第3話 『異才の発芽』
1 「思考の芽」
私が六歳になった春。
離宮の庭に桜が咲き、風に花びらが舞っていた。
母は私を膝の上に乗せ、帝国から持ってきた古い絵本を開いていた。
タイトルは『白い雪の姫』――帝国由来の昔話で、王国でも広く知られている、白雪姫の物語だ。
母は優しい声で、ゆっくり読み聞かせた。
「継母の嫉妬で森に追放された姫は、小人たちの家に辿り着き、家事労働をしながら居場所を作ったわ。毎日掃除をし、食事を作り、小人たちを助けた。継母の毒リンゴで仮死状態になった姫を、小人たちは泣きながら棺に安置した。王子が森を通りかかり、小人たちの泣き声に気づいて棺を開け、姫を救い、結婚したの」
母が最後のページを閉じると、私は静かに口を開いた。
「お母様、この物語は……『耐えれば幸せが来る』という教訓ですよね。でも、それだけじゃないと思います」
「え?」
「姫は継母に追放されたあと、ただ耐えて隠れてたわけじゃない。小人たちの家に行って、自力で掃除して、食事を作って、小人たちを助けた。それがなかったら、小人たちは姫を匿わなかったかもしれない。小人たちが泣かなかったら、王子は気づかなかったかもしれない。つまり、姫の行動が、いろんなつながりを作って、王子を呼んだんです」
私は淡々と続けた。
「もし姫が小人たちの家で引きこもって何もしなかったら、こうはならなかった。この物語には、『耐えるだけじゃ足りない。自分で行動してつながりを作れ』という教訓も隠されているんじゃないですか? 耐えるだけでは救われない。行動して結果を出したから、救済が得られたんです」
母の手が止まった。
彼女は私の小さな顔をまじまじと見下ろした。
無理もない。六歳の子供が、誰もが知っている定番の昔話を「教訓」として論理的に分析し、行動と結果のつながりを指摘し、行動が結果を生むという合理性にまで結びつけているのだから。
「……リュート……あなた、どうしてそんなふうに考えられるの?」
私は無表情のまま、ページを指差した。
「物語の流れを見たら、いろんなことがつながったんです。姫が耐えてるだけじゃ終わらない。自力で小人たちを助けて、信頼を得て、棺に安置されて……泣き声が王子を呼んだ。だから、『行動』が『救い』を呼んだ。耐えるだけじゃ、救いは来ない」
母は息を飲んだ。
彼女は私を抱きしめ、髪を撫でながら震える声で言った。
「リュート……あなた、みんなが知ってる物語を、こんなに深く分析できるの? ただ覚えただけじゃなくて……つながりを自分で考えて、行動の意味まで……」
私は母の目を見た。
六歳の瞳の奥に、前世の記憶がよぎる。しかし、私は静かに答えた。
「読んだら、頭の中でいろんなことがつながった。だから、そう思う」
母は目を潤ませ、私の頰に手を当てた。
「リュート……『つながった』って言葉、よく使ってるわね。お母様は、もっと簡単な言葉で言うと……『原因』と『結果』って言うのよ。いろんなことがつながって、原因と結果を作ってるの。それを『因果関係』というの。あなたは、それに自分で気づいたのね」
私は小さく頷いた。
「因果関係……そうですね。姫の行動が原因で、王子が来る結果になった」
母の瞳がさらに揺れた。
彼女は私を強く抱きしめ、声を震わせた。
「リュート……本当に、すごいわ。お母様は、こんな子を見たことがない。誰もが知ってる物語の因果関係を自分で気づいて、行動の意味まで……あなたは、本当に特別な子ね」
彼女は私の額にキスをし、目を細めて優しく微笑んだ。
「すごいわね、リュート。お母様は、びっくりしたわ」
母は私を胸に抱きしめ、髪を優しく撫で続けた。
いつもと同じように、ゆっくりと、温かく。
そして、耳元で囁いた。
「あなたは、私の宝物よ」
私は母の胸に顔を埋めた。
胸の奥の冷たい霧が、また少しだけ、薄くなった気がした。
――母は、変わらない。
私の異才に気づいても、扱いを変えない。ただ、無条件の愛を与え続ける。
……母は、私を必要としてくれている。
ルリカが庭の隅から見守り、そっと微笑んだ。
「リュート様……本当にすごいです。私、びっくりしました」
母は私を抱いたまま、ルリカに手を伸ばした。
