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リーガル・レジスタンス 〜法治国家を目指して〜  作者: ムササビ-モマ
第5章『基盤の構築』
41/47

第1話 『王家の計算』

1 法廷の余波と、内務卿の首輪


 狂犬セオリスの処刑と、第二側妃ルナリアの病死発表から数週間。

 王都の熱狂が嘘のように冷め、表向きの平穏を取り戻しつつある王宮の中枢において、内務卿メルカトーラ侯爵は自室の執務机で深く息を吐き出していた。

 彼の脳裏から離れないのは、あの最高法廷における十三歳の第二王子、リュートの姿である。


 武門の筆頭たるゼノビア侯爵家を追い詰め、狂犬を処刑台へと送り込んだのは、間違いなくあの黒髪の少年の『底知れぬ論理的思考力と法学知識』であった。権力者の都合でいかようにも解釈される「品位」という曖昧な不文律の世界において、過去の裁定記録を掘り起こし、客観的な事実と論理だけで敵を刺し殺すその冷徹な手腕。


『……あれは、放置しておけば必ず王家の喉元を食い破る猛毒になる』

 内務卿は、忌み子として離宮に幽閉されてきた少年が、いつの間にか国家を揺るがすほどの怪物へと成長していることに強い危機感を抱いていた。


 だが同時に、長年実務を担ってきた官僚のトップとして、その異常なまでの「事務処理能力と論理構築力」に、得体の知れない魅力と高い評価を感じていたのも事実であった。


 事の発端は、法廷の数日後にリュートが内務省の書庫を訪れた際の、些細な法学談義である。

 過去の税収記録と法令の矛盾点について、内務卿が試しに投げかけた複雑な問いに対し、リュートは一瞬の淀みもなく完璧な法解釈と実務的な改善案を提示してみせたのだ。そして、会話の最後にリュートは、極めて謙虚な、しかし計算し尽くされた瞳でこう告げた。


『私は離宮で書物を読むことしかできません。本の中の法学ではなく、閣下の下で、生きた国家の実務を学ばせてはいただけないでしょうか』と。

 それは、実務家としての内務卿の自尊心をくすぐると同時に、彼を自陣営に取り込むための完璧な誘導であった。


 第二王子をこのまま離宮で孤立させておくことは、将来的に王家に対する不満と不信の種を育む危険性が高すぎる。ならば、いっそ自らの手元に引き込み、監視下に置いた方が遥かに安全で有益である。


 内務卿は直ちに国王ゼノンと王妃マルガレーテへの謁見を求め、恭しく進言した。


「陛下、王妃様。第二王子殿下をいつまでも離宮に留め置くのは、王家の不和を招く火種となりかねません。殿下は法学と実務において、極めて稀有な才をお持ちです。どうか、私の娘ユスティナとの将来的な婚約を前提とし、殿下を内務省の補佐としてお預けいただけないでしょうか」

 この進言に対し、玉座の二人は各々の思惑から静かに演算を巡らせた。


 国王ゼノンの胸中にあったのは、亡きルナリアへの贖罪であった。彼女が遺した息子に、王宮内での明確な居場所と後ろ盾を与えられるのであれば、それに越したことはない。


「……内務省での補佐は許可しよう。だが、王族の婚約者は原則として四公爵家から選ばれるのが慣例だ。侯爵家からの輿入れも過去に例外がないわけではないが、王命として強要はできん。婚約については、あくまでリュート自身の意思に委ねるものとする」

 それは、身分差の壁を理由に即答を避けつつも、事実上、内務卿の思惑を『黙認』する裁定であった。


 一方、王妃マルガレーテの脳内で弾き出されていたのは、極めて冷徹な勢力均衡パワーバランスの計算式であった。


 現在、第一側妃ヒルデガードの陣営はセオリスの一件で致命的な機能不全に陥っている。その隙を突き、第三側妃ソフィアの派閥が傷心の第一王子グラクトへと急激に浸食し始めていた。このままでは本宮の均衡が完全に崩壊する。


