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リーガル・レジスタンス 〜法治国家を目指して〜  作者: ムササビ-モマ
第3章『秩序の崩壊』
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第9話 『折れぬ白百合』

1 窓辺の傍観者(歪んだ愛の解釈と退廃への逃避)


 逢魔が時。

 王宮の尖塔が、血のように赤い夕焼けに染まり始めていた。

 本宮の奥深く、第一王子グラクトの豪奢な自室。


 十三歳の少年は、分厚いビロードのカーテンの隙間から、窓の下に広がる王宮の庭園をじっと見下ろしていた。


 彼の視線の先には、近衛騎士団長(武門)の血を引く近衛騎士――セオリス・デイル・ゼノビアの姿があった。屈強な体躯を持つ狂信的な騎士は、ただ一人、帯剣したまま真っ直ぐに、あの忌まわしい『離宮』の方角へと足早に向かっていく。


『……行くんだな、セオリス』

 グラクトの胸の内で、甘い高揚感と、ひどく冷たい無責任さが渦巻いていた。

 彼は知っていた。実母である第一側妃ヒルデガードが、表向きは「王女の実務」や「視察」という正論を振りかざして離宮から手足をもぎ取り、その上で同郷の狂犬の耳元で「息子の尊厳が傷つけられた」と囁き、扇動した事実を。


 だが、グラクトの心に罪悪感は一欠片も存在しなかった。

 かつてルナリアに力で床に叩き伏せられ、泣き喚いて逃げ出した己の惨めな姿。その等身大の弱さを直視することを放棄した彼にとって、ルナリアの存在自体が己の「神の子」としてのアイデンティティを脅かす『絶対悪』となっていたのだ。


『母上は、僕のためにあそこまで盤面を整えてくれた。僕の傷ついた王としての尊厳を守るために、あの野蛮な帝国の女に「王国における正しい身の程」を教え込むよう手配してくれたんだ』

 窓ガラスに映る己の顔はひどく青白く、だが口の端は醜く歪んで吊り上がっていた。彼の思考は、もはや正常な因果関係を完全に放棄していた。


『あれは、母上の僕に対する深い愛の証明だ。僕は愛され、守られている、絶対の存在なんだ。だから……あの女がセオリスに何をされようと、それは僕のせいじゃない。思い上がった女が自業自得の罰を受けるだけだ』

 自らの手を汚すことも、自らの目で現実の血を直視することもなく。ただ他者の暴力と権力にタダ乗りして自尊心を満たそうとする、極めて醜悪な自己正当化。


「……ふふっ」

 グラクトは、これから離宮で女一人が屈強な騎士にどんな理不尽な暴力を振るわれるのか、その凄惨な結果を想像して薄暗い優越感に浸りながら、震える手で窓のカーテンをそっと閉ざした。


 しかし。

 視界から現実の景色を遮断し、完全な密室の静寂に取り残された瞬間。彼の胸の奥底に、微かな怖気――王としての責任と現実から逃げ出したという無自覚な罪悪感が、冷たい泥のように首をもたげかけた。


『……ソフィア。ソフィアのところへ行こう』

 グラクトはその微かな震えと不安を完全に塗り潰すため、足早に自室の扉を開けた。


 己の身勝手な優越感を無条件で肯定し、甘い快楽で頭の芯まで麻痺させてくれる、あの第三側妃の寝所へと向かうために。


 未来の国王となるべき少年が、現実の凄惨な闘争から完全に目を背け、自らの意思で底なしの退廃へと沈んでいく、完全なる「傍観者」への転落であった。




2 静寂の破却(狂犬の侵入)


 夕闇が完全に王都を包み込んだ頃。

 王宮の最奥に位置する離宮は、まるで墓所のような異様な静寂に支配されていた。


 第二王子リュートは東へ。クロムハルト令嬢ヴィオラは西へ。第一王女リーゼロッテと最強の護衛ルリカは、本宮の奥深くへ。さらに、第一側妃派閥の息がかかった近衛兵たちの手回しにより、離宮の内部に仕えていた数少ない使用人たちも「本宮での急な清掃作業」などの口実で、物理的に完全に遠ざけられていた。


 ここに、誰の目も届かず、誰の助けも呼べない『完全なる密室』が完成したのである。

 薄暗いランプの灯りだけが照らすサロンのソファで、ルナリアはただ一人、静かに帝国の魔導書をめくっていた。


 研ぎ澄まされた武人としての直感が、外周の異常な空気と「何かが来る」という死の気配を告げていたが、彼女は逃げ隠れすることなく、氷のような静けさを保ってその場に座り続けていた。

 その時だった。


 ――ドゴォォォォンッ!!


