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リーガル・レジスタンス 〜法治国家を目指して〜  作者: ムササビ-モマ
第4章『破壊から創設』
34/42

第4話 『三つの祈り』

1 聖母の呼びかけ


 窓の外の空が完全に夜の闇に沈み、冷たい月光が、濃密な血の匂いに満ちた離宮の寝室へと差し込み始めていた。


 ベッドに横たわるルナリアの肉体は、すでに生物としての限界をとうに超えていた。全身を覆う分厚い包帯、無惨に切り落とされた艶やかな黒髪、そして自白剤という名の劇薬によって内側から破壊された臓器。その呼吸は今にも夜風に溶けて消えてしまいそうなほど浅く、命の灯火が燃え尽きる寸前であることは、誰の目にも明白な客観的事実だった。


 だが。

 凄惨な拷問の痕跡をこれでもかと刻み込まれたその肉体を前にしてなお、彼女から放たれる気品と威厳は、微塵も損なわれてはいなかった。


 死の影が色濃く差す蒼白な顔に浮かんでいるのは、死への恐怖や苦悶ではなく、ただ静かで、どこまでも深い慈愛に満ちた微笑みだった。


 それは、かつて冷酷な王宮の中で誰もが「聖母」と仰ぎ、同時に「帝国の虎」と恐れた、彼女自身の誇り高く強靭な魂の輝きそのものであった。極限まで破壊された肉体の凄惨さすらも、その圧倒的な精神性の前では些末な事象に過ぎないと錯覚させるほどの、神々しいまでの存在感。


 己の傲慢さを悔いて涙を流したリュート。

 実の母と兄を「盤上の敵」と認定し、己の意志でこの離宮を選び取ったリーゼロッテ。


 そして、主の最後の盾になれなかった自責の念に震え、血塗れの甲冑姿のまま肩を震わせるルリカ。

 ルナリアは、ベッドを取り囲む三人の子供たちへ、ゆっくりと慈しむような視線を巡らせた。


「……おいで、みんな。……もっと、近くへ」

 掠れているが、三人の魂の奥底まで真っ直ぐに届く、優しく温かな声だった。

 その深い眼差しを向けられた瞬間、三人は吸い寄せられるようにベッドの傍らへ寄り、血で汚れた石床に静かに膝をついた。


 王宮の権力闘争という理不尽な暴力が、今まさに一つの尊い命を奪おうとしている。その絶望的な現実の中で、ルナリアは残された最後の命の炎を燃やし、修羅道へ歩み出そうとする子供たちへ、未来を縛る「呪い」ではなく、生き抜くための「祈り」を託そうとしていた。




2 憎悪を溶かす「義」の棘(リュートへの祈り)


 月光が照らし出す静寂の中、ルナリアは包帯に巻かれた腕を、僅かに残された命の火を燃やすようにして、ゆっくりと持ち上げた。

 行き場を探すように宙を彷徨ったその震える指先が、ベッドの傍らに跪くリュートの顔へと伸びる。


 冷たい。

 触れられた瞬間、リュートの背筋が凍りついた。生きている人間の温度ではなかった。彼女の命が、指先から砂のようにこぼれ落ちていく物理的な現実を、その冷たさが何よりも雄弁に物語っていた。


 ルナリアの指は、リュートの眉間に深く刻まれた皺にそっと触れた。

 そこには、愛する母を惨殺された怒りと、この狂った王宮のすべてを焼き尽くしてやろうという、どす黒い修羅の憎悪が凝り固まっていた。彼女は、我が子が纏ってしまったその悍ましい呪いを解きほぐすように、氷のように冷たい指で、愛おしそうに何度も、何度もなぞった。


