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リーガル・レジスタンス 〜法治国家を目指して〜  作者: ムササビ-モマ
第3章『秩序の崩壊』
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第10話 『静かなる宣戦布告』

第10話『静かなる宣戦布告』

1 現行犯と、ルリカの圧倒的蹂躙


 王都の冷たい夜の闇を切り裂き、泥と馬の血にまみれた第二王子リュートが、狂ったような強行軍の果てに離宮の正門へと辿り着いた。ほぼ同時刻、本宮での異常を察知し、一切の体裁を投げ打って全速力で駆けつけたルリカも合流する。


 だが、二人の目に飛び込んできたのは、静寂に包まれた安息の地ではなく、むせ返るような血の匂いと凄惨な蹂躙の跡であった。


「……っ!」

 離宮の門前から庭園にかけて、カイルが外周防衛として残していった警備隊員たちが、一人残らず血だまりの中に倒れ伏していた。


 ルリカが瞬時に駆け寄り、血まみれで倒れている副長の首筋に指を当てる。……息はある。致命傷は避けられているが、圧倒的な「武」による暴力で、完膚なきまでに骨を砕かれ叩き伏せられていた。


 彼ら平民上がりの警備隊員にとって、本宮の権力者の威光を笠に着たゼノビア公爵家の次期当主であるセオリスに剣を抜くことは、法的な反逆であり、文字通り首が飛ぶことを意味する。セオリスが「第一王子の品位のため」という正論を叫びながら強行突破を図った時点で、彼らには法的に止める権限などなかった。普通ならば、恐怖に屈して道を開けるのが王宮の常識である。


 だが、彼らは誰一人として逃げなかった。

 彼らは、外周警備の任に就きながらずっと見ていたのだ。権力と損得勘定だけが支配するこの狂った王宮において、忌み子と蔑まれる第二王子と異国の側妃が、どれほど理不尽な目に遭おうとも互いを庇い合い、懸命に生き抜こうとするその姿を。そして、本宮の貴族からは「使い捨ての防波堤」としか見られていない自分たちを、彼らだけは血の通った人間として扱ってくれたという事実を。


 カイル隊長が「命に代えても守れ」と命じたその主君たちを、理不尽な暴力から守るため。彼らは己の命と法的な立場を投げ打ってでも、セオリスの前に肉の壁となって立ちはだかったのである。


「……よく、耐えてくれた」

 血を流して倒れる忠義の部下たちを一瞥し、リュートの赤い瞳から、人間としての感情が完全に抜け落ちた。


 ルリカもまた、無言のまま逆刃の短剣を抜き放ち、その灰色の瞳の奥で殺意の純度を極限まで高める。


 この十三年間、理不尽な盤面で生き残るためにリュートが自らに課してきた冷徹な生存戦略も、王宮のルールという名の鎖も、すべてが焼き切れた。彼らの裡で、ギリギリの理性を繋ぎ止めていた最後の糸が完全に断ち切られた。

 二人は血の足跡が続く廊下を、足音すら立てずに真っ直ぐに奥へと進む。


 そして――。

 狂信の騎士セオリスが、満身創痍のルナリアの首を刎ね落とすべく、致命の長剣を振り下ろそうとしたその刹那。


 ――ドゴォォォォンッ!!

 堅牢なオーク材の二枚扉が、凄まじい衝撃とともに蝶番ごと吹き飛び、血の海となったサロンの床に激突した。

 土埃が舞う中、そこに立っていたのは、極限の怒りに染まった二つの影。


 彼らの目に飛び込んできたのは、無残に散らばった無数の空き瓶と、切り落とされた艶やかな漆黒の髪。そして、爪を剥がされ、肉体を切り刻まれ、原型をとどめないほどボロボロにされながらも、決して加害者に屈することなく、気高き微笑みを浮かべて壁にもたれかかる、最愛の母の姿であった。


「……母、上……?」

 リュートの口から、信じられないものを見るような声が漏れる。


「き、貴様ら……なぜここにッ! 邪魔をするな!」

 突然の乱入者に一瞬驚愕したセオリスだったが、すぐに自らの狂信を盾にして声を荒らげた。


「退け、リュート殿下! これは第一王子グラクト様の品位を守るための、正当な教育であって――」

 その、見え透いた戯言が最後まで紡がれることはなかった。


「――っ」

 ルリカの姿が、かき消えた。

 帝国特有の暗殺と護衛を極めた戦闘術、『瞬動』。

 実戦のプロフェッショナルである彼女は、怒りに任せて剣を振り回すような素人臭い真似は一切しない。極めて冷徹に、的確に、最速で――相手の戦闘能力を剝奪する。


 ――シュガッ!!

