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リーガル・レジスタンス 〜法治国家を目指して〜  作者: ムササビ-モマ
第3章『秩序の崩壊』
28/41

第8話 『剥がされた最後の盾』

1 知性派の罠と、歪んだ特権意識(密室の構築)


 本宮の一角、第三側妃ソフィアの実家でもあるセラフィナ侯爵の執務室。

 分厚い遮音結界が張られたその密室で、侯爵は自らの嫡男であるリーデル・ソリュ・セラフィナと向かい合っていた。


 かつて離宮の東屋で、六歳だったリーゼロッテに「魔法の未来」という未知の概念を突きつけられ、己の暗記型の知性を根底から揺さぶられた少年。数年の時を経て成長したリーデルの瞳には、知性派貴族としての傲慢さと、かつての屈辱から生じたリーゼロッテに対する異様なまでの「執着(粘着)」が黒々と渦巻いていた。


「……お父様。あの生意気な王女が、帝国使節団の接待全権を握ったというのは本当ですか」


「ああ。私も補佐として同席したが……驚くべきことに、第一側妃が吹聴していたような『不完全な出来損ない』では断じてなかった。帝国の本質を正確にえぐり出す冷徹な知性、それを裏打ちする完璧な実務能力。あれは、間違いなく王家の至宝だ」

 魔導卿たる侯爵は、舌を巻きながらもその目を細め、底意地の悪い野心を隠そうともしなかった。


「あれほどの才女が帝国の手に渡るのは、我が国にとって……いや、我がセラフィナ家にとって莫大な損失だ。何としても、あの王女を我が陣営に引きずり込み、お前の妻として囲い込まねばならん。……帝国も手出しできない『正当な理由』をもってな」

「正当な理由、ですか」

 リーデルが身を乗り出すと、侯爵は邪悪に唇を歪めた。


「そうだ。帝国は極端な実力主義であると同時に、契約の潔白さ(貞淑)を重んじる。もし婚約の当事者である王女が、自国の貴族と『不義の仲』にあるという致命的な瑕疵スキャンダルが露見すればどうなる?」

「……帝国側から、破談を突きつけてくる。王家は面子を潰され、傷物となった王女の責任を取らせるため、不義の相手である僕に彼女を降嫁させるしかなくなる……そういうことですね?」


「ご名答だ」

 侯爵は冷酷に頷き、机の上に一枚のスケジュール表を広げた。


「明日の午後、本宮の奥にある資料室で、接待の予算と席次に関する最終調整会議を行う。私が事前に根回しし、その時間帯、資料室の周囲から近衛の警備を完全に遠ざけておく。護衛なしで実務に追われる王女に対し……私は会議の途中で、『過去の極秘資料を取ってくる』と尤もらしい理由をつけて席を外す」

 侯爵の目論見は、王宮という公的な空間に、人為的かつ合法的な「完全密室」を作り出すことであった。


「私が席を外したその数十分の間に、お前が『決めろ』」

 侯爵の指示は、貴族としての品位など微塵もない、極めて醜悪で暴力的なものであった。


「王女のドレスを引き裂くもよし、悲鳴を上げさせて抱きすくめるもよし。私が部屋に戻った時、誰の目から見ても『既成事実が完了している』状態を作り出せ。……力尽くで組み伏せ、あの王女の誇りをへし折ってやれ」

「……っ」

 リーデルの喉から、歓喜と嗜虐に満ちた熱い吐息が漏れた。


 かつての茶会で、自分の知性を論破しようとしたあのプラチナブロンドの少女。女の分際で未来を語り、自分を愚仮にした生意気な王女を、自らの腕力と権力で完全に屈服させ、「僕に従うことこそがお前の品位だ」と思い知らせてやる絶好の機会。


「お任せください、お父様」

 リーデルは、歪んだ特権意識と特濃の悪意を煮詰めたような笑みを浮かべ、深く頭を下げた。


「あの生意気な王女に、教えて差し上げますよ。王宮における真の『品位』と……女が絶対に従わねばならない、抗うことのできない『事実』というものを」

 知性派を自称する親子が企てたのは、極めて原始的で、反論を許さない「暴力と汚辱」による王女の強奪であった。


 彼らは自らの欲望を満たすことだけを考え、リュートが不在となった盤面で、いよいよリーゼロッテに対する決定的な牙を剝き出しにしたのである。




2 圧倒的な知性と、崩れ去る虚栄(密室の延期)


