第5話 『帝国の護身術』
1 離宮への侵入とカイルの覚悟
白薔薇の間での茶会から数日後。
第一王子グラクトは、専属護衛であるセオリスすらも伴わず、本宮の重厚な扉を押し開け、外の陽光の中へと足を踏み出した。
目指す先は、渡り廊下で繋がる後宮とは異なり、王宮の敷地の最奥、一度外へ出なければ辿り着けない独立した別棟――『離宮』である。
彼の胸中には、あの茶会でルナリアから浴びせられた言葉が、黒い染みのようにこびりついていた。
『――殿下には、自らの意志で欲望を律する強い王になっていただきたいのです』
『――その未熟な歩みを助け、立派な大人へと導くのは、他でもない実のお母様のお役目でしょう』
ローゼンタリア王国の絶対的な思想において、グラクトは金髪金眼を宿す『神の子』であり、天の理の顕現である。その彼に対し、格下である異国の側妃が「未熟」と断じ、直接的に教訓を垂れるなど、国家の秩序と王族の『品位』を根底から破壊する大罪に他ならなかった。
『あの女の振る舞いは、王国の絶対の理に反している。……だが、それを母上や王妃様に泣きつけば、僕が本当に「母の庇護下にある赤子」であることを証明してしまう』
十三歳のグラクトは、外の風に金糸の髪を揺らしながら、神の子としての英才教育を受けた頭脳をフル回転させ、彼なりに極めて理路整然とした「解決策」を導き出していた。
『ローゼンタリアの気高き形式美に則るのだ。……上位の者が不手際を見せた時、下位の者が「自らの不徳」として罪を被り、上位の者がそれを「許す」ことで秩序は保たれる』
そうだ、とグラクトは自らの名案に酔いしれた。
今から離宮へ赴き、ルナリアに「王家の品位を傷つけた大罪」を自覚させる。理知的な彼女ならば、己の犯した致命的な無礼に気づき、青ざめて平伏すはずだ。「私の不徳ゆえ、神の子たる殿下の御心を煩わせてしまいました」と。
そうして彼女が罪を被り、足元に縋り付いてきたところで、自分が『神の子としての絶対的な慈悲』をもって、その罪を許してやるのだ。
『僕が直接彼女の非礼を寛大に許し、もう一度「情交奉仕者」として命じてやればいい。そうすれば形式美は守られ、彼女も王国の理に従う忠実な駒となる。……これこそが、自立した真の王としての振る舞いだ!』
グラクトにとって、この行動は決して現実逃避などではない。王国の常識と理に則った、完璧で美しい「王者としての逆襲」のつもりであった。
しかし、その根本の前提が「女は(あるいは下位の者は)王権の理に平伏すもの」という狂った王国の箱庭でしか通用しないローカルルールであることに、温室育ちの彼は気づきようもなかった。
やがてグラクトは、鬱蒼とした木々に囲まれた離宮の正門へと辿り着いた。
そこでは、離宮の警備隊長であるカイル・ド・グラムが持ち場を守っていた。
「……っ!?」
平民から武功のみで騎士爵にまで上り詰めた歴戦の猛者であるカイルは、血相を変えて早足で歩いてくる第一王子の姿を認め、内心で激しく舌打ちをした。
『第一王子殿下が、護衛もつけずに単身で、わざわざ本宮を出て離宮まで!? しかも、あの異様なまでの高揚感はなんだ……ッ!』
直感的に最悪の事態を悟ったカイルだが、彼にはどうすることもできなかった。
かつて近衛騎士団長家(ゼノビア公爵家)の三男の過失を告発し、正論を貫いた結果この離宮へ左遷されたカイルは、この王国の「理不尽な絶対構造」を誰よりも骨身に沁みて理解している。
ローゼンタリアの法において、一介の警備隊長が、正当な理由なく『神の子』の行く手を物理的に阻むことも、言葉で制止することも、明確な「不敬罪」に当たり、極刑を免れない。
「……第一王子殿下。離宮へようこそおいでくださいました」
カイルは歴戦のプライドと苦渋を噛み殺し、恭しく膝をついて道を開けるしかなかった。
「ご苦労。ルナリアは中にいるな?」
