第8話 『法学講義』
1 離宮会議(修羅の法学講義と、品位という名の暴力)
最高法廷での極度の緊張から解放された離宮の書斎。
重厚な扉を閉ざし、リュート、リーゼロッテ、そして護衛のルリカの三人だけとなった空間で、静かな事後分析が始まっていた。
リュートが淹れた紅茶の香りが微かに漂う中、リーゼロッテが真剣な眼差しで一つの疑問を口にした。
「お兄様。今日、セオリスは『品位』という規範によって裁かれました。第一王子よりも、国王の品位が重いという天秤の論理で。……王家すらもそれに縛られ、ある種の法として機能しているのなら、なぜお兄様は、この体制を根本から崩壊させる必要があるとお考えなのですか?」
体制が自浄作用(裁き)を持っているのなら、システム自体は存続できるのではないかという純粋な疑問。リュートは直接答える代わりに、静かに問いを投げ返した。
「今日セオリスが死刑になったのは、彼が殺したのが『国王の側妃』だったからだ。……ではリーゼ、もし彼が第一王子の品位を守るという大義名分のもと、斬り殺したのが平民や下位の貴族だったなら、今日の法廷はどうなっていたと思う?」
その問いかけに、リーゼロッテはハッと息を呑んだ。
彼女の聡明な頭脳が、即座にこの国のルールの歪みを導き出す。
「……無罪、あるいは極めて軽い罰で終わっていたはずです。国王の品位と衝突しない限り、『上位者の品位を守るため』という動機は、絶対の正当性を持ってしまうから」
「その通りだ。上位の者の体裁一つで、下位の者の命の価値が不平等に扱われる。これが第一の欠陥だ」
リュートは頷き、さらに思考を促す。
「そしてもう一つ。今日の裁判で、意図的に『触れられなかった事実』があるはずだが?」
「……第一側妃の関与ですわ」
リーゼロッテは、己を産んだ女(第一側妃)と、血の繫がった第一王子を思い浮かべながら、一切の感情を排した冷たい声で断じた。彼女の中に、もはや彼らを家族として呼ぶような甘い感傷は微塵も残っていない。
「第一側妃まで捜査の手を伸ばせば、王家の品位が致命的に損なわれる。だから彼らは、都合よく事実認定を途中で打ち切ったのですね」
「ああ。法とは本来、万人に『これをやったら必ずこう罰せられる』という【予見可能性】を与えるものでなければならない。だがこの国の『品位』は、権力者の都合でいかようにも解釈を捻じ曲げ、不都合な真実を隠蔽できる。……これは法ではない。為政者のための『恣意的な免罪符』だ」
リュートの言葉に、壁際で控えていたルリカが、実戦のプロフェッショナルとしての現実的な疑問を差し挟む。
「……リュート様。確かにその通りですが、明文化された成文法があったとしても、狂人や、死を覚悟した者は止められません。ルールが刃を止める魔法ではない以上、お母様(ルナリア様)を襲ったような悲劇を完全に防ぐことは不可能ではありませんか?」
「ルリカの言う通りだ。法は魔法ではないし、万能の盾でもない」
リュートは自身の護衛の鋭い指摘をあっさりと肯定し、その上で冷徹に論理を返す。
「だが、この国の『品位』という曖昧な規範は、法以上にタチが悪い。なぜなら、セオリスのような人間に『主君のためなら許されるかもしれない』『むしろ褒められるかもしれない』という錯覚を与え、凶行を助長してしまうからだ。その結果が、あの悲劇だ」
愛する母の命を奪ったのは、ただの狂刃ではない。このシステムが生み出した『狂信の肯定』と『隠蔽の連鎖』だ。
「だからこそ、一部の権力者による解釈の独占を許してはならない。王権すらも等しく縛り、誰もが明確に予見できる成文法を創設しなければならないんだ。……この狂った人治国家を、完全に破壊してでも」
一部の特権階級に都合の良い免罪符を焼き払い、誰もが平等に裁かれる法治国家の創設。
一人の修羅が掲げるその途方もない大義名分に、リーゼロッテとルリカは深く共鳴し、改めて己の魂を捧げる覚悟を固めた。
「……よく分かりました。お母様を理不尽に奪い、己の保身のためにルールを歪め、忠臣すら平然と使い捨てる第一王子や第一側妃。彼らに、この国を導く資格はありません」
リーゼロッテは、決別の意志を込めてはっきりと断言した。
「お兄様が目指す、真の法治国家の創設。その過酷な道へ、私はどこまでも付き従います」
