吹き込んだようですが。最終的にはどう責任をお取りになるおつもりですか?」
その鋭い追及に対し、王宮の盤面を冷徹に支配するはずの十三歳の第二王子は、あからさまに視線を泳がせ、背筋に冷たい汗をかいていた。
前世の合理主義をもって、冷酷に敵を追い詰める盤面の怪物。しかし彼には、政治力学とは全く無縁の、前世の倫理観に根ざした「致命的な弱点」が存在した。
それは、『妻は生涯にただ一人』という重度のロマンチストな結婚観であり、他者の純粋な好意や恋愛感情を政治の道具として割り切れないという、人間としての道義的な生真面目さであった。
ティナの狂気的な純情と努力の重さをリーゼロッテから突きつけられ、リュートの脳内は罪悪感とパニックで完全にショート寸前に陥っていた。だが、彼は前世の法学知識をフル回転させ、己の逃亡を正当化する「完璧な正論」という名の盾を大急ぎで構築する。
「……その件に対する明確な回答は、『王立学園卒業時』まで保留とする」
「保留、ですか?」
「あ、ああ。我が国において、王立学園の卒業は成人を意味し、同時に貴族院での『議員資格(政治的発言権)』を得る絶対条件だ。法的かつ政治的な独立権を持たない今の私が、特定の陣営の令嬢との婚姻を確約することは、我々の掲げる創設の盤面において致命的なリスクとなる。これは極めて合理的な判断だ」
早口で並べ立てられた完璧すぎる政治的ロジック。
だが、それがただの「色恋沙汰と道義的責任からの全力の逃亡」であることを、リーゼロッテは見抜いていた。
「……なるほど。見事な正論ですこと」
リーゼロッテが呆れたようにため息をつくよりも早く、リュートは露骨に咳払いをして、強引に話題を切り替えた。
「そ、それよりも! 任せていた、王都の孤児院を教育機関として再編する計画の進捗はどうなっている? 今後、僕たちが人治を破壊して法治国家を創設するには、法を理解し、実務を担う『平民出身の官僚』の育成が絶対に不可欠だ。資金は東の海運組合から回せるが、施設の確保はできているのか?」
あからさまな論点のすり替えであった。普段の冷徹な彼であれば、相手がこのような不自然な話題転換を行えば、決して逃がさず論理で刺し殺していただろう。だが今の彼は、身を乗り出して必死に「孤児院の教育機関化」という国政の話題にすがりついている。
その不格好な兄の姿を見て、リーゼロッテはパチンと扇を開き、口元を隠して小さく息を吐いた。
『まったく。人の生き死にや国家の命運を左右する盤面ではあんなにも冷酷な怪物のくせに、一人の令嬢の純情を前にした途端、これほどまでに脆く、無様に取り乱すなんて』
だが、その呆れと同時に、リーゼロッテの胸の奥底で、兄に対する認識が確かな温度を持って塗り替えられていくのを感じていた。
もしリュートが、他者の感情すらも完璧に計算し、ティナの純情を「ただの便利な手駒」として鼻で笑うような冷血漢であったなら。リーゼロッテは彼を、決して間違うことのない『神』や『怪物』として、盲目的な信仰と恐怖をもって崇拝していただろう。
しかし、目の前にいる少年は違う。自らのついた噓と相手の感情の重さに耐えきれず、必死に理屈をこねて逃げ回る、ひどく不器用で真っ当な倫理観を持った『人間』なのだ。
完璧ではない。致命的な不得意分野(感情の機微)もある。
だからこそ、自分が彼の隣に立ち、その見落とした感情の盤面を補って支えなければならないのだと、リーゼロッテは強く確信した。彼女の胸にあった兄への思いは、神への信仰から、同じ人間としての絶対的な尊敬へと完全に昇華されていた。
「孤児院の件は、予定通り進んでおりますわ。王都の東区画に二棟、すでに偽名で物件を確保し、読み書きと計算を教える教師の選定に入っております。……安心してくださいませ、兄様」
リーゼロッテは、必死な顔をしている兄に向け、極めて優雅に、そして少しだけ意地悪く微笑んでみせた。