『忌み子である第二王子を内務省という巨大な官僚組織で飼いならし、第三側妃陣営への「対抗勢力」として盤上に配置する……。内務卿の提案は、国家のバランサーとして実に理にかなっている』

 王妃は本気で、リュートを新たな盤面の楔として利用する決意を固めていた。


 だが、その氷のように冷徹な王妃の胸の奥底に、微かな、しかし拭い去れない不安がよぎる。


『果たしてあの少年は、素直に内務卿の首輪に繫がれ、グラクトを支える忠実な土台となるだろうか? あの法廷で見せた、すべてを計算し尽くしたような暗い瞳……。彼が本当に望んでいるものは、王家の安泰などではない気がする』

 リュートの本心がどこにあるのか。ただの優秀な実務家として終わる器ではないという不気味さを感じ取りながらも、王妃マルガレーテは目前の勢力均衡を維持するため、この「毒を以て毒を制す」劇薬の配置を承認せざるを得なかったのである。




2 第三側妃ソフィアの浸食と、王妃の冷徹なる勢力均衡


 本宮の奥深く、第一王子の私室。分厚い遮光カーテンが引かれ、昼間であるにもかかわらず薄暗い室内には、甘く退廃的な香炉の煙が立ち込めていた。


 豪奢な天蓋ベッドの上で、第一王子グラクトはひどく怯えた子供のように身を丸め、小刻みに震えていた。


 彼の脳裏に焼き付いて離れないのは、自らの保身のために切り捨て、見殺しにした忠実な騎士が断頭台で叫んだ呪詛の声である。そして、その側近を冷酷に切り捨て、真実を闇に葬った実母・第一側妃ヒルデガードへの底知れぬ恐怖。


 次期国王としての重圧と、己の手を血で染めたという生々しい罪悪感によって、グラクトの精神は完全に摩耗し、限界を迎えていた。

 その致命的な心の隙間に、蠱惑的な笑みを浮かべて入り込んだのが、第三側妃ソフィアであった。


「可哀想なグラクト殿下。あなたは何も悪くありません。すべては、あの野蛮な狂犬と、それを御しきれなかった者たちの責任なのですから……」

 ソフィアは、絹のように滑らかな肌を惜しげもなく晒しながら、ベッドに横たわるグラクトを優しく抱き寄せた。


 彼女は王宮の悪習たる『情交奉仕』という肉体的な快楽と、「あなたは悪くない」という全肯定の甘い囁きを巧みに操り、傷ついた少年の精神を真綿で首を絞めるように絡め取っていく。


 思考することを放棄したグラクトは、彼女の豊満な胸にすがりつき、ただひたすらに現実からの逃避を貪った。


「ソフィア……あぁ、ソフィア。僕を一人にしないでくれ。母上は僕をただの権力の道具としか見ていない。誰も僕を……っ」


「ええ、私はずっとあなたの味方です。……ですが殿下、今のあなたには、あのような武門一辺倒の野蛮な者たちではなく、知恵であなたをお支えする『賢き友』が必要不可欠です」

 ソフィアはグラクトの金糸の髪を撫でながら、極めて自然な口調で、己の派閥を拡大するための毒を注ぎ込む。


「私の甥であるセラフィナ侯爵家の嫡男リーデル。そして、中立派である貴族院議長のご子息エドワルド。彼らならば、必ずや殿下のよき知恵袋となりましょう。私が手配してもよろしいですか?」