 本宮の奥深く、重厚な扉に閉ざされた会議室。

 巨大なマホガニーの円卓には、帝国使節団の接待に関する膨大な資料と予算案が山積みになっていた。


 第一王女リーゼロッテが定刻通りに入室すると、担当官であるセラフィナ侯爵は、恭しい足取りで出迎えた。そして、その後ろには不自然にも、息子のリーデル・ソリュ・セラフィナが付き従っていた。


「リーゼロッテ王女殿下。本日は事前の許可なく愚息を同席させる無礼、どうかお許しいただきたい」

 侯爵は優雅に頭を下げ、非の打ち所のない「正論」を口にする。


「このリーデルは次期魔導卿となる身。彼に国家間の高度な外交実務を学ばせるとともに……何より、殿下の類まれなる優秀さを間近で拝見させ、同年代として大いに切磋琢磨させたいと考えたのです。どうか、未来の王国のための同席をお許し願えませんでしょうか」


『……嘘だわ』

 リーゼロッテは、完璧な「王女の微笑み」を貼り付けたまま、内心で冷徹に分析した。


 かつての東屋の茶会で、彼女の語る未来の魔導を「女に知性など不要」と嘲笑し、心の底までへし折ろうとしたこの男が、今さら自分と切磋琢磨など望むはずがない。これには必ず、自分を精神的に追い詰めるか、何らかの隙を突く狙いがある。


 だが、侯爵の挙げた理由は、王宮の論理において完全に「美徳」とされるものであった。ここで拒否すれば、王女としての度量と品位を疑われる。


「ええ、構いませんわ。セラフィナ家の叡智、実務の場でも大いに期待しております」

 リーゼロッテは一切の動揺を見せず、毅然と着席した。


「ふん……。お手柔らかにお願いしますよ、王女殿下」

 リーデルは、かつて彼女を論破し(たと思い込んでき)た優越感を胸に、ニヤリと歪んだ笑みを浮かべて向かいの席に座った。彼は今日、父が席を外した隙にこの生意気な王女を組み伏せ、物理的に「己の下」であることをわからせてやるという、醜悪な野心で頭がいっぱいだった。


 しかし。

 いざ実務の会議が始まった瞬間、リーデルの薄っぺらな優越感は、根底から粉砕されることとなる。


「侯爵。事前にご用意いただいた帝国の使節団名簿ですが、これでは不十分ですわ」

 リーゼロッテは、侯爵家の文官たちが徹夜でまとめた資料を一瞥しただけで、容赦なく欠陥を指摘した。


「実力主義の帝国において、伝統的な血統順の席次など侮辱に等しい行為です。筆頭であるヴァルター将軍は先月の東部戦役で実戦魔導部隊を指揮し、多大な武勲を挙げています。彼の席次は血筋ではなく、その『武勲と現在の魔導階級』を最優先した上座に再配置してください」


「は、はっ。……しかし殿下、それでは国内の保守派貴族が……」

「国内の顔色を窺って帝国の虎の尾を踏めば、関税交渉のテーブルにつく前にすべてが終わります。責任は全権を持つ私が負いますので、直ちに修正を。……それから、饗応の場に供される酒ですが、我が国の甘口のワインではなく、帝国北部の気候に合わせた度数の高い蒸留酒をベースに手配してください。彼らは装飾過多な甘さより、実質的な『熱』を好みます」

 流れるような指示。膨大な情報を瞬時に処理し、帝国の文化と政治的背景を完璧にリンクさせた、隙のない論理構築。


 それは、離宮の薄暗い書斎で、第二王子リュートから直々に叩き込まれた「為政者としての冷徹な盤面把握」そのものであった。十一歳の少女は、今や完全に大人たちを凌駕する実務家として君臨していたのである。


「な……っ、なんだ、それは……」

 向かいの席に座っていたリーデルは、顔面を蒼白にさせ、口をパクパクと金魚のように動かすことしかできなかった。


 彼がセラフィナ家で誇りにしていた「知性」とは、三百年前の魔導史や、過去の接待の慣例を暗記していることに過ぎない。リーゼロッテが次々と繰り出す、最新の国際情勢、リアルタイムの軍事情報、そして数手先を読んだ予算配分の組み替えなど、彼には何一つ理解できず、口を挟む余地すら一ミリも存在しなかった。