「兄様が『法的根拠』とやらで逃げ回っている間は、私がティナの面倒をしっかりと見ておきますから。でも、彼女の実力がいずれ兄様の逃げ道を塞ぐほどに成長した時は……その時は、王族の男としてきちんと責任をお取りになってくださいね?」
痛いところを突かれたリュートは、気まずそうに視線を逸らし、無言で孤児院の資料へと目を落とすことしかできなかった。
離宮の薄暗い作戦室に、かつてのような悲壮感はない。互いの弱さを補い合い、新たな時代を創り上げる強固な兄妹の絆が、そこには確かに息づいていた。
2 演算の壁
王都の裏路地にひっそりと佇む、東の海運組合が所有する隠れ家。
分厚い遮光カーテンで外界から完全に切り離されたその密室に、新たな時代を創設するための中枢が集結していた。
第二王子リュート、第一王女リーゼロッテ、護衛たるルリカ。そして、東の令嬢アイリスと、監査役として実務を担うカイルである。
「本題に入る前に、一つ明確にしておかなければならない『権利』がある」
巨大な王都の地図と複雑な金融の設計図が広げられた机の上で、リュートは一冊の古い帳簿をことりと置いた。
「この海運組合を王都で立ち上げる際、その莫大な初期投資を担った筆頭出資者は、亡き母上だ。帝国の実家から持ち込んだ私財の類であり、王家の帳簿には一切載っていない。ゆえに、税や王宮からの干渉を受けず、名義を変更するだけで完全に譲渡できる」
リュートはそこで言葉を切り、背後に控える黒衣の少女を真っ直ぐに見据えた。
「この財産と、それに紐づく隠れ家の所有権を含むすべての名義を、シルファ伯爵令嬢たるルリカ、君に相続させる」
「……なっ!?」
常に無機質なほど冷静なルリカが、珍しく目を丸くして狼狽した。
「お待ちください、リュート殿下! 私は殿下とリーゼ様をお守りするための剣に過ぎません! ルナリア様の遺産は、唯一実の血を引く殿下こそが受け継ぐべきものです!」
だが、リュートは静かに、しかし断固たる意思で首を振った。
「僕たちが創設する国家において、性別や血縁の濃淡による権利の不平等は徹底的に排除する。明確な成文法に基づく『長子相続の原則』に従えば、母上が公的に実の娘と同等に迎え入れた君が、第一位の相続権を持つ。……むろん、他家への降嫁や、自らの意志による相続放棄といった法的な例外規定は設けるが、今の君にはどちらも該当しない。これは僕の独断ではない。リーゼ、君も異論はないね?」
話を振られたリーゼロッテは、優雅に扇を閉じ、一切の迷いなく完璧な笑みを浮かべた。
「当然ですわ。血縁や品位といった曖昧なものに縛られるのは、本宮の愚か者たちだけで十分。ルナリアお母様が遺したものは、長女であるあなたが受け継ぐのが最も『論理的』です。……どうか受け取ってくださいませ、私たちの誇り高きルリカお姉様」
お姉様。その温かくも確かな敬意を込められた響きに、ルリカの胸の奥で熱いものが込み上げる。剣としての存在意義だけでなく、家族としての絶対的な『長女』の座を論理と法で肯定されたのだ。彼女は深く頭を下げ、その責務と財産を背負う覚悟を決めた。
「さらに言えば、これは極めて実利的な防衛策でもある」
リュートが冷徹な為政者の顔に戻り、地図を指差す。
「いずれ僕たちは、全寮制である王立学園へと進学することになる。外部との接触が極端に制限されるあの閉鎖空間において、僕やリーゼの名義で事業を持てば、必ず王家や敵対派閥の監視と介入を受ける。だが、独立した成人貴族である『シルファ伯爵令嬢』の所有物であれば、王家の手の届かない完璧な外部拠点として機能するんだ」
実利と論理、そして新しい法律の原則。そのすべてを内包した完璧な相続を終え、リュートはいよいよ本題たる『設計図』の中身を明かした。
当初は自分たちの生存圏と資金を確保するためだけに始めた組合事業。だが今、それは国家の体制そのものを裏から乗っ取るための巨大な怪物へと変貌を遂げようとしていた。
「議題は、海事組合の機能を拡張した『相互扶助制度(共済保険)』と『利益配当付き積立(投資信託)』だ」
リュートの口から語られるのは、この世界には存在しない前世の金融システムであった。