「あぁ……君がそう言うなら、それでいい。頼む、ソフィア。煩わしいことはすべて君に任せる。だから、僕のそばにいてくれ……」

 自らの罪と対峙する苦痛から逃れるため、グラクトは為政者としての判断を完全に放棄し、ソフィアの傀儡となることをあっさりと承諾してしまった。


   ◇


 数日後、この人事案は第三側妃ソフィアの口から、国王夫妻の御前へと正式に提出された。


「先の凄惨な悲劇は、第一王子殿下の側近が武門に偏りすぎていたことに起因します。殿下の精神的な安定と、将来的な王家の安泰のためにも、今後は知の探求に長けた文官系の側近を配し、武力と思想の偏りを正す『均衡』を図るべきです」

 ソフィアの主張は、政治的ロジックとして一切の隙がない「完璧な正論」であった。


 保守派筆頭である第一側妃ヒルデガードの専横に眉を顰めていた貴族たちも、この理にかなった提案には賛同の意を示す。事実上、第一側妃派閥が空けた本宮の巨大な権力の空白地帯を、第三側妃派閥が合法的に、かつ急速に浸食し始めた瞬間であった。


 玉座でその進言を聞いていた王妃マルガレーテは、表情一つ変えずにこれを承認した。

 正論である以上、退ける理由はない。だが、氷のように冷徹な王妃の知眼は、ソフィアの腹の底にある野心を正確に見透かしていた。


『ヒルデガードの横暴が過ぎたとはいえ、ここでソフィアの派閥が過剰に膨れ上がれば、いずれ第二の専横を生む。本宮のパワーバランスが崩壊すれば、国政そのものが揺らぐ』

 だからこそ、王妃マルガレーテは先の内務卿からの進言――第二王子リュートを内務省に取り込むという提案――を、極めて合理的な政治的対抗措置として許可したのである。


 実母ヒルデガードへの不信からソフィアの甘い毒に溺れつつある第一王子と、その裏で急速に勢力を拡大する第三側妃陣営。彼らを牽制し、本宮の暴走を縛るための強力な『対抗勢力』として、あの底知れぬ知性を持つ第二王子を、内務省という盤上に配置する。




3 「品位」を盾にした冷徹なる交渉


 内務省の最奥、厳重な防音の魔法が施された内務卿の執務室。

 重厚なマホガニーのデスクを挟み、内務卿メルカトーラ侯爵と、第二王子リュートが対峙していた。


「――ということで、陛下と王妃様より、殿下を我が内務省の補佐としてお預けいただく許可が下りました。殿下の見事な法知識、ぜひ我が省の実務で存分に振るっていただきたい」

 内務卿は柔和な笑みを浮かべ、そして本題を切り出した。


「つきましては、私の娘ユスティナとの将来的な婚約を、いずれ公にしたいと考えております。殿下にとっても、我が侯爵家の後ろ盾は決して悪い話ではないはずですが、いかがでしょう?」

 恩着せがましく首輪を突きつけてきた老獪な官僚に対し、リュートは一切の感情を交えず、ただ深く、極めて誠実に見える作法で頭を下げた。


「身に余る光栄です、メルカトーラ閣下。しかし……その婚約の公表は、今はまだお待ちいただきたいのです」


「ほう? それは我が娘では不服だと?」

 内務卿の目が微かに鋭くなる。だが、リュートは静かに首を振り、王宮の絶対規範である『品位』を逆手に取った、完璧なロジックを展開し始めた。


「とんでもありません。だからこそです。……私は長年『忌み子』として排斥されてきた身。今、国家の中枢たる内務卿閣下が私との婚約を急ぎ公表すれば、閣下の清廉な『品位』と陣営に致命的な傷がつきます。何より、罪なきご令嬢にまで『忌み子の妻』という不名誉な泥を塗ることになってしまう」

 その言葉の響きには、我が身の不遇を嘆く悲壮感と、相手の立場と名誉を最優先に重んじる、血の滲むような『誠実さ』が籠められていた。


 リュートは自らを徹底して低く置き、政治的リスクを客観的事実として突きつける。


「ですから、まずは私を四公爵家との『調整役』として、内務省のために存分に消費していただきたいのです。私が閣下の手足として働き、閣下の『実績』に十分に貢献できた暁に……誰の目にも、私がご令嬢の隣に立つにふさわしい男として認められたその時にこそ、改めて婚約をお受けさせてください」