「は、はい。本日はお茶会のご予定もなく、サロンにてお一人でお過ごしのことと存じます。……ただいま、取り次ぎを」
「不要だ。神の子たる僕が直接赴き、慈悲を与えることに意味があるのだ」
王者の虚栄に満ちたグラクトは、カイルの言葉を遮り、堂々とした足取りで離宮の扉を開け、中へと踏み込んでいった。
グラクトの背中が館の奥へと消えた瞬間、カイルは弾かれたように立ち上がり、背後に控えていた部下の騎士の胸ぐらを掴みかからんばかりの勢いで振り返った。
「見ている場合か! 今すぐ走れ!!」
「は、隊長っ! どこへ!?」
「本宮の図書館だ! 本日外出されているリュート殿下と、護衛のルリカ殿を血吐いてでも見つけ出し、至急戻られるように伝えろ! 『第一王子が単独で離宮に強行突破した』とな!!」
部下が一目散に駆けていくのを見送った直後。
カイルは冷や汗を拭い去り、その瞳から「苦渋に満ちた警備隊長」の顔を捨てた。代わりに宿ったのは、幾度も死線を潜り抜けてきた歴戦の戦士の、氷のように冷たく研ぎ澄まされた殺意だった。
カイルは隣に立つ副長を呼び寄せ、一切の感情を排した低い声で命じた。
「副長。……もし、あのサロンからルナリア様の悲鳴が聞こえれば、俺が突入して『神の子』を斬る」
「……ッ!!」
息を呑む副長に対し、カイルは淡々と「死の偽装工作」を言い渡す。
「俺が王子を斬ったら、お前たちは直ちに俺を『乱心した逆賊』として捕縛しろ。動機は『己の人生を狂わせたゼノビア侯爵家への個人的な復讐』だ。……ゼノビアの血を引くセオリスの守護対象である第一王子を暗殺し、奴らに泥を塗るための凶行。そう本宮の連中に狂人を演じ切って叫んでやる」
それは、第一王子の死という天地を揺るがす大罪の責任が、離宮の主であるルナリアやリュートに及ばないようにするための、完璧なトカゲの尻尾切りだった。
「その証言を本宮で言い放つまで、俺は絶対に死ねない。……だが万が一、俺がその前に殺されたら、お前が代わりにそう主張しろ」
カイルは腰の剣の鯉口を、親指で静かに、わずかに押し開いた。
「ルナリア様を失えば、我々離宮陣営は確実に崩壊する。ここで終わるも同然だ。……最悪、俺と一緒に死んでくれ」
神の子を殺せば、間違いなくその場にいる全員が極刑に処される。
しかし、その静かで重い覚悟の言葉に対し、副長をはじめとする周囲の離宮警備兵たちは、誰一人として動揺の声を上げなかった。
彼らはカイルの目を見つめ返し、ただ無言で、右拳を左胸に当てる騎士の敬礼を返した。
王国の理不尽に虐げられてきた彼らにとって、理と実力で自分たちを遇してくれるルナリアとリュートこそが、真の主君であった。いざとなれば王家を敵に回してでもこの離宮を守り抜く。その圧倒的な忠誠の炎が、扉の向こうの不穏な静寂を睨みつけていた。
2 グラクトの「慈悲」という名の哀願
離宮のサロンは、本宮の重苦しい喧騒とは無縁の、静謐な空気に満ちていた。
リュートとルリカが所用で外出している今、ルナリアは一人で長椅子に腰掛け、帝国の原語で書かれた分厚い歴史書を優雅にめくっていた。
そこへ、ノックの音すらもなく、乱暴に扉が開け放たれる。
「……ルナリア!」
息を切らし、金糸の髪をわずかに乱しながら踏み込んできたのは、第一王子グラクトであった。
ルナリアは驚く素振りすら見せず、ゆっくりと本に栞を挟んで閉じた。そして、立ち上がることもなく、ただ静かな赤眼を十三歳の少年に向けた。それは、王宮の者たちがグラクトに向ける「神の子」への崇敬とは対極にある、ただの「訪問者」を値踏みするような冷徹な眼差しだった。
「……随分とご機嫌斜めなご様子で、グラクト殿下。護衛の方々はどうなさいました? このような辺境の離宮へ単身で乗り込まれるなど、王族の品位に関わりますわよ」