「ルリカも、一緒に来て。あなたは、私の宝物よ」
私たちは桜の下で、手を繋いだ。
花びらが、静かに舞い落ちた。
母は私の異才に気づいた。転生などとは思ってもみないだろう。ただ、「信じられないほど思考が深い子」として受け止めたはずだ。
それでも、彼女の対応は何も変わらなかった。
毎日のように抱きしめ、髪を撫で、「あなたは私のすべてよ」と囁き続けた。
私は、心の中で思う。
――この愛は、本物だ。
離宮の春は、静かに過ぎていった。
2 「両方の常識」
私は離宮の書斎で、一人で座っていた。
窓から差し込む春の光が、机の上を照らす。
母が教えてくれた帝国式の文字の練習帳を広げながら、私は心の中で整理していた。
この世界で生きていくには、この国の「当たり前」を知らなければならない。
社会通念――常識・価値観・当たり前――がすべてを決める。
母とルリカは帝国出身だ。彼女たちの常識は、実力主義、努力の結果で価値が決まること、血統より個人の選択が重要だということ。
対して王国は正反対らしい。母の態度や侍女たちの会話から推測するに、金髪金眼が「天の徴」であり、「光」であることが絶対で、「影」は支える役割で、主役にはなれないようだ。「品位」を守るため、下位の者が上位を非難できない絶対的な階級社会でもある。
でも、それは断片的な情報でしかない。本当のところは、まだわからない。
母は帝国の常識を大切にしている。彼女は「血統で価値が決まるなんて、おかしい」と思っている。だからこそ、私に「あなたが私の光よ」と言い続ける。それは紛れもない愛情だが、同時に「王国の常識を否定」していることにもなる。
私はそれが嬉しい一方で、強い危機感も覚えていた。
――王国の常識を正確に知らなければ、この国で生きていくのが難しくなる。
この離宮は平穏だが、王宮の序列は変わらない。いつか、宮廷に呼ばれる日が来るかもしれない。王家で何らかの役職を得たり、代官として郊外に赴任することになるかもしれない。
そのとき、王国の「当たり前」を知らなければ、対応できない。母やルリカに迷惑をかけるかもしれない。
母とルリカと、この離宮で、ずっと笑っていられるように……今のうちに知っておきたい。
私は母に、初めて「お願い」をした。
夕食後、母が私を抱きしめているときだった。
私は母の胸に顔を埋めながら、静かに言った。
「お母様……お願いがあるんです」
母は驚いて私を見下ろした。私が「おねがい」という言葉を使うのは、これが初めてだった。
「リュート……どうしたの? 何でも言ってごらんなさい」
私は母の目を見た。六歳の瞳は、冷静で、少しだけ不安げだった。
「王宮の書庫を使いたいんです。王国の本を読みたい。法とか、慣習とか……この国の『当たり前』を、ちゃんと知りたい」
母の表情が固まった。彼女は私を抱きしめる腕に力を込めた。
「……どうして? お母様が教えてあげるわ。帝国の知識も、王国の知識も……」
私は首を振った。
「お母様の知識は、帝国のものが多い。この国は違う。一方だけを知っていると、柔軟性を失う結果になる。帝国の考え方も、王国の考え方も、両方を知らないと……この国で生きていくのが難しくなる」
母の瞳が揺れた。彼女は私の頰に手を当て、静かに聞いた。
「生きていく……? どういうこと?」
私は母の胸に顔を埋めた。小さな声で、しかしはっきりと言った。
「お母様と、ルリカと、この離宮で平穏に過ごすために。いつか宮廷に呼ばれたり、役職を命じられたりする日が来るかもしれない。そのとき、知らないままだと……お母様やルリカに迷惑をかけるかもしれない。お母様とルリカと、この離宮で、ずっと笑っていられるように……この国の『当たり前』を、ちゃんと知っておきたいんです」
母の目から、涙がこぼれた。彼女は私を強く抱きしめ、髪を撫でた。
「……リュート……ありがとう。お母様、わかったわ。王宮の書庫を使えるように、お願いしてみる」
母は少し考えて、私の目を見て言った。
「でも、リュート。約束してほしいの。書庫で知ったこと、思ったことを、必ずお母様に報告してね。そして、一緒に話し合おう。お母様と討論するのよ。それが条件」
私は母の目を見返し、静かに頷いた。