 身分差と理不尽な境遇を前にしても、決して驕らず、腐らず。ただ愛すべき(まだ見ぬ)婚約者と、義理の父となる男の名誉を守るため、自らを犠牲にして茨の道を歩むことを誓う気高き王子。


 もしこの扉の向こうで、夢見がちな令嬢が立ち聞きでもしていれば、間違いなくその悲劇的で誠実な姿に心を撃ち抜かれ、彼のために命すら懸けようと決意するほどに、それは美しく整えられた「完璧な建前」であった。


 だが、目の前に座る内務卿は、夢見がちな令嬢ではない。権力闘争を生き抜いてきた冷徹な官僚である。

 内務卿の耳に届いたのは、「自らの立場を弁え、私の実績のために無償で働く有能で従順な駒」という、この上なく都合の良い宣言であった。


『なるほど。賢しいがゆえに、己の立場の弱さを正確に理解している。下手に野心を抱く馬鹿よりも、はるかに扱いやすい』

 内務卿は内心でほくそ笑み、鷹揚に頷いた。


「……殿下のお心遣い、そして我が侯爵家への誠意、確かに受け取りました。殿下がそこまで仰るのなら、無理に急ぐ必要はありますまい。まずは我が省の権限と情報網を存分にお使いいただき、その実力を示していただきましょう」


「寛大なご処置に感謝いたします。閣下のご期待に添えるよう、粉骨砕身いたします」

 リュートは再び深く頭を下げた。


 だが、伏せられたその黒曜の瞳の奥には、忠誠心など微塵も存在していなかった。あるのは、厄介な婚約を合法的に先延ばしにしつつ、国家の内部情報と広範な実務・交渉権限を完全に手に入れたという、冷徹な勝利の光だけであった。


 『品位』という建前を盾にした見事な盤面操作により、リュートは内務省という巨大な官僚組織の権限に、一切の縛りなくアクセスする鍵を手に入れたのである。




4 令嬢ユスティナの決意と違和感


 厳重な防音魔法が施された内務卿の執務室。しかし、扉が完全に閉まりきる直前のわずかな隙間から漏れ聞こえたその会話を、内務卿の娘・ユスティナ(愛称:ティナ)は廊下の陰で息を殺して聞いていた。


『――罪なきご令嬢にまで、忌み子の妻という不名誉な泥を塗ることになってしまう』

『――誰の目にも、私がご令嬢の隣に立つにふさわしい男として認められたその時にこそ、改めて婚約をお受けさせてください』

 リュートが放った、完璧に計算し尽くされた自己犠牲の建前。


 だが、扉の向こうにいたティナの胸に真っ直ぐに突き刺さったのは、政治的打算などではなく、「一度も顔を合わせたことのない自分のために、自らを貶めてまで名誉を守ってくれた気高い王子の姿」であった。


 ティナは、自らが華やかな貴族社会において、天賦の才も際立った美貌も持たない「凡庸な令嬢」であることを誰よりも自覚していた。だからこそ、理不尽な迫害を受けながらも決して腐らず、未来の婚約者のために一人で泥を被り、実力で実績を積もうとするリュートの不器用な誠実さに、激しい衝撃と感動を覚えたのである。


『殿下が私のために、これほどまでに過酷な道を歩まれるというのなら……。私がただ安全な場所で待っているだけなんて、絶対に許されない!』

 ギュッと両手を握りしめ、ティナの瞳に強い光が宿る。


 彼が実績を積むというのなら、自分も彼を支えるにふさわしい「実力」を身につけなければならない。それは、与えられた運命に流されるだけの令嬢が、己を変えるための『狂気的な努力』へと舵を切った瞬間であった。