『ば、馬鹿な。女の分際で……僕より、賢い……? いや、僕の知らないことを、どうしてこんなスラスラと……っ!』

 リーデルの額から、滝のような冷や汗が吹き出す。


 書類を持つ手はガタガタと震え、リーゼロッテのその黄金の瞳に見据えられるたび、自分がひどく矮小で、無知な子供であるという「事実」を暴力的に叩きつけられているような感覚に陥った。


「……リーデル様? 先ほどから沈黙されておりますが、この関税の代替案について、次期魔導卿として何か別の知見がおありですか?」

 リーゼロッテが、小首を傾げて静かに問いかける。その瞳には、かつて彼に向けたような怯えなど微塵もなく、ただ冷徹な「実務者としての査定」の光があった。


「あ……、いや……その……。伝統的な、手法を……守るべきで……」

 リーデルは蚊の鳴くような声で呟いたきり、完全に萎縮し、座席に縮こまってしまった。彼の中の歪んだ特権意識は、圧倒的な「実力」の前に情けなくも完全にひれ伏してしまったのである。


 その息子の無様な有様を横目で見ていたセラフィナ侯爵は、内心で舌打ちをした。


『……駄目だ。使い物にならん。この圧倒されるような王女の気迫を前にして、今の怯えきったリーデルだけをこの密室に残したところで、到底手出しなどできまい。逆に王女の理詰めで返り討ちに遭い、我が家の品位を落するだけだ』

 侯爵は極めて論理的で冷酷な判断を下した。


 今日のところは、物理的な密室を作る(自分が席を外す)策は破棄する。まずはこの膨大な実務の山で王女の体力を徹底的に削り、疲労でその冷徹な思考が鈍った隙を突かなければ、この「至宝」を落とすことはできない、と。


「……王女殿下。実に見事な采配です。本日の打ち合わせは、一旦ここまでといたしましょう」

「ええ。引き続き、名簿の修正を手配してくださいませ」

 侯爵の言葉に、リーゼロッテは優雅に頷いた。


 その日、本宮の会議室という密室において、リーゼロッテは自らが磨き上げた「圧倒的な知性」という武器によって、迫り来る暴力の危機を無自覚のうちに一度退けたのである。


 しかし、セラフィナ侯爵の野心が潰えたわけではない。

 彼らは戦術を「強行突破」から「疲労困憊による隙の誘発」へと切り替えただけであり、本当の地獄(物理的な危機)は、リーゼロッテの体力が限界を迎える数日後に、静かに持ち越されただけであった。




3 密室の危機と、氷の微笑(既成事実の回避)


 それから数日間。

 第一王女リーゼロッテは、本宮の会議室という「逃げ場のない実務の檻」に完全に縛り付けられていた。


 帝国使節団の要求は苛烈を極め、王国の各省庁との調整は難航。膨大な資料の海の中で、彼女は十一歳の少女が背負うにはあまりにも過酷な激務を、持ち前の知性と気力だけで完璧に処理し続けていた。


 だが、肉体的な疲労は確実に彼女の体力を奪い、その白磁のような肌には微かな隈が浮かび始めていた。


『……そろそろ限界か。今なら、あの圧倒的な知性も隙を見せるだろう』

 補佐として同席し続けていたセラフィナ侯爵は、獲物が弱るのをじっと待つ毒蜘蛛のように、冷徹な観察眼でその瞬間を計っていた。


 そしてある日の夕刻。会議室の周囲から人払いを済ませていた侯爵は、わざとらしく立ち上がった。


「王女殿下。長時間の激務、誠にお疲れ様です。……少し過去の極秘資料を自室へ取りに参ります。リーデル、殿下のお相手を務めておきなさい」


「はっ、お父様」

 侯爵が重厚な扉を閉め、鍵の音が微かに鳴る。

 王宮の奥深く、護衛のいない完全な「密室」が人為的に完成した瞬間であった。

 静まり返った室内で、リーゼロッテはペンを置き、小さく息を吐いた。


 その疲労の隙を、リーデルが見逃すはずもなかった。彼は先日の実務で見せつけられた「圧倒的な知性の差」に対する屈辱を、原始的な「男の腕力」で塗り潰そうと、ねっとりとした足取りで彼女の背後へと近づいた。