「……約束します。お母様」
母は私の額にキスをし、微笑んだ。その笑みは、優しくて、少し悲しげだったが、すぐに温かくなった。
「もちろん、一緒よね」
母は私の頰を両手で包み、目を合わせて笑った。
「リュートが知りたいなら、お母様も一緒に知りたいわ。三人で、ずっと笑っていられるように……約束よ」
私は母の胸の中で、頷いた。
――知らなければならない。知った上で、この生活を続けていく。
ルリカが部屋の隅から見守り、そっと微笑んだ。
「リュート様……私も、一緒に行きたいです」
私はルリカを見上げ、静かに頷いた。
離宮の夜は、静かに過ぎていった。
私が初めて母にした「お願い」。それは、この国で生きていくための第一歩だった。
3 「ルナリア出陣」
離宮の朝は、いつもより少し重かった。
朝食の後、侍従が王宮からの書状を携えてやってきた。
封蝋にはローゼンタリア王家の紋章が押され、厚手の羊皮紙がわずかに震えている。
ルナリアは書状を開き、静かに読み下ろした。
参内命令。宛名は第二側妃ルナリア・ネイア・ローゼンタリア。内容は簡潔だった。
『王宮書庫使用の嘆願を聞き入れるため、即刻参内せよ』
ルナリアは書状を畳み、リュートの方を見た。
六歳の息子は、窓辺で古い絵本を広げていたが、母の視線に気づいて顔を上げた。
「お母様……王宮からですか?」
ルナリアは優しく微笑み、リュートの頭を撫でた。
「ええ。書庫の使用権をお願いしてくるわ。リュートが知りたいと言ってくれたこと、ちゃんと叶えてあげるからね」
リュートは小さく頷いたが、瞳の奥にわずかな不安がよぎった。
「ルリカに預けて、一人で行くの?」
「そうよ。今日はお母様だけで大丈夫。ルリカと一緒に、いい子でお留守番しててね」
ルリカがそっとリュートの肩に手を置いた。七歳からルナリアに仕える少女は、今や十三歳。静かだが、確かな忠誠を湛えた瞳でルナリアを見上げた。
「ルナリア様、お気をつけて……」
ルナリアはルリカの頰に軽く触れ、リュートを抱き寄せて額にキスをした。
「すぐ帰ってくるわ。約束よ」
馬車が離宮の門を出るまで、リュートは窓から母の背中を見送っていた。
◇
王宮の謁見の間は、冷たく広かった。
金色の柱が立ち並び、天井から吊るされたシャンデリアが燭台の炎を映して揺れる。しかし、側妃には椅子が与えられない。ルナリアは中央に立ち、背筋を伸ばしたまま待った。
やがて、扉が開き、王妃マルガレーテ・エルザ・ローゼンタリアが入室した。その後ろに、国王ゼノン・アウバ・ローゼンタリアが続いた。
王妃は玉座に腰を下ろし、国王は傍らの椅子に座った。
「第二側妃ルナリア。書庫使用の嘆願を聞き入れるために参内させた」
王妃の声は、氷のように澄んでいた。
ルナリアは深く頭を下げた。
「王妃陛下、国王陛下。お時間をいただき、恐縮に存じます。このローゼンタリア王国で生きていくために、王国の歴史と常識を深く学びたいと存じます。離宮に籠もる身ゆえ、知識に乏しく、不安がございます。どうか、王宮書庫の使用をお許しください」
王妃の瞳が細められた。
「側妃が書庫を望む理由が、よく分からないわ。なぜ今なのか。子どものためなら、離宮で教えることもできるはずでしょう?」
ルナリアは目を伏せ、静かに答えた。
「離宮で教えられる範囲は限られております。帝国から参った私には、王国の古い慣習や法の細部が不足しております。この国で、母として、側妃として、きちんと生きていくために……どうか、お許しください」
王妃は指を軽く叩きながら、追及を続けた。
「子ども……リュート王子のため、ということ?」
ルナリアは曖昧に微笑んだ。リュートの異才を、決して口にしない。
「王子はまだ幼く、王家の血を引く者として、母である私がきちんと知っておくべきことが多いと存じます。王家の安泰のためにも……」
王妃はしばらく沈黙した後、口を開いた。
「許可はしましょう。ただし、条件を付けます。書物の持ち出しは一切禁止。使用は一日に二時間まで。毎月、読んだ書物と内容の報告書を提出。問題が発生した場合、即座に使用権を剥奪します」
