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リーガル・レジスタンス 〜法治国家を目指して〜  作者: ムササビ-モマ
第4章『破壊から創設』
33/50

第3話 『真なる優秀さ』

1 落日の目覚め


 分厚いオーク材の扉の向こうにリーゼロッテを締め出し、重い閂を下ろした直後だった。

 濃密な血の臭いが充満する寝室に、窓から沈みゆく落日の赤い光が長く伸びていた。

 その赤光が、ベッドに横たわるルナリアの蒼白な頰を照らした時。不自然なほど深く沈み込んでいた彼女の胸が、わずかに、しかし確かに動いた。


「……ぅ……」

 掠れた、微かな呼気。

 虚ろな目で床を見つめていたルリカが弾かれたように顔を上げ、リュートは瞬時に母の枕元へと歩み寄った。

 重く閉ざされていたルナリアの瞼が、ゆっくりと持ち上がる。焦点の定まらなかった漆黒の瞳が、数度の瞬きの後、はっきりとリュートの顔を捉えた。


「……リュ、ト……」

「母上、喋らないでください。すぐに止血と回復の処置を――」

 だが、リュートのその言葉は、他ならぬ彼自身の極めて冷徹な理知によって即座に否定された。


 脈は触れるか触れないかというほどに弱く、失われた血の量はすでに致死量をとうに超えている。自白剤という名の劇薬による副作用で内臓も破壊され尽くしており、現代の医療技術や魔術の及ぶ次元ではなかった。


 意識が戻ったのは、奇跡などではない。命の灯火が完全に燃え尽きる直前、肉体が最後に放つ一瞬の輝きだ。


『……これが、最期の時間だ』

 前世の知識と目の前の客観的現実が、残酷な終焉をリュートに宣告する。ルナリア自身もまた、己の肉体がすでに死の淵を越えていることを、その研ぎ澄まされた感覚で完全に悟っていた。


 彼女は痛む喉を微かに震わせ、静かに視線を巡らせた。血塗れの甲冑姿で泣き崩れそうになるルリカを確認し、そして、そこにいるはずのもう一人の姿がないことに気づく。


「……リーゼは……どこ……?」

 掠れた、しかし確かな意思を持った問い。

 その言葉に対し、修羅と化したリュートは目を伏せ、一切の感情を交えずに冷淡な事実のみを告げた。


「……彼女は、離宮から追放しました」

「……え……?」

「この惨劇を仕組んだ主導者は、第一側妃ヒルデガードです。僕はこれから、あの女と第一王子陣営を社会的に抹殺し、最終的に命を絶つための権力闘争を始めます」

 リュートの声は、恐ろしいほどに平坦で、論理的だった。


「リーゼロッテは、あの女の実の娘です。実の家族を滅ぼすという僕の闘争に加担できるか問うたところ、彼女は躊躇しました。……熾烈な政治闘争において、血縁の情による迷いは致命的なリスク因子です。敵になる可能性が万に一つでもある以上、不確定要素として盤面から切り捨てるのが最も合理的だと判断しました」

 為政者として、実務家として、それは一切の瑕疵がない完璧なリスク管理のはずだった。


 だが。

 その極めて理路整然とした冷たい報告を聞いた瞬間、死の淵にあり、今にも消え入りそうだったルナリアの瞳に、かつて「帝国の虎」と恐れられた猛烈な光が宿った。


「ル、リカ……ッ!」

 残された命を削るような、強い命令の声だった。


「は、はいっ……!」

「今すぐ……扉を開けて、リーゼをここへ連れてきなさい……! 今すぐに、です……ッ!」

「お、お連れします! すぐに!」

 ルリカは涙を拭うのも忘れ、弾かれたように立ち上がり、重い閂を下ろしたばかりの離宮の扉へと全力で駆け出していった。


 あとに残されたリュートは、自らの合理的判断を真っ向から否定されたことに僅かに目を見開き、ただ無言で母の凄絶な眼差しを受け止めていた。




2 母の最初で最後の叱責(隠された理由)