「庶民からは広く薄く掛け金を集め、火災や事故などの不測の事態を金銭で補償する。同時に、その莫大な資金を東の海運や西の技術開発に投資し、運用益を配当として還元する。これで『金が金を生む』という資本主義の味を覚えさせ、庶民の経済を我々のシステムに完全に依存させる」
さらにリュートは、不敵な笑みを深めた。
「そして、ゼノビア侯爵家の失脚とセオリスの処刑を見て、いつ自分も王家の『品位』という気まぐれで首を切られるかと震え上がっている貴族・官僚向けには、理不尽な解雇や左遷、没落に対する『大口・失業補償プラン』を提示する」
「……っ!」
「王家に見捨てられ、家職を失っても、組合の保険に入っていれば莫大な退職金が保証される。彼らの忠誠は王家から我々の組合へと移る。有能な人材と莫大な資金を、王家の帳簿を通さずに合法的に吸い上げる。これはもはや事業ではない。国家の中に寄生し、いずれ宿主を喰い破る『影の政府』の構築だ」
その悪魔的かつ完璧な金融システムを聞き終えた瞬間、アイリスの背筋に、恐ろしいほどの歓喜と戦慄が走った。
『何と恐ろしい……! 武力も血統も使わず、ただ「法と金」という純粋な論理だけで、この国の根幹を完全に支配する気ですわ!』
彼女は頰を紅潮させ、その圧倒的な資本の暴力に陶酔しそうになる。だが、極めて高度な知性を持つ『論理の女神』である彼女は、即座にそのシステムの根底にある「致命的な欠陥」を正確に弾き出した。
「リュート殿下。マクロの理論は完璧です。この事業が成立すれば、王都は我々の手の中に落ちるでしょう。……しかし」
アイリスは歓喜を無理やり押さえ込み、冷水を浴びせるように鋭く指摘した。
「王都規模でこのシステムを運用するには、数万人に及ぶ顧客データの管理、毎月の掛け金の計算、事故の確率論に基づく天文学的な『計算処理』が絶対に必要です。現在の人力では、ひと月も経たずに組合の経理が完全にパンクしますわ」
それは、どれほど優れた理論であっても、物理的な処理能力が追いつかなければすべてが破綻するという、冷酷な現実(演算の壁)であった。
だが、リュートはその指摘を受けても微塵も動揺せず、むしろ待っていたとばかりに目を細めた。
「その通りだ、アイリス。君の言う通り、人力では絶対に不可能だ。……だからこそ、この圧倒的な『演算処理の壁』を突破するために、彼女の力を借りる」
リュートの脳裏に浮かぶのは、本宮の王妃教育という息の詰まる鳥籠に囚われている、西の天才技術者。
「王家のしがらみから、西のクロムハルト公爵令嬢ヴィオラを本格的に盤面に引きずり込む。僕たちのシステムに命を吹き込む、最強の『物理的基盤』を創らせるためにな」
金と法という最強のソフトウェア(理論)は完成した。あとはそれを走らせるための装置を手に入れるのみ。
薄暗い隠れ家の中で、金融の魔物が静かに産声を上げ、新たな盤面の歯車が確かな音を立てて回り始めていた。
3 本宮の再起、盤上遊戯が繫ぐ逃避と回復
本宮の奥、第一王子の私室。
豪奢な円卓の上には、白黒の石が敷き詰められた盤上遊戯『オセロ』が置かれていた。
「……六十四手、盤面は黒の圧勝です。どうやら今回も、私の勝ちのようですね。グラクト殿下」
得意げな笑みを浮かべてそう宣言したのは、新たな側近として配属されたセラフィナ侯爵家の嫡男、リーデルであった。
次期魔導卿としての聡明さを自負する彼は、その頭脳の回転の速さを証明するかのように、容赦のない手回しでグラクトの白石をことごとく裏返していた。相手が傷心の第一王子であろうと、手加減をして機嫌を取るという「政治的な空気」を読むことが絶望的に欠如しているのだ。
盤面を埋め尽くす黒石を見つめ、グラクトの顔が蒼白に染まる。
たかが遊戯の敗北。しかし、極限まで精神が摩耗している今の彼にとって、その『敗北(黒)』という視覚情報は、己の保身のために見殺しにした忠臣セオリスの呪詛と、処刑台の凄惨な記憶をフラッシュバックさせるのに十分すぎる劇薬であった。