   ◇


 まずは彼を知らなければならない。持ち前の行動力に火がついたティナは、数日後、王宮で開かれた貴族令嬢たちの茶会へと積極的に顔を出した。


 華麗なドレスと扇が舞うその場で、彼女は巧みに話題を振り、黒髪赤眼の第二王子に関する情報収集を試みた。


 しかし、ティナはすぐに強烈な『違和感』に直面する。

 招集された令嬢たちは、誰一人として第二王子リュートの話題を口にしようとしなかったのだ。第一側妃ヒルデガードや王家の顔色を徹底的に窺い、場の空気に過剰なまでに忖度する彼女たちにとって、忌み子の存在は「語ることすらタブー」とされていた。


 まるであの法廷での鮮やかな手腕すら、最初から無かったかのように振る舞う令嬢たちの姿。ティナはその不自然な情報統制と、真実から目を背ける貴族社会の気味の悪い歪みに、肌が粟立つような異常性を感じ取っていた。


 そんな息の詰まる茶会の中心で、第一王女リーゼロッテが優雅に扇を揺らし、微笑みながら語り始めた。


「……ええ。私の自慢の兄様は、とても聡明で、そして何より『論理』を重んじる方ですわ。決して感情に流されず、いつも私に正しい道を教えてくださいますの」

 その言葉に、周囲の令嬢たちは「さすがは次期国王たるグラクト殿下ですね」「第一側妃様のご立派な教育の賜物ですわ」と、こぞって中身のない相槌を打つ。


 だが、事実を地道に拾い集めてきたティナの思考は、周囲の同調圧力とは全く別の答えを弾き出していた。


『……おかしいわ。グラクト殿下は今、ご自身の側近の処刑にひどく怯え、自室に引きこもっておられるはず。それに、第一側妃様がリーゼ様にそんな温かな愛情と教育を注いでいるなんて噂、一度も聞いたことがない』

 ティナの脳内で、バラバラだった情報が一つに繫がっていく。


 ヒルデガードの傲慢さとも、グラクトの怯懦さとも全く一致しない、その「気高く、論理的で、妹思いの人物像」。


 そして、先日の帝国使節団に対する、リーゼロッテの『亡き母』への言及。

『リーゼ様が本当に慕い、誇りに思っている「自慢の兄」とはグラクト殿下ではない。……リュート殿下のことだわ! そして、彼女が心から愛した「母」とは、亡き第二側妃ルナリア様のことなんだ!』

 天才的な閃きはない。だが、誰の顔色も窺わず、与えられた情報を愚直なまでに積み重ねた結果、ティナはこの王宮で誰も口にしない『真実』へと自力で辿り着いた。


 周囲の令嬢たちが空っぽの賞賛を続ける中、ティナは扇の陰で一人、リーゼロッテの孤独な戦いと、リュートの知られざる素顔に思いを馳せ、胸を熱くしていた。


 彼ら兄妹の力になりたい。その一途な決意が、凡庸な令嬢を王宮の最も深く危険な盤面へと突き動かそうとしていた。




5 打算なき直談判と、リーゼの意図せぬ庇護欲


 息の詰まるような同調圧力に支配された茶会が終わり、貴族たちが三々五々散っていく中。

 人気のない王宮の回廊で、第一王女リーゼロッテは足を止めた。彼女の行く手を、内務卿の令嬢ユスティナがただ一人で立ち塞がったからだ。


 背後の物陰に控える護衛のルリカが、無機質な殺気を漂わせて柄に手をかける。だが、リーゼロッテは扇で軽くそれを制し、目の前の凡庸な令嬢を冷ややかに見据えた。第一側妃派閥の顔色を窺うだけの有象無象が、自分に何の用か。