「……殿下。随分とお疲れのようですね。少し、肩でもお揉みしましょうか?」

「お気遣い感謝しますわ、リーデル様。ですが、触れるには及びません」

 リーゼロッテが拒絶の言葉を紡ぎ、立ち上がろうとしたその時。


 ガシッ、と。彼女の細い腕が、背後から強引に掴まれた。


「……っ!」

「強がることはありませんよ、リーゼ『王女』」

 リーデルの声には、かつての茶会で見せたような「歪んだ優越感」と、ドロドロとした執着がへばりついていた。彼はそのままリーゼロッテの腕を強く引き寄せ、強引に奥のソファへと押し倒そうとする。


「実務がこなせるからといって、調子に乗るな。帝国の野蛮人になど嫁がせるものか。……僕の妻として、僕の下で大人しく喘いでいるのが、女としての貴女の『品位』だ!」

 既成事実を作ろうと迫る男の狂った熱と、腕に食い込む痛み。


 密室という絶望的な状況下で、かつて「女は黙って従え」と心を折られたトラウマがフラッシュバックし、リーゼロッテの全身が恐怖で氷のように強張る。


『怖い……っ。お兄様……お母様……!』

 悲鳴を上げそうになった彼女の脳裏に、離宮での鍛錬の日々が鮮明に蘇った。


『いいかリーゼ。王宮の連中はこちらの悲鳴など聞かない。怯えれば、彼らは余計に増長するだけだ。事実と結果だけを突きつけて、盤面をひっくり返せ』(リュート)

 そして、異国の武門の血を引く母、ルナリアの教え。


『力で勝てない相手には、決して正面から逆らわないこと。相手の暴力ベクトルをそのまま利用して、自滅させなさい。……気高く、美しくね』

 リーゼロッテの黄金の瞳から、恐怖の揺らぎがスッと消え去った。


 彼女は、力任せに押し倒そうと腕を引くリーデルの力に「一切逆らわなかった」。逆に、引かれる力を利用して前方に半歩ステップを踏み込み、自らの重心を極端に低く落とす。


「なっ……!?」

 不意に手応えが消え、前のめりに体勢を崩したリーデルの腕に、リーゼロッテはルナリア直伝の『合気』の要領で自らの体重と回転を乗せ、円を描くように手首を返し、下方へと鋭く誘導した。


「あ、ぎっ……!」

 ドンッ!! という鈍い音とともに、リーデルは無様に床に這いつくばる形で転倒した。その反動で、彼の肩が円卓の端に激突し、置かれていた重厚なインク壺が床に落下。パシャァッ! と黒い染みを広げながら粉砕され、凄まじい破裂音を密室に響かせた。


「あ、あうぅ……っ」

 床に倒れ込み、肩を抑えて呻くリーデル。

 彼が痛みに顔を歪めて見上げた先には。


 一筋の乱れもない完璧な所作でドレスの裾を直し、極寒の北の氷原のような、絶対零度の瞳で彼を見下ろす第一王女の姿があった。


「……あら。お足元が滑ったようですね、リーデル様。床に這いつくばるなど、知性派のセラフィナ家らしくもない『品位』に欠けるお姿ですわ」

 氷のように冷酷な声。


 それは暴力を振るったのではない。あくまで彼が「自滅した」という体裁を保ちながら、相手の尊厳を土足で踏みにじる、王族としての完璧な蹂躙であった。


「お怪我がなくて何よりです。……インク壺を落としてしまいましたので、清掃の者を呼びますわね」

 リーゼロッテは、床に這いつくばったまま恐怖と屈辱で身動き一つ取れなくなったリーデルを一瞥すらせず、悠然と踵を返し、扉の鍵を開けて会議室から脱出した。


 護衛のいない密室の危機を、彼女は自らの知性と、母から受け継いだ牙(体術)によって見事に切り抜けたのである。


   ◇


 しかし。

 会議室から遠く離れ、本宮の誰もいない回廊の隅に辿り着いた瞬間。


「はぁっ……はぁっ……!」

 リーゼロッテは壁に背を預け、ズルズルとその場にへたり込んだ。

 完璧な王女の仮面が剝がれ落ち、恐怖を堪えていた反動で、全身がガタガタと激しく痙攣するように震え出す。


『怖かった……本当に、怖かった……!』

 上手く切り抜けたとはいえ、十一歳の少女が成人目前の男の悪意と暴力に直面したのだ。その精神的なダメージは計り知れない。連日の激務による過労と、極限の恐怖。ギリギリで持ち堪えていた彼女の心の糸が、ついに限界を迎えてプツリと切れた。


