第5話 『品位という防波堤』
1 修羅の謝罪と、新しい家族の誓い
月光が差し込む凄惨な寝室。事前の強訴の咎で謹慎中であるリュートは、母の亡骸の傍らで泣き崩れるルリカへ、悲しみを奥底に沈め切った為政者の声で命じた。
「ルリカ。本宮へ向かってくれ。第二側妃ルナリア崩御の報告だ」
「……はい……っ」
ルリカは涙を拭い、主の最期の命を胸に刻んで、ただちに離宮を駆け出していった。
静寂と濃密な血の匂いだけが残る冷たい石床の上。リュートはゆっくりと振り返り、立ち尽くすリーゼロッテの目の前で、静かに両膝を突いた。
「……お兄様?」
「リーゼ。……先ほど君を突き放した、僕の傲慢さと狭量さを許してほしい」
それは、実務家としての冷徹さを装い、彼女を暗い廊下へ追い出したことへの心からの謝罪だった。リュートは頭を下げたまま、絞り出すように語る。
「リスクを排除して盤面を支配しているつもりで……僕は、君にどれだけ救われていたかという事実から目を背けていた。君がカモフラージュとして本宮の視線を集めてくれたこと。何より、王宮の毒の中で、君が笑いかけてくれたからこそ、僕は正気を保ち『人間』でいられたんだ」
「……」
「君は、僕の大切な妹だ。……こんな地獄のような離宮を選んでくれた君を、僕はもう二度と手放さない。一緒に、生きてほしい」
偽りない感謝と、深い愛情の吐露。それを聞いたリーゼロッテの金色の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
彼女は跪く兄の前に歩み寄り、その肩にそっと手を置く。
「……謝らないで、お兄様。私こそ、お兄様やお母様に出会わなければ、ただ怯えるだけの出来損ないの飾りのままだった」
彼女は最高級のドレスの袖で涙を拭い去り、為政者としての強靭な理知の光を瞳に宿した。
「私の実の家族は、本宮のあの女たちではありません。私に本当の愛と生きるための知性を与えてくれた、お母様と、お兄様と、ルリカだけよ。……王家の安寧などいらない。何が起きても、私はここで、お兄様と共に歩むわ」
月光の下。実の親の権威と王家の安寧を捨て、血の繋がりを超えた「真の家族」としての誓いが、静かに、しかし絶対的な重みを持って結ばれた。
2 王宮の激震と、冷徹なる事務処理
離宮から風のように現れた侍女・ルリカがもたらした「第二側妃ルナリア崩御」の凶報は、深夜の本宮を文字通り凍り付かせた。
「……何だと? 今、何と言った……!?」
国王ゼノンの絶叫が、私室の壁を震わせた。
彼はルナリアを愛していた。帝国の至宝と謳われたその美貌、気位の高さ、そして時折見せる「虎」のような鋭さ。ゼノンにとって彼女は単なる側妃ではなく、自らの男としての征服欲と、王としての自尊心を最も満たしてくれる特別な存在だった。第一王子のグラクトが、いずれ彼女を下賜され「情交奉仕者」として側に置くことを夢見て鼻の下を伸ばしていたのも、父であるゼノンが彼女を惜しみなく愛でる姿を見ていたからに他ならない。
「セオリスか……あの狂犬が、余のルナリアを殺したというのか! 許さぬ……ゼノビア侯爵もろとも、一族根絶やしにしてくれるわ!!」
ゼノンは顔を真っ赤に染め、装飾品の置かれた机をなぎ倒した。愛する女を無残に奪われた憤怒と、自らの足元である王宮内で「管理下の騎士」が暴走したという不名誉に、理性が焼き切れていた。
だがその傍らで、王妃マルガレーテは微動だにせず、ただ静かに、夜の闇を見つめていた。
『……やはり、死んだか』
マルガレーテの心中にあったのは、悲しみでも怒りでもない。極めて高度な「盤面の計算」である。
北のアイギス公爵家、その苛烈な国境地帯で「何を守り、何を捨てるか」を叩き込まれてきた彼女にとって、側妃の死は「王家の品位」という巨大な防波堤に生じた、致命的な亀裂でしかなかった。
「陛下、お鎮まりください。取り乱して怒鳴り散らすのは、王の品位をさらに貶める行為です」
「黙れマルガレーテ! 余の女が殺されたのだぞ!」
「ええ。ですが、死んだ者は戻りません。今、陛下がなさるべきは、この醜聞が王家の『崩壊』を招かぬよう、速やかに蓋をすることです」
