表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
リーガル・レジスタンス 〜法治国家を目指して〜  作者: ムササビ-モマ
第3章『秩序の崩壊』
27/57

第7話 『甘やかなる密談』

1 王の強欲と、東への旅立ち


 本宮の奥深く、国王ゼノンの執務室。

 重厚なマホガニーの机越しに、ゼノンは第二王子リュートを見下ろしていた。その眼光には、一国の主としての威厳と、隠しきれない強欲な光が混じり合っている。


「リュートよ。お前が東のオルディナ公爵家と共に立ち上げた海運組合だが、上がってくる帳簿の数字は極めて順調であるようだな」

「はっ。すべては陛下の御威光と、王国の発展を願う臣民の努力の賜物にございます」

 リュートは完璧な臣下の礼をとり、頭を垂れたまま澱みなく答えた。

 王家の金庫を潤すその数字こそが、忌み子である彼がこの理不尽な王宮で生き残るために自らの手でもぎ取った最大の盾である。


「うむ。しかし……」

 ゼノンは顎を撫で、探るような視線を落とした。


「現在、組合の利益の多くが西のクロムハルト家への研究援助に回されておる。書類上の数字は美しくとも、現場の末端で横領が行われていないとも限らん。王都から書類を眺めているだけでは、真の利益は計れぬ。そうであろう?」


『……なるほど。現場を直接締め上げ、さらに利益の純度を上げろということか。王の強欲を利用して僕を王都から遠ざけようとする者がいるようだが、悪くない話だ』

 リュートは内心で盤面を読みながらも、表向きは忠義に満ちた声で応じた。


「御意にございます。現場の弛みは、長期的には王家の損失に直結いたします」

「よろしい。ならば、自らの目で現場を査察してこい。東のオルディナ領へ赴き、組合の物流と資金の動きを徹底的に洗い出すのだ。護衛には、お前が信頼を置く離宮の警備隊長カイルを伴うことを許す」


「はっ。身命を賭して、御期待に沿う成果を持ち帰ります」

 絶対の王命が下った。

 リュートにとっても、アイリスと共に構築した海運ルートを直接確認し、東の公爵家との連携を強化することは、今後の自陣営の経済的土台を固める上で渡りに船の展開であった。


   ◇


 翌朝。離宮の正門前。

 東への長旅に向けた荷積みが進む中、警備隊長カイルは、残留する副長を門の脇へ呼び寄せていた。


「いいか。俺と数名が殿下の護衛として東へ向かう間、離宮の外周防衛はお前たちに任せる。……昨日、第一王子が泣き喚いて敗走した件、本宮の連中が報復に出ない保証はどこにもない」


「分かっています、隊長。ですが、相手が王妃や側妃の権限という正論を盾に正面から乗り込んできた場合、我々の一存では……」

 歴戦の副長の額に、脂汗が滲む。平民上がりの彼らが、本宮の権威に逆らうことは文字通り首が飛ぶことを意味する。

 カイルは低い声で、しかし確固たる意志を込めて命じた。


「門は固く閉ざせ。国王陛下か王妃様の正式な書状と印璽を持たぬ者は、いかなる理由があろうと敷地内へ入れるな。もし強行突破しようとする輩がいれば、俺の独断の命令だと言って剣を抜け。……ルナリア様を、何としてもお守りしろ」

「……はっ! 命に代えましても」

 副長が力強く頷くのを確認し、カイルは馬車の待つ広場へと戻った。


 そこでは、リュートが出立の挨拶のため、母ルナリアの前に立っていた。

「母上、王命により、これより東のオルディナ領へ視察に向かいます。しばらくの間、離宮を空けることになりますが……」


「気をつけて行ってきなさい、リュート。東の公爵家には、くれぐれも失礼のないようにね」

 ルナリアは優しく微笑み、リュートの黒髪を撫でた。その背後には、灰髪の騎士ルリカが静かに控えている。リュートはルリカに向き直り、真剣な眼差しで告げた。


「ルリカ。僕とカイル隊長が不在の間、お母様の護衛を頼む。……それと、リーゼのことも。今朝は見送りに来ていないようだが」

「はっ。リーゼロッテ様は昨夜からご自身のお部屋でお休みになられております。今日も朝から、王女としての教養の授業がおありだとか。……それと殿下、昨夜逃げ帰った第一王子について、本宮の協力者から報告が」