 銀の閃光が一閃する。


「あ、ぎッ!?」

 セオリスの右腕から、鮮血が噴き出した。ルリカの手にした逆刃の短剣が、長剣を握っていた狂犬の手首の腱を、寸分の狂いもなく斬り裂いたのだ。指の自由を完全に奪われ、カラン、と長剣が床に落ちる。


 だが、ルリカの蹂躙はそれだけでは終わらない。

 無防備になったセオリスの懐に滑り込むと同時に、彼女はその硬い軍靴の踵を、セオリスの右膝の裏側に向かって、自らの全体重と殺意を乗せて横薙ぎに叩き込んだ。


 ――メキョォッ!!

 骨と軟骨が完全に粉砕される嫌な音が、サロンに響き渡る。


「アァァァァァァァッ!!?」

 人間が耐えうる限界を超えた激痛に、ゼノビア家の最高傑作と謳われた男が、無様な悲鳴を上げて自らが作った血の海へと這いつくばった。


「…………」

 ルリカは、一切の言葉を発しない。

 床で芋虫のようにのたうち回る男を見下ろす彼女の瞳からは光が完全に消え失せ、底なしの暗黒のような無機質な殺意だけが渦巻いていた。


 品位だの、正義だの、知ったことか。ただ、最愛の主君の尊厳を土足で踏みにじり、温かな日常を破壊したこのゴミを、一秒でも早くこの世から消し去る。


 ルリカは無表情のまま血塗れの刃を逆手に握り直し、床に這うセオリスの首を完全に刎ね飛ばすべく、その凶刃を静かに、そして無慈悲に振り上げた。




2 近衛騎士団の乱入と、一触即発の膠着


 ――アァァァァァァァッ!!

 静寂に包まれていた夜の王宮に、人間が発する限界を超えた絶叫が響き渡った。

 それは、堅牢なオーク材の扉が吹き飛ばされた爆音に続いて、離宮の方角から木霊したものであった。


 王宮の外周や本宮の連絡通路を巡回していた近衛騎士団の間に、一瞬の緊張が走る。中でも、北の武門「ゼノビア公爵家」の息がかかった派閥の騎士たちの顔色は、一様に土気色へと変わっていた。


「……今のは、セオリス様の声ではないか!?」

「馬鹿な。ゼノビア家の最高傑作であるあのお方が、悲鳴を上げるなど……」


「だが、あのお方は第一王子殿下の命を受け、一人で離宮へ向かわれたはずだ。急げ!!」

 次期当主の身に万が一のことがあれば、ゼノビア派閥に属する自分たちの王宮における地位も根底から覆りかねない。


 数十名の近衛騎士たちは血相を変え、松明を掲げながら、重い甲冑の足音を響かせて暗闇の庭園を駆け抜けた。彼らは、外周で血の海に倒れ伏している離宮の警備隊員たちを足蹴にしながら、崩れ落ちたサロンの入り口へと雪崩れ込んだ。


 しかし、彼らがそこで目にしたのは、想定し得るいかなる悪夢よりも凄惨で、理解を絶する光景であった。


「……な、なんだ、これは……」

 むせ返るような鉄錆の匂いが充満するサロン。

 壁際では、第二側妃ルナリアが全身を切り刻まれ、血だまりの中に崩れ落ちている。


 そして、部屋の中央。王宮最強の武力を誇るはずの次期当主セオリスが、右腕の腱と右膝の関節を完全に粉砕され、己の流した血の海で無様に這いつくばっていた。


 その傍らには、泥にまみれた第二王子リュートと、逆手に握った凶刃から血を滴らせ、セオリスの首を刎ね落とそうと見下ろす灰髪のメイド――ルリカの姿があった。


「き、貴様ァ! セオリス様に何をしている!! 剣を捨てろッ!!」

 近衛の小隊長が怒号を上げ、三十名近い騎士たちが一斉に抜刀する。


 チャキッ、と無数の鋼が抜かれる冷たい音がサロンに響き、彼らはルリカとリュートを完全に包囲した。多勢に無勢。常識で考えれば、武装した騎士団に囲まれた時点でメイド一人の命など塵芥に等しい。


