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リーガル・レジスタンス 〜法治国家を目指して〜  作者: ムササビ-モマ
第3章『秩序の崩壊』
26/53

第6話 『偽りの聖母』

1 蜘蛛の巣への逃避と、甘美なる毒の簒奪


 離宮のサロンで己の無力さを思い知らされ、完全なる敗北を喫した第一王子グラクトは、息も絶え絶えに本宮の最奥――第三側妃ソフィアの私室へと逃げ込んでいた。


「ソ、フィア……っ、義母上……!」

 重厚な扉にすがりつくようにして倒れ込んだ十三歳の少年の顔は、涙と鼻水、そして恐怖と屈辱で無残に歪んでいた。王家の威厳も、神の子としての品位もかなぐり捨て、ただ怯えるだけの等身大の子供がそこにいた。


「まあ、グラクト殿下。……一体どうなさいましたの。そのようなお痛ましいお姿で」

 魔導卿の血を引く第三側妃ソフィアは、驚いたように目を丸くしながらも、衣擦れの音すら立てずに滑るように歩み寄り、床に這いつくばるグラクトをその豊かな胸へと抱きとめた。

 春の陽だまりのように甘く、そして頭の芯を麻痺させるような媚薬めいた香りが、パニックに陥っていたグラクトの鼻腔を満たす。


「あの女が……! 帝国の野蛮女が、僕を……僕を力で床に叩き伏せて……っ! 僕は神の子なのに、あいつは僕を、ただの赤子だと……っ!」

 グラクトはソフィアの最高級のドレスを固く握りしめ、わあわあと声を上げて泣きじゃくった。ルナリアから突きつけられた氷のような正論と、絶対的な実力差。そのすべてがグラクトの自我を破壊し尽くしていた。


『……ああ。ヒルデガード様が手塩にかけた見事な操り人形は、ひび割れるとこれほどまでに脆く、無様なものなのですね』

 ソフィアの内心は、極めて冷酷で透徹した計算に満ちていた。

 王妃の承認を得て『情交奉仕者』の任を得た彼女にとって、グラクトが実母ではなく自分の元へ泣きついてきたこの瞬間こそが、王国の未来の権力を完全に簒奪する「チェックメイト」であった。


「ああ、可哀想に。あの恐ろしい女に、乱暴されたのですね……」

 ソフィアは、グラクトの言葉の矛盾や弱さを一切指摘しない。ルナリアが彼に与えようとした「現実を受け止めるための愛の鞭」を、彼女は最も甘く、最も致死性の高い毒をもって上書きしていく。


「もう大丈夫ですよ、私の愛しい光。……殿下は何も悪くありません。悪いのは、殿下の気高き御心を理解できず、暴力に訴えたあの野蛮な獣なのです」

「ほんとう、に……? 僕は、空っぽなんかじゃ……」


「ええ。殿下は神に選ばれた、絶対の光。貴方を否定する言葉など、すべて狂人の戯言に過ぎません。……さあ、その傷ついた御心を、私がすべて癒やして差し上げますわ」

 ソフィアは、泣き濡れた少年の頰を優しく撫で上げ、そのまま蠱惑的な紫水晶の瞳で彼を射抜いた。


 情交奉仕者としての彼女の役割は、王子の性的な欲求を満たし、王族としての余裕と支配を教え込むことにある。ソフィアは自らに与えられたその「合法的な特権」を最大限に利用し、グラクトの恐怖と屈辱を、底無しの快楽によって物理的に塗り潰す行動に出た。

 寝室の重い天蓋が下ろされ、濃密な香が焚き染められる。


 ソフィアの白く滑らかな指先が、少年の強張った身体から衣服を剥ぎ取り、ルナリアへの恐怖を脳髄から溶かし出すように、執拗で甘美な奉仕を繰り広げた。


 それは真の愛情などではない。グラクトという精神的支柱を失った少年を、自分なしでは息もできないほどの依存状態へと叩き落とすための、極めて理知的で残酷な「調教」であった。