 ルリカは声を潜め、無機質な声で告げた。


「第一王子はご自身の宮や実母である第一側妃様のもとへは戻らず、第三側妃ソフィア様の寝所へ逃げ込み、そのまま一夜を明かしたとのことです」

 その報告を受け、リュートは昨晩母ルナリアから聞き出した襲撃の理由を重ね合わせ、冷徹な状況分析を走らせた。


『昨日、今まで離宮に寄り付きもしなかったグラクトが突然乗り込んできた理由。母上によれば、奴はあろうことか、王国特有の風習である「情交奉仕者」の役割を母上に要求してきたという。自分が神の子であるという絶対の特権意識から、父の側妃すら己の欲求を満たす道具だと錯覚した、極めて傲慢で幼稚な暴走だ。結果として、母上にそのちっぽけな万能感をへし折られ、現実から目を背けた奴は、自らを全肯定し甘やかしてくれるソフィアの肉体へ逃げ込んだ、というわけだ』


「王宮の人間は、己の利益と品位を最優先する」。その絶対のルールに基づき、リュートは本宮の勢力図を解体する。

『ヒルデガードにとって、手塩にかけた最高傑作が、政敵である第三側妃の肉欲に絡め取られることなど絶対に容認できない。彼女の次なる標的は離宮ではない。ソフィアからいかにして第一王子の支配権を奪い返すか、という本宮内部での熾烈な権力闘争に全精力を注ぐはずだ』

 リュートの脳内で、盤面の脅威が完全に裏返る。


『第一側妃と第三側妃が第一王子を巡って潰し合いを始める以上、外部の離宮へちょっかいを出す余裕などなくなる。むしろ、第一の駒が不安定さを覗かせた今、帝国との外交の切り札であるリーゼの政治的価値は相対的に跳ね上がっている。いくら出来損ないと疎んでいようが、自らの重要な手駒である娘を無意味に傷つけるような真似はしない』

 リュートは推論を重ね、自らの防衛網を確認する。それは、王宮の人間が「合理的な政治闘争を行う」という大前提に立った計算であった。


『本宮が内輪揉めで自滅している間は安全だ。それでも、再び予測不能なイレギュラーが起きる可能性に備え、カイルを通じて残留する副長たち外周警備には「王の印璽なき者はすべて斬り捨てろ」という絶対防衛の命令を出した。王宮のルールに縛られている限り、これで物理的にも法的にも手出しはできない』

 リュートは計算を終え、微かに息を吐いた。


『僕が東でさらに莫大な利益を上げ、王を黙らせる実利を作ってくる間、お母様はルリカと警備隊のいる離宮の奥に、リーゼは本宮の奥にいれば安全だ』

 リュートは踵を返し、待機していたカイルと共に東へ向かう馬車へと乗り込んだ。


 ここから数週間、彼が王都を物理的に離れるというこの絶対的な空白。それが、ルナリアを未曾有の危機へと陥れる引き金となることを、この時のリュートはまだ知る由もなかった。




2 テオ目線のイチャイチャ


 第二王子リュートを乗せた馬車は、王都の喧騒から遠く離れた東のオルディナ公爵領へと到着した。

 広大な敷地を持つ公爵邸の庭園には、初夏の陽光が降り注ぎ、色とりどりの薔薇が甘い香りを漂わせている。


 その庭園の入り口で、長旅を終えたリュートを出迎えたのは、東の公爵家の至宝――アイリス・ルーナ・オルディナであった。

 十三歳となり、少女から大人の女性へと差し掛かる彼女は、公爵令嬢にふさわしい上質なドレスを身に纏い、論理の女神のような気品と美しさを兼ね備えていた。


「よくぞお越しくださいました、リュート殿下。……お待ちしておりましたわ」

 アイリスは完璧な淑女のカーテシーをとり、華やかな笑顔を向ける。リュートもまた、王族としての洗練された所作で彼女の薄い手を取り、その甲に軽く唇を落とした。


「出迎え感謝する、アイリス。君の顔を見られて嬉しいよ」

 二人は自然な動作で腕を組み、親しげに顔を寄せ合いながら、薔薇の咲き乱れる庭園の奥へと歩き出した。その姿は、誰の目から見ても「互いに惹かれ合う、麗しき王侯貴族の少年少女」の美しい一枚の絵画であった。