 ルリカの切羽詰まった足音が遠ざかり、ほどなくして、重い閂が外される鈍い音が離宮の奥まで響いた。

 静寂が戻った血塗れの寝室。落日の赤光に照らされる中、リュートはベッドの傍らに立ち尽くしていた。


 己の最も合理的で完璧な判断(リーゼの追放)が、他でもない母によって即座に否定された事実。法曹としての冷徹な理屈の鎧を纏った彼の赤い瞳が、微かな困惑を帯びてルナリアを見下ろす。


「……母上。彼女は第一側妃の娘です。情に流されれば、僕たちの闘争の致命的な弱点になる。盤面から排除するのは――」

「リュート」

 その言葉を遮ったのは、死の淵にあるとは思えないほど厳格で、深く、そして強い母の声だった。


 それは、彼がこの世界に生まれ落ちてからただの一度も向けられたことのない、ルナリアからの『初めての厳しい叱責』であった。


「……あなたは、生まれつき……優秀だった、いえ、優秀すぎたわ」

 掠れた声が、冷たい石造りの部屋に重く響く。


 リュートは息を呑んだ。母は今、彼が前世の知識を持ち、誰よりも早くこの王宮の構造を理解し、政治的闘争の盤面を俯瞰できる「異常な天才」であることを、はっきりと口にしたのだ。


「私が……あなたのその優秀さを、これまで徹底的に隠し通してきた理由が……分かりますか?」

「……それは……」


「幼い頃、あなたが王宮書庫へ行きたいと望んだ時。私は決してあなたの名前を出さず、『私自身の教育のため』という名目で、王妃から許可をもぎ取りました。……帝国出身の野蛮な側妃が、王国の歴史を学びたがっているという『滑稽な口実』を作ってまで」

 リュートの脳裏に、あの薄暗い王宮書庫での記憶が蘇る。


 母はいつも彼に本を読ませながら、表向きは「自分が学ぶため」という体裁を崩さなかった。王妃からの厳しい条件や嫌味を一身に受けながらも、決してリュートの知性を誇示することはなかった。


「……この国を支配しているのは、客観的な実力ではなく、王族の『品位』という絶対のルール。……もし、あなたのその異常なまでの知性と論理的思考力が表に出れば、どうなっていたか」

 ルナリアは痛む胸を押さえながら、一つ一つの言葉をリュートの心に刻み込むように紡ぐ。


「あなたは必ず、第一王子のグラクト殿下と比較される。……そして、王家が最も重んじる『第一王子の絶対的な品位』を脅かす致命的な存在として……あなたは間違いなく、王妃や第一側妃の派閥から、暗殺か幽閉という形で『排除』の対象にされていたわ」

 リュートはギリッと奥歯を噛み締めた。


 彼の優れた分析力は、「自分がどうすれば勝てるか」という盤面の計算には長けていた。だが、ルナリアはもっと恐ろしい現実を見ていたのだ。


「優秀であること」それ自体が、この狂った人治国家においては最大の罪になるということを。


「私は……あなたを守るために、あなたのその冷徹で鋭すぎる刃(優秀さ)を、必死に隠してきたの。……あなたが、その理屈の刃で、自分自身や……大切な誰かを切り裂いてしまわないように」

 瀕死の母の瞳が、血の涙を流す修羅と化した我が子を、悲痛な思いで見つめていた。


 リュートは言葉を失う。自分が安全な場所から盤面を操作できていると驕っていたその裏で、母は己の誇りを捨て、滑稽な側妃を演じてまで、彼という「規格外の天才」を王宮の悪意から隠蔽し、命懸けで守り抜いてくれていたのだ。