 堅牢なオーク材で設えられたサロンの二枚扉が、凄まじい蹴撃によって蝶番ごと吹き飛ばされ、床に激突した。

 土足のまま、土埃と濃密な殺気を纏って踏み込んできたのは、狂信の騎士、セオリス。


「……何の真似かしら、近衛騎士殿。ここは第二側妃の私室ですが」

 ルナリアはゆっくりと本を閉じ、一切の動揺を見せることなく、紅蓮の瞳で侵入者を見据えた。


 セオリスは血走った瞳でルナリアを睨み下ろし、狂気に満ちた、しかし彼自身にとっては「絶対的な正義」である宣告を口にする。


「グラクト殿下からの特命により。王国の品位を貶める野蛮なる帝国の女――第二側妃ルナリアに、『正しい身の程と教育』を施しに参りました」

「ふふっ。教育? 主人の威を借る狂犬の遠吠えの間違いではなくて?」

 ルナリアが優雅に、しかし隙のない所作で立ち上がった瞬間。


 セオリスが獣のような咆哮とともに、一気に距離を詰めて踏み込んだ。


「減らず口をッ!!」

 王宮の第一級の武人による、純粋な殺意を込めた剛腕の突き。

 ルナリアは逃げない。帝国の虎としての誇りが、背を向けることを許さなかった。彼女はセオリスの圧倒的な膂力を真正面から受けず、突き出された丸太のような腕に自らの腕を絡め、関節の死角を突いて重心を崩す『合気』の体術を放った。


 ――だが。

 彼女の技術は完璧であったが、相手が悪すぎた。


「小賢しいわッ!!」

 武門ゼノビア家の最高傑作と謳われるセオリスの純粋な『暴力フィジカル』は、技術の理を力ずくでねじ伏せた。


 崩れかけたはずの体勢から、セオリスは関節への負荷など一切無視して、強引に剛腕を振り抜く。技をかけていたルナリアの身体が、枯葉のように宙に浮いた。


「……っ!?」

 続く、鋼鉄の槌のような重く速い蹴りが、宙に浮いたルナリアの腹部を無慈悲に捉える。


「が、はっ……!」

 肺から空気が弾け飛び、ルナリアの華奢な身体は数メートル吹き飛ばされ、サロンの分厚い大理石の壁に激しく叩きつけられた。壁に飾られていた重厚な絵画が落下し、額縁のガラスが粉々に砕け散る。


「……あ、ぐ……っ」

 床に崩れ落ちたルナリアの口から、鮮血がボタボタと絨毯に滴り落ちる。

 どれほど優れた体術を持っていようと、圧倒的な質量と筋力の差という物理法則の前には無力であった。


「王国に泥を塗る不完全な獣め。貴様がグラクト殿下の前に平伏し、許しを乞うまで、その身に王家の『品位』というものを徹底的に叩き込んでやる」

 セオリスは腰の剣に手をかけ、血を吐いてうずくまるルナリアを見下ろして冷酷に宣告した。


 王宮のルールすら届かない完全な密室で、理屈の通じない絶対的な暴力が、ついにその牙を彼女の喉元に突き立てたのである。




3 破綻した脅しと、揺るがぬ誇り(血縁の事実)