「……お母、さまっ……」

 リーゼロッテは両手で顔を覆い、しゃくり上げながら、唯一の安息の地である離宮へと逃げるように走り出した。


 彼女が流したこの切実な涙が、離宮の『最後の盾』を剥ぎ取るという、取り返しのつかない悲劇の引き金を引くことになるとは、誰も予想していなかったのである。




4 母の決断と、差し出された最後の盾(ルリカの派遣)


 夕闇が迫る王宮の渡り廊下を、第一王女リーゼロッテは息を切らして駆け抜けていた。

 本宮の冷たい石畳を蹴り、ただ一つの安息の地である離宮の扉にすがりつくようにして飛び込む。


「お母、さま……っ!」

 離宮の私室。暖炉の火が静かに揺れるその部屋で、ルナリアは立ち上がり、飛び込んできた娘の細い身体をその両腕でしっかりと受け止めた。


 本宮での「完璧な王女の仮面」が完全に砕け散り、リーゼロッテはルナリアの胸に顔を埋めて、せき止めていた恐怖と疲労を吐き出すように泣き崩れた。


「怖かった……! 私、お兄様とお母様に教わった通りに……あの男を、自分の力で組み伏せたわ……! 泣かなかった……でも、本当は、すごく……っ!」

 十一歳の少女が背負うにはあまりにも過酷な重圧と、密室で成人男性から振るわれた醜悪な暴力。その顛末をしゃくり上げながら語る娘の背中を優しく撫でながら、ルナリアの赤い瞳には、極寒の吹雪のような冷たく激しい怒りの炎が灯っていた。


『……セラフィナ侯爵。己の薄汚い権力欲のために、私の娘を密室の生贄にしようとしたのね』

 帝国の虎たるルナリアの内心は、今すぐにでも本宮へ乗り込み、あの知性派を気取る俗物の親子を物理的に八つ裂きにしてやりたい衝動に駆られていた。


 だが、盤面はそれを許さない。リュートは東へ視察に赴いており、王都における「反撃の論理(手札)」が致命的に不足している。もしここでルナリアが感情のままに動けば、それこそ第一側妃ヒルデガードやセラフィナ家の思う壺であり、帝国との外交問題にまで発展しかねない。


 ルナリアは冷徹に状況を分析し、一つの残酷な、しかし母としては必然の決断を下した。


「……ルリカ」

「はっ。ルナリア様」

 部屋の隅で、主の怒りに当てられて静かに殺気を放っていた灰髪の騎士、ルリカが進み出る。


「明日から、貴女がリーゼの専属護衛として本宮へ同行しなさい。シルファ伯爵家(帝国系貴族)の養女であり、高い戦闘能力を持つ貴女がピタリと横に付けば、セラフィナ家も物理的な手出しや、今日のような密室への誘導は不可能になる。……何より、帝国の人間が護衛についているという事実が、最高の牽制になるわ」

 ルナリアの指示は、リーゼロッテを守るための局地的な戦術としては、極めて合理的で完璧な一手であった。


 しかし、その言葉を聞いた瞬間、ルリカは血相を変えて床に膝をつき、激しく首を横に振った。

「いけません! お戯れはおやめください、ルナリア様!」


「ルリカ……」

「現在、リュート殿下の視察に伴い、カイル隊長が離宮を空けております! 残る外周警備の者たちでは、本宮の権力者が正論を盾に強行突破してきた場合、法的に防ぎ切ることは不可能です。今、ルナリア様のお傍から私という『最後の盾』が離れれば……離宮の内部は、完全に無防備となってしまいます!」