 だが次の瞬間、リーゼロッテの極めて冷静な思考は、完全に予想外の物理的挙動によって一時停止させられることとなる。


「リーゼロッテ殿下……っ!」

 ユスティナは躊躇うことなく、冷たい大理石の床に勢いよく両膝を突き、その額を床に擦り付けたのだ。


 それは、王宮において何よりも重んじられる『品位』を真っ向から否定し、貴族令嬢としての自己の尊厳を完全に切り捨てる、文字通りの「土下座」であった。


 美しいドレスが汚れ、誰かに見られれば正気を疑われる恥辱の姿勢。だが、自らの目的のためにプライドという最大の足枷をノータイムで捨て去れる人間は、他者からの評価や同調圧力では決してコントロールできない『無敵の存在』と化す。謀略渦巻く王宮で生きてきたリーゼロッテは、目の前の令嬢が放つ異様な「覚悟の質量」に息を呑んだ。


「私には、皆様のような天賦の才も、華やかな知略もありません。自分が凡庸であることを誰よりも自覚しております」

 床に額を擦り付けたまま、ユスティナは絞り出すような、しかし確固たる熱を帯びた声で直訴を始めた。


「ですが……リュート殿下が、私のためにご自身の立場を犠牲にされ、内務省で実績を積まれるというのなら! 私がただ待っていることなど許されません。私も血を吐くような努力をして、必ず殿下とリーゼ様の役に立つ『実務の駒』となります! だからどうか、私をリーゼ様の側近としてお使いくださいませ!」

 その言葉を聞いた瞬間、リーゼロッテの脳内で数秒の沈黙が落ちた。


『……はい?』

 ユスティナの悲壮な決意と、リュートの実際の意図。その二つの情報がリーゼロッテの頭の中で照合され、彼女は兄が内務卿との密室交渉で使ったであろう『都合の良い建前』の正体を完全に理解した。


『――ああ、なるほど。お兄様ったら、内務省の権限と自由を引き出すために、この健気な令嬢にとんでもなく都合のいい甘い噓を吹き込んだのね。……ええ、これは後でたっぷりと問い詰める必要がありますわね』

 完璧な盤面操作の裏で、意図せず一人の少女の人生を狂気的な努力へと全振りさせてしまった腹黒い兄に対し、リーゼロッテは内心で深いため息をつく。だが、呆れると同時に、彼女は目の前の少女から目を離せなくなっていた。


 王宮の人間関係は、常に裏表と打算で構築されている。リーゼロッテ自身も、本宮では無害な王女という仮面を被って生きてきた。


 だが、目の前のユスティナの瞳には、打算も腹芸も一切存在しない。「愛する人のために、己のすべてを差し出して実務の歯車になる」という、純度百パーセントの狂気的な純情しかなかった。


 東の地に、兄と絶対的な論理で結ばれた『完璧な共犯者アイリス』がいることを、リーゼロッテは知っている。客観的な盤面の戦力として見れば、アイリスの隣にこの凡庸な令嬢が並び立つ余地などない。


 しかし、謀略の泥沼で生きてきたリーゼロッテは、不器用なまでに一途で、目的のために自己の尊厳すらあっさりと切り捨ててみせたこの令嬢に対し、激しい衝撃と、得体の知れない眩しさを覚えていた。


「……顔をお上げなさい、ユスティナ」

 リーゼロッテはパチンと扇を閉じ、大理石に這いつくばる彼女の前に歩み寄った。そして、土埃で汚れたユスティナの頰にそっと手を添え、極めて優雅に、だが隠しきれない柔らかな庇護欲を込めて微笑んだ。


「そのドレスの汚れは、あなたが自身の名誉よりも『実力』を選んだ何よりの証です。あなたの打算なきその覚悟、私がこの手で買い取って差し上げますわ」

 それは、打算で動く盤面において、唯一『純粋な情と狂気』で動く無敵の駒を手に入れた瞬間であった。


 ここに、実務情報の鬼へと覚醒していく令嬢と、離宮の影の女王との間に、奇妙で強固な共犯関係が成立したのである。

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