「あなたは……論理で世界を切り分けることには長けている。……でもね、リュート」

 ルナリアは、力のない手をゆっくりと伸ばし、冷たく強張ったリュートの腕に触れた。


「理屈だけで人を切り捨てる刃は……いつか必ず、あなた自身を孤独という地獄で殺すことになるわ」




3 真なる優秀さと、寛容の教え


 優秀であること自体が、この国では致命的なリスクになる。その事実から自分を命懸けで遠ざけてくれていた母の手は、失血によりますます冷たくなっていた。


 だが、その冷たい手がリュートの腕を掴む力には、死の淵にある者とは思えないほどの、魂を震わせるような強い熱が宿っていた。


「……リュート。あなたは私の祖国である帝国の『実力主義』を、単なる弱肉強食だと、力と理屈で弱者を淘汰するだけの思想だと勘違いしていませんか?」


「……え……」

「もし本当にそうなら、帝国はとうの昔に内側から自滅しているわ。力で他者をねじ伏せ、己の計算に合わない者を理屈で切り捨てるだけの者は、いずれ必ず最も近しい者の裏切りに遭って背中から刺される。……人間は、盤上の無機質な駒ではないのだから」

 ルナリアの漆黒の瞳が、法曹としての完璧な論理の鎧を纏ったリュートを真っ向から射抜く。


「優秀さとは、単に知識や知恵が優れていることだけを指すのではありません。他者の痛みを知り、怯える心に理解を示し、寄り添う『寛容さ』を持てること。……それこそが、過酷な世界を生き抜くための、真の実力(強さ)ではないですか?」


「――っ」

 寛容。

 その言葉が、リュートの胸の奥底に鋭く突き刺さる。


 すべてを損得とリスク計算で切り分ける修羅の道を選んだ彼にとって、それは最も不要で、最も遠ざけようとしていた不確定要素だった。しかし、帝国という過酷な生存競争を生き抜いてきた母は、それこそが真の強者の条件であると断言したのだ。


「あなたはかつて、幼いリーゼに『相手の感情を読み、立ち回れ』と教えたはずです」

 ルナリアの静かで厳しい声が、リュートの脳髄を揺さぶる。


「……それなのに、今のあなたはどうですか。凄惨な血の海を見せられ、実の家族が黒幕であるという絶望を突きつけられ、怯え、迷っている少女の感情に寄り添うこともせず……『リスクだから』という自分の理屈だけで、あの子を冷酷に切り捨ててしまった」

 リュートはハッと息を呑み、言葉を失った。


 彼がリーゼロッテに迫った極限の二者択一。あれは、彼女のキャパシティを完全に無視した、実務家としての暴力的な踏み絵に過ぎなかった。


 彼女の迷いは、実の家族を手にかけることへの人間として当然の倫理的な恐怖であり、同時に、ルナリアたちを深く愛しているからこその絶望的な葛藤だったはずだ。それを「覚悟の欠如」と断じ、不要な駒として扉の外へ放り出した。

 相手の感情を読めと教えた本人が、相手の感情を最も蹂躙していたのだ。


「自分の計算通りに動かない者を切り捨てるのは、冷徹なのではありません。ただ傷つくことを恐れているだけの、傲慢な逃避よ。……あなたは、あの子の魂の強さを信じられなかった」

「……僕は……」


「リュート。……リーゼは、あなたの妹ではないのですか?」

 その一言が、リュートが纏っていた「理屈」という名の冷たい鎧を完全に粉砕した。


 血統や立場など関係ない。離宮という小さな世界で、共に机を並べ、共に王宮の欺瞞を暴き、時には無邪気に笑い合った。彼女は紛れもなく、彼が守るべき家族であり、手塩にかけて育てた妹だったはずだ。


 自分がこの王宮の構造を解き明かす「観察者」から、盤面を支配する「為政者」へと変貌しようとするあまり、最も大切なはずの『心』を自ら殺そうとしていた事実。


 完璧な論理を構築したと信じていた己の浅薄さが、母の深い愛情と真の実力主義の前に、無惨に崩れ去っていく。

 ルナリアは、呆然と立ち尽くすリュートの頰に、力の入らない冷たい指先をそっと添えた。


「優秀すぎるあなたの知性は、時として、あなた自身をひどく冷たい場所へ孤立させてしまう。……だからこそ、あの子が必要なのよ。あなたのその冷たい論理に、血を通わせるために」

 それは、死にゆく母が、修羅道に堕ちようとする息子へ遺した、最初で最後の、最も厳しくも温かい人生の教訓であった。




4 修羅の涙と反省(救われていた過去)