その迷いのない言葉に、ルリカも静かに頷く。
離宮の小さな書斎で交わされた対話は、旧体制を打倒し、新秩序を打ち立てるための強固な思想的基盤として、彼女たちの裡に深く根を下ろしたのだった。
2 内務卿との接触(したたかなる腹の探り合い)
離宮での密やかな講義を終えたその日の夕刻。
リュートは一人、王宮の中枢に位置する訴追局の長、内務卿メルカトーラ侯爵の執務室を訪れていた。
「――明日の処刑を控えた、セオリスへの面会許可をいただきたい、と?」
豪奢なマホガニーの執務机越しに、老獪な内務卿が興味深そうに目を細めた。
「はい。結果として重罪を犯したとはいえ、兄上(第一王子)の品位を守ろうとした彼の忠義自体は、本物でした。次代の王家を支える身として、その最期には個人的に労いの言葉をかけてやりたいのです」
リュートは「情に厚く、兄を立てる忠弟」という完璧な仮面を貼り付けたまま、淀みなく答えた。
「なるほど。リュート殿下のその深いお慈悲、感服いたします。……よろしいでしょう。私から地下牢の看守へ、特別に面会の許可を通しておきます」
「感謝いたします、内務卿閣下」
メルカトーラ侯爵は、羽ペンを走らせてあっさりと許可証をしたためた。
彼にとって、この要求を呑むことはリュートに対して「実利的な恩を売る」絶好の機会であった。許可証を差し出しながら、内務卿は世間話でもするかのように柔らかな声音で切り出す。
「ところで、リュート殿下。此度の法廷における殿下の法理の構築、誠に見事なものでした。長年この職に就く私自身、大いに啓発される思いです」
内務卿は、昨晩のように「自邸や娘」といった露骨な話題には一切触れなかった。優秀な実務官僚である彼は、一度躱された手札を無様に二度切るような真似はしない。代わりに彼が提示したのは、リュートの知的好奇心を刺激する『実利』であった。
「もしよろしければ、今後もこの執務室へ自由に出入りなさいませんか。ここには王国の過去の重要な裁定記録や、門外不出の法学資料が揃っております。殿下のような優れた知性を持つお方と、これからの王国の規範について、純粋な法学の議論を交わしたいと存じましてな」
それは、明確な「派閥への取り込み」の匂わせであった。
だが、内務卿の目には焦りの色は一切ない。なぜなら、目の前に立つ第二王子は黒髪赤眼という「忌み子」の容姿を持っているからだ。
王国の強固な血統至上主義というバイアスのせいで、他の宮廷貴族たちはまだ誰も、このリュートという存在の底知れぬ利用価値に気づいていない。競争相手がいない以上、ガツガツと急かして警戒される必要はない。こうして自らの持つ情報や権限を提供し、知的な師弟関係を装って外堀を埋めていけば、いずれ必ず自分の手の中に落ちる。老獪な実務官僚は、そう確信して余裕の笑みを浮かべていた。
一方のリュートもまた、手渡された許可証を受け取りながら、その内務卿の余裕と打算を氷のような冷静さで透視していた。
『……見事な提案だ。だが、この誘いに完全に乗り切るわけにはいかないな』
リュートがこの王国を内側から解体し、新たな法治国家を創設するためには、王宮の実務を担う「知的な宮廷貴族(侯爵家)」の掌握が不可欠である。
現在、その頂点に立つのは三つの家門。法務と行政を担う『内務卿家』、貴族たちの意見を取りまとめる『貴族院議長家』、そして国政全体を俯瞰する『宰相家』だ。
もしここで内務卿の誘いに安易に乗り、メルカトーラ家一本に絞って依存してしまえば、他の二家からの反発を招き、派閥争いに巻き込まれて身動きが取れなくなる。リュートにとっての最適解は、三家すべてと「つかず離れず」の絶妙な距離感を保ち、彼らを互いに牽制させながら自らの手足として利用することであった。
「身に余る光栄です、内務卿閣下」
リュートは、内務卿の機嫌を一切損ねない、見事な貴族の笑みを浮かべて恭しく頭を下げた。
「ぜひとも、閣下の深い見識と貴重な資料から学ばせていただきたく存じます。……離宮の警備体制の再構築や、兄上の精神的な補佐など、目下の騒動が落ち着きましたら、必ずご挨拶に伺わせてください」
明確な拒絶はせず、かといって即座に陣営に入る言質も与えない。相手に「有益な関係を築けた」と信じ込ませたまま、ふわりと一定の距離を保つ完璧な政治的対応であった。