マルガレーテは氷のような声で言い放ち、控えていた官吏たちに次々と指示を飛ばし始めた。
「遺体安置官を離宮へ。ルナリア妃の遺体は即座に棺へ収め、厳重に封印なさい。傷跡一つ、外部の目に触れさせてはなりません。葬儀の形式が決まるまで、安置室への出入りは私の許可制とします」
その淡々とした口調は、まるで壊れた家具を片付ける事務処理のようだった。彼女の脳裏には、数日前に玉座の間で自分と対峙した、あの忌み子の姿が浮かんでいた。
『……思い出すだけでも、悍ましい少年だわ』
マルガレーテは、あの『強訴』の盤面を反芻する。
わずか十三歳の子供だ。最愛の母が今まさに拷問を受けているかもしれないという極限状況。凡庸な貴族の大人でさえ、あのような場面では恐怖に泣き喚き、感情論で王にすがりつき、あるいは怒りで喚き散らすことしかできないだろう。
だが、リュートは一滴の涙も流さず、一切の私情を交えなかった。ただ客観的な目撃証言と遺留品を証拠として提示し、国王の正当な命令の「隙間」を縫って作られた密室の存在を、完璧な論理で立証してみせたのだ。
しかし、マルガレーテを真に戦慄させたのは、彼の論理の組み立て方ではなかった。彼が見せた、その『引き際』である。
あの日、王権すら論破されかけたマルガレーテは、「告発された側(セオリス側)の弁明を聞いていない以上、一方的な証言のみで断罪することは王家の公平性を損なう」という、最終裁定者としての正論を盾にして辛うじて彼を退けた。
その時だ。母の命が危うい状況で即時介入を拒まれたにもかかわらず、リュートは激昂もせず、一切の反発も見せなかった。彼は即座に自らの非を認め、深く頭を下げて矛を収めたのである。
それは、彼が「相手の言い分も聞かなければならない」という裁定の公平性の概念を瞬時に理解し、自分自身の感情すらも盤上の駒として俯瞰できている決定的な証拠だった。
『あの年齢で、自らの感情を完全に制圧し、物事を俯瞰して正しく引くことができる。……あれは、狂った暗殺者などではない。知性と論理を完璧に使いこなす、王座すら揺るがしかねない「怪物」よ』
あの日、彼が大人しく謹慎を受け入れたのは、理屈に納得したからに過ぎない。
だが、その彼から、唯一の足枷であった『母』を奪ってしまった。
『これは、最悪の事態だわ』
ルナリアが生きていれば、彼女を人質としてリュートを制御できた。だが、今のリュートはもはや失うものがない。彼がその底知れぬ知能を全て「復讐」と「破壊」に振り向ければ、王国は内部から腐り落ちる。
「……ゼノビア侯爵、および役職持ちの重臣たちを緊急招集なさい。第一側妃ヒルデガードと第三側妃も、今すぐにここへ。……夜明けまでに、この事件の『正解』を決めなければなりません」
マルガレーテの瞳に、防衛者としての鋭い光が宿る。
国王がルナリアの死を悼んで叫ぶ横で、彼女はすでに「どうすれば、グラクトの継承権を守り、リュートという劇薬を抑え込み、かつ帝国の介入を防ぐか」という針の穴を通すような司法取引の筋書きを描き始めていた。
王妃にとって、ルナリアの死はもはや過去の遺失物だった。
彼女が見ているのは、この悲劇がもたらす「新しき秩序の胎動」――すなわち、自分たちの支配体制を根底から覆そうとする、あの黒髪の王子の次なる一手だった。
3 離宮会議(秩序という名の創設と、共犯の誓い)
深夜。本宮への報告を終えたルリカが、息を切らして離宮へと帰還した。
主を失った凄惨な寝室から場所を移し、蠟燭の火が微かに揺れるリュートの書斎にて、残された三人による最初の「離宮会議」が開かれた。
重苦しい沈黙の中、上座に座るリュートが静かに、しかし断固たる口調で切り出した。
「今後の基本方針を伝える。……第一側妃殿下や第一王子殿下への、個人的な暗殺や私刑(復讐)は一切行わない」
その宣言に、リーゼロッテが弾かれたように顔を上げた。金色の瞳には、強い拒絶の色が浮かんでいる。
「……どうしてですか。お兄様は、私に気を使っているの? 私の本当の親と兄だから、血に塗れた復讐を見せたくないと……。もしそうなら、やめてください! お兄様が地獄に堕ちるなら、私も行くわ。私のために復讐を諦めないで!」