 ルリカの訴えは、護衛の騎士として絶対的に正しい真理であった。


 盤面全体を見渡せば、ここでルリカを本宮へ回すことは、離宮という聖域の防御力を「ゼロ」にするという致命的な悪手(自殺行為)に他ならない。


 だが、ルナリアは自らの命の危険など百も承知であった。

 彼女は静かに歩み寄り、床に伏して懇願するルリカの震える両手を、自らの手で優しく包み込んだ。


「お願い、ルリカ」

「……ルナリア、様」

「あの子は、今一人で、本宮という泥沼で戦っているの。十一歳の小さな身体で、王族の重圧と、大人の醜い悪意に晒されながら……必死に立っているわ。これ以上、あの子の心を削らせるわけにはいかないの」

 ルナリアは、主従の垣根を越え、ただ一人の「母親」として深く頭を下げた。


「貴女も知っているでしょう。リーゼが、どれほど努力してきたかを。……お願い。あの子は、貴女の『妹』でしょう?」

 その言葉に、ルリカは弾かれたように顔を上げた。


 脳裏に浮かぶのは、離宮の庭でリュートと共に笑い合い、懸命に魔導書を読み解こうとしていた、プラチナブロンドの少女のひたむきな姿。


 ルリカにとって、ルナリアが絶対の主君であるならば、リュートとリーゼロッテは、己の命に代えても守り抜くべき大切な「弟と妹」であった。


 ルリカは、包み込まれた手から伝わるルナリアの深い母の愛と、その裏にある悲壮な覚悟を理解し、ギリッと唇から血が滲むほど強く噛み締めた。


「…………承知、いたしました」

 床に額を擦り付け、絞り出すような声で誓約を紡ぐ。


「ルリカ・シルファ、命に代えましても……妹(リーゼロッテ様)を、あの薄汚い泥沼からお守りいたします」

「ありがとう、ルリカ」

 ルナリアは安堵の微笑みを浮かべ、泣き疲れて微睡み始めたリーゼロッテの背中を優しく撫でた。


 娘を想う深い愛情。そして、家族を守るという尊い絆。それは人間として最も美しく、気高い決断であった。


 だが、王宮という血塗られた権力闘争の盤上において、その「情」こそが致命的な隙となる。

 第一側妃ヒルデガードの撒いた『合法的な排除の罠』と、セラフィナ侯爵の『醜悪な暴力』。そしてルナリア自身の『海よりも深い母の愛』。


 それらすべての偶然と必然が完全に噛み合った結果、ついにルナリアの周囲から、最後の物理的な盾までもが剝ぎ取られてしまったのである。


 狂犬の鎖が解き放たれるその瞬間まで、残された時間はあとわずかであった。




5 ルリカの視点(誇らしさと、完成した密室)


 翌日。本宮の奥深くにある会議室の扉が、重々しい音を立てて開かれた。

 室内で待ち構えていたセラフィナ侯爵と息子のリーデルは、入室してきた第一王女リーゼロッテの背後に、ピタリと寄り添う「異物」の存在に目を剝いた。


 灰色の髪を一つに束ね、帝国特有の機能的な騎士服を身に纏った凄腕の侍女――シルファ伯爵家養女、ルリカ。彼女はリーゼロッテの斜め後ろに影のように立ち、その極寒の双眸で室内の脅威を隙なく査定していた。


「……王女殿下。実務の場に、護衛の者を同席させるのは慣例に反しますぞ」

 セラフィナ侯爵が不快げに眉をひそめ、牽制に出る。


 だが、ルリカは氷のような表情を崩さず、リーゼロッテに代わって一歩前に出た。


「お言葉ですが、侯爵閣下。私は帝国系貴族シルファ家の出身。近く訪れる帝国の使節団に対する『文化と作法の正確な助言役』として、ルナリア妃より正式に遣わされました。国益を損なわぬための同席、何卒ご容赦を」

 血統と国益という「王国の正論」を完璧な盾にしたルリカの口上に、侯爵は舌打ちを噛み殺して沈黙するしかなかった。


 その横で、昨日の屈辱と痛みを引きずっていたリーデルが、歪んだ自尊心を取り戻そうと、苛立たしげにリーゼロッテへと歩み寄った。


「殿下。昨日は随分な態度でしたね。少し、お話を――」

 リーデルが、無意識にリーゼロッテの肩を掴もうと手を伸ばした、その瞬間。


 ――ピシャァァンッ!!