「……リーゼは、あなたの妹ではないのですか?」

 ルナリアのその静かで悲痛な問いかけが、リュートが全身に纏っていた『冷徹な理屈』という名の鎧を完全に打ち砕いた。


 呼吸が止まり、視界がぐらりと揺れる。

 自分の計算通りに動かない者を切り捨てるのは、傷つくことを恐れているだけの傲慢な逃避。母の指摘は、法曹を気取り、盤面を支配していると錯覚していたリュートの急所を、これ以上ないほど残酷に、そして正確に貫いていた。


『……僕は、何てことを……』

 リュートの脳裏に、これまでの離宮での日々が濁流のように逆流する。

 自分は前世の知識を持ち、彼女に政治の裏側と論理を教え、出来損ない扱いされていた彼女を「庇護してやっている」つもりでいた。不確定なリスクから彼女を遠ざけ、自分が影で盤面を操作しているのだと、思い上がっていた。


 だが、現実はどうだったか。

 例えば以前、西の公爵令嬢ヴィオラが理不尽な王家の婚約に巻き込まれそうになった時。盤面を読み違え、完全に後手に回ってしまった自分に代わって、本宮の「お茶会」という実力行使の場へ自ら飛び込んでいったのは誰だったか。


 自分が教えた「品位という規範」を武器として完璧に使いこなし、本宮の古狸たちの目を誤魔化しながら、ヴィオラに生き残る道を示したのは、他でもないリーゼロッテだった。


 自分が立ち入れない本宮の奥深くで、彼女は「無害な王女」の仮面を被り、常にリュートたちのカモフラージュとして機能してくれていた。彼女が本宮の視線を一身に集め、油断を誘ってくれていたからこそ、リュートは安全な影の中から盤面を動かすことができていたのだ。


 政治的な実利だけではない。

 どれほど王宮の毒を暴き、人間の醜さを解剖して心がすり減っても、離宮へ帰れば彼女が「お兄様」と無邪気に笑いかけてくれた。その温もりがあったからこそ、リュートは前世から持ち越した冷酷な法曹の論理に魂を食い殺されず、「人間」としての正気を保ち続けることができていた。


『……救われていたのは……僕の方じゃないか』

 最初から、ずっと彼女に助けられていた。彼女がいなければ、自分はとうの昔に、ただ理屈で他人を切り刻むだけの血の通わない怪物に成り果てていたはずだ。


 それなのに。母が凄惨な拷問にかけられ、その命が今まさに失われようとしているという、巨大すぎる喪失の恐怖から逃げるために。自分は実務家としての冷徹さを装い、最も愛すべき妹の心に寄り添うことすら放棄して、一方的な理屈で彼女を暗い廊下へ突き飛ばした。


 自分の狭量さと、取り返しのつかない過ちに気づいた瞬間。

 リュートの両膝が、力なく石床に崩れ落ちた。


「……あ……ぅ……」

 喉の奥から、彼自身のものとは思えない、ひどく掠れた、子供のような嗚咽が漏れた。

 リュートは、ベッドに横たわるルナリアの冷たい手を両手で包み込み、自らの額に強く押し当てた。


 どれほど完璧な法学の知識を振りかざしても、盤面を支配する理屈を並べ立てても、己の心の弱さから逃げることはできない。その事実を突きつけられ、修羅の仮面が剝がれ落ちた少年の赤い瞳から、大粒の涙がボロボロと溢れ出し、ルナリアのシーツを黒く濡らしていく。