「違うよ、リーゼ」
リュートは、身を乗り出して反発する妹の視線を真っ直ぐに受け止め、静かに首を振った。
「血みどろの復讐など、母上は望んでいない。母上は最後に『幸せだったと言える人生を歩みなさい』と遺された。僕たち三人が本当に幸せに生きられる状態を作るためには、ヒルデガード個人の首をすげ替えるような凶行ではなく、この狂った体制そのものの改革が必要なんだ」
「体制の改革、ですか……」
ルリカが戸惑うように呟く。リュートはそこで一度言葉を切り、リーゼロッテへ向き直って深く頭を下げた。
「だが、その壮大な盤面を動かす前に、僕は君に謝らなければならないことがある」
「お兄様……?」
「先日の本宮での強訴で、僕は第一側妃の陰謀を立証するために、『リーゼとヴィオラが意図的に遠ざけられたこと』を指摘してしまった。……その結果、あの二人を排除すれば母上の孤立が完成すると僕が認識していること、つまり、君とヴィオラが僕にとって『絶対に失えない手駒』であることが、本宮に完全に露呈してしまった」
「……!」
「すまない。僕の失態だ。これから先、君とヴィオラには、第一側妃陣営からこれまで以上に陰湿で厳しい監視と圧力がかかることになる」
謝罪する兄に対し、リーゼロッテは一切の動揺を見せず、ただ力強くかぶりを振った。
「謝らないでください、お兄様。……私が離宮を選んだ時点で、本宮からの風当たりは覚悟の上です。ヴィオラ様にも、私からうまく伝えます。……それで、お兄様。私たちはこれから、どう動くのですか?」
妹の強靭な覚悟に救われ、リュートは顔を上げる。その瞳には、為政者としての冷徹な光が宿っていた。
「まずは、実行犯であるセオリスを公式な法廷に引き摺り出し、完全に断罪する。それによって、彼の生家であるゼノビア侯爵家を王宮の中枢から排除し、彼らを最大の武力的な後ろ盾としている第一側妃の影響力を大きく削ぐ」
「ですが、ヒルデガード様の影響力が削がれれば、王宮内の派閥の均衡が崩れます」
ルリカの指摘に、リュートは頷き、盤面の「その先」を語る。
「その通りだ。第一側妃の権勢が落ちれば、必然的に、すでに第一王子グラクトの『情交奉仕者』として彼の閨と精神的な寵愛を掌握している第三側妃ソフィアと、その後ろ盾である魔導卿・セラフィナ侯爵家が台頭し、強大な権力を握ることになる」
「……!」
「王妃マルガレーテは、何よりも『派閥の均衡』を重んじる。第一側妃という重石が外れ、すでにグラクトを籠絡している第三側妃の陣営が王宮の権勢を独占するようなパワーバランスの崩壊を、あの冷徹な女狐が許すはずがない」
それは、権力者の心理と現在の王宮の勢力図を完璧に読み切った悪魔的な推論だった。
「だからこそ、僕はその状況を意図的に作り出す。均衡が崩れた盤面で、突出した第三側妃陣営を牽制するための『対抗馬』として、王妃が僕を必要とせざるを得ない状況に追い込むんだ」
先日の強訴で、リュートは王妃の正論に対し、自らの感情を完全に制圧して綺麗に引いて見せた。あの引き際を見せたことで、王妃はリュートが盤面を俯瞰できる異常な知性を持っていることに気づき、極限の警戒を抱いているはずだ。
「僕に対する王妃の警戒を解くためには、『リュートは優秀で危険だが、兄グラクトの治世を支える忠弟としてコントロールし、第三側妃の対抗馬として利用できる』と錯覚させる必要がある。……そのための『最高の一手(要求)』を、次の交渉で突きつける」
リュートは声を潜め、これから本宮から下されるであろう「王家の裁定」に対して、自らが叩きつけるつもりの本命の条件を二人に語った。
「――次の交渉で、僕は王家に『第一王子グラクトの王位継承権の白紙化』を要求する。これが、僕の本命の条件だ」
その内容を聞いた瞬間。
リーゼロッテは絶句し、ルリカは信じられないものを見るように目を見開いた。
「……っ! お兄様、それは……! 第一王子殿下の継承権を剝奪するということですか!?」