 ――ただ一人、庭園の茂みの陰から、血走った目でその光景を睨みつけている少年を除いては。


『く、くそっ……! あの忌々しい黒髪王子め!』

 アイリスの二歳下の弟、テオドールは、ギリギリと奥歯を鳴らしながら茂みの葉を握り潰していた。

 重度のシスコンである彼にとって、姉のアイリスは絶対的な女神である。かつてリュートが姉に近づいた際、木剣を持って乱入したこともある彼だが、今は公爵家の子息としての立場上、表立って王族に斬りかかるわけにもいかない。


『あんなに至近距離で姉上に身を寄せて……! 今頃、甘ったるい愛の言葉でも囁いて、純真な姉上をたぶらかしているに違いない! 許さん、絶対に許さんぞ!』

 テオドールの目には、薔薇のアーチの下で微笑み合う二人の姿が、ロマンチックな逢瀬の只中にあるようにしか見えていなかった。

 しかし、現実は彼の想像をはるかに、そして致命的に裏切るものであった。

 腕を組み、周囲から見れば甘い吐息を交わしているように見える距離で、リュートとアイリスは極めて冷徹な声で言葉を交わしていた。


「アイリス。さっそくだが、今期の海運組合の純利益の推移は?」

「ふふっ。殿下の設計通り、見事な右肩上がりですわ。王都の貴族たちから集めた資本は完全に市場を支配しつつあります」

 アイリスは妖艶な笑みを浮かべたまま、数字の羅列を澱みなく諳んじる。


「ただ、一つ懸念が。帝国との極秘貿易ですが……現在の魔導船の積載量では、燃費がギリギリですの。魔力石の高騰もあり、このままでは利益率に一・五パーセントほどのブレが生じる可能性がありますわ」

「なるほど。なら、余裕を持って次期航海からは積載量を二十パーセント減らそう。その分、船体のスピードを上げ、往復の回転率でカバーするんだ。全体の利益は落ちないし、海竜との遭遇リスクも物理的に減らせる」


「……! 素晴らしいわ、殿下!」

 アイリスの金色の瞳が、感嘆と知的な興奮に大きく見開かれた。


「積載量を減らせば船体の損耗率も下がり、長期的なドックでの修繕費(運用コスト)がさらに圧縮できますね。目先の利益に囚われず、回転率とリスクヘッジで総利回りを叩き出す……ええ、完璧な計算ですわ」

 かつて王都の迷宮庭園で、特権状という毒を盛り込んだ悪魔的な密約を交わした二人の「同類」。彼らにとっての愛の囁きとは、詩的な美辞麗句などではない。血も涙もない資本主義の論理と、冷徹な利益の最大化を語り合うことこそが、互いの魂を最も共鳴させる行為であった。


「君の現場での運用管理があってこそだ。背中を預けられる最高のパートナーだよ」

「ふふ。殿下にお褒めいただき、光栄の極みですわ」

 二人は互いの冷徹な知性を讃え合い、心底楽しそうに微笑み合った。

 その、論理と思想が完璧に合致した者同士にしか出せない「極上の笑顔」を遠目から見たテオドールは、いよいよ白目を剥いて卒倒寸前となっていた。


『あ、ああっ……! 姉上が、あんなにとろけるような顔で黒髪王子を見つめている! 完全に骨抜きにされているじゃないか! ぐぬぬぬ……ッ!!』

 庭園の美しい風景の中、実利と数字を貪る「資本主義の怪物たち」の密談と、それを純愛だと致命的な勘違いをしてハンカチを噛みちぎる少年の構図は、極めてシュールな喜劇を生み出していた。


 だが、この和やかな(?)休息の時間は長くは続かない。

 東の公爵家という強大な後ろ盾を得るための、次なる盤面――夜の晩餐会が、彼らを待ち受けていたのである。




3 最強の母と、婿入りの打診?