 だが、ルリカは振り上げた短剣を下ろすどころか、その灰色の瞳からさらに深く光を消し去った。


「……退きなさい、王宮の犬共」

 地獄の底から響くような、極限の殺気を孕んだ声。


「退かないというのなら……お前たち全員を肉片に変えてでも、このゴミの首は私が獲る」

 三十本の剣先を突きつけられながらも、ルリカは一歩も引かなかった。彼女の全身から立ち昇る絶対的な殺気は、実戦を経験したことのない王宮の飾り物の騎士たちを、本能的な恐怖で萎縮させるのに十分であった。


 一方、その凄惨な盤面の中央に立つリュートの視界は、どす黒い赤に染まり切っていた。

 前世から培ってきた法曹としての冷徹な計算。王家を縛るための法整備。そんな未来の理想など、もはやどうでもよかった。


 目の前で母をボロボロにした狂犬と、それを大義名分を盾に庇おうとする王宮のシステムそのものが、どうしようもなく醜悪で、許しがたい悪にしか見えなかった。


『……殺す。こいつら全員、ここで……僕が、八つ裂きにしてやる……!』

 リュートの身体の奥底で、かつてないほどの巨大で暴力的な力が渦を巻き始める。


 己の命の危険など微塵も感じていない修羅と化した主従と、派閥の利益を守るために武器を構える騎士団。互いの殺意と敵意が極限まで膨れ上がり、サロンの空気は今にも火花が散りそうなほどに張り詰めていた。


 誰かが一歩を踏み出せば、その瞬間に血みどろの斬り合いが始まる。誰もがそう確信した、一触即発の膠着状態。


 その臨界点に達した瞬間、リュートの中で限界を超えて圧縮された「怒り」が、理の枠を完全に突き破り、王国史上誰も見たことのない『暴威』となって顕現しようとしていた。




3 魔力の暴発と、絶対的支配


「……殺す」

 リュートの裡で限界まで圧縮された怒りと殺意が、ついに臨界点を突破した。

 それは、熱を伴う炎でも、鋭い風でもなかった。ただ純粋に、物理的な質量を持った『死の気配(高密度の魔力)』の奔流。


 黒い泥のように重く、息が詰まるほどの魔力が、リュートの身体から爆発的な衝撃波となって全方位へと叩きつけられた。


 ――ドゴォォォォォッ!!

 傍らにあった分厚い大理石のテーブルが、見えない巨大な鉄槌で殴りつけられたかのように、木端微塵に粉砕される。


 凄まじい爆音と衝撃波がサロンの空気を震わせ、ルリカを取り囲んでいた三十名の近衛騎士たちを、まるで紙切れのように吹き飛ばし、後退させた。


「な……っ!?」

「ひぃッ……!」

 粉塵が舞い散る中、爆音の後に訪れたのは、水を打ったような完全な『死の静寂』であった。


 そして、この凄まじい魔力の暴発こそが、リュートを吞み込んでいた赤黒い視界を強制的に晴らすこととなった。


『……僕は何を血迷っている。今、最優先すべきことは何だ』

 限界を超えて膨れ上がった殺意という名の毒を、莫大な魔力として体外へ排出したことで、彼の裡でショートしていた「法曹としての冷徹な思考回路」が急速に再起動する。


 ここで怒りに任せて近衛騎士たちを皆殺しにして、溜飲を下げることか? 違う。それは単なる獣の暴力だ。今この瞬間にただ一つ優先すべき絶対事項は、血の海に沈む最愛の母の『命を繋ぐこと』以外にあり得ない。


 少年の肉体から放たれたとは到底信じがたい異常な魔力量と、空間そのものを制圧する冷酷な重圧の前に、その場にいた全員が息を呑んで硬直していた。騎士たちも、這いつくばるセオリスも、そして極限の殺意に吞まれていたルリカでさえも。


 誰もが身動き一つ取れない、ひび割れた氷のような静寂。

 その中心で、完全に冷静さを取り戻したリュートは、一切の感情を排した絶対的な支配者としての冷徹な命令口調で言い放った。


「ルリカ。剣を収めろ」

「……ッ!?」

 セオリスの首を刎ねる寸前だったルリカが、信じられないものを見るように主君を振り返る。


「直ちに母上の止血と手当てを行え。一秒でも早く、母上をこの血の海から救い出せ。……優先順位を間違えるな」

「……っ、は、はいッ!」

 主の圧倒的な威圧と、あまりにも正しく冷徹な言葉に、ルリカは我に返った。彼女は即座に血塗れの短剣を鞘に納めると、満身創痍で壁際にもたれかかるルナリアの元へと駆け寄る。