「あ、ああ……また、負けた。僕の白が、すべて……」
グラクトの呼吸が浅くなり、震える手が盤面を崩しそうになったその時。
背後に静かに控えていたもう一人の側近、エドワルド・シーン・カルネリアが一歩前へ進み出た。
「見事な手腕です、リーデル殿。――ただし、『単なる盤上の戦術』としては、ですが」
隙一つなく整えられたプラチナブロンドの髪に、理知的で計算高い氷青の瞳。貴族院議長の子息であるエドワルドは、空気を読めずに勝ち誇るリーデルを冷ややかに一瞥すると、グラクトの隣に恭しく跪いた。
「グラクト殿下。オセロという遊戯は、白と黒、すなわち勝者と敗者が明確に分かれる武門の戦いに似ています。しかし、我々が生きる『政治』という盤面においては、このリーデル殿のような『百パーセントの完全勝利』は、最も避けるべき愚行なのです」
「……愚行? 勝つことが、愚かなのか?」
「はい。敵を完全に叩き潰し、逃げ場を奪えば、相手は必ず死に物狂いで反撃に出るか、あるいは深い怨恨を残して将来の禍根となります」
エドワルドは盤面の黒石をいくつか手に取り、あえてグラクトの白石へと裏返して見せた。
「武力による闘争には、生か死かしかありません。しかし、政治における闘争とは『割合的な勝利』を目指すものです。たとえば、ある交渉においてこちらの要求を七割通し、残りの三割をあえて相手に譲歩して『相手の顔を立てて負けさせる』こと。実質的な利益(七割)を確保しつつ、相手に致命的な絶望を与えずに体制の中に組み込む。これこそが、為政者に求められる『戦略的勝利』です」
その言葉は、マルガレーテ王妃が体現している「国家のバランサー」としての思考体系と完全に一致するものであった。
王家の安定こそが貴族の責務であると信じて疑わないエドワルドにとって、第一側妃ヒルデガードが強要するような『絶対的な服従と完全勝利』は、いずれ国家という盤面を破壊する硬直した暴力に過ぎなかった。
「殿下はこれまで、第一側妃様のご期待に応えようと、一度の敗北も許されない『完全な白』であろうと無理をなさってきました。しかし、王とはすべてにおいて勝つ必要はありません。局地的な戦術で『負けること』を許容し、大局的な戦略において王家の威信を保てばよいのです。……七割勝てば、それは立派な名君なのですから」
七割の勝利でいい。負けることが許される場合がある。
その冷徹だが極めて合理的な『官僚のロジック』は、母ヒルデガードの呪縛に苦しみ、セオリスを見殺しにした罪悪感で押し潰されそうになっていたグラクトの心に、一筋の強烈な光を差し込ませた。
「……負けても、いい。三割を譲歩し、七割を……勝つ……」
グラクトは震える手で、エドワルドが裏返してくれた白石を握りしめた。
あの凄惨な事件すらも、エドワルドの思考体系に当てはめれば「王家の威信という七割の利益を守るために、三割の損害を許容した戦略的撤退」として脳内で処理(自己正当化)することが可能となるのだ。
第三側妃ソフィアが与える「あなたは悪くない」という感情的な逃避という名の甘い毒。そして、エドワルドが与えた「割合的な勝利」という論理的な自己肯定のロジック。
二つの異なる依存先を得たグラクトの瞳から、死人のような絶望の色がゆっくりと消え去っていく。彼は、エドワルドが持ち込んだ『オセロ』という極めて安全な箱庭の中で、傷ついた自己肯定感を別ベクトルで再構築し始めていた。
「……もう一度だ。リーデル、もう一度盤を並べろ。次は、僕が七割を取る」
「はっ? いえ、オセロは多く石を取った方の勝ちでして、七割で止めるというのは……」
「いいから並べろ!」
空気を読めないリーデルを怒鳴りつけながらも、グラクトの顔にはかつての『光の王子』としての威厳と生気が僅かに戻っていた。
エドワルドはそれを静かに見守りながら、自らの主君が「伝統的な貴族政治の頂点」にふさわしい為政者として成長していくことを確信し、満足げに目を伏せた。
だが、オセロの白石を握りしめ、新たな論理体系にすがりついたグラクトは、まだ一つの残酷な事実に気づいていない。