「……人に、優しくしなさい、リュート」

 掠れた声が、リュートの鼓膜を震わせる。

 それは、実力主義の帝国を生き抜き、血みどろの王宮で権謀術数を見てきた女の言葉とは思えないほど、あまりにも純粋で、無防備な願いだった。


「……それはね、決して自分を貶めることではないのよ」

 ルナリアは、痛みで霞む視界の中で、必死にリュートの赤い瞳を見つめ返す。


「貴方が誰かに向けた光は……いつか必ず、もっと大きな温もりとなって……貴方が暗闇に迷い込んだ時、その孤独を救いに戻ってくる。……だから」

 ゆっくりと、一つ一つの言葉に魂を乗せるように。


「憎しみに……貴方のその、美しい心を……すべて明け渡しては、いけないわ」

 リュートは、ギリッと血の味がするほど奥歯を噛み締めた。

 法曹としての卓越した論理的思考が、母の遺した言葉の『真の意図』を、痛いほど残酷に読み解いてしまう。


 もしリュートが、この怒りに身を任せ、すべてを計算で切り捨てる冷酷な復讐鬼(修羅)に成り果てていれば、これからの闘争はどれほど楽だっただろう。邪魔な者は殺し、無関係な者は見捨てる。感情を殺せば、痛みなど感じない。


 だが、母はあえて、修羅の道を歩もうとする彼の心臓のど真ん中に、『愛と義(優しさ)』という名の決して抜けない「棘」を打ち込んだのだ。


 この棘がある限り、リュートは他者を切り捨てるたびに血を流し、弱き者を踏み躙る世界を憎みながら、自らもまた痛みにのたうち回ることになる。冷徹な怪物に堕ちることを、母の愛が許さない。


 それは、彼に人間としての苦悩を強いる最も残酷な呪いであり――同時に、彼が王道を歩み、最終的に「幸せだった」と笑える日を迎えるための、母からの最も深く、最も尊い救済であった。


「――っ、ぁ……」

 声にならない嗚咽が、リュートの喉から漏れる。

 知性が高すぎるが故に孤立し、理屈の鎧で自分を守るしかなかった不器用な少年の本質を、母は誰よりも理解し、そして誰よりも愛していたのだ。


 溢れ出しそうになる涙を必死に堪え、リュートは自らの両手で、頰に触れる母の冷たい掌を包み込んだ。そして、祈るようにその掌に自分の顔を強く押し当てた。


「……はい……っ。はい、母上……」

 決して憎しみに魂を売り渡さない。どれほど血に塗れた盤面を歩もうとも、あなたが愛してくれた『人間の心』だけは、絶対に手放さない。


 リュートは瞳を閉じ、冷たい掌の感触とともに、母から託されたその重く痛い「義の棘」を、己の骨の髄まで静かに飲み込んだ。




3 魂の舟と、生き抜く誓い(リーゼへの祈り)


 リュートへ「義」の棘を打ち込んだルナリアは、次に、そのすぐ隣で肩を震わせているリーゼロッテへと、ゆっくりと視線を移した。


 痛みに霞む目を細め、死にゆく母は、力の入らない冷たい指先で、娘の細く震える手を力強く、そしてどこまでも優しく包み込んだ。


「……リーゼ」

「……はい。はい、お母様……っ」

 リーゼロッテは、血で汚れたルナリアの手を両手で握り返し、こぼれ落ちる涙を拭おうともせずに頷いた。

 ルナリアは、浅く苦しい呼吸を繋ぎながら、これからこの十歳の少女を襲うであろう政治的現実を、静かに口にする。


「……私が死ねば、私という後ろ盾を失うことで、帝国からの婚約交渉は……間違いなく、一度は止まるでしょう。本宮の連中は、貴女の価値が暴落したと勘違いして、これ幸いと冷遇するはずよ」

 それは客観的な事実だ。だが、ルナリアの漆黒の瞳には、一切の悲観はなかった。彼女は血濡れた口元に、ふっと柔らかで誇らしげな微笑みを浮かべた。


「……でも、私は少しも心配していないの。……だって、貴女には『実力』がある。貴女のその知性と能力は、すでに帝国の興味の対象なのだから」

「私の……能力……?」

 リーゼロッテが目を丸くする。ルナリアは、血の気を失った頰を僅かに綻ばせた。


「ええ。以前、貴女が『無詠唱化』や『属性複合』の魔法理論について熱く語っていたでしょう? ……私、それを父への手紙の追伸に、さらりと書いておいたのよ。『逸材がここに埋もれていますよ』とね。実力至上主義の怪物にとって、それがどれほど喉から手が出るほど欲しい餌か……」

 リュートがハッと息を呑む。


 母は、ただ庇護していただけではない。王国の呪縛に囚われたままのリーゼロッテを救うため、すでに自分自身の命がどうなろうとも機能する、リスクのない外患誘致という布石を打っていたのだ。