 グラクトは甘い声で己を全肯定し続けるソフィアの肉体にすがりつき、溺れるように快楽の底へと沈んでいった。


   ◇


 翌朝。

 豪奢な天蓋ベッドの中で、グラクトはまどろみから目を覚ました。

 隣には、美しい裸体にシーツを巻きつけたソフィアが、慈愛に満ちた笑みを浮かべて彼を見つめていた。


「おはようございます、殿下。……昨夜の殿下は、大変男らしく、立派でございましたよ」

 その甘い囁きを聞いた瞬間、グラクトの脳内で、昨日の離宮での惨めな記憶が「都合の良い形」へと完全に書き換えられた。


『そうだ……僕は神の子だ。神の子である僕の身体が、これほどの熱と力を持っている。ソフィアも僕を王として讃え、平伏しているではないか』

 ルナリアが静かな赤眼で見下ろしながら放った『これからは、その等身大のご自分を受け止め、歩いてください』という、真の王になるための残酷で尊い導きの言葉。


 それは、ソフィアという情交奉仕者が与えた「極上の快楽」と「無条件の全肯定」という猛毒によって、彼の心から洗い流されていた。


『僕は間違っていない。僕を認めないあの帝国の女が、狂っている異常者なのだ……!』

 等身大の己の弱さを直視する恐怖から逃れ、グラクトの精神は完全に甘い毒に溶かされていく。自らの意思で、現実から完全に目を背けたのだ。

 王国特有の「情交奉仕者」という腐敗したシステムが、彼から自立の芽を摘み取った瞬間であった。


「……ありがとう、ソフィア。君だけが、僕の正しい理解者だ」

 ソフィアの肩を抱き寄せる十三歳の少年の瞳には、もはや未来を切り拓く王としての光はない。あるのは、甘い毒に脳を侵され、自分を肯定する者にしか価値を見出せなくなった、傲慢で空虚な傀儡の暗い熱だけであった。




2 自己正当化の妄想と、すれ違う兄妹の断絶


 ソフィアの私室、豪奢な天蓋ベッドの中。

 朝の光を浴びながら、グラクトの胸中にふと、一抹の罪悪感がよぎった。

『昨日、あんな惨めな目に遭ったのに……僕は母上ヒルデガードに報告すらしなかった。母上は僕を心配しておられるだろうか』

 これまで絶対的な庇護者であった実母から逃げ出し、別の女の腕の中で朝を迎えたという事実。それは、彼がヒルデガードの課す「神の子としての完璧な重圧」から逃げ出したことの何よりの証明であった。

 その微かな迷いを、隣で微笑む毒蜘蛛が見逃すはずもなかった。


「殿下? どうかされましたか。……ああ、もしかして、ヒルデガード様を気にかけておいでですか」

「っ、いや……そういうわけじゃ……」


「お気になさることはありませんわ。殿下はもう、立派な一人の男。いつまでも母親の陰に隠れている子供ではないのですから。殿下がご自身の足で歩み始められたこと、ヒルデガード様もきっとお慶びになります」

 ソフィアのその言葉は、グラクトの逃避を「自立」という美しい言葉にすり替える、極上の免罪符であった。

 そうだ、とグラクトは安堵とともに自己正当化の論理を組み立て始める。


『僕はもう、母上に甘える赤子ではない。それに……母上が寂しい思いをすることはないはずだ。母上には、妹のリーゼロッテがいるのだから』

 グラクトの脳裏に、同じゼノビアの血を引きながら、色素の薄いプラチナブロンドを持って生まれた大人しい妹の姿が浮かぶ。


『僕は次期国王としての厳しい重圧を背負わされていたから、母上も厳しく接するしかなかった。だが、リーゼは違う。王位を継ぐ必要のない娘なのだから、母上はきっと、今の僕に対するソフィアのように、裏では優しく抱きしめ、無条件の愛を注いで甘やかしているに違いない。……僕たちは、愛に溢れた素晴らしい家族なのだ』