「ええ、ええ。お気になさらず。時期が来ましたら、喜んでお迎えいたしますよ」
内務卿はリュートのその対応を好意的に解釈し、満足げに頷いた。網を張った蜘蛛は、獲物が自ら掛かる日を気長に待つつもりであった。
だが彼は気づいていない。自分が張り巡らせたつもりの蜘蛛の巣が、すでにリュートの描いた巨大な盤面の一部に過ぎないということに。
「では、失礼いたします」
執務室を辞し、冷たい石造りの廊下に出たリュートの顔から、柔和な笑みが完全に消え失せた。
手の中にあるのは、最も強固な警備をすり抜けるための、内務卿直筆の「万能鍵(面会許可証)」。
リュートは血の気のない冷徹な瞳を王宮の地下へと向け、足音もなく歩き出した。
自らの完璧な忠義を無惨に裏切られ、絶望の底に沈む狂犬の耳元で、甘く残酷な「真実」を囁くために。
3 処刑前夜の面会(忠義の解体と扇動)
王宮の最下層に位置する地下牢。
陽の光すら届かない冷たく湿った石室の中で、明日の公開処刑を待つゼノビア侯爵家の嫡男セオリスは、死の恐怖と絶望に震えていた。
武門の誉れ高き次期当主としての矜持は、完全に砕け散っている。
彼は信じていたのだ。第一王子の品位を守るという大義名分さえあれば、いかなる強行も許されると。少なくとも、自分をかばってくれる強大な後ろ盾があると。しかし、最高法廷で突きつけられたのは、比較衡量の論理に基づく冷酷な死刑判決と、実の父親からの絶縁であった。
重い鉄格子の奥で膝を抱える彼の耳に、静かな足音が届いた。
「……誰だ」
嗄れた声で顔を上げたセオリスの目に映ったのは、内務卿の署名が入った面会許可証を片手に持つ、黒髪赤眼の少年の姿であった。
「リュート、殿下……!?」
自身が襲撃し、母の命を奪った陣営の人間。本来なら最も警戒すべき第二王子の登場に、セオリスは激しく動揺し、鎖の音を鳴らして後ずさった。
自分を嘲笑いに来たのか。身構えるセオリスに対し、リュートは一切の敵意を見せず、ただ静かに、酷く労わるような甘く優しい声で語りかけた。
「セオリス。明日の刑執行を前に、君の『気高き忠義』に対し、一言だけ敬意を表しておきたくてね」
「……敬意、だと?」
「ああ。君の第一王子に対する忠義は、間違いなく本物だった。剣術訓練では己の持てる限りの技術を惜しみなく伝授し、自分のプライベートを削ってでも常に付き従い、主君を守り抜こうとした。君は、武門の者が掲げる『理想の忠義』を、誰よりも体現していたはずだ」
それは、死の淵に立たされたセオリスにとって、思いがけない救済の言葉だった。
暴走した狂犬として実の父親にすら切り捨てられた己の努力と誇りを、他でもないリュートが肯定し、最大限に称賛してくれたのだ。セオリスの虚ろな顔に、すがりつくようなわずかな光が差す。
「殿下……分かってくださるか……! 私はただ、グラクト殿下のためを思って――」
「ああ、痛いほど理解しているよ」
リュートは優しく頷き、しかし次の瞬間、極めて冷徹な事実を、刃のようにセオリスの心臓へと突き立てた。
「だが、君のその素晴らしい忠義に、彼らはどう報いた?」
「……え?」
「兄上は、己の管理責任を逃れるための体裁として一度だけ抗議するフリをしただけで、君を救おうとする行動を何一つ起こしていない。さらに第一側妃殿下は、内務卿の取り調べに対しこう供述したそうだ。『セオリスにはグラクトの精神的フォローを頼んだだけで、ルナリアへの行動を起こせとは一言も言っていない』と」
リュートは鉄格子越しに、静かに事実を解剖していく。
「彼らは、すべてを君の勝手な暴走だと切り捨てた」
カラン、と。
セオリスの中で、何かが決定的に崩れ落ちる音がした。
「馬鹿な……。私は、第一側妃殿下から確かに『思い知らせてやれ』と……第一王子の名において、離宮の警備を遠ざける手筈まで整えていただいたというのに……!」
「それが真実だろう。だが、彼らは君の忠義を都合よく利用し、失敗すれば『勝手に暴走した狂犬』としてすべての泥を押し付け、ゴミのように切り捨てたんだ」
リュートの言葉には、一片の嘘もない。
だからこそ、セオリスの脳髄に劇薬となって染み渡る。自分が命を懸けて守ろうとした絶対の価値がただの虚飾であり、自分は滑稽な捨て駒に過ぎなかったという事実。