ルナリアは内心で焦りを覚えた。「一日に二時間」では短すぎる。法や歴史の書物を読み解くには、一度にまとまった時間が必要だった。
ルナリアは恭しく頭を下げたまま、口を開いた。
「持ち出し禁止は、承知いたしました。ただ……一日に二時間では、歴史や法を深く読み解く前に時間が来てしまいます。王子を立派に育て上げるためにも、どうか、一日の時間制限を完全に撤廃し、毎日自由に通わせることをお許しくださいませ」
わざと過大な要求を突きつけたルナリアに、王妃は冷たく笑った。
「あなたのような帝国出身者に、王宮を毎日自由にうろつかせる無制限の許可など、出せるはずがないでしょう」
王妃の防衛ラインはそこだ。「毎日王宮をうろつかれること」を嫌がっている。
ルナリアはすぐに頭を下げた。ここからが彼女の本命の要求だった。
「申し訳ありません。では、毎日通うことは諦めます。その代わり、育児の合間に週に数回だけ通うことをお許しください。一日の上限を『四時間』に延長していただければ、週あたり総計十四時間で収められます。そして、ご不安を払拭するため、報告書は『毎月』ではなく『毎週』詳細に提出いたします」
王妃の指が止まった。
毎日うろつかれるのは目障りだが、回数が減り、監視(報告書)の頻度が上がるのであれば、王妃にとって悪い条件ではない。
「王国の君臣の義に疎いままでは、リュートの教育が不十分になってしまいます。第一王子グラクト殿下を支える『影』として、リュートが立派に育たねばなりません。どうか、王妃陛下のご寛容にすがります」
ダメ押しのように添えられた「グラクトを支える影」という言葉。
王妃がそれにどう応えるか、ゆっくりと息を吸い込んだ――その時だった。
「……よかろう」
冷たく、重い声が謁見の間に響き渡った。
それまで玉座の傍らで沈黙を保っていた国王ゼノンが、初めて口を開いたのだ。王妃がわずかに肩を揺らし、国王を見上げた。
「陛下……?」
「『光』を支える『影』を自ら育て上げようというのだ。その忠義、無下にするのは王家の寛容に反するというもの」
国王の眼差しは、ルナリアを感情のない彫像のように見下ろしていた。そこにあるのは、第二王子への親愛などではなく、国を回すための「有用な道具」に対する値踏みの光だけだった。
「……陛下が、そう仰るなら」
国王の鶴の一声に、王妃は静かに引き下がった。そして、改めてルナリアに向き直る。
「条件は陛下のご意志の通りに。週あたり総計十四時間。一日の上限は四時間。毎週報告書提出。これ以上の交渉は認めません」
ルナリアは深く頭を下げた。彼女が勝ち取りたかった「まとまった滞在時間」の確保に成功した瞬間だった。
「ありがとうございます、国王陛下、王妃陛下。王家の安泰のため……グラクト殿下を支えるため……このご恩は、決して忘れません」
謁見が終わり、ルナリアが重い扉を背にして長い廊下を歩き出した時のことだった。
背後から静かに近づく足音があった。国王ゼノンだ。
彼はすれ違いざま、歩みを止めることなくルナリアの耳元で低く囁いた。
「――賢い女は嫌いではない。今夜、離宮に渡る。用意しておけ」
先ほどの忠誠の言葉への対価を要求するかのような、絶対者の声。
ルナリアは立ち止まり、静かに背中を向けて頷いた。
「……かしこまりました、陛下」
国王の足音は、そのまま遠ざかっていった。
離宮に戻ったのは、夕暮れ時だった。
ルナリアは馬車から降りると、すぐにリュートの元へ駆け寄った。リュートは中庭でルリカと一緒に待っていた。
「お母様!」
「ただいま」
ルナリアはリュートを抱き上げ、頰を寄せた。
「書庫の使用権、許可されたわ。週に合計十四時間、一日四時間までよ。お母様と一緒に、ちゃんと守っていきましょうね」
リュートは母の胸に顔を埋め、小さく頷いた。
「はい、お母様」
夜が訪れた。
ルナリアはリュートを寝かしつけ、ルリカに隣室で守るよう指示した。
「ルリカ……今夜は、リュートを絶対に離さないで」
ルリカは静かに頷いた。
「はい、ルナリア様」
ルナリアは一人、寝室で待った。
薄い寝衣を纏い、暖炉の火を背に、静かに座る。窓の外では、月が冷たく輝いていた。
暖炉の火が、ぱちぱちと音を立てた。
離宮の夜は、まだ深かった。