 それは、彼が己の罪悪感を消し去るためだけに作り上げた、完全に都合の良い妄想であった。


 グラクトは、ヒルデガードが「不完全な駒」であるリーゼを忌み嫌い、一度も抱きしめたことすらないという凄惨な事実を、一切知らなかったのである。


 この残酷な思い込みは、後に離宮側についたリーゼロッテと対峙した際、「どうして母上や僕の愛情を裏切るんだ」という、永遠に埋まらない決定的な認識のズレ(断絶)を生むことになる。


「……ああ。ありがとう、ソフィア。君の言う通りだ」

 己の妄想によって実母に対する罪悪感を完全に捨て去ったグラクトは、シーツ越しにソフィアの滑らかな肩を引き寄せ、熱を帯びた瞳でそのまま彼女の身体へと深く覆いかぶさった。


「僕には、君だけがいればいい。君だけが、僕の正しい理解者だ」

「ええ、殿下。……私も、殿下をお慕いしておりますわ」

 少年の性急で盲目的な熱情を受け入れ、その背に白く柔らかな腕を回しながら、ソフィアはグラクトから見えない角度で、艶やかな唇を三日月のように吊り上げた。


『――すべて、計画通り。ヒルデガード様が心血を注いだ神の子は、これで完全に私の手駒となりましたわ』

 実母の重圧から引き剥がし、ルナリアによって破壊された少年の空っぽの心を、自らの甘い毒(快楽と全肯定)で隅々まで埋め尽くす。


 王国の未来を背負うはずだった第一王子の精神的な自立は、この薄暗い天蓋の中で完全に息絶えた。ソフィアの妖しく冷酷な笑みと、少年の盲目的な吐息が交じり合う中、朝の寝室は甘く退廃的な熱の中へと静かに沈んでいった。




3 情報収集と「離宮の真実」の把握


 本宮の奥深く、第一側妃ヒルデガードの私室は、氷点下のような静寂と冷気に支配されていた。

 彼女の前に傅く密偵が、一切の感情を排した声で報告を紡ぐ。


「――以上の通りです。第一王子殿下は昨日、離宮にてルナリア様に制圧された後、そのまま第三側妃ソフィア様の寝所へ逃げ込まれ、一夜を共にされた模様です」


 ピキリ、と。

 ヒルデガードの白魚のような指が、手にした高級な扇の骨を無慈悲にへし折った。


「……たかが女一人に腕を捻り上げられた挙句、私に顔向けできず、あの泥棒猫ソフィアの甘い毒にすがりつくとは。何と情けない」

 ヒルデガードの切れ長な瞳に、氷のような怒りが渦巻く。

 だが、その怒りの矛先は「傷ついた息子への同情」などでは断じてない。彼女が手塩にかけて育て上げた『王太后への絶対的な階段(神の子)』という至高の器に、癒えないひびを入れられたことへの、支配者としての冷徹な激怒であった。


「ですが、あれは私の最高傑作にして王位を継ぐ絶対の駒。ソフィアの元から速やかに引き戻し、壊れた自尊心は私が修復してやらねばなりませんわね。……あの帝国の女に、自らの身の程を弁えさせるという『結果』をもって」

 ヒルデガードが冷酷な報復の算段を巡らせていると、密偵はさらに声を潜め、致命的な情報を落とした。


「恐れながら、ヒルデガード様。……事態は殿下の御心だけに留まりません。我々が離宮の動向を探ったところ、第二王子リュート、第一王女リーゼロッテ、さらには西のクロムハルト家の令嬢ヴィオラまでもが頻繁に離宮へと出入りし、ルナリア妃を中心として結束を強めているとの情報が」


「……何ですって?」

 ヒルデガードの瞳が、ハッと見開かれた。

 離宮。それは、黒髪赤眼の忌み子と、その後ろ盾のない哀れな異国の母親が、無力に身を寄せ合っているだけの「掃き溜め」のはずだった。


 しかし、密偵の報告が事実であれば、そこはすでに単なる隔離施設ではない。ルナリアという女を芯とし、王女や有力公爵家の令嬢までもを巻き込んだ、強固な「コミュニティ(聖域)」と化していることになる。