「王国への圧力は、帝国が勝手に判断したことであり、私はただの世間話をしたに過ぎない。……婚約という形がどう転ぼうと、必ず彼らは貴女を確保に動くわ。だから、リーゼ。貴女自身の知性と能力が、必ず貴女の身を助ける」

 それは、ただの慰めではない。


 西の公爵令嬢の件でも自ら本宮の茶会へ乗り込み、堂々と立ち回った彼女の「政治的知性」と、血統に依存しない「本人の価値」に対する、完全なる信頼の言葉だった。


「貴女なら、その力で自分で自分を守れる。新しい未来を、自分の手で掴み取れる。……それでも」

 ルナリアは、リーゼの手を包み込んだまま、視線だけをリュートへと向け、愛おしそうに、そして少しだけ可笑しそうに微笑んだ。


「どうしても自分一人ではどうしようもなくなった時は、意地を張らずに、隣のお兄様を頼りなさい。……あの子は、自分の命を削ってでも、意地でも貴女を守り抜くでしょうから」

 リュートもまた、その母の信頼に応えるように、強く、静かに頷き返す。

 その光景を見て、ルナリアは再びリーゼロッテへ向き直り、彼女の手の甲を親指でそっとなぞった。


「……だからね、リーゼ。どうか、自分を大切にするのよ。……この国では、王女の体は王家の所有物であり、血統を繋ぐための道具だと教えられる。……でも、それは違う。体は、貴女の魂を乗せる『唯一の舟』よ」

 血統や品位という呪縛から、娘の存在意義を完全に切り離す、力強い宣告だった。


「誰の道具にもならなくていい。……健康でいて。どんなに過酷でも、生きていて。……貴女たちが明日を生きている、その事実こそが……冷たい王宮で生きてきた私にとっての、たった一つの救いだったのだから」


「――っ」

「自分を粗末にすることだけは、私との約束を破ることだと思って」

 その言葉が、リーゼロッテの胸の最も深い場所を、鋭く、温かく貫いた。

 実の母であるヒルデガードは、自分のことを王家の品位を飾るための「道具」としか見ていなかった。


 しかし、血の繋がりなど一切ないこの人は、自分の命が尽きようとしているこの極限の瞬間においてすら、本人の実力(能力)を信じ、そして「明日も生きていること」そのものを、自身の魂の救いだと呼んでくれたのだ。


 自分は、ただ生きているだけで、誰かの救いになれていた。

 その無条件の肯定と、海よりも深い愛情を前に、リーゼロッテの中で張り詰めていた悲しみの糸が、ついに音を立てて弾け飛んだ。


「……っ、はい……! はい、お母様……っ!」

 リーゼロッテは、ルナリアの冷たい手に自らの額を押し当て、子供のように声を上げて泣きじゃくった。


「約束します、約束するわ……! 私、自分の力で絶対に生き抜く……誰の道具にもならない……っ! お母様が愛してくれた私を、絶対に、粗末になんてしない……っ!!」

 それは、実の親から見捨てられた孤独な少女が、真の母の愛を受け取り、王宮の呪縛(血統と品位)から完全に解き放たれた瞬間だった。


 何度もうなずき、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら生き抜くことを誓うリーゼロッテの頭を、ルナリアは最後の力を振り絞り、満足げに、そして誇らしげに撫でた。




4 主従の鎖を断つ抱擁(ルリカへの祈り)