「品位だと……? どの口が言うか!」
ルナリアのその言葉が引き金となり、グラクトは一歩踏み込んで声を荒らげた。
「先の茶会でのそなたの暴言。あれは天に選ばれた『神の子』である僕の、ひいては王家の品位を根底から貶める大罪だ! 本来であれば、その首と引き換えにしても償いきれぬ重罪なのだぞ!」
グラクトは、宮廷の教育係から叩き込まれた『王族品位録』の絶対性を盾に、ルナリアの危機を突きつけた。
ローゼンタリアにおいて、上位者の品位を損なうことは国家の秩序に対する反逆である。グラクトから見れば、ルナリアは既に死の淵に立たされている罪人に等しかった。
「だが……」
グラクトは顎を上げ、いかにも王者らしい寛大な態度を装って、もったいぶるように言葉を継いだ。
「あの場でそなたを断罪すれば、不要な外交問題を生む。何より、僕の慈悲深き心に反する。だからこそ、僕は王太子にふさわしい度量をもって、これを『内々の政治的妥結』として処理してやろうと、自ら足を運んだのだ」
「……妥結、ですか?」
ルナリアが微かに眉を動かすと、グラクトは自分の「高度な宮廷政治の根回し」が通じたと勘違いし、得意げに唇を歪めた。
「そうだ。王国の美しき形式美に則るのだ、ルナリア。今すぐ長椅子から降りて僕の足元に膝をつき、『私の不徳ゆえ、神の子たる殿下の御心を煩わせてしまいました』と泣いて謝罪しろ。そうして僕に身を委ねるなら、僕が絶対の権限をもってその罪を許し、再びそなたを名誉ある情交奉仕者として迎えてやろう」
グラクトの論理は、彼の中では完璧だった。
下位の者が罪を被り、上位の者がそれを許す。それにより王家の品位は守られ、彼女にも「王の庇護下に入る」という特権が与えられる。誰の顔も潰さず、自分の傷ついた自尊心も完全に回復する、極めて理路整然とした政治的解決策である。
「そなたは賢い女だ。帝国の顔も立ち、僕の度量も示せる。これこそが、互いにとって最も利益のある完璧な着地点だろう?」
グラクトは、自分が恐ろしく理性的で大人びた「根回し」をしていると信じて疑っていなかった。
しかし、その根本にある価値観――「自分は生まれながらに神聖で無条件に尊い」「女や下位の者は、王権の理に従属し、罪を被って庇護されるべきである」という前提が、実力主義の帝国で生き抜いてきたルナリアの価値観とは、天と地ほども絶望的に断絶していることに気づいていなかった。
ルナリアは、何も答えない。
ただ、憐れみすら混じったような、氷のように冷ややかな沈黙でグラクトを見つめ返すだけだった。
「な、なんだその目は……っ!」
自分の「完璧な提案」に平伏さないルナリアの態度に、グラクトの張りボテの余裕が揺らぎ始める。焦燥に駆られた彼は、宮廷政治における最も卑劣で、最も効果的とされる「脅しのカード」を焦って切った。
「断れば……同い年でありながら金髪金眼を持たぬ影である、息子のリュートの立場がどうなるか分かっているのか!? 奴がこの王宮で冷遇されているのは、僕という絶対の基準があるからだ! 母親なら、息子の生存圏を守るために僕の前に這いつくばるのが当然の義務だろう!」
血統の優位性という借り物の権力を振りかざし、必死にルナリアを屈服させようと吠えた。
それは、彼が王国の理に完全に染まりきった「哀れな体現者」であることを、何よりも雄弁に物語っていた。
3 帝国の虎による「再論破」
「……」
息巻くグラクトの言葉が途切れても、サロンには重苦しい沈黙だけが落ちていた。
ルナリアは長椅子からゆっくりと立ち上がる。その所作には、グラクトが宮廷の作法教師から叩き込まれたような「計算された美しさ」はない。幾多の困難を乗り越え、自らの足で立ち、実力主義の帝国で磨き抜いてきた確固たる『品性』が、自然な威圧感となって周囲の空気を支配していた。