「リーゼロッテまでが、あの女の元へ入り浸っているというの?」

 ヒルデガードは、自らの腹を痛めて産んだ娘の名を口にしながら、そこに一切の感情を乗せなかった。


 グラクトは今朝のベッドの中で、『母上は、次期国王の重圧がないリーゼには無条件の愛を注いで甘やかしているに違いない』と、己の逃避を正当化する妄想を抱いていた。しかし現実のヒルデガードの胸にあるのは、憎悪すら生温い『完全なる無関心』であった。


『あの色素の薄い出来損ないが、どこで誰とつるもうが私の知ったことではありません。……あれは現在進行中の帝国との婚約交渉という盤上に置かれた、ただの捨て駒。交渉がまとまれば体よく追い出し、わたくしに帝国の後ろ楯があると思わせられる。破談になれば、宮廷貴族に嫁がせわたくしの王宮での影響力を増大させるまでのこと。私にとってどちらに転ぼうとも問題のない人形』

 ヒルデガードにとって、リーゼロッテへの愛情など最初から一欠片も存在しない。この、グラクトの都合の良い妄想と、実母の絶対的な無関心という絶望的なまでの認識の断絶こそが、王国の血統至上主義が生み出した最も悍ましい怪物システムの正体であった。


 だが、ヒルデガードは冷徹な政治家として、目の前の盤面の危険性を正確に弾き出していた。

『忌み子や出来損ないだけならいざ知らず、西の公爵家の嫡流であるヴィオラが入り浸っているとなれば話は別。……私の息子がソフィアの毒に溺れ、権威を失墜させているこの隙に、あの帝国の女は着々と自分の手足と盾を増やし、王宮内に根を張っているというの?』

 ヒルデガードの胸の内に、ルナリアに対する明確な殺意が灯った。


 同郷の武門であるセオリスという狂犬をけしかけ、物理的にあの女を制圧することは造作もない。だが、今の離宮にはリュートやリーゼ、さらにはクロムハルト家という厄介な「目撃者(盾)」が多すぎる。彼らのいる前で強硬手段に出れば、公爵家を巻き込む政治的な大問題に発展しかねない。


「……ふふ。いいでしょう。ならば、その忌まわしい蜘蛛の糸を、一本残らず断ち切って差し上げますわ」

 ヒルデガードの美しく整った唇が、妖艶な三日月のように歪む。

 狂犬の鎖を解き放つ前に、あの女の周囲からすべての手足を引き剥がす。自らの手は決して汚さず、王や王妃が喜んで飛びつく「反論不可能な王国の正論(利益)」を囁くことで、ターゲットたちを合法的に王宮から追放するのだ。


「さあ、帝国のお姫様。貴女を守る騎士も、慕う子供たちもいなくなった完全な密室で……狂犬の牙を、どう防ぐのかしら?」

 第一側妃の冷徹な頭脳が、ルナリアを完全なる「密室での孤立」へと追い込むための、悪魔的な盤面(排除作戦)の実行を開始した。




4 孤立化作戦の実行(反論不可能な駒の排除)


 最初の標的は、西のクロムハルト公爵家令嬢・ヴィオラである。

 舞台は、マルガレーテ王妃が主催する内々の茶会。そこには王妃と第一側妃ヒルデガード、そして王妃教育の合間に同席を許されたヴィオラの姿があった。


「王妃様。西のクロムハルト令嬢の王妃教育、誠に見事な進捗でございますね。いかなる課題も完璧にこなし、作法も非の打ち所がないと、教師たちも舌を巻いておりますわ」

「ええ。西の公爵家も、ようやく王宮の品位というものを理解したようです」

 王妃は冷徹な瞳のまま、満足げに頷いた。

 ヒルデガードは扇を優雅に畳み、ヴィオラへと極めて優しげな、聖母のような微笑みを向けた。


「ええ、本当に素晴らしいわ。……だからこそ、私はヴィオラが心配なのです。未来の母となる者として、この子が根を詰めて倒れてしまわないか、案じて夜も眠れないのですわ」