 リーゼロッテが己の能力で生き抜く誓いを立て、静かに顔を上げた時。

 ルナリアの視線は、ベッドから一歩引いた暗がりで、ただ一人、主を守れなかった己の無力さを呪い、血塗れの甲冑姿で肩を震わせている少女へと向けられた。


「……ルリカ」

 掠れた声に呼ばれ、ルリカは弾かれたように顔を上げた。

 彼女は罪悪感に押し潰されそうで、リュートやリーゼのように傍に寄ることすら躊躇っていたのだ。だが、ルナリアは痛みに耐えながら、ゆっくりと手招きをした。


「……そんな所で、一人で泣かないで。……こっちへ、おいで」

 その言葉に引かれるように、ルリカはふらつく足取りでベッドへと歩み寄った。そして、崩れ落ちるように石床に膝をつき、両手で顔を覆って声を殺して泣き始めた。


「……申し訳、ありません……ルナリア、様……私っ……お守り、できず……っ!」

 主従としての自責の念に絡め取られている彼女の頭を、ルナリアは残された最後の力で、愛おしそうに撫でた。


「……謝らないで、ルリカ。……貴方は、誰よりも立派に私の影となり、私を、そしてこの子たちを守ってくれたわ」

 ルナリアの漆黒の瞳に、深い哀惜の色が浮かぶ。


「……私についてこさせたばかりに、貴方の人生を王宮の裏側に縛り付けてしまった。……普通の女の子のように、素敵な結婚相手を見つけてあげることもできなくて……本当に、ごめんなさい」


「――っ! そ、んなこと……! 私は……ルナリア様にお仕えできたことだけが、誇りで……っ!」

 首を横に振るルリカ。ルナリアは、力を失っていく身体を僅かに起こし、手招きをして彼女の顔をさらに近づけさせた。

 そして、ルリカの耳元に唇を寄せ、他の誰にも聞こえないほどの声で、密やかに囁いた。


「……ねえ、ルリカ。……もし良ければ、これからも……あの子を、リュートを助けてあげて。……貴方が望むなら、リュートの『妻』となってもいいのよ」

「……えっ……?」

 予想外すぎる言葉に、ルリカは涙を溢れさせたまま目を見開き、ルナリアの顔を見つめ返した。


 身分差という絶対の壁、そして「影」としての生。それらを、主自らが完全に破壊した瞬間だった。

 呆然とするルリカに対し、ルナリアは死の淵にあるとは思えないほど、優しく、そして底知れぬ慈愛を込めて静かに微笑んだ。


「……考えておいて。……貴方はもう、誰の『影』でもないのだから。これからの人生は、貴方自身が自由に選択していいのよ」

 ルナリアは、ルリカの震える肩を引き寄せ、己の細い腕の中に抱きしめた。


「……貴方は、もう一人ではありません。……貴方は私の、誇り高き娘。そしてリュートにとっては、血の繋がりを超えて共に歩むべき『姉』であり……家族なのです。……私の娘になってくれて、ありがとう……」

「ルナリア、様……っ。お母様……!!」

 その瞬間、ルリカを生涯縛り付けるはずだった「侍女(影)」という名の鎖が、音を立てて弾け飛んだ。


 彼女はルナリアの肩に顔を埋め、これまで押し殺してきた感情のすべてを吐き出すように、幼子のように声を上げて泣き崩れた。


 リュートは、母の遺志に従うように、そして新たな家族を迎え入れるように、泣き崩れるルリカの肩にそっと手を置いた。

 月光の下、血統や身分というすべての呪縛から解き放たれ、ただ愛と個人の意志だけで繋がった「新しい家族」の形が、そこに産声を上げていた。




5 新しい国の礎(自由と責任の真理)


 ルリカの主従の鎖を解き放った後、ルナリアは、ベッドの傍らで固く握り合わされているリュート、リーゼロッテ、そしてルリカの三人の手の上に、氷のように冷たくなった自分の両手をそっと重ねた。