 空気を切り裂くような破裂音が会議室に響き渡った。

 ルリカが手にした護身用の鉄扇が、リーデルの伸びた手首を容赦なく叩き落とした音であった。


「あ、ぎっ……!?」

「――次期魔導卿ともあろうお方が、王女殿下の御身に気安く触れようなどと。万死に値する不敬と存じますが?」

 手首を押さえてうずくまるリーデルを見下ろすルリカの顔には、完璧なメイドの微笑みが貼り付いていた。だが、その灰色の瞳の奥からは、一歩でもリーゼロッテのパーソナルスペースに踏み込めば即座に喉笛を掻き切るという、帝国騎士としての、一切の躊躇もない絶対的な『殺気』が放たれていた。


「ひっ……!」

 リーデルは顔面を蒼白にさせ、恐怖で腰を抜かしそうになりながら後ずさる。侯爵もまた、ルリカの放つ本物の暴力の気配に圧倒され、手出しを完全に諦めるしかなかった。


『……これでいい。安全(物理的防壁)は、私が完全に構築した』

 ルリカは再び影のようにリーゼロッテの背後に下がり、静かに見守る態勢に入った。


 己の身の安全が完璧に保障された絶対の領域。その盤上で、リーゼロッテの「圧倒的な知性」は水を得た魚のように躍動し始めた。


「侯爵。昨日提出された予算案ですが、帝国の重装騎士団に対する兵站費の計上が、我が国の基準で計算されていますわ。彼らの魔導鎧の消費カロリーを考慮すれば、肉と香辛料の予算を二・五倍に引き上げる必要があります」

「なっ、それでは予算が……」


「無駄な宮廷楽団の追加編成を削れば捻出できます。帝国の武人は、軟弱な音楽より上質な酒と肉を重んじます。彼らの胃袋と喉を満たすことこそが、最も費用対効果の高い外交ですわ」

 十一歳の少女が、国家の予算と外交の力学を、老獪な侯爵を相手に一歩も引かず、対等以上の論理で完全に制圧していく。


 ルリカはその後ろ姿を見つめながら、内心で深い喜びと、誇らしさに胸を熱くしていた。


『……あんなに小さくて、大人の顔色を窺って怯えていたリーゼ様が。今や立派な王女として、気高く盤面を支配していらっしゃる』

 ルリカの脳裏に、東の地で同じように戦っているであろう、もう一人の家族の顔が浮かぶ。


『……リュート様。私たちの可愛い妹は、こんなに強く、立派になりましたよ』

 それは、護衛として、そして姉としての、至上の喜びに満ちた時間であった。

 明るい陽光が差し込む本宮の会議室は、彼女たちの完全な勝利に彩られていた。


   ◇


 ――だが、視点カメラは残酷なまでに静かに、その光り輝く本宮から引き離されていく。

 喧騒と熱気に満ちた本宮の会議室から、遠く、遠く離れた王宮の最奥。

 静まり返った『離宮』。


 第二王子リュートは、論理的な最適解を求めて東へ。

 クロムハルト令嬢ヴィオラは、王妃の恩命という罠にかかり西へ。


 第一王女リーゼロッテと、最強の護衛ルリカは、実務と自衛のために本宮の奥へ。

 現在、離宮の外周を守っているのは、カイル隊長を欠いた王国の一般近衛兵たちのみ。彼らは、王家の権威(印璽)を盾に正面から踏み込んでくる本宮の権力者を、法的に制止する権限を持たないただの案山子である。


 薄暗い離宮のサロン。

 分厚いカーテンが引かれた静寂の中で、ルナリアはただ一人、冷めた紅茶のカップを手に、静かに目を閉じていた。


 第一側妃ヒルデガードが、自らの手など一切汚さずに撒き散らした『反論不可能な正論』。

 セラフィナ侯爵の『醜悪な権力欲と暴力』。

 そして、ルナリア自身の『海よりも深い母の愛』と、リュートの『合理主義ゆえの死角』。


 為政者たちの思惑と、個人の感情。そのすべてが悪魔的なピタゴラスイッチのように完璧に噛み合った結果。


 ついにルナリアは、誰の目も届かず、誰の助けも呼べない『完全なる孤立無援(絶対の密室)』状態に置かれてしまった。

 静寂に包まれた離宮の廊下に、カツン、カツンと、理屈の通じない絶対的な暴力の足音が、確かな死の気配を纏って近づきつつあった。


 誰も予想しえなかった、凄惨な血の宴の幕が、今まさに上がろうとしていた。

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