 夜。東のオルディナ公爵邸、絢爛たる大食堂。

 数々の豪奢な料理が並ぶ長テーブルには、歓迎の宴とは到底思えぬ、ひどく重苦しい緊張感が張り詰めていた。

 その元凶は、上座に座る当主・オルディナ公爵である。


 王宮の泥沼から徹底して距離を置き、東の半独立状態を維持してきた極限の保守主義者である彼は、手にした銀のナイフを微かに震わせながら、鋭い眼光でリュートを睨みつけていた。


「……リュート殿下。王都における事業の立ち上げ、見事な手腕とお見受けいたします。ですが」

 公爵の低い声が、広間に響く。


「いくら事業のパートナーとはいえ、我が娘アイリスとの距離が少々近すぎるのではありませぬか。……我が家は平穏を是とします。王家との間に妙な噂が立てば、東の領地の信用に関わりますぞ」

 それは、公爵なりの「領地と娘を守るための、王族に対する決死の牽制」であった。

 その父の言葉に勇気づけられたように、同席していた弟のテオドールも身を乗り出し、顔を真っ赤にして叫んだ。


「そ、そうです! 昼間から庭園で姉上に密着して……! 姉上をたぶらかすのはやめろ!」

『……なるほど。これが東の公爵家の冒険恐怖症の防衛本能か』

 リュートが冷徹な頭脳で彼らの心理状態を分析し、どう切り返すか(論破するか)を思考し始めた、まさにその瞬間だった。


 ――スパーンッ!!


 鼓膜を打つような鋭い破裂音が、大食堂の空気を一刀両断した。

 公爵とテオドールの肩が、文字通りビクンと跳ね上がる。

 音の発生源は、公爵の隣に座る美しき公爵夫人であった。

 王国最高の武門であり軍部トップを担うアイゼンガルト侯爵家(元帥家)の出身である彼女は、手にした象牙の扇子をテーブルに叩きつけ、氷点下の微笑みを浮かべて夫と息子を見据えていた。


「……あなた? そして、テオドール」

 夫人の声は決して荒ぶってはいない。だが、そこには歴戦の将軍すら平伏させる、武門特有の絶対的な覇気が込められていた。


「一介の公爵が、わざわざ東へ御足労いただいた王族に向かって、何という口の利き方ですか。……我が家の『品位』を疑われますよ?」

「う、うむ……っ。す、すまない……」

「あうぅ……はい、母上……」

 先ほどまでリュートを威圧していた公爵は滝のような冷や汗を流して完全にフリーズし、テオドールに至っては首をすくめて子犬のように震え上がった。


 物理的な戦闘力と精神的なヒエラルキーにおいて、この公爵家は完全に「母(夫人)が最強」という絶対法則によって支配されているのである。


「申し訳ございません、殿下。男という生き物は、どうにも視野が狭くていけませんわね」

 夫人は一瞬で空気を切り替え、春の陽だまりのような優雅な微笑みをリュートへと向けた。

 その瞳の奥には、アイゼンガルトの血筋らしい「強者の力量を測る」鋭い査定の光が宿っている。


「……ところで、殿下。我が娘アイリスはいかがですか? 殿下のお眼鏡に適う働きができているでしょうか?」

 それは、娘を預ける相手としての「品定め」の問いであった。

 美しい、気立てが良い、といった表面的な貴族の建前(お世辞)を期待している目ではない。

 その意図を正確に汲み取ったリュートは、一切の照れも、愛想笑いも浮かべることなく、極めて真顔で、しかし絶対の熱量を込めて断言した。


「ええ。アイリスは、本当に素晴らしい女性です」

 リュートの真っ直ぐな言葉に、テオドールが「ほら見ろ! やはり姉上を!」と立ち上がりかけるが、夫人の扇子が一瞥しただけで再び着席する。


「数字の裏にある真理を見抜く嗅覚。いかなる事態にも動じない冷徹なリスク管理能力。そして何より、強欲さの裏に隠されたあの緻密極まりない計算……。彼女ほど有能で、互いの背中を預けられる最高のパートナーは、この世界に存在しません。私の、最大の誇りです」