「剝奪ではない。『一旦白紙に戻し、王立学園卒業時の評価まで次期国王の決定を凍結する』という体裁をとる。側近一人まともに御せない今のままでは上に立つ価値はない、危機感を持って成長していただきたいという『忠弟の進言』としてね」
「あまりにも……劇薬です。ですが、もしグラクト殿下が本当にその重圧に耐え、奮起して王の器へと成長してしまったらどうするのですか?」
ルリカのもっともな懸念に対し、リュートは極めて冷徹な笑みを浮かべた。
「構わない。むしろ、それならそれで都合がいいんだ。……今の兄上は、第一側妃とゼノビア侯爵家という強固な保護者の上で踊らされているだけの、政治的な赤子に過ぎない。もしこの要求によるプレッシャーで精神をすり減らし、陣営ごと内部から自滅するなら、その時は僕が玉座を簒奪して直接、新しいルールを敷く。……だが、もし重圧を跳ね除けて優秀な為政者として育つなら、それはそれでいい。兄上を『象徴としての王』に据え、僕が宰相として実権を握り、裏から改革を断行すればいいだけのことだ」
リーゼロッテは、兄の底知れぬ計算に息を吐き出した。
「第一王子殿下が潰れようが育とうが、どちらに転んでも……お兄様が実権を握るための盤面が完成する、ということ……?」
「そういうことだ。それに、この『兄の成長を促すための試練』という体裁こそが、王妃の警戒を解き、この要求を飲ませるための最大の目くらましになる」
リュートは机の上に視線を落とし、彼が最終的に目指す国家の青写真を言葉にした。
「方法は大きく分けて二つある。一つは、王家という血統の支配を完全に根絶やしにし、選ばれた者たちが国を治める仕組みに変えること。もう一つは、王家という存在は残しつつも、王の権力すら縛り付ける『絶対のルール』を敷くことだ。……どちらを選ぶにせよ、現体制の破壊は免れない」
自身へ向けられる王妃の警戒を逆利用し、敵陣営に時限爆弾を仕掛けながら、どちらの目が出ても自分たちの勝利(新秩序の創設)に繋がる悪魔の両面待ち。
「母上は『自由には責任が伴う』と仰った。僕はこれから、この国に新しい自由をもたらすための、重く血に塗れた責任を負う。……リーゼ、ルリカ。僕と一緒に、この十字架を背負ってくれるか」
共に修羅の道を往く覚悟を問う、悲壮で熱い決意。
二人は、リュートが描いた恐るべき盤面と、母の願いを叶えるための壮絶な覚悟に深く納得し、同時に立ち上がった。そして、リュートの前に静かに跪き、その手をとる。
「……ええ。お兄様の創る新しい秩序のために、私のすべてを捧げます」
「リュート様。この命、そして私の未来も……すべて、貴方と共に」
月明かりの書斎で、三人の「共犯者」による、王家に対する絶対の忠誠と共闘の誓いが、静かに、しかし確固たる重みをもって結ばれた。
4 御前会議(弾劾状と、国王の激怒)
夜明け前の本宮、重厚な扉に閉ざされた最高会議室。
そこには、王国の中枢を担う限られた者たちだけが緊急招集されていた。上座には国王ゼノンと王妃マルガレーテ。そして下座の冷たい石床には、近衛騎士団長にして王国最大の武力派閥の長、ゼノビア侯爵が平伏していた。
「――ゼノビア! 貴様、我が妃ルナリアを死に至らしめるなど、息子のセオリスにどのような教育をしているのだ!!」
国王ゼノンの怒号が、鼓膜を劈くように会議室に響き渡った。
帝国の至宝たる美貌と知性を持ち、己の自尊心を満たしてくれる最愛の女を奪われた喪失感。そして、自らが絶対の権力を握る王宮内で武力行使がなされたという事実に対し、ゼノンの感情は完全に沸騰していた。
「申し開きをしてみろ! 余の妃を、一介の騎士が惨殺するなど、万死に値する凶行であるぞ!!」
唾を飛ばして激怒する国王に対し、平伏するゼノビア侯爵は一切の弁明も、命乞いもしなかった。
分厚い筋肉の鎧に身を包んだ巨漢の侯爵は、ただ石床に額を擦りつけたまま、王宮正典に則った「武門の形式美」として、重々しく、かつ盲目的な忠誠心とともに答えた。
「……すべては、臣の不徳の致すところにございます。愚息セオリスが天の理を違え、陛下の御心を煩わせた罪、いかようにも罰をお受けいたします」