王家の血という「作られた品位」を纏うだけの少年と、自らの魂と努力で「本物の品性(鋼)」を鍛え上げてきた帝国の虎。二人が対峙した瞬間、その絶対的な質量の差は誰の目にも明らかだった。
「……それが、貴方の仰る『政治的妥結』ですか。殿下」
ルナリアの口から紡がれたのは、怒りでも怯えでもなく、心底からの呆れと深い憐憫だった。
「自らの非力で女に振られた事実を揉み消すため、相手に『私が悪うございました』と嘘の罪を被せて土下座させ、それを上から許す真似事をして自尊心を満たす。……それは政治でも妥結でもありません。ただの、おままごとですわ」
「なっ……! おま、おままごとだと!? 僕がどれほど寛大な……っ!」
「ええ、おままごとです。ローゼンタリアの宮廷という、ひび割れた箱庭の中だけで通用する、酷く滑稽な茶番劇」
ルナリアは、グラクトが振りかざした「王国の形式美」というロジックを、氷のような正論で真正面から叩き斬った。
「生まれ持った血統や髪の色だけで、無条件に敬われ、すべての過ちが許される。それは貴方自身の実力ではなく、単なる『設定』に過ぎません。……自らで磨き上げた知性も、他者を平伏させるだけの実績も持たない者が、作られた『品位』という衣を着込んで玉座にふんぞり返る。私から見れば、それこそが真に『品性を欠く』恥ずべき振る舞いですわ」
「黙れ! 貴様、僕を……神の子である僕を愚弄するか!!」
「そして、極めつけは……」
激昂するグラクトを完全に無視し、ルナリアは彼が放った最も卑劣な「脅し」へとメスを入れた。
「『断れば息子の立場が悪くなる』……ですか。殿下はご自身の言葉の意味を、正しく理解しておいでですか?」
ルナリアは一歩、グラクトへと歩み寄った。その瞳に宿る冷徹な光に射抜かれ、少年は無意識のうちに半歩後ずさってしまう。
「貴方は今、『私は自らの魅力も、実力も、王としての器も皆無であるため、息子を人質に取って脅迫しなければ、女一人抱くこともできない惨めな男です』と、恥ずかしげもなく大声で喧伝したのです。……他者の権威を借りなければ女に己を認めさせることもできない者が、どの口で自立した王を語るのですか」
「ち、違う! 僕はただ、リュートという影の運命を……!」
「私の息子は、貴方の影などではありません」
ルナリアは即座に、そして絶対の確信を持って断言した。
「あの子は、貴方たちが押し付けた『金髪金眼』などという陳腐な価値観の箱庭には、最初から生きておりません。……私の息子は、自らの足で立ち、自らの手で未来を切り拓く、本物の『品性』を持った男ですわ。貴方のような、母親の庇護と形式美の裏でしか息ができない温室育ちの赤子と、一緒になさらないでいただきたい」
「あ、あか、ご……っ」
グラクトの顔から血の気が引き、次に屈辱で真っ赤に染まり上がる。
彼の信じていた「王国の理」は、ルナリアの持つ「個人の真実」の前に、塵芥のように解体されてしまった。
「認めたくないのでしょうが、現実を直視なさいませ、グラクト殿下」
ルナリアは、決定的なとどめを刺す。
「貴方は、私に慈悲を与えに来たのではありません。女に拒絶され、自らの権威が通用しなかったという恐ろしい事実から逃げるために、私に『縋り付き』に来たのです。『僕を認めてくれ』『僕が一番偉いと言ってくれ』と泣き喚く、ただの迷子。……それが、今の貴方の真実の姿ですわ」
隠し通したかった、そして自分自身でも気づかないふりをしていた最も惨めな図星を、ルナリアは無慈悲なまでに言語化し、彼の目の前に突きつけた。
「……もう、お帰りなさいませ。これ以上、その作られたメッキを剥がして、己の品性を貶める前に」
それは、神の子に対する言葉ではない。
駄々をこねる聞き分けのない子供に引導を渡す、冷徹な大人の宣告であった。
4 暴力の行使と、圧倒的な制圧
ルナリアから突きつけられた無慈悲な真実。