 それは、甘い恋の囁きなどとは対極にある、血も涙もない『資本主義の怪物(実務者)』としての最大級の賛辞であった。一切の隙なく論理と思想を共有できる同類としての、極めて重い信頼の告白。


「…………っ」

 その言葉を聞いた瞬間。

 当のアイリスは「恐れ入ります、殿下」とすまし顔で淡々とスープを飲んでいたが、その持っている銀の匙は微かに震え、彼女の白磁のような耳の先から首筋にかけて、隠しきれないほど真っ赤に染まり上がっていた。


 王都の泥沼を共に泳ぐ彼女にとって、リュートのその冷徹な評価こそが、何百の詩的な愛の言葉よりも深く魂を揺さぶる『極上の肯定』だったのである。

 その娘の微細な反応と、リュートの確固たる実力(本質を見抜く眼)を完璧に理解した公爵夫人は、扇子で口元を隠し、心底満足げに目を細めた。


「……まあ、まあ……ふふっ」

 夫人の妖艶な笑い声が、大食堂に響く。

 そして彼女は、冷や汗を流す夫の存在など完全に無視し、至極当然のことのように言い放った。


「リュート殿下になら、いつでも我が家に婿入りしていただいて構いませんことよ?」

「なっ……!? 母上、何を……!」

「ぶふっ……!」

 テオドールが絶叫し、公爵がむせて咳き込む。

 だが、リュートのその冷徹な知性と、夫人の絶対的な権力が支配する和やかな空気の中で、彼ら沈黙する男たちに介入する余地など一ミリも残されてはいなかった。


 王都の権力闘争とは無縁の東の地で、リュートは確かな自分の「居場所(生存圏)」と、未来の強固な後ろ盾を、泥臭く、しかし確実に手中に収めつつあった。




4 意味深な夜(深夜の政治会議)


 深夜。東のオルディナ公爵邸、リュートにあてがわれた豪奢な客室。

 廊下の暗がりでは、弟のテオドールが壁に張り付き、血走った目でリュートの部屋の重厚な扉を睨みつけていた。


『あ、姉上が……薄絹の寝衣にショールを羽織っただけの姿で、あいつの部屋に入っていった……! しかも、微かに寝香水の甘い香りまで……っ! こ、こんな夜更けに二人きりで、一体何を……!』

 テオドールの脳内では、もはや破廉恥極まりない光景が繰り広げられており、彼はギリギリと壁を掻き毟りながら、今にも木剣を持って突入しようかという衝動と戦っていた。


 しかし。

 重厚な扉の向こう側――リュートの客室の空気は、甘い色恋などとは対極にある、氷点下の政治的緊張に包まれていた。


「……王都の市場は、完全に我々の海運ルートに依存し始めましたわ。内務卿をはじめとする本宮の貴族たちも、この莫大な税収と利権を手放すことはもはや不可能です」

 広大な天蓋ベッドの上には、色気のかけらもない王都の派閥図と、膨大な経済指標の書類が無造作に広げられている。

 薄着のアイリスは、その美しい脚を崩すこともなく、冷徹な目で盤面を見下ろしていた。


「経済の土台は固まった。だが……王都の権力情勢の動きが、どうにも不気味だ」

 リュートは腕を組み、派閥図の上に置かれた駒を指先で弾いた。


「出立前にも確認した通り、第一王子は母上に精神を砕かれ、第三側妃ソフィアの元へ逃げ込んだ。ヒルデガードは今、己の最高傑作の操作権を取り戻すため、ソフィアとの泥沼の内部闘争に全精力を注いでいるはずだ。彼女に、離宮へ攻撃を仕掛ける余裕などない」

「ええ。第一側妃様の目は完全に本宮の奥へ向いていますわ。ですが、殿下。各派閥が己の実利を追求した結果、盤面には極めて異様な『空白』が生まれています」

 アイリスは、扇子の先で盤上の三つの駒を外へ押し出した。


「クロムハルト家のヴィオラ様に対する、完璧な実績を理由にした西への帰省命令。殿下に対する、国王陛下の利益追求を大義名分とした東への視察命令。そして、リーゼ様に対する、帝国使節団の接待という反論不可能な実務の押し付け。……実務責任者であるセラフィナ侯爵は、間違いなく彼女を囲い込むための罠を張るでしょうね。これらの采配が、すべて同時期に下されていますわ」