エドワルドが提示した『割合的な勝利』という合理的なスケールで、あのセオリスの凶行を客観的に再評価したとき、それが導き出す結論の異常性にである。
あの事件で第一側妃陣営が得た実利とは、「目障りな第二側妃を排除した」という、高々一割の感情的満足(ルナリアが生きていればそれすらゼロである)に過ぎない。対して失ったものは、最強の武門の筆頭たるゼノビア侯爵家からの求心力、民衆からの支持、そして第三側妃の過剰な台頭を許すという、九割の致命的な損害である。
あれは戦略的撤退などでは決してない。第一側妃ヒルデガードの個人的な感情と傲慢が引き起こした、損得を一切無視した「完全なる敗北」に他ならないのだ。
オセロの盤面を見つめるグラクトの瞳に宿り始めた、為政者としての知性と論理の光。
この新たな思考体系が完全に研ぎ澄まされ、かつての事件の「真の損益比」に辿り着いた時。彼は果たして、絶対的であった実母ヒルデガードの愚かさという最大のタブーに、自らの論理で斬り込むことができるのか。
それとも、己の精神を守るための都合の良い自己正当化のまま、真実から目を背けて思考を停止させるのか。
彼ら保守派の若きエリートたちは、まだ知らない。
グラクトが己の陣営の致命的な矛盾に気づくかどうかのその僅かな猶予の間に、第二王子リュート・セシル・ローゼンタリアという怪物が、盤面そのものを破壊し、経済と法という未知の暴力で国家を根底から喰い尽くそうとしていることを。
4 正体隠匿の狂努力と、匿名の有能な歯車
内務省の深部、太陽の光すら届かない広大な大書庫。
カビと古い羊皮紙の匂いが立ち込めるその執務室で、第二王子リュートは周囲の文官たちが戦慄するほどの速度で、膨大な国政の実務処理をこなしていた。
前世において、法曹という極めて高度な論理と実務の最前線に立っていた彼にとって、この国の原始的な官僚機構が抱える書類の山など、処理手順の決まった単純作業に過ぎない。
過去の裁定の矛盾を見抜き、曖昧な不文律を明確な成文法へと落とし込み、予算の無駄を徹底的に削ぎ落とす。その圧倒的な実務能力は、彼を単なる「王家の対抗馬」として配置したはずの内務省の大人たちを、すでに恐怖と畏敬の念で支配しつつあった。
だが、そんなリュートにもたった一つだけ、物理的な『限界』が存在した。
それは、「過去の類似判例と関連法規の検索」である。
前世(現代地球)であれば、膨大な判例や法律のデータベースを専門に提供する企業が存在し、端末に検索語を打ち込めば数秒で目当ての資料が引き出せた。しかし、紙とインクで記録が保存されているこの原始的な世界において、過去の判例を探し出す作業は、広大な書庫を自らの足で歩き回り、目視で目当ての一文を探し当てるという、途方もない時間を食い潰す物理的労働であった。
その致命的な非効率にリュートが舌打ちをしそうになった、まさにその時である。
「殿下。お探しの資料はこちらでしょうか」
声と共に、リュートの机の脇に数冊の分厚い古文書が静かに積まれた。
リュートが求めていた『建国初期における東部の水利権を巡る裁定記録』と、それに付随する『特例税法の原本』。驚くべきことに、その古文書には、リュートがまさに確認したかった条文のページに、正確無比な栞が挟み込まれていたのだ。
資料を運んできたのは、つい数日前にこの書庫の雑用係として配属されたばかりの、ひどく地味な制服に身を包んだ『見習い文官』であった。
分厚い眼鏡をかけ、前髪で顔の半分を隠しているため、その素顔はよく見えない。リュート自身、本宮の華やかな茶会などには一切顔を出さないため、この名もなき小柄な文官が、父である内務卿に懇願して密かに潜入した侯爵令嬢ユスティナ(ティナ)であることに、全く気づいていなかった。
ティナには、リュートやリーゼロッテのような天才的な閃きも、アイリスのような冷徹な論理構築力もない。
だが、彼女は自らの凡庸さを誰よりも自覚していたからこそ、「彼を支える実務の駒になる」という目的のためだけに、血を吐くような狂気的な努力を行っていた。