『泣き喚く、ただの迷子』。
その言葉は、グラクトの脳髄を金槌で打ち砕くほどの威力を持っていた。
『僕が、空っぽ……? 権威という衣を剥がれれば、中身には何もない、無価値な赤子だと……!?』
激しい自問自答が、恐ろしい寒気となって十三歳の全身を駆け巡る。
王家の血統、金髪金眼という設定、そして母の庇護。それらをすべて差し引いた『グラクト』という個人の魂には、目の前の異国の女を平伏させるだけの「本物の品性」など何一つ備わっていないのではないか。
『違う……! 違う、僕は……僕には……!』
恐怖を振り払うように、グラクトは無意識に自らの両手を強く握りしめた。
彼の手のひらには、近衛騎士セオリスとの厳しい訓練で出来た固い剣だこがあった。
そうだ。僕にはこれがある。血統や母上の権威だけではない。セオリスという本物の騎士が叩き込んでくれた、血と汗の結晶。剣術の力だ。これこそが、誰に与えられたものでもない、僕自身が血を吐くような努力で手に入れた『僕だけの力』ではないか!
「黙れ……黙れ黙れ黙れぇっ!!」
図星を突かれた絶望から逃げるように、グラクトの頭で何かが弾けた。
王族としての形式美も、神の子としての虚栄もすべてかなぐり捨て、彼は唯一のすがりどころである『暴力』へと逃避した。
「思い知れ、帝国の野蛮女!!」
グラクトは激昂し、セオリス直伝の鋭い踏み込みでルナリアとの距離を一気に詰める。そして、彼女の傲慢な頰を力任せに張り飛ばそうと、右手を大きく振り上げた。
彼の中では、十三歳なりに鍛え上げた必殺の一撃となるはずだった。
しかし、ルナリアは真正面からその力を受け止めなかった。
実力主義の帝国公爵家で彼女が修めたのは、女性の非力さを補うための実戦的な護身術――相手の力と闘気を流し、己の有利な円運動へと巻き込む『合気』の体術である。
グラクトの全力の踏み込みに対し、ルナリアは柳のようにふわりと半歩動き、射線を外す。そして、振り下ろされるグラクトの腕にそっと手を添え、彼自身の突進するエネルギーを一切殺さず、流れるような円の軌道へと誘導した。
「……え?」
グラクトの視界がブレる。力の行き場を失い、完全に重心を崩された彼の身体は、ルナリアの腕力ではなく、グラクト自身の突進する勢いと体重によって宙を舞った。
ドスッ、と鈍い音がサロンに響く。
天地が反転し、グラクトは無様に絨毯の上にうつ伏せに転がされていた。そのまま手首を極められ、床に縫い留められる。激痛が走り、身動き一つ取れない。
『な、なんだ……!? なぜ、僕が……セオリスと鍛えた、僕の力が……!』
ルナリアが用いたのは、相手が怒りに任せて大振りになり、かつ体重の軽い少年だからこそ美しく決まる「柔よく剛を制す」理であった。もしこれが、圧倒的な筋力と体質量を持つ大人の騎士の殺意であったなら、技術ごと力でねじ伏せられていただろう。
だが、温室育ちの少年の必死の努力は、大人の女性の「護身術」の前に、あまりにもあっけなくいなされてしまったのだ。
「……言葉で勝てねば、次は暴力ですか。本当に、手の焼ける『お子様』ですね」
絨毯に顔を押し付けられるグラクトを見下ろし、ルナリアは氷のように冷たく言い放つ。
「側近が横にいなければ、まともな拳一つ振るえないとは。呆れて言葉も出ませんわ」
己のアイデンティティをすべて否定され、最後にすがった「努力の証」すらも塵芥のように扱われる。
物理的な痛みよりも遥かに深い底無しの絶望が、グラクトの精神を完全に破壊し尽くした瞬間であった。
5 見て見ぬふりの免罪符と、敗走
「……っ、あ……ぁぁっ……!」
ルナリアが静かに手を離すと、グラクトは跳ね起きるように距離を取り、絨毯の上を這うようにして無様に後ずさった。