 それは、権力闘争という理不尽な暴力によって一度は壊れかけた縁を、もう一度、王家の血よりも重く強靭な絆として結び直す、神聖な儀式だった。


「……リーゼ。私が逝った後、何が起きても……意地を張らずに、リュートを頼りなさい」

「……はい……っ」

「……そして、リュート」

 ルナリアの漆黒の瞳が、涙で濡れた息子の赤い瞳を真っ直ぐに射抜く。


「家族の縁を、自分の理屈だけで……簡単に切るなんて、二度と言わないで。……完璧な人間などいないの。欠け落ちた不器用な心を、三人で……支え合って生きて」

 リュートは、先ほど自らの手で冷たい廊下へ突き放しかけたリーゼロッテの細い手を、そしてルリカの震える手を、両手で確かな力を込めて握り締めた。


「……はい、母上。約束します……絶対に、手放さない」

 己の愚かさを恥じ、二度と家族を盤上の駒として切り捨てないという血を吐くような誓い。


 その誓いを聞き届けた瞬間、死の淵にあるルナリアの瞳に、これまでで最も鋭く、最も気高い『知性』の光が宿った。

 それは、修羅の道を歩もうとするリュートの魂を、最後の最後で地獄の底から引き摺り上げる、圧倒的な母の教えだった。


「……リュート。貴方の心の中にはまだ、私をこんな目に遭わせた者たちへの、どす黒い殺意が渦巻いているわね」

「――っ」


「……でも、聞いて。もし貴方が、憎悪に任せてあのヒルデガードを惨殺し、復讐を成し遂げたとしても……私の願いは、絶対に叶わないわ」

 リュートは息を呑んだ。


 復讐を果たすことこそが、無惨に命を奪われる母への唯一の供養だと信じていた。だが、ルナリアはそれを明確に否定したのだ。


「……なぜなら、個人の首をすげ替えても、この国を支配する『血統と品位』という残酷なシステムが残る限り、第二、第三のヒルデガードが必ず生まれるからよ。……ただ殺し、ただ奪うだけの復讐は、あの初代王が血塗られた粛清で玉座を奪ったのと同じ……狂った歴史の反復に過ぎない」

 ルナリアは、痛む胸を押さえながら、最後の命の炎を燃やし尽くすように三人の手を強く握った。


「私が貴方たちに望むのは、そんな血みどろの玉座じゃない。誰かの屍の上に建つ、かりそめの安寧でもない。……私の願いはただ一つ」

 月光の下、聖母であり、帝国の虎であった女が、愛する子供たちへ遺す、絶対の真理。


「三人とも……自由に、生きなさい」

 その言葉は、冷たい石造りの部屋に、静かに、けれど雷鳴のように響き渡った。


「王家も、血筋も、貴方たちを縛る鎖にはさせない。……何者にも縛られず、自分の意志で、自分の生きる道を選びなさい。……けれど、忘れないで」

 ルナリアの瞳から、一筋の美しい涙がこぼれ落ちた。


「自由には、必ず『責任』が伴うということを。……自分の意志で選び、その報いをすべて引き受ける。……他人のせいにも、血筋のせいにもしない。……それこそが、人を人たらしめる、唯一の誇りなのよ」

 ――自由と、責任。


 その言葉を聞いた瞬間、リュートの脳内で、前世から持ち越した「法曹」としての膨大な知識が、凄まじい熱量を持って劇的に結合した。


『……そうだ。法律とは、人を縛るための鎖じゃない……っ!』

 権力者の恣意的な暴力(人治)を縛り、何人たりとも侵せない明文化されたルール(成文法)を敷くこと。それはなぜか。


 すべての民が「自由」に生きる権利を保障し、同時に、自らの行いに「責任」を持たせるためだ。

 それこそが、前世の歴史の中で人類が血を流して獲得してきた、近代法治国家の絶対的な理念ではないか。


『……ヒルデガードを殺すだけじゃダメだ。そんな小さな復讐じゃ、母上の願いは叶わない……!』

 母が最期の瞬間に、身を削るような激痛の中でリュートに伝えたかったこと。


 それは、「私怨に囚われた単なる暗殺者(修羅)」になるなという痛切な叫びだ。

 家族が本当に自由に、幸せに生きられる場所を作るためには、この血統主義という狂った古いシステムそのものを完全に破壊し、自由と責任を担保する『新しい理(法)』を創設しなければならないのだ。

 リュートの目から、修羅のどす黒い憎悪が完全に消え去った。


 代わりに宿ったのは、母の遺志を継ぎ、己のすべてを懸けて新しい国家を創り上げるという、壮絶で、どこまでも気高い『為政者の覚悟』だった。


「……分かりました。母上……」

 リュートは、リーゼロッテとルリカの手を握ったまま、涙で視界を滲ませながら、しかし決して揺るがない声で誓った。


「僕はもう、復讐のためだけに生きたいとは思いません。……母上が残してくれたこの家族と、自由に生きていくために……僕が、責任を負う。……この国を根底から作り変え、僕たちのための新しい秩序を、必ず創り上げてみせます……!」