内務省が管理する過去数百年分の法令、税収記録、判例の保管場所。それらの目次と概要を、睡眠時間を削って己の脳内にすべて丸暗記するという、常軌を逸した荒業を成し遂げていたのである。
「……さらに、その裁定記録と類似する判例として、建国暦一五〇年代の南部領地の境界線争いに関する資料も、念のためお持ちいたしました。第三項の記述が、殿下の進められている法案の論拠として流用できるかと存じます」
地味な見習い文官が差し出した追加の資料に目を通し、リュートのペンを動かす手がピタリと止まった。
前世の専門企業すら凌駕する、先回りした完璧な類似判例の抽出。それは、リュートの思考の先を読み、彼が何を求めているかを完全に理解していなければ絶対に不可能な、極めて高度な実務支援であった。
リュートは顔を上げることもなく、ただ資料の該当箇所に素早く視線を走らせながら、ぽつりと呟いた。
「……完璧だ。助かる」
身分への阿りも、政治的な打算も一切含まれていない。ただ純粋に、実務家としての能力に対する『心からの称賛』であった。
そのたった一言を聞いた瞬間。
見習い文官――ティナは、深々と一礼してリュートの机から離れ、巨大な書架の陰へと隠れた途端、胸の前で両手をギュッと握りしめた。
『私の用意した資料が、殿下のお役に立てた……。殿下の描く盤面の、完璧な歯車として……!』
分厚い眼鏡の奥で、ティナの瞳からポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。
誰にも正体を知られず、華やかなドレスを脱ぎ捨て、泥臭い資料の海に埋もれる日々。それでも、自分が愛する人の『有能なミクロの歯車』として確かに機能し、その歩みを支えることができたという事実が、彼女の胸を震えるほどのささやかな、しかし絶対的な喜びで満たしていた。
冷徹なる第二王子の頭脳と、名もなき令嬢の狂努力が生み出した生きた検索装置。
打算なき純情によって結びついたこの奇妙で強力な実務の連携は、内務省の業務処理速度を天文学的に跳ね上げ、王宮の大人たちが気づかぬうちに、国家の中枢システムを彼らの支配下へと静かに書き換えていくのであった。
5 お茶会の扇動と、リーゼの決意
王宮の華やかな庭園で開かれる、高位貴族の令嬢たちを集めた定例の茶会。
その開宴の少し前、誰も寄り付かない離宮の回廊の陰で、第一王女リーゼロッテは、地味な見習い文官の姿をしたユスティナ(ティナ)から、分厚い書類の束を受け取っていた。
「リーゼ様。ご指示の通り、内務省の過去の記録から『当主の急死や解雇によって没落した貴族のデータ』を徹底的に洗い出し、事実関係のみを抽出いたしました。特に、跡継ぎが幼少であったために合法的に家を剝奪された判例を中心にまとめてあります」
「ええ、ご苦労様。……ティナ、あなた本当に寝ているの? 目元に隈ができているわよ」
リーゼロッテが心配そうに美しい眉をひそめると、ティナは分厚い眼鏡の奥で、ぱぁっと花が咲いたように頰を高揚させた。
「平気です! それに……リーゼ様、私、今日少しだけ殿下のお役に立てたんです。私が徹夜で集めた類似判例の資料を、殿下が顔も上げずに『完璧だ』って褒めてくださって……!」
恋する乙女の顔で、ただ愛する人の役に立てたことだけを無邪気に喜ぶその姿。
打算も裏表もなく、自己の立身出世すら望まない純度百パーセントの献身に、謀略と血の匂いが染み付いた王宮で生きてきたリーゼロッテは、激しい衝撃と眩しさを覚えた。
『ああ、この子は本物だわ。……兄様にはもったいないくらいに』
東の地で盤面を支えるアイリスが『完璧な論理の女神』であるならば、目の前で嬉しそうに微笑むこの不器用な令嬢は、『狂気的な純情で回る無敵の歯車』である。
リーゼロッテの胸の奥で、この愛すべき凡庸な令嬢を何としても守り抜き、「兄の隣に立たせたい」という強烈な庇護欲(ティナ推しの感情)が確固たるものとして根を下ろした。