 ヒルデガードは、その場にいる王妃と周囲の侍女たちに「息子の婚約者を深く愛し、気遣う慈悲深き母」としての顔を完璧にアピールした。

 そして、王妃へと恭しく頭を下げる。


「王妃様。どうかこの『母としての慈悲』をお汲み取りいただけないでしょうか。ヴィオラの類まれなる努力を労い、西の公爵領への一時帰省をお許しいただきたいのです。西の公爵も、王妃様の寛大さに深く平伏することでしょう」

「……悪くない提案ですね。ヴィオラ、西への一時帰省を許可しましょう。ゆっくりと身体を休めてきなさい」

 王妃は即座にこれを承認した。


『……なるほど。私を離宮から引き剥がすつもりね』

 ティーカップを持つ手を優雅に添えながら、ヴィオラの内心は極めて冷静だった。彼女は転生者として、ヒルデガードの放つこの甘い提案の『真の意図(孤立化)』を即座に看破した。


 しかし、盤面は完全に詰んでいる。「未来の義母」による涙ぐましい気遣いを受けて、「絶対権力者たる王妃」が下した恩命。ここで辞退することは致命的な不敬に当たる。

 だが、ヴィオラには焦りはなかった。


『私を盤上から退場させれば、離宮の防衛力が落ちると思っているのなら……ヒルデガード様、あなたの盤面は甘すぎるわ。離宮には、あのバケモノみたいな知力で政治的な盾となってくれると約束したリュートがいる。それに、物理的な盾としてルリカとカイル隊長が控えているのよ。本宮の権力者が強行突破しようとしたって、あの布陣を崩せるはずがない』

 ヴィオラは王宮の絶対的なルールのもと、ルナリアへ直接警告を発する機会を得られないまま馬車に乗ることになる。しかし彼女は「リュートたちがいるから大丈夫だ」と完全に彼を信頼して高を括り、むしろ「これで西の工房で思う存分研究できる!」と内心喜んで王都を後にした。


 この合理的な判断に基づく「信頼ゆえの油断」が、後に彼女を深い後悔へと突き落とすことになるとは、知る由もなかった。


   ◇


 続いての標的は第二王子、リュート。

 ヒルデガードは、国王ゼノンの執務室へと足を運び、彼が最も執着する「富と権力」の急所を突いた。

「陛下。第二王子リュートが立ち上げた海運組合ですが、実に見事な利益を王家にもたらしておりますわね。……ですが、妾は少々懸念しております」


「懸念だと? あれは余の金庫を潤す、優秀な集金装置ではないか」

「ええ。だからこそでございます。現在、組合の利益の多くが西への研究援助に回されております。王都から書類で管理するだけでは、見えない『無駄(中抜き)』が発生しているのではございませんか? 利益の最大化を計るためにも……そろそろ、彼自身を東のオルディナ領へ長期視察に出し、直接手綱を握らせてはいかがでしょう」

 ゼノン国王の目が、強欲な光を帯びて細められた。


 半独立状態にある東のオルディナ領は、国王にとって常に目障りな存在である。そこに王家の人間リュートを直接送り込み、利益を極限まで絞り上げるという提案は、国王の「支配欲」と「利益追求」を完璧に満たす甘美な響きを持っていた。


「……なるほど。あやつの手腕は本物だ。現場に赴かせれば、さらに余の財は増えるというわけだな。よかろう、即座に長期出張を命じる」

 絶対権力者である国王からの「利益を出せという王命」には、いかなる理由があろうとも逆らうことはできない。リュートは一切の反論を封じられ、物理的に東の領地へと隔離されることが確定した。




5 冷徹なる裁可と、知性派の野望


 そして最後の標的は、第一王女リーゼロッテ。

 ヒルデガードは、激務と自身の謀略(色仕掛けによる傀儡化)によって精神をすり減らしている新宰相・ヴァルメイユ侯爵を呼び出し、蠱惑的な笑みを浮かべて「助言」を与えた。