「……僕が……間違っていました……っ」

 それは、為政者としての冷徹な宣告でもなく、法曹としての弁明でもない。

 ただ母の愛を失うことに怯え、妹を傷つけてしまった己の愚かさを悔いる、十三歳の子供の、心からの謝罪だった。


「母上……ごめんなさい……僕が、間違って……っ」

 しゃくり上げながら、母の手を握り締めて泣き崩れるリュート。


 ルナリアは、そんな息子のつむじに、愛おしそうに、赦しを与えるように、そっと自らの頰をすり寄せた。




5 駆けつける白銀


 静寂を取り戻しかけていた離宮の石造りの廊下の奥から、慌ただしく床を蹴る複数の足音が響いてきた。


「――っ」

 その音に弾かれたように、リュートはルナリアのシーツに沈めていた顔を跳ね上げた。

 近づいてくるのはルリカと、そして間違いなくリーゼロッテの足音だ。


 リュートは反射的に、自身の最高級の衣服の袖で、乱暴に両目の周辺を擦った。どれほど己の狭量さを恥じ、母の言葉に打ちのめされたとしても、妹の前で「感情を制御できずに泣きじゃくる無様な兄」の姿を晒すわけにはいかない。


 自分は、彼女を導き、盤面を支配する冷徹な指導者(為政者)でなければならない。そして何より、彼女が安心して背中を預けられる『強くて頼れる兄』でなければならないのだ。


 ギリッと奥歯を噛み締め、必死に涙腺を引き締めようとする。震える呼吸を無理やり腹の底へと押し込み、ひどく赤く腫れ上がった目元をごまかすように、もう一度、冷徹な理屈の鎧を急造で纏い直そうとした。


 バンッ――!

 その無駄な抵抗をへし折るように、重厚な扉が勢いよく開け放たれた。

 息を乱したルリカに先導され、寝室に飛び込んできたのは、プラチナブロンドの髪を乱し、華やかなドレスの裾を少し汚したリーゼロッテだった。


 走ってきたせいで肩で息をしている。だが、リュートがハッとして息を呑んだのは、彼女のその『表情』だった。

 先ほど冷たい廊下へ突き飛ばした時の、絶望と恐怖に顔を歪めていた怯える小鳥は、そこにはいなかった。


 金色の瞳には、実の母と兄を「盤上の敵」と認定し、己の意志で家族ルナリアたちを選ぶという、揺るぎない覚悟と理知の炎がはっきりと宿っていた。


「……リーゼ。僕は……」

 無理に取り繕った冷たい声で、リュートは先ほどの追放を取り消すための、何か尤もらしい『理屈』を並べようとした。


 だが、真っ直ぐに自分を見つめてくる妹の透き通るような瞳を前に、頭の中で組み立てた弁明は、音を立てて崩れ去った。


 彼女には、すべて見透かされていた。リュートの強張った表情も、赤く腫れた目元も、不自然に震える声も。冷徹な修羅を気取っていた兄が、本当は母を失うことに誰よりも怯え、ただ必死に虚勢を張っているだけの脆い子供に過ぎないということを。


「……お兄様」

 リーゼは何も問わなかった。リュートの理不尽な追放を責めることもなく、彼が無理に作った冷酷な仮面を剝がすこともなかった。


 ただ、静かに、しかし迷いのない足取りで血塗れの石床を踏み越え、リュートのすぐ隣へと歩み寄る。

 そして、己のドレスが血で汚れることも一切厭わず、彼の隣に力強く跪いた。その後ろには、静かに付き従うルリカが控えている。


 ただ庇護されるだけだった妹が、対等な共犯者として、共に修羅の道を歩む決意をもって隣に並び立った瞬間だった。

 自らを追い出そうとした兄の弱さを許容し、その背中を支えるために戻ってきた妹の姿。それこそが、ルナリアが説いた「相手の心に寄り添う寛容さ」の何よりの証明であった。


 落日の赤い光が完全に薄れ、夜の濃い群青が窓の外を支配し始める。

 死の淵にある母を囲み、一度はすれ違い、壊れかけた家族が、かつてないほど強靭な絆で再び一つに結びついていた。


「……みんな。よく、戻ってきてくれたわ……」

 かすれた、けれどどこまでも優しい声が響く。


 ベッドに横たわるルナリアの顔には、凄惨な拷問の痛みなど微塵も感じさせない、この世のすべての罪を許すような、神々しいまでの慈愛の微笑みが浮かんでいた。


 息を呑む三人を前に、死に行く聖母は、最期にして最大の「祈り」を紡ぎ出そうとしていた。

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