極められた右腕を押さえ、その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃに汚れている。先ほどまで彼が必死にまとっていた「神の子」の威厳や、王家特有の「作られた品位」など、もはや微塵も残っていなかった。
己の拠り所であった権威も、最後にすがった自らの力(剣術)すらも通じなかった絶望と混乱。彼の頭の中にあった『絶対的な王者である自分』という虚像は完全に崩壊し、そこにはただ恐怖に震える等身大の十三歳の子供がいた。
そんな彼を、ルナリアは静かな赤眼で見下ろしていた。
そこには嘲りも、怒りもなかった。ただ、一人の未熟な少年を見る、厳しくも透明な大人の眼差しがあった。
「……それが本当の殿下ですよ」
静寂のサロンに、ルナリアの凛とした声が響く。
「生まれ持った血統でも、他者がひれ伏す権威でもない。力を持たず、ただ無様に泣き喚くことしかできない十三歳の子供。……それが、今の貴方の真実です」
それは、今まで誰も彼に突きつけることのなかった、この王宮における最大の禁忌であった。同時に、一人の人間として自立するための残酷な『愛の鞭』でもあった。
「これからは、その等身大のご自分を受け止め、歩いてください。……いつか本当の王となるために」
しかし。
完全に自我が崩壊し、パニックに陥った十三歳の少年の心は、その深遠な言葉を全力で拒絶した。
『嫌だ……! 違う、僕は無能な赤子なんかじゃない! 僕は神の子だ!』
強烈な自己否定の恐怖から逃れるため、グラクトの脳は必死に「自分を肯定してくれる存在」を求めて狂ったように過去の記憶を漁り始めた。
実母ヒルデガードの顔が浮かぶ。だが駄目だ。今の惨めな姿を見せれば、「神の子たる者が何という見苦しい姿ですか」と厳しく叱責される。それは、ルナリアの『庇護下にある赤子』という呪いを自ら証明することになってしまう。
その時、極限の逃避行の中、グラクトの脳裏にふと、あの白薔薇の間で自分を優しく抱きしめてくれた、底無しに甘い笑顔が蘇った。
第三側妃、ソフィアだ。
『――殿下は何も間違っておられません。あのような無理解な言葉に、御心を痛める必要など一切ないのです。殿下は神の子であり、誰よりも気高く、素晴らしい方……』
『そうだ……ソフィア義母上だ! あの方だけが、僕の正しさを理解してくれている。僕がどんなに無様でも、絶対に叱らず、優しく抱きしめて「貴方は悪くない」と慰めてくれる……!』
真の成長を促すルナリアの言葉を捨て、完璧を強要するヒルデガードの元からも逃げ出し、グラクトは『自分を全肯定してくれる甘い毒』へと完全に精神の依存先を定めた。
そして同時に、目の前の恐怖の対象――自分という存在を根本から破壊したルナリアに対する、底無しの憎悪が膨れ上がる。
ルナリアの言葉が真実だと認めてしまえば、自分の存在価値が消滅してしまう。だからこそ、彼女を「完全な悪」として否定しなければ、自我を保てないのだ。
ここでグラクトが次にすがったのは、自分を無条件で肯定し、絶対的な腕力で外敵を排除してくれる最強の盾、セオリスの姿だった。
『――帝国の連中は、力しか信じない血の通わぬ野蛮な獣です。もしグラクト様を脅かす獣が現れれば、この私が徹底的に排除いたします』
『そうだ……セオリスなら、こんな女、一捻りだ! 僕には無理だ。でも、あいつなら……! あの女がこれからセオリスに何をされようと、僕の知ったことか! むしろ、完膚なきまでに痛めつけられればいいんだ!!』
この瞬間、グラクトの中で決定的な「逃避」が完了した。
精神の安寧はソフィアの甘やかしに依存し、自分を傷つけた者への報復はセオリスの暴力に丸投げする。自分自身で現実を受け止める強さを持てなかった彼は、これから起こるであろう凶行を黙認するための完璧な『免罪符』を己の心に発行したのである。
「お、覚えていろ……!! 貴様など……貴様などぉぉッ!!」