「……ありがとう、ティナ。あなたの血を吐くような努力が作り上げたこの『弾薬』、私が一発残らず、あの愚かな大人たちの心臓に撃ち込んでくるわ」
「はい! 武運をお祈りしております、リーゼ様!」
◇
そして開かれた茶会の席。
色とりどりのドレスと甘い菓子の香りが漂う中、新時代の『宣伝部長』たるリーゼロッテは、完璧な無害の王女の微笑みを浮かべて極上の紅茶を口に運んだ。
「皆様、最近は本当に物騒なことが続きますわね。……武門の筆頭であったゼノビア侯爵家でさえ、たった一度の不興であのように没落してしまいましたし」
リーゼロッテが優雅に扇を揺らしながら呟いたその一言で、場を支配していた同調圧力がピタリと止まった。
彼女はティナが用意した『事実のみのデータ』を、まるで世間話のように滑らかに披露し始める。
「ゼノビア家だけではありませんわ。先代の財務卿が流行り病で急逝された後のこと、皆様はご存知かしら?」
「……ええと、確かご子息が若すぎたために、一時的に別の方が役職を継がれたとか……」
ある令嬢の言葉に、リーゼロッテは扇で口元を隠し、冷酷なまでの事実を突きつける。
「その通りですわ。跡継ぎが成人するまで、王家の決定によって家職と貴族院議員の地位に『代理』が立てられました。……ですが、家職からの莫大な報酬はすべてその代理の懐に入り、残されたご家族はたちまち困窮なさいましたの。代理からの推薦に対するわずかな収入は得られたようですが、確実に家計は傾き……最終的には、その代理の親族を幼いご子息の婚約者として強要され、実質的な『お家乗っ取り』に遭われたそうですわ」
令嬢たちの顔から、さぁっと血の気が引いていく。
リーゼロッテは、リュートたちが設立準備を進めている『保険』や『組合』の存在には一切触れなかった。ただひたすらに、「王家の気まぐれや突発的な事故によって家職を失えば、制度の穴を突かれて合法的に家を乗っ取られ、明日には路頭に迷う」という客観的な事実(恐怖)だけを提示し続けたのだ。
「もし明日、皆様の当主様に万が一のことがあれば……残された皆様を、一体誰が救済してくださるのでしょうね。王家は決して、落ちた貴族を拾い上げたりはいたしませんのに」
その言葉は、温室で育った令嬢たちの心に、決して抜けない冷たい『楔』として深く打ち込まれた。
見えない不安と底知れぬ恐怖が、まるで猛毒のように茶会に蔓延していく。彼女たちが実家に帰ってこの恐怖を口にすれば、有能な貴族ほど己の家の脆さを悟り、自ら防衛手段(安全網)を探し始めるだろう。そして無能な者は、後に形成される「保険に入るのが常識」という新たな同調圧力によって刈り取られる。
リュートが掲げた『全国民組合員計画』を成功させるための、完璧な選別と誘導の土壌が、ティナのデータとリーゼロッテの扇動によって完成した瞬間であった。
◇
茶会を終え、意図通りに大人たちを恐怖のどん底に陥れたリーゼロッテは、足早に人気のない回廊へと戻った。
そこには、清掃用具の陰に隠れるようにして、不安げに待機していたティナの姿があった。
「リーゼ様……! い、いかがでしたか?」
「ええ。あなたのデータは、最高にして最凶の弾薬だったわ。皆、見事に顔を青くして震え上がっていたわよ」
リーゼロッテが極上の悪戯を成功させた子供のように微笑むと、ティナは心の底から安堵したように息を吐き、へにゃりと相好を崩した。
「よかったです……! 私、これからも全力でリーゼ様と殿下のための資料を集めますから!」
「頼りにしているわ、私の優秀な共犯者さん」
リーゼロッテはそっと手を差し出し、ティナも恐る恐る、しかし確かな力強さでその小さな掌を合わせた。
身分も立場も全く違う二人の少女が、パチンと小さく、密やかな音を立てて掌を交差させる。
それは、腹黒い第二王子のために盤面を駆け回る、王女と見習い文官という奇妙な組み合わせが、互いの実力と献身を認め合い、真の『戦友』としての固い絆を結んだ、ひどく美しく尊い瞬間であった。