「君の立派な忠義を裏切ったのは……果たして誰だろうな?」
信じていたすべてに裏切られた事実。自らの忠義が無価値だったという絶望が、強烈な憎悪へと反転する。セオリスの血走った目に、これまで向けたことのないようなドス黒い炎――主君とその母に対する、強烈な復讐の念が灯ったのを、リュートは見逃さなかった。
「……殺してやる。あいつらだけは、絶対に……ッ!!」
「復讐したくないか? ならば、君にしかできない最高の方法がある」
リュートは鉄格子に近づき、悪魔のように論理的な囁きを落とす。
「明日の公開処刑の直前、君には『最期の言葉』が許される。そこで真実を叫べ。第一側妃が人員を遠ざけたこと。すべては第一王子の名において行われたこと。……群衆の面前でそれを叫ぶことこそが、君をゴミのように切り捨てた者たちへの、最大の復讐になると思わないかい?」
セオリスはもはや、荒い息を吐きながら深く頷くことしかできなかった。
自らの死は避けられない。ならばせめて、自分を裏切った者たちを道連れにしてやる。その強烈なルサンチマンを完璧に引き出し、方向付けたリュートは、静かに踵を返した。
剣も魔法も使わない。ただ論理と事実の提示だけで、敵陣営の内部から強固な破壊工作を完了させたリュートは、一度も振り返ることなく冷たい地下牢を後にした。
4 愚者の逃避と甘き毒の肯定(グラクトの崩壊と自己正当化)
最高法廷での死刑判決から数時間が経過した夜。王宮の奥深くにある第三側妃ソフィアの私室では、一人の無力な少年が残酷な現実に押し潰され、完全に崩壊しようとしていた。
「僕のせいだ……。明日、セオリスが死ぬのは、すべて僕のせいなんだ……!」
豪奢な絨毯の上にへたり込み、第一王子グラクトは幼子のように頭を抱えて激しく震えていた。
これまで自分を精神的にも物理的にも守り続けてくれた、絶対の忠臣であるセオリス。彼を死地に追いやったのは、他でもない自分自身の弱さであるという凄まじい罪悪感が、グラクトの胸を締め付けていた。
「僕は、あの第二側妃の無礼な物言いに腹を立ててしまった……。セオリスが怒りに任せて動こうとした時も、僕は恐ろしくて、見て見ぬふりをして彼を止めなかった……! それなのに今日の法廷では、己の身が可愛くて彼を庇うことすらできなかった! 僕が彼を殺すんだ!」
とめどなく溢れる涙が、床に染みを作っていく。
自らの保身のために、最も忠義を尽くしてくれた臣下をあっさりと切り捨てた。その事実を直視してしまった彼の心は、今にも破裂しそうであった。
だが、絶望の淵に沈む彼を背後から優しく抱きしめ、その耳元で甘く囁きかける者がいた。彼を精神的な依存の底へと引きずり込む劇薬、第三側妃ソフィアである。
「……いいえ、グラクト様。あなたは何も、間違っておりませんわ」
ソフィアは慈愛に満ちた母のように彼の金糸の髪を撫でながら、グラクトの吐露した罪悪感を、一つ一つ、極めて「都合の良い論理」で否定し始めた。
「あの第二側妃は、野蛮な帝国の人間。気高き王国の価値観も理解できない哀れな愚か者です。そんな彼女の身の程を弁えない言動に対し、次期国王たるあなたが正当な怒りを覚えられたのは、当然のことでございます」
「でも……セオリスが、あんな凶行に及ぶのを止められなかった……!」
「セオリス様は、剣を振るうことしか知らない騎士でございました。グラクト様の深く広いお考えを理解できず、彼が勝手にやりすぎたことが問題なのです。一介の騎士の暴走という失態を、グラクト様が気に病む必要など一切ございませんわ」
それは、現実逃避を望む脆弱な心にとって、あまりにも心地の良い『甘き毒』であった。
すべては帝国の女が悪い。すべてはやりすぎた騎士が悪い。自分には何の罪もないのだと、彼女は全肯定してくれる。
「聞いてくださいませ、グラクト様。あなたはこれからも、この王国民すべてを照らす『光』となるお方なのです。その崇高な光が、騎士の失態ごときで曇ってはなりません。あなたが王国民を照らし続けることによってのみ、民は平和を享受し、笑顔でいられるのです」
ソフィアの艶やかな指先が、グラクトの涙を優しく拭い去る。