「……ぐ、ぅ……」

 大理石の床に血溜まりが広がる中、ルナリアは苦痛に顔を歪めながらも、決して這いつくばるまいと両腕で身体を支えようとした。


 しかし、狂信の騎士セオリスはそれを許さない。彼は無造作に歩み寄ると、ルナリアの誇りでもある艶やかな帝国の黒髪を鷲掴みにし、力任せに上方へと引き摺り上げた。


「あ、ぁっ……!」

「よく聞け、野蛮なる帝国の女。己の身の程を知り、床に額を擦り付けてグラクト殿下への謝罪と絶対の服従を誓え」

 頭皮が裂けるような激痛に顔をしかめるルナリアに対し、セオリスは武力という絶対の優位性を背景に、浅薄極まりない脅迫を突きつけた。


「もし平伏さねば、貴様が庇い立てしている第二王子リュートや、第一王女リーゼロッテの命はないと思え! 貴様の傲慢さが、あの子らを手打ちにさせるのだぞ!」

 それは、大切な子供たちを人質に取れば、この忌まわしい女も必ず涙を流して哀れに泣き叫ぶだろうという、底の浅い思い込みに基づく脅しであった。


 だが。

 血を吐き、髪を掴み上げられ、完全に蹂躙されているはずのルナリアの顔に浮かんだのは、絶望でも哀願でもなかった。

 彼女の紅蓮の瞳は、一切の恐怖に染まることなく、ただ極寒の吹雪のような『冷酷な嘲笑』をセオリスへと向けていたのである。


「……ふふっ、あはははっ……!」

「何がおかしいッ!」

「浅はかね。……あまりにも無知で、滑稽だわ」

 ルナリアは血塗れの唇を三日月のように吊り上げ、眼前の屈強な狂犬を、知的に完全に「見下して」言い放った。


「グラクト殿下如きに、リュートを害する政治的権限など一欠片もないわ。あの子の背後には、私の母国である帝国という巨大な軍事国家の影がある。もし正当な理由もなく第二王子を害そうとすれば、あの子は躊躇なく帝国へ亡命し、それを大義名分として帝国の重装騎士団がこの国を火の海にする。……この国の王も宰相も、そんな自殺行為を許すはずがないわ」

「な……っ」

 ルナリアから突きつけられた、己の腕力ではどうにもならない『国家間の論理と軍事バランス』という事実に、セオリスの顔が微かに強張る。


 だが、ルナリアの冷徹な知の刃は、さらに深く狂犬の前提を切り裂いた。


「それに……貴方、リーゼの命を奪うと本気で言っているの? 正気かしら」

「黙れ! あの色素の薄い出来損ないなど、王宮の面汚し――」

「リーゼは、グラクトの『実の妹』であり、第一側妃ヒルデガード様の『お腹を痛めた実の娘』よ」

 ルナリアのその低く鋭い言葉が、サロンの空気を凍りつかせた。


「プラチナブロンドだからと忌み嫌われ、冷遇されているとはいえ、正真正銘の血を分けた王族の直系。……その子を害するなどと、一介の近衛騎士に過ぎない貴方が進言する? 血統主義の権化である彼らが、自らの血筋を他人の手で傷つけられるような真似を、本気で許すとでも思っているの?」

「…………ッ!!」


「後宮の絶対的な支配権を持つマルガレーテ王妃様が、側妃の娘への不当な暴力を黙認するはずもない。……貴方の脅しは、王宮の権力構造と血統のルールすら理解していない、最初から論理が完全に破綻した妄言なのよ」

 それは、セオリスという男が「王宮の政治や血統の重みを何一つ理解していない、ただ扇動されて踊らされているだけの無知な操り人形」であるという、残酷なまでの事実の指摘であった。


 ルナリアを屈服させるために放った言葉が、逆に自らの愚かさを浮き彫りにする結果となり、セオリスの脳内で何かが激しく弾け飛んだ。


 一切の怯えを見せず、自分を「無知な暴力装置」として見下し続けるルナリアの強靭な精神。それは、セオリスが心の底で信じ切っていた『自分が絶対の正義であり、王家の忠臣である』という狂信の前提を、根本から揺るがす劇薬であった。




4 激化する拷問と、気高き沈黙(無限の地獄)


 己の薄っぺらな正義を論理で完全に粉砕され、無知な操り人形に過ぎないという事実を突きつけられたセオリスの顔は、怒りと屈辱でどす黒く染まっていた。


「……黙れ。黙れ黙れ黙れッ!!」

 狂信の騎士は獣のように吠え、腰の長剣を乱暴に引き抜いた。鋭い刃の冷たい輝きが、薄暗いサロンを切り裂く。


「理屈をこね回すだけの野蛮な雌犬が。王宮の品位を汚す、その忌まわしい帝国の黒髪こそが、貴様の傲慢さの根源か!」

 セオリスは、ルナリアの誇りでもあり、第二王子リュートへと受け継がれた帝国の象徴たる長く美しい黒髪を乱暴に掴み上げると、刃を根元に当て、一切の躊躇なく無残に切り裂いた。