 そしてリュートは、氷のように冷たい、血の色の瞳を、周囲で硬直している近衛騎士たちへと向けた。


「お前たちは、そのゴミを連れて今は帰れ」

 その声に、声を荒らげるような熱はない。ただ「次に剣を抜けば、空間ごと捻り潰す」という揺るぎない事実だけが、確かな死の重さを持って彼らの喉元に突きつけられていた。


「…………ッ!!」

 本能的な恐怖に完全に支配され、戦意の欠片すら残っていない騎士たちに、その絶対的な命令に逆らうことなどできるはずがなかった。権力者の威光を笠に着ていた彼らは、本物の『怪物』を前にしてガチガチと甲冑を鳴らして震え上がり、床で呻くセオリスの両脇を慌てて抱え上げる。そして、這々の体で、互いに押し合うようにして離宮から退去していった。


 逃げ去る足音が完全に遠ざかり、再び離宮に夜の静寂が降りる。

 怒りを暴走させたことで奇跡的に理性を繋ぎ止めたリュートの冷徹な判断により、無意味な斬り合いは回避され、ルナリアの命を救うための時間が確保されたのである。




4 法の限界認識と、事実の確定


 ルナリアが別室へ運ばれ、医師による決死の治療が続く中。

 事態がひと段落した深夜のサロンに、むせ返るような血の匂いが重く滞留していた。


 第二王子リュートは、破壊された室内の中央に立ち、前世で培った法曹としての冷徹な思考をフル稼働させていた。


 足元には、王家の宝物庫にしか存在しない最上級の回復ポーションの空き瓶が散乱している。これほど高価な魔法薬を、一介の近衛騎士が私物として大量に持ち歩けるはずがない。背後で第一側妃ヒルデガードが糸を引いていることは、火を見るよりも明らかであった。


 だが、リュートは怒りに吞まれることなく、即座に脳内で敵陣営からの反論をシミュレートする。


『……駄目だ。この薬品類だけでは、ヒルデガードを直接刺す証拠にはならない。「次期当主たる近衛騎士として、緊急時や暗殺対策のために特別に携帯を許可されていた」と強弁されれば、それを覆す客観的証明は不可能に近い。グラクトの不作為にしても、彼が現場に不在である以上、法的義務違反としての立証は通らない』


 推測や状況証拠だけで敵の本陣を突けば、王宮の老獪な詭弁と「品位」という名の隠れ蓑によって確実にかわされる。法曹としての限界認識。


 リュートは、不確かな「推測」を自らの武器から完全に切り捨てた。彼が手にする刃は、王家自身が絶対に反故にできない『品位』という規範と、誰の目にも明らかな『客観的事実』だけでなければならない。


「……殿下。外周警備に当たっていた者たちの処置が終わり、意識を取り戻しました」

 静寂の中、警備隊長のカイルが血と泥に塗れた姿でサロンに足を踏み入れた。東からの狂ったような強行軍を共に駆け抜けた彼は、倒れていた部下たちの惨状にギリッと奥歯を噛み締めながらも、実務者としての報告を上げる。


「証言を記録しろ、カイル。セオリスは『いつ』、『どのような手段』で離宮の門を突破した?」

「はっ。本日夕刻。セオリスは単独で正門に現れました。国王陛下や王妃様の正式な書状(令状)の提示は一切なく、制止しようとした警備隊員たちを純粋な腕力のみで叩き伏せ、強行突破したとのことです」


「見事だ。……彼らには、十分な恩賞と治療を約束すると伝えてくれ」

 リュートは冷酷に頷いた。これにより、セオリスがいかなる法的手続きも経ていない、完全なる『不当な侵入と暴力』であったという第一の事実が確定した。


 続いてリュートは、廊下の隅で青ざめ、ガタガタと震えている離宮の王国人侍女たちをサロンへと呼び入れた。普段は言われた仕事しかせず、異国の側妃や忌み子に対して冷淡な態度を崩さない彼女たちも、この血の海と、先ほどのリュートの底知れぬ魔力の暴発に完全に怯えきっていた。


「……お前たち。見たこと、聞いたことだけをありのままに答えろ」

 感情を完全に削ぎ落とした、尋問官としての冷徹な声。リュートは彼女たちの目を真っ直ぐに射抜き、一切の嘘を許さない圧力をかけた。


「あ、あの男は……セオリス様は、扉を蹴り破って、ルナリア様を……っ」

「誰の命だと言っていた? 暴力を振るいながら、何と叫んでいたか。一言一句違えずに証言しろ」


「ひっ……! い、言って、おられました……! 『これはグラクト様の命であり、グラクト様の品位を守るための、正当な教育である』と……何度も、狂ったように叫びながら……ルナリア様を……っ!」