「……ただの偶然じゃない。各々が王宮のルールに則って合理的な手を打った結果、まるで示し合わせたかのように、ルナリアの周囲から手足と知恵が完全に引き剥がされた」

 リュートの赤い瞳に、鋭い警戒の光が宿る。

 法曹としての直感が、権力者たちの損得勘定が偶然に作り上げたこの「合法的な密室」の異様さに警鐘を鳴らしていた。


「誰も直接手を下そうとはしていない。だが、離宮は今、物理的にも政治的にも完全に孤立している。いくらヒルデガードに動く余裕がなくとも、この無防備な構造的欠陥は危険すぎる。……視察の体裁が整い次第、予定を前倒しして王都へ戻る。嫌な予感がするんだ」

 リュートはそう吐き捨てながらも、脳内のどこかではまだ「王宮のシステム」を信じていた。


『離宮にはルリカとカイルの残した警備隊がいる。王妃の印璽がなければ誰も手出しはできない。いくら盤面が空白であろうと、政治的メリットの欠片もない単なる物理的暴力を振るうような非合理な人間は、あの王宮には存在しないはずだ』

「アイリス。万が一に備え、現在稼働している魔導船の第三船団のスケジュールを空けられるか?」


「……船団を? まさか、ただの移動手段として使うおつもりですか?」

「いや。最悪の場合、王都の物流の首根っこを押さえる物理的な武器として使う」

 リュートの冷酷な宣言に、アイリスは息を呑んだ。


「王宮の連中が理不尽な政治的圧力でこちらを縛り付けようとするなら、海運の完全停止をもって王の喉元にナイフを突きつける。あるいは、検問を完全に無視した海路からの強行救出だ。……今のうちに、積荷の偽装と待機座標の再設定を頼む」

 経済の血流を、一瞬にして国家に対する「攻城兵器」へと反転させる悪魔的な発想。

 アイリスは一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐにその唇を三日月のように歪め、極上の笑みを浮かべた。


「……恐ろしい方。王国の経済基盤を、自らの私兵のようにお使いになるのですね。ええ、承知いたしました。書類上の偽装は、私が完璧に仕上げてご覧に入れますわ」

 二人の資本主義の怪物は、王家を根底から揺るがす恐るべき謀略を、まるでチェスを楽しむかのように一晩中語り明かした。法と経済、そして権力をどうハックするか。その知的な応酬は、彼らにとって何よりも濃密で、魂を満たす時間であった。


   ◇


 そして、翌朝。

 朝の光が差し込む中、重厚な扉がガチャリと開いた。

「いやあ、実に有意義な夜だった。君の物流偽装のロジックは完璧だ、アイリス」


「ふふっ。殿下の王法を逆手に取った解釈こそ、舌を巻くほど見事でしたわ。……本当に、満たされました」

 徹夜での激論を終えた二人は、疲労を見せつつも、極上の傑作を完成させた芸術家のような、ひどく満足げで艶やかな表情を浮かべて廊下へと出てきた。


「あ、あああ……っ!!」

 その「すべてを終えて満ち足りた男女の顔」を目の当たりにしたテオドールは、悲鳴にも似た声を上げ、ついに白目を剥いて廊下の絨毯の上にぶっ倒れた。


「あら、テオ? どうしたの、こんなところで寝て」

「放っておこう。少し疲れているんだろう」

 公爵邸の者たちが「ついに殿下と御令嬢が結ばれた」と完全に勘違いしてざわめく中、当の本人たちは涼しい顔で朝食へと向かう。

 東の地で、リュートとアイリスの共犯関係は盤石なものとなった。

 だが、彼らが王都の権力闘争を「政治と経済のロジック」で完全に制圧できると確信していたまさにその頃。


 遥か遠くの王都では、彼らの理屈など一切通じない「本物の暴力」と「悪魔的な偶然」が噛み合い、最悪の密室が完成しようとしていたのである

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