自己否定に苦しんでいた少年の瞳から徐々に反省と理性の光が失われ、代わりに狂信的な安堵感が広がり始めていた。
「僕が輝くことが……民の平和に……?」
「ええ、その通りです。あなたの為された行いはすべて、王国民を守るためのもの。あなたこそが、真の王の器を持つお方なのです」
その言葉が、グラクトの裡に残っていた最後の良心を完全に溶かし尽くした。
苦痛に満ちた「自己反省」という現実を投げ捨て、彼はすがりつくようにソフィアの細い身体を強く抱きしめた。
「ああ……ソフィア、君だけだ。僕の本当の正しさを理解してくれるのは……君だけだ……!」
「ええ、グラクト様。私はずっと、あなたの味方でおりますわ。誰よりもあなたの正しさを信じているのは、私なのですから」
ソフィアは魅惑的な微笑を浮かべながら、グラクトの身体をゆっくりと豪奢な天蓋ベッドの奥へと誘っていく。
忠臣が冷たい地下牢で死刑の恐怖と絶望に震えているその夜。十三歳の未熟な少年は、自らの罪と向き合う痛みに耐えきれず、差し出された甘い肯定の中へと逃避していった。
それは、後に王妃による峻厳な教育や、環境の変化が待ち受けていることも知らず、彼が今この瞬間の安らぎにすべてを委ねた、脆弱な一夜であった。
5 蜘蛛の雌伏と見出された手駒(ヒルデガードの再起)
第一側妃ヒルデガードは、自室の豪奢な長椅子に深く腰を沈め、冷え切った瞳で薄暗い虚空を見つめていた。
『状況は、最悪と言っていいわね』
狂犬セオリスの暴走と、明日執行されるであろう死刑判決。それに伴う連帯責任として、実父であるゼノビア侯爵には厳しい謹慎処分が下された。武門の筆頭であり、彼女の最大の権力基盤であった実家の影響力は、今や見る影もなく失墜している。
おまけに、彼女が手塩にかけて育て上げた「最高傑作」である第一王子グラクトは、自らの罪悪感から逃げるように第三側妃ソフィアの閨へと入り浸り、完全に籠絡されてしまった。
盤面は完全にひっくり返った。今の彼女には、失われた権力を取り戻し、反撃に転じるための新たな「手駒」がどうしても必要だった。
次期王妃と目されるヴィオラは使えない。あれは完全に王妃の手駒であり、容易に手出しできる領域にはいない。
ならば、誰がいるか。
ヒルデガードの脳裏に、これまで「帝国の老いぼれに宛がう政略結婚の道具」程度にしか考えていなかった、実の娘の姿が浮かび上がった。
第一王女、リーゼロッテ。
現在、彼女は宰相の進言により、帝国使節団の接待責任者という重務に就いている。もし彼女がこの難題を完璧に成し遂げれば、帝国との間に太いパイプができる。実母であるヒルデガードは、その「娘の功績とコネクション」を己の新たな後ろ盾として堂々と利用できる。
逆に、激務と重圧に耐えかねて失敗したとしても構わない。その時は、傷物になった彼女を適当な宮廷貴族へ政略結婚の道具として売り飛ばせばいいのだ。
ただし、ソフィアの実家であり、現在グラクトにすり寄っているセラフィナ侯爵家は除外する。それ以外の有力な侯爵家へリーゼを嫁がせ、強固な血の繫がりを利用して新たな派閥を形成し、第三側妃の勢力を物理的に削ぎ落とす。
どちらに転んでも、ヒルデガードにとって損はない完璧な盤面であった。
『グラクトを取り戻す機会は、必ず来る』
ソフィアがグラクトを独占できているのは、「情交奉仕者」という特例的な役目を与えられているからに過ぎない。彼が王立学園に入学すれば、その役目は自動的に終了し、ソフィアはただの側妃へと戻る。
強固な物理的依存関係が合法的に断ち切られるその時こそが、ソフィアの洗脳を解き、未来の国王を再び自分の手元へ引き戻す最大の好機となる。
それまでは、静かに泥水をすすり、暗闇で牙を研ぎ澄ませるしかない。
ヒルデガードは、自らの血を分けた娘すらも無機質な政治の道具として計算式に組み込み、毒蜘蛛のように冷たく嗜虐的な笑みを浮かべた。
だが、完璧な再起のシナリオを思い描く彼女の脳裏に、ふと冷たい事実がよぎる。
『……そういえば、あの日から陛下が私の寝所へ渡ってこなくなったわね』
ルナリアの惨劇があったあの日から、国王ゼノンは不自然なほどヒルデガードを避けている。王家の品位と実利、そして己の欲望のみで動くあの男の沈黙が意味するものを、老獪な第一側妃は冷徹に計算し始めていた。