ゼノビア侯爵の脳内には、王立学園の思想統制によって純粋培養された「王家絶対」の教義が根張っている。彼ら武門にとって、王家――とりわけ金髪金眼の血統は「神の子」であり、国家を照らす絶対の光である。
下位の者が上位の品位を汚すことは許されない。もし不都合が生じたならば、それはすべて「上位の方を正しく補佐できなかった下位の者の責任」である。ゼノビアは言い訳をする頭脳も持ち合わせていなければ、そうするつもりも毛頭なかった。
「罰を受けるだと? 当然だ! 貴様の一族ごと――」
「――お待ちください、陛下。お怒りはごもっともですが、それ以上声を荒らげるのは、陛下ご自身の『品位』を損なうことになります」
激昂するゼノンを、隣に座る王妃マルガレーテの氷のような声が制圧した。
「マルガレーテ! 余の悲しみが分からぬのか!」
「悲しんでいる場合ではありません。事態は、一人の側妃が死んだという次元をとうに超えているのです」
マルガレーテは冷徹な視線で国王を黙らせると、卓上に置かれた一枚の書類――数日前に第二王子リュートから突きつけられた『弾劾状』の内容を、会議室の全員に共有した。
「現状、確定している客観的事実は一つ。ゼノビア侯爵の嫡男たるセオリスが、第二側妃を惨殺した実行犯であること。……問題は、第二王子殿下が強訴で主張した『この事件の構図』です」
王妃は、平伏するゼノビア侯爵、そして同席させられている第一側妃ヒルデガードへと鋭い視線を向けた。
「第二王子殿下は、ルナリア妃が孤立した一連の王命の『隙間』を第一側妃殿下が意図的に縫い合わせ、密室を作り上げたという疑惑を指摘しました。さらに、実行犯のセオリスは『これはグラクト様の命であり、品位を守るための正当な教育である』と叫んでいたという証言があります」
「なっ……!」
「馬鹿な!」
その内容に、同席していた重臣たちが息を呑んだ。
金髪金眼たる第一王子グラクトは、生まれながらの「神の子」であり、国家の正統性を体現する無垢なる光だ。その光が、あろうことか私怨による暗殺を命じた、あるいは黙認していたとなれば、王家の絶対的な基盤である『品位(清浄さと無垢)』が根底から崩壊してしまう。
「ご理解いただけましたね。もしこの主張が『噂』として貴族院や民衆に流布すれば、次期国王たる第一王子殿下の神聖性は地に堕ちる」
マルガレーテは感情論を完全に排し、国家の防衛者としてのロジックを展開した。
「リュート殿下は、黒髪赤眼ゆえに王位を継ぐことはない相対的な『影』ですが、その血統は間違いなく王族のものです。彼が本気で王家の暗部を暴き立てれば、帝国をも巻き込む致命的な醜聞になりかねない。……我々が今なすべきは、この事件から第一側妃殿下と第一王子殿下の関与を完全に切り離し、王家の品位を無傷で守り抜く『公式な真実』を確定させることです」
王妃の言葉に、激怒していた国王ゼノンもようやく事の重大さに気づき、青ざめた顔で玉座に深く沈み込んだ。
「では、事実関係の整理を始めます」
マルガレーテは、扇で口元を隠し、冷や汗一つかかずに座っている女――第一側妃ヒルデガードを見据え、王家の存亡を懸けた尋問を開始した。
5 蜘蛛の弁明と、武門の忠義(防波堤の構築)
氷のような視線を突き刺す王妃マルガレーテに対し、第一側妃ヒルデガードは扇で口元を隠したまま、微かな動揺すら見せずに優雅な笑みを浮かべた。
北の最前線を束ねるアイギス公爵家出身の王妃と、王国最大の武力派閥を背後で操る第一側妃。共に血生臭い武門の家に生まれ、冷酷な王宮の権力闘争を生き抜いてきた二人の女による、国家の存亡を懸けた高度な化かし合いが始まった。
「第一側妃殿下。貴女は、第二王子殿下が指摘した通り、王命の隙間を縫って意図的に離宮を孤立させ、セオリスに凶行を命じたのですか?」
単刀直入な、しかし逃げ道を塞ぐような王妃の問い。
だが、ヒルデガードの返答は、あまりにも滑らかで、寸分の隙もない完璧な詭弁であった。
「……王妃様、それは恐ろしい誤解にございます」
彼女は扇をパチンと閉じ、伏し目がちに嘆いてみせた。