「宰相閣下。間近に迫った帝国使節団の接待ですが……今回の準備、帝国との婚約当事者であるリーゼロッテ本人に任せてみてはいかがでしょう? 実力主義を掲げる帝国に対し、『我が国の王女は自ら外交を取り仕切るほどの実力を備えている』とアピールすることは、交渉において絶大な優位性カードをもたらしますわ」

 帝国という外的要因を盾に取った、反論不可能なロジック。さらに彼女は、悪魔的な一手を付け加える。


「もちろん、王女一人では不安でしょう。補佐にして担当官として、セラフィナ侯爵を据えなさい。彼ら知性派の家系ならば、王女を立派に支えることでしょう」

 ヒルデガードのこの采配は、二重の悪意に満ちていた。一つは、実の娘であるリーゼロッテを本宮の激務に縛り付け、離宮に寄り付かせないこと。もう一つは、グラクトを奪った第三側妃ソフィアの実家(セラフィナ公爵家)をこの面倒な実務に巻き込み、彼らの手足を同時に縛り上げることだ。


 その囁きを受けた宰相ヴァルメイユ侯爵は、本宮の謁見の間にて、国王ゼノンと王妃マルガレーテの前に進み出た。


「陛下、王妃様。間近に迫った帝国使節団の接待に関しまして、後宮の長たる王妃様の裁可を仰ぎたく存じます。……使節団を迎える『名誉責任者(主賓役)』として、帝国との婚約交渉当事者である第一王女リーゼロッテ殿下を据えてはいかがでしょうか。実際の手配や予算管理を行う実務責任者には、知性派の重鎮たるセラフィナ侯爵を推挙いたします」

 宰相の上奏を聞き、マルガレーテ王妃は氷青の瞳を細めた。


 王女を名誉職に据えて品位をアピールしつつ、泥臭い実務と失敗時の責任はすべてセラフィナ侯爵が負う。王家にとって一切のリスクがない完璧な布陣である。


『悪くない提案です。教師たちの評価が本物であるか、帝国という脅威を前にしてどこまで表舞台の重圧に耐えうるか試す良い機会。……もし重圧で潰れ、恥を晒したとしても、すべての実務責任をセラフィナ侯爵に押し付け、王家は無傷で済ませればいいだけのこと』

 マルガレーテ王妃は、この提案の裏にヒルデガードの囁きがあることなど知る由もない。彼女は極めて冷徹な「王家の利益とリスク管理」という天秤だけでこれを測り、静かに口を開いた。


「よろしい。リーゼロッテを本宮へ召し上げ、今回の饗応における名誉責任者としての権限を与えます。セラフィナ侯爵は実務責任者として、王女の顔に泥を塗らぬよう完璧に支えなさい」

「うむ。王妃が許可するならば、余も異存はない。手配せよ」

 この瞬間、大人の醜い権力闘争とは無関係な「国益と責任分散という反論不可能な正論」によって、リーゼロッテを本宮の実務の泥沼へと引きずり込む決定が、誰にも覆せない『王命』として正式に下された。


   ◇


 その数日後。本宮の執務室。

 正式な王命を受けたリーゼロッテは、実務責任者に命じられたセラフィナ侯爵を前に、背筋を真っ直ぐに伸ばして優雅なカーテシーを行った。


「名誉ある大役を仰せつかり、身の引き締まる思いです。セラフィナ侯爵、実務の面では至らぬ点も多々あるかと存じますが、ご指導のほどよろしくお願いいたしますわ」

「はっ。王女殿下を全力でお支えいたします。……して、殿下。我々文官が過去の接待記録を元に作成した、饗応の予算案と席次の草案がございます。殿下は名誉責任者であられますゆえ、こちらは形式的なご確認だけで――」