 侍女の言葉に、リュートの赤い瞳の奥で、氷のような刃が鋭く閃いた。


『……これで十分だ』

 現場に残された凄惨な拷問の傷跡と破壊の痕跡。警備隊員による、令状なき強行突破の証言。


 そして、侍女たちによる「セオリスが『グラクトの品位のため』と公言しながら暴力を振るった現行犯である」という証言。


 リュートは、背後の黒幕ヒルデガード不作為グラクトへの糾弾を一旦すべて棚上げし、この『セオリスによる不当な暴力の現行犯』と『グラクトの品位のためという発言』という一点のみを、言い逃れのできない完全な事実として確定させた。

 推測を排し、事実のみを幾重にも積み上げる。


 それは、前世で幾多の罪人を追い詰めてきた法曹が、王宮という理不尽なシステムそのものを破壊するために組み上げた、冷徹で完璧な「断頭台」であった。




5 昏睡の母と、復讐の楔


 王宮の優秀な医師による必死の治療と、大量の魔法薬の投与により、ルナリアの無惨に切り裂かれた外傷は塞がり、辛くも一命を取り留めることはできた。


 しかし、魔法の回復ポーションは破壊された細胞や組織を強制的に結合させるだけであり、体外へ流出した血液までをも無から生み出す「万能の奇跡」ではない。


 終わりのない拷問によって致死量スレスレの血を流し尽くしていた彼女の身体は、極度の失血と、劇薬による強制治癒の凄まじい負荷に耐えきれず、深い昏睡状態に陥ったまま目を覚ます気配はなかった。


 静まり返った寝室。

 全身を分厚い包帯で巻かれ、艶やかだった黒髪を無惨に失った母が、血の気を失った蠟人形のように痛々しく横たわっている。


 リュートはベッドの傍らに座り、氷のように冷たくなった母の細い手を、両手でそっと握りしめた。


『……母上。貴女は、決して泣き叫ばなかったのですね』

 リュートには、痛いほどに分かっていた。


 これほどの激痛と陵辱を受けながら、彼女の表情には屈服や怯えの痕跡が微塵も残っていない。ルナリアは自らの血肉を対価にして、王宮の野蛮な暴力に対し、最後まで帝国の虎としての『気高い誇り』を守り抜いたのだ。


「……今はまだ、裏で糸を引く奴らを直接裁く根拠(証拠)はありません。ですが……」

 リュートの赤い瞳の奥で、法曹としての冷徹な光と、人間を辞めた『修羅』としての黒い殺意が完全に融合し、異常な熱を帯びて瞬いた。


「この『セオリスの暴走(現行犯)』と『グラクトの品位のためという発言』……絶対に動かせないこの客観的事実を楔にして、王家の喉元に深く突き立ててやります。奴らが最も重んじる『品位』というルールを使って、逃げ場のない盤面に引きずり込み、自らの陣営を食い破らせてやる」

 それは、己の生存圏を泥臭く広げていた「実践者」としてのリュートの、完全な脱皮を意味していた。


 もう、陰で道楽者を演じて立ち回るのは終わりだ。母の血で汚されたこの理不尽な世界を根底から書き換える「創設者」に至るため、彼は自ら修羅の道を歩む覚悟を決めた。


「もし、王家がこの事実から目を背け、不誠実な詭弁で逃げようとするのなら……」

 リュートは、東のオルディナ公爵領でアイリスと共に構築した「魔導船団」の存在を思い起こす。いつでも王都の物流の首根っこを押さえ、同時に海路からの脱出を可能にする物理的な手札。


「……その時は、お母様とルリカを連れて海を渡り、帝国へ向かいます。そして、帝国の武力と我々の経済網をもって、この王国を物理的にすり潰す。……手段は選びません。奴ら全員に、一人残らず社会的な死と地獄を与えてやる」

 怒りで思考を歪ませることなく、確定した事実を最強の武器として冷徹な包囲網を構築し、同時に最悪の場合の『武力による国家転覆』すら視野に入れた絶対的な決意。


 夜明けが近づく中。

 リュートは手にした血塗られた証言の束を握り締め、母の冷たい手にそっと口付けを落とした。


 すべては、旧秩序の絶対権力者である国王への、反論不可能な「強訴」を行うために。

 ――ここに、血と暴力によって王宮の均衡が完全に破壊され、静かに、そして重々しく幕を閉じる。


(第3章 完)

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