「あ、ぅ……っ」

 バラバラと、艶やかな漆黒の束が血だまりの床へと散らばっていく。

 誇り高き帝国の象徴を穢され、無惨に短く不揃いになった頭髪。だが、ルナリアは悲鳴一つ上げず、ただ乱れた前髪の奥から、極寒の吹雪のような紅蓮の瞳でセオリスを真っ直ぐに射抜いていた。


「……愚かね。髪など、いくらでも削ぎ落とせばいいわ。ですが……私の裡に流れる帝国の血と、母としての誇りは、貴方のその鈍らな剣では決して斬り落とせはしない」

「……ッ、貴様ァァ!」

 肉体を傷つけても、象徴を奪っても、この女の『心』は一切折れない。


 グラクトの尊厳を回復するためには、ルナリアが恐怖に顔を歪め、涙と鼻水で顔を濡らし、無様に命乞いをする姿を引き出さねばならないのに。


 焦燥と狂気に駆られたセオリスは、懐から数本の小瓶を取り出し、大理石のテーブルの上に乱暴に並べた。


 それは、王家の宝物庫にしか存在しない、最上級の『魔法回復ポーション』。第一側妃ヒルデガードが、「あの女の心を完全に砕くまで、決して楽に死なせるな」と与えた、悪意の結晶であった。


「殺しはしない。貴様がグラクト様への不敬を心底から悔い改め、涙を流して靴を舐めるまで……貴様には、死ぬことすら許されん!」

 セオリスはルナリアの腕を踏みつけ、剣の柄や刃先を使い、彼女の白磁のような指先から、生きたまま爪を一枚ずつ剝がし始めた。


「――っ……!!」

 常人であれば鼓膜が破れるほどの絶叫を上げるほどの激痛。

 しかしルナリアは、自らの唇を血が滲むほど強く噛み締め、喉の奥から漏れ出そうになる悲鳴を、帝国の虎としての絶対的な『品性』と意志の力で封じ込めた。


 彼女は己の尊厳を汚すような、無様な命乞いの声など一音たりとも発しはしない。


「なぜ鳴かない! なぜグラクト様に許しを乞わないッ!」

 己の暴力が通じないことに恐怖すら覚え始めたセオリスは、痛みのショックでルナリアの意識が遠のきそうになるたび、傷口に回復ポーションを振りかけた。


「あ、が……っ、ぁぁ……」

 魔法薬が肉体に触れた瞬間、細胞が強制的に結合し、千切れた神経が無理やり繋ぎ直される。それは「治癒」という名の、新たな激痛の始まりであった。


 傷が中途半端に塞がり、意識が鮮明に覚醒させられた直後、セオリスは再び別の部位を剣で刺し貫き、あるいは骨を砕く。

 破壊と、魔法薬による強制的な再生。

 終わりのない無限の苦痛のループ。


 血の海となったサロンで、時計の針は残酷に深夜へと向かって進んでいく。

 常軌を逸した激痛が延々と繰り返される中、ルナリアの肉体は原型をとどめないほどボロボロに破壊され、再生のたびに夥しい体力を奪われていった。


 それでも。

 彼女はただの一度も、狂犬の前で己の品性を手放すことはなかった。どれほど血肉を散らそうとも、彼女の背筋は決して屈服を認めず、その紅蓮の瞳の奥で燃える冷徹な知性と誇りの炎は、微塵も揺らいではいなかったのである。


5 狂人の敗北と、母の微笑み(理解不能な気品への恐怖)


 壁掛け時計の針が、深夜二時を回っていた。

 かつて優雅な茶会が開かれていた離宮のサロンは、今やむせ返るような鉄錆の匂いと、赤黒い血の海に沈んでいた。


 大理石の床には、第一側妃から与えられた高価な回復ポーションの空き瓶が、いくつも虚しく転がっている。


 その中央で、第二側妃ルナリアは壁に背を預けるようにして崩れ落ちていた。美しい漆黒の髪は無惨に刈り取られ、豪奢なドレスは原形をとどめぬほどに引き裂かれている。回復薬による強制的な細胞の結合と、剣による肉体の破壊を何十回と繰り返された彼女の身体は、もはや指先一つ動かすことすら困難な、文字通りの満身創痍であった。