グラクトは痛む腕を抱え、等身大の子供の甲高い声で泣き叫びながら、サロンの扉を蹴り開けて離宮から逃げ出していく。彼が向かう先は、厳格な母の宮でも、王としての執務室でもなく、自分を甘やかしてくれるソフィアの腕の中であった。
彼が持ち込んだ「王国の狂った理」は粉砕された。
だが、彼が現実から目を背け、狂犬の鎖を手放して甘い毒へと逃げ出したことによって、今度は理屈など一切通じない「本物の暴力の理」が、いよいよこの離宮へと解き放たれることになる。
6 事後処理とルナリアの微笑み
バァンッ! と、離宮の正門が乱暴に開け放たれる。
「……ッ!!」
門の外で決死の覚悟を固めていた警備隊長カイルは、鯉口を切った剣から手を離し、目を見開いた。
そこには、神の子の威厳も品位もかなぐり捨て、極められた腕を押さえながら、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして脱兎のごとく逃げ帰っていく第一王子グラクトの無様な背中があった。
『第一王子が、泣いて逃げ出した……!? 一体、中で何が……!』
カイルはグラクトが完全に離宮の敷地から姿を消したのを確認するや否や、副長に目配せをしてサロンへと駆け込んだ。
万が一、ルナリアが第一王子を傷つけていれば、それこそ取り返しのつかない事態になる。自分が身代わりとなって王子を斬るというトカゲの尻尾切りも、タイミングを逃せば意味をなさない。
「ルナリア様! ご無事ですか!?」
剣の柄に手をかけたまま、血相を変えてサロンに飛び込んだカイル。
しかし、その室内の光景は、彼の焦燥と悲壮な覚悟を鮮やかに裏切るものであった。
「あら、カイル。騒々しいですね」
そこには、血の一滴も流れておらず、調度品一つ壊れていない静かなサロンが広がっていた。
ルナリアは、何事もなかったかのように優雅に立ち上がり、ほんの少し乱れたドレスの裾を軽く手で払っているところだった。彼女は息を呑む歴戦の騎士を見て、いつもの優しく穏やかな、母としての微笑みを向けた。
「ええ、大丈夫よカイル。心配かけてごめんなさいね。……少し、大きなネズミが迷い込んだだけだから」
「ネズ、ミ……」
事も無げに「神の子」をネズミ扱いするルナリアの圧倒的な肝力と強さに、カイルは深く安堵の息を吐き出し、張り詰めていた肩の力を抜いた。
『……ああ。やはり、この御方こそが、我らの「芯」だ』
カイルの胸の内に、深い敬意と熱い忠誠心が込み上げる。
平民出身でありながら正論を貫き、王国の理不尽によってこの離宮へ追いやられたカイルたちにとって、絶対的な権威を前にしても決して揺るがず、己の品性と実力だけで堂々と立ち向かうルナリアの背中は、唯一無二の希望であった。この確固たる『芯』があるからこそ、自分たちは命を懸けてこの離宮を守り抜くことができるのだ。
だが、安堵と尊敬を噛み締める一方で、カイルの背筋には冷たい汗が伝っていた。
『あのプライドの塊のような第一王子が、己の足で、泣き喚きながら敗走した。……本宮の連中が、あの光景を黙って見過ごすはずがない』
王家という化け物が、第一王子の「品位」を損なわれたという事実を前に、どれほど理不尽で凄惨な報復に出るか。カイルは嫌というほど知っている。
ルナリアは単身で「神の子」を退けた。だがそれは、盤面を完全にコントロールしたのではなく、理屈の通じない暴力を真っ向から呼び覚ます『最悪の引き金』を引いてしまったことを意味していた。
「……ルナリア様。警備の目を、さらに厳重にいたします」
カイルが深く頭を下げる。
優雅に微笑む帝国の虎と、底知れぬ恐怖と覚悟を新たにする叩き上げの盾。
離宮の静寂は保たれたが、王宮の狂気はいよいよ、ルナリアを物理的に噛み砕くための牙を剥き出しにして迫りつつあった。