 セラフィナ侯爵は恭しく腰を折りながらも、内心では薄く嘲笑していた。所詮は十一歳の飾り物。適当に恩を売って手駒にしてやろう、と。


 しかし、顔を上げたリーゼロッテの金色の瞳には、子供らしい戸惑いや、飾り物としての妥協など微塵もなかった。

「侯爵。事前に目を通させていただきましたが、この草案は根本から修正が必要ですわ」


「……は?」

「過去の王国の古い記録など、実力主義の帝国には何の意味も持ちません。帝国の軍事予算の推移を見るに、彼らは質実剛健を重んじています。使節団の席次は、我が国の血統順ではなく、彼らの重んじる『実力(魔導や武術の階級)』を最優先に再配置してください。また、装飾過多な甘口のワインは削り、肉と度数の高い蒸留酒に予算を回します。私が名誉責任者として彼らの前に立つ以上、我が国の『無知』を晒すわけにはいきませんわ」

 流れるような、それでいて一切の無駄を省いた完璧な指示。


 セラフィナ侯爵は息を呑み、思わず十一歳の少女の顔をまじまじと見つめ返した。ヒルデガードが触れ回っていた「不完全な駒」などではない。飾り物として据えられたはずの少女が、帝国の本質を正確にえぐり出し、実務責任者である自分を論理で完全に凌駕したのだ。


『……驚いた。これほどの才女であったとは。……いや、これは素晴らしい』

 魔導と知性を司るセラフィナ侯爵の胸の奥で、黒く巨大な野心が燃え上がった。


『これほどの逸材が帝国に流れるのは、我がセラフィナ家にとって莫大な損失だ。この使節団の滞在中、何らかの理由をつけて帝国の婚約を穏便に破談に持ち込み、我が息子リーデルの妻として何としても囲い込むべきだ!』


   ◇


 その日の夜。

 本宮の回廊の死角、月明かりの届かない影の中で、セラフィナ侯爵は第三側妃である実の娘、ソフィアと静かに視線を交わしていた。


「……第一王子殿下は、おまえの腕の中から出ようとしないようだな」

「ええ、お父様。実母の重圧から逃げ出したあの子は、もはや私の甘やかしなしでは息もできませんわ。……お父様も、素晴らしい『駒』を見つけられたご様子で」

 ソフィアの蠱惑的な笑みに、侯爵は口の端を歪めて頷いた。


「ああ。リーゼロッテ王女は、私が手ずから我が家へ迎え入れる。……これから本格化する接待準備、名誉職の体裁を利用して彼女を徹底的に本宮へ縛り付け、私の指揮下で孤立させる。その合間に息子のリーデルを接近させ、帝国も口を出せない『既成事実スキャンダル』を作り上げて婚約を白紙に戻してやる」

「ふふ。傷ついた第一王子と、優秀な第一王女。次代のローゼンタリアは、我がセラフィナの血が完全に支配することになりましょう」

 知性派の親子は、互いの完璧な盤面を祝して、影の中で妖しく微笑み合った。


 彼らは自らの権力欲を満たすためだけに、リーゼロッテを罠にかける算段を整えた。大人たちの醜い欲望は、リュートのあずかり知らぬところで着実に、そして複雑に絡み合いながら、離宮への包囲網を形作っていたのである。


 数日のうちに、ヒルデガードの撒いた「反論不可能な正論」は、すべて彼女の計算通りに王宮の盤面を動かした。危機を悟りながらも抗えなかったヴィオラは帰郷し、リュートは東へ飛ばされ、リーゼロッテは本宮の奥深くで外交実務に幽閉された。


 自室の長椅子で、ヒルデガードは扇で口元を覆い、妖艶で残酷な笑いを漏らした。

 想定以上に完璧に仕上がった盤面。離宮という忌まわしい蜘蛛の巣は、今や完全に解体された。


「さあ、帝国のお姫様。貴女を守る騎士も、慕う子供たちもいなくなった完全な密室で……狂犬の牙を、どう防ぐのかしら?」

 自らの手は一滴の血にも汚さず、標的を完全な孤立へと追いやった第一側妃。

 理屈の通じない絶対的な暴力の足音が、静寂に包まれた離宮へと確実に近づいていた。

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