 だが。

 荒い息を吐き、肩で息をしているのは、拷問を受けているルナリアではなく、剣を握るセオリスの方であった。


「はぁっ……! はぁっ……、な、ぜだ……ッ!」

 狂信の騎士は、血塗れの長剣をだらりと下げたまま、目の前の光景に後ずさりした。


 武門ゼノビア家の最高傑作である彼にとって、世界とは極めて単純な物理法則で構成されていた。「圧倒的な暴力を振るえば、人間は恐怖し、肉体とともに心も屈服する」。それが、彼が信じて疑わなかった王宮の実力主義であり、絶対の真理であったはずだ。


 グラクトの尊厳を回復するため、この生意気な帝国の女にその真理を分からせる。ただそれだけのために、彼は何時間も剣を振るい、骨を砕き、肉を裂き続けた。


 しかし、目の前の女はどうだ。

 肉体はすでに限界をとうに超え、生命活動の灯火すら風前の塵であるというのに。ルナリアの紅蓮の瞳は、一切の恐怖や絶望に濁ることなく、澄み切った極寒の吹雪のように、ただ静かにセオリスを見据えていた。


「……あ、ぁ……」

 セオリスの喉から、ひきつるような声が漏れた。

 彼が直面していたのは、己の理解が及ばない『精神の次元の違い』に対する根源的な恐怖であった。


「……どう、したの……?」

 不意に、静寂のサロンに掠れた声が響いた。

 ルナリアであった。彼女は息も絶え絶えになり、喉から血の泡を吹かせながらも……その血塗れの唇を三日月のように吊り上げ、はっきりとセオリスを嘲笑ったのだ。


「グラクト殿下の……光を、取り戻すのではなくて……? 狂犬の牙は……その程度かしら……」

「ヒッ……!!」

 挑発に乗って激昂するどころか、セオリスは悲鳴に似た息を呑み、大きく一歩後ずさった。


 わからない。理解できない。

 なぜ、これほどの激痛と陵辱を与えられてなお、この女は己の品性を一欠片も手放さないのか。なぜ、地べたに這いつくばらされているはずの女から、遥か高みから見下ろされているような、絶対的な威厳を感じるのか。


 ルナリアが己の肉体を犠牲にして証明し、セオリスに突きつけていた事実。

 それは、『お前の信奉する物理的な暴力など、私の裡にある誇りと気品には、永遠に傷一つ届きはしない』という、残酷なまでの絶対的敗北の宣告であった。


「ち、違う……俺は、俺は正義を……グラクト様の、品位を……ッ!」

「……哀れね」

 ルナリアの氷のような一瞥が、狂信者の薄っぺらな自我を完全に粉砕した。


『俺は、何をしている……? こいつを屈服させられないなら、俺がやっていることは、ただの……無意味な、ただの残虐な……ッ!』

 自分が絶対の正義の執行者ではなく、ただの無力で醜悪な暴力装置に過ぎないという事実を、彼女の存在そのものが鏡のように突きつけてくる。


 ガタッ、ガチガチガチガチ……!

 セオリスは、柄を握る自らの両手が、己の意志とは無関係に激しく痙攣し、恐怖で震え震え上がっていることに気づいた。武の頂を極めたはずの肉体が、死に体の女が放つ「気品」という見えない刃に完全に制圧されていた。


 肉体をいくら破壊しても、その魂を屈服させることは絶対にできない。

 完全な密室で、圧倒的な暴力を持っていたはずの加害者が、被害者の気高さの前に精神を崩壊させていく。


「ぁ……あァァァァァッ!!」

 セオリスはついに理解不能な恐怖と狂乱のあまり理性を完全に手放した。

 心を折ることができないのなら、もはやその存在そのものを消し去るしかない。グラクトの尊厳などもうどうでもいい、ただこの恐ろしい女の瞳を永遠に閉ざさなければ、自分が狂ってしまう。


「もう殺してやる!! 死ねェェェェッ!!」

 恐怖に顔を歪ませたセオリスが、自らの崩壊をごまかすように、ルナリアの首を刎ね落とすべく長剣を高く、高く振り上げた。


 そして、その致命の一撃が振り下ろされようとした、まさにその瞬間であった。

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