「公爵令嬢の帰省も、物流網の監査も、すべては正当な国益に基づく陛下の御判断。離宮から戦力が削がれ、ルナリア妃が孤立状態に置かれたのは、全くの『偶然』が重なった結果に過ぎません。……わたくしのような一介の側妃に、陛下と王妃様が下された神聖なる裁可を操るなど、できるはずがございませんわ」
それは、「もしこれを私の陰謀だと言うのなら、あなた方自身の統治の甘さを認めることになりますよ」という、極めてしたたかな脅迫を含んだ牽制だった。
マルガレーテの眉が僅かにピクリと動く。それを尻目に、ヒルデガードは本命の防衛線を張り巡らせる。
「さらに、実行犯であるセオリスへの指示についてですが……ルナリア妃の振る舞いが、我が第一王子殿下の御心を僅かに動揺させておりました。私はただ、『グラクト殿下の心理的な不安を取り除くために、寄り添って欲しい』と頼んだだけです。……まさか、あのような凶行に及ぶとは、夢にも思いませんでしたわ」
すべては思い込みの激しい若き騎士の暴走。自分は母として息子の平穏を願っただけ。
そして、彼女は最後に、この国における最大の絶対法則を盤面に叩きつけた。
「当然、グラクト殿下ご自身が、セオリスの凶行を命じた、あるいは知っていたなどあり得ません。天の光を宿す『神の子』であらせられるあの方が、あのような穢れた惨劇を望まれるはずがないのですから」
完璧な利害調整だった。
自らの関与を完全に否定し、すべての責任を実行犯であるセオリス個人の狂気へと転嫁する。同時に、金髪金眼の王族たるグラクトの「清浄さと無垢(品位)」という絶対不可侵の盾を掲げることで、王妃の追及を封じ込めたのだ。
もしここで第一側妃を潰そうと踏み込めば、必然的に「光たるグラクトの威光」にも泥が跳ねる。それは、王家の屋台骨が折れることを意味する。
『……見事な蜘蛛の糸だわ。ルナリアのような正面突破の鋭さはないが、体制の理屈を使いこなす盤面操作(利害調整)においては、この女の方が遥かに厄介ね』
マルガレーテは内心で舌を巻きながらも、その詭弁が「王家の品位を守るための最適解」であることを即座に理解した。あの底知れぬ怪物を抑え込むためには、第一王子という神輿を無傷で保ち、強固な防波堤を築かねばならない。
「……第一側妃殿下の言い分は分かりました」
二人の武門の女の視線が交錯し、音のない合意が形成された。王妃は、冷徹な裁定者としての仮面を被り直し、平伏し続けるゼノビア侯爵を見下ろした。
「第一王子殿下の品位と無謬性は、王家として絶対に守らなければならない国家の最優先事項です。よって、王家の見解として、本件はセオリスの完全な単独の暴走と断定します」
「……」
「ゼノビア侯爵。天の光たる王子殿下にこのような穢れを近づけた管理責任は、ひとえに、貴方たち侯爵家の『不徳』にあります。違いますか?」
それは、身内を切り捨てろという冷酷な死刑宣告だった。
しかし、王立学園の思想統制により「王家絶対」の教義を骨の髄まで叩き込まれている脳筋の侯爵は、一瞬の躊躇いも見せなかった。
下位の者が上位の品位を損なうことは万死に値する。上位の方に瑕疵はなく、すべては己の至らなさである。その絶対の形式美に従い、ゼノビア侯爵は重々しく口を開いた。
「……王妃様の仰る通りです。すべては、我が家の監督行き届かざるがゆえ。……武門の長として、天の理を乱した息子の狂行の責は、我が家がすべて負いましょう」
石床に額を擦りつけたまま、侯爵は己の血肉を切り捨てる誓いを立てた。
「第一王子殿下の気高き品位と、王家への絶対の忠義のため……セオリスは、我がゼノビア侯爵家が責任を持って処断いたします」
自ら泥を被り、息子をトカゲの尻尾として切り捨てる武門の宣言。
その言葉を受け、マルガレーテは静かに頷き、怒りに震えていた国王ゼノンへと視線を向けた。ゼノンもまた、愛する女を失った私情を飲み込み、王としての『品位』を保つために、苦渋に満ちた表情で承認の印として深く頷いた。
ここに、王家の方針は完全に決定した。
第一王子陣営を無傷で守り抜き、武門の忠義を盾にして実行犯を一族の内部処理として握り潰す。それは、迫り来るリュートの冷徹な法理の刃を弾き返すための、巨大で理不尽な「品位という名の防波堤」が完成した瞬間であった。