 それは、破壊から創設へと至る、三人にとっての永遠のイデオロギー(思想)が誕生した瞬間だった。


 その力強い誓いを聞き届け、ルナリアは「……ええ、貴方ならできるわ……」と、心底安堵したように、微かに頰を綻ばせた。




6 月光の浄化と、永遠の別れ


 リュートが涙ながらに誓った『新しい秩序(法)の創設』という壮絶な覚悟。

 それを聞き届けたルナリアの瞳から、それまで張り詰めていた「帝国の虎」としての鋭い光が、ふっと解けるように消え去った。


 後に残ったのは、ただ愛する子供たちの成長を心底から喜び、安心しきった、一人の平凡で優しい母親の顔だった。


「……ええ。貴方たちなら……必ず、できるわ……」

 ルナリアの呼吸がいよいよ途切れ途切れになり、その命の砂時計が最後の一粒を落とそうとしていることは、誰の目にも明らかだった。


 凄惨な拷問に肉体を破壊され、政治的な敗北の中で謀殺される。客観的な事実だけを切り取れば、それは王家の理不尽に踏み躙られた、あまりにも残酷で無惨な『悲劇』に他ならない。


 だが、ルナリア自身の魂にとって、これは決して悲劇などではなかった。

 彼女は誰の駒として死ぬわけでもない。己の意志で王宮の毒から子供たちを隠し、己の意志で敵の矛先を一身に引き受け、そして己の意志で、未来を創る者たちへ最高の『祈り』を託し終えたのだ。


 それこそが、彼女自身が先ほど説いた「自由と責任」の極致であり、何者にも屈しなかった彼女の誇り高き『生き様』の証明であった。

 ルナリアは、三人の手を重ね合わせたまま、霞みゆく視界の中で、愛する家族の顔を一人ひとり、しっかりと脳裏に焼き付けた。


「……みんな……幸せに。最期、息を引き取る時に……『幸せだった』と、胸を張って言える人生を歩みなさい……」

 掠れた、けれど離宮のどこまでも深く染み渡るような、透明な声だった。


「私は……こんな最後だけど……」

 血に塗れ、包帯に巻かれた自らの身体。それでも、彼女の口元には、この世のすべての苦痛を超越したような、柔らかで美しい微笑みが浮かんでいた。


「……貴方たち三人に出会えて……愛し合えて……確かに、幸せだったわ……」

「……お母、様……っ」

「……お母様……ぁあ……っ!」

 堪えきれず、リーゼロッテとルリカが声を上げて泣きじゃくる。リュートもまた、母の手を握りしめたまま、ボロボロと大粒の涙をこぼし続けていた。


 ルナリアは、最後に三人の手の温もりを確かめるように、僅かに指先に力を込めた。


「……ありがとう……私を、お母さんに……してくれて……」

 それが、彼女の最期の言葉だった。

 愛する三人の手の温もりの中で、ルナリアは穏やかに最後の一息を吐き出した。

 繋いでいた指先からふっと力が抜け、その瞳が、静かに閉じられる。二度と、その瞼が開くことはなかった。


 外では、昨晩から降り続いていた冷たい雨が、いつの間にか噓のように止んでいた。

 厚い雲が割れ、雲間から差し込んだ一筋の澄んだ月光が、窓を越えて、亡骸となったルナリアを白く照らし出す。


 その表情は、地獄のような拷問の苦痛すらも完全に浄化したかのように、ただただ神々しく、静謐な気品に満ちていた。

 それは無念を抱えた犠牲者の顔ではない。己のすべてを懸けて愛する者たちを守り抜き、未来という最大の遺産を託し終えた、真の『勝者』の顔だった。


 彼女の生き様と、託された三つの祈りは、残された三人の胸の最も深い場所に、決して消えることのない絶対の『思想』として刻み込まれた。彼らがこれからどんな地獄を歩もうとも、この温かく気高い祈りが、彼らを見失わせることはないだろう。


「……ああ……ぁああああああああっ!!」

「お母様……っ! お母様ぁ……っ!!」

 声にならないリュートの慟哭と、リーゼとルリカの絶叫が、月明かりの離宮に響き渡る。

 それは、ただの喪失を嘆く悲しみの声ではない。


 古い理不尽な世界を破壊し、母が望んだ「自由と責任」の国を創り上げるための、血を吐くような産声であった。

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