第4話 『毒蜘蛛の囁き』
1 グラクトの異変(揺らぐ光と、焦る盾)
乾いた木剣の衝突音が、王宮の剣術道場に虚しく響き渡っていた。
「グラクト様、甘いです! 剣の軌道が完全に読まれております!!」
近衛騎士団長を務めるゼノビア公爵家の連枝、ゼノビア侯爵家の嫡男であり、グラクトの専属護衛騎士であるセオリス・デイル・ゼノビアの声が道場に轟く。
次期騎士団長と目される彼の剣撃は、相手が十三歳の第一王子であろうと一切の容赦がなかった。踏み込み、弾き、叩き伏せる。その苛烈な連撃の前に、グラクトの体勢は無様に崩れた。
「――っ!」
鈍い音と共に、セオリスの木剣がグラクトの右肩を強打する。グラクトは苦悶の声を漏らし、道場の床に無様に転がった。骨にまで響く痛みに、右腕が痙攣して力が入らない。
「……申し訳ありません、グラクト様。ですが、実戦であれば今の隙は致命傷です」
セオリスは木剣を下ろすと、即座に懐から美しい細工が施された小瓶を取り出した。近衛騎士団長家であるゼノビア家にのみ特別に支給される、最高純度の治癒ポーションである。
彼はグラクトのそばに膝をつき、躊躇なくその青い液体を打ち身の箇所に振りかけた。シュゥゥという微かな音と共に淡い光が立ち上り、グラクトの肩を覆っていた赤黒い痣と痛みが、数秒で完全に消え去る。
「私の使命は、あなた様をいかなる外敵も寄せ付けない『最強の王』へと鍛え上げること。取り返しのつかない傷を負わせたなら即座に腹を切る覚悟はできております。だからこそ、治癒のポーションがある訓練においては一切の手加減をいたしません」
セオリスは、グラクトへの絶対的な忠誠と、兄のような厳愛を込めて手を差し伸べた。
グラクトもまた、この不器用で真っ直ぐな「脳筋」の忠義を理解し、深く慕っている。だからこそ、普段であれば「お前の剣は重すぎる」と軽口を叩きながら、王者の風格をもってその手を取り、立ち上がるはずだった。
だが、今日のグラクトは違った。
差し伸べられたセオリスの手を見た瞬間、グラクトの脳裏に、数日前の白薔薇の間で浴びせられた「あの言葉」がフラッシュバックした。
『――その未熟な歩みを助け、立派な大人へと導くのは、他でもない実のお母様のお役目でしょう』
ポーションによって肉体の傷は完全に治った。しかし、帝国の虎から浴びせられた「お前は自立もできない赤子だ」という冷酷な事実が、彼の精神をズタズタに切り裂いたままであった。
自分は神の子などではない。ただの、母に守られているだけの未熟な子供だ。その圧倒的な自己否定の呪いがグラクトの視界を歪め、セオリスの真っ直ぐな忠誠心すらも「自分には相応しくない過分なもの」として彼を苛んだ。
「グラクト様? ……いかがなさいましたか。まだお痛みがありますか?」
いつまで経っても手を取ろうとしない主君に、セオリスが訝しげに眉をひそめる。
その純粋な心配の眼差しに耐えきれず、グラクトは弾かれたように自力で立ち上がった。
「……いや。なんでもない。今日は……少し、体調が優れないようだ」
グラクトはセオリスから目を逸らし、逃げるように道場の出口へと歩き出した。
「お、お待ちください! 訓練はまだ――」
「すまない、セオリス! 一人に……一人にしてくれっ!」
いつも自信に満ち溢れ、光り輝いていたはずの王者の背中が、ひどく小さく、怯えているように見えた。
扉が閉まり、静まり返った道場に一人取り残されたセリオスは、握りしめた木剣の柄が軋むほどに力を込めた。
「……何があったというんだ」
セオリスの胸の内に、忠誠心ゆえの激しい苛立ちと焦燥感が渦巻く。
グラクトのあの覇気のなさは、単なる体調不良などではない。誰かが、自分が心から崇拝する絶対的な主君の「誇り」を傷つけ、その光を奪ったのだ。
その時である。
一人道場に残り、己の無力さと見えない敵への怒りを噛み締めるセオリスの背後に、甘く、そして重苦しい香水が漂ってきた。
「セオリス……忠義の騎士よ。グラクトを案じてくれているのですね」
振り返ると、そこには憂いを帯びた「哀れな母」の仮面を完璧に被りこなした、第一側妃ヒルデガードの姿があった。
2 歪められた真実と、殺意のコントロール
「王宮の……闇……? 第一側妃殿下、それはどういう……」
真っ直ぐで単純な猟犬は、ヒルデガードの垂らした「見えない敵」という名の蜘蛛の糸に、見事に食いついた。
ヒルデガードは周囲に人がいないことを確認するように伏し目がちになり、重々しく、そして身内への甘えを孕んだ声で口を開いた。
「……セオリス。私の可愛い甥であり、グラクトの絶対の盾である貴方にだけは、真実を知る権利があります」
「叔母上……グラクト様に、一体何があったのですか!」
肉親としての情に訴えかけられ、セオリスの声に焦燥と鋭い殺気が混じる。ヒルデガードは目頭を押さえ、極秘であるはずの『情交奉仕者選定の茶会』での出来事を意図的に漏洩し始めた。
そして、ルナリアが放った「論理的で正当な辞退」の言葉を、悪意という猛毒で原型をとどめないほどに歪曲し、盛り立てていく。
「数日前の茶会で……グラクトを導く神聖な情交奉仕者の任を、あの帝国の女、ルナリアに打診しました。しかし彼女は、その名誉ある務めを鼻で笑って拒否したのです。そればかりか、グラクトの顔を指差し、こう罵りました」
ヒルデガードは、悲痛な声色を作りながら、わざと支離滅裂な矛盾を孕んだ言葉を紡ぎ出した。
「彼女は言いました。『グラクト殿下は、女を薬漬けにしなければ己の欲望も満たせない、見境のない野蛮な獣だ』と。そのくせ、『自分の足で立つこともできない、母親の陰に隠れて怯えるだけの去勢された哀れな赤子だ』と……!」
「なっ……!?」
制御の利かない野蛮な獣だと罵りながら、同時に去勢された怯える赤子だと蔑む。冷静に聞けば、人物像が完全に破綻している矛盾だらけの悪口である。
さらにヒルデガードの言葉はエスカレートしていく。
「さらにあの女は、グラクトの髪を見て言いました。『黒髪の私のような優秀な帝国人が、ローゼンタリアのブロンドのような、出来損ないの血統の相手などする価値もない』と……! ええ、彼女は憎悪に満ちた金切り声を上げながら、同時に氷のように冷たく、グラクトを見下して嘲笑っていたのです!」
金切り声を上げながら、同時に冷たく嘲笑う。もはや物理的にも状況的にもおかしな描写であった。理知的なヴィオラやリーゼロッテが聞けば、一瞬で「話が盛られすぎている(嘘だ)」と見抜くような三流のデマカセである。
ヒルデガード自身、怒りに任せて言葉を並べ立てたため、自分の作り話が矛盾していることには気づいていた。だが、相手は純粋培養された「脳筋」の甥である。これくらい分かりやすく誇張した方が、彼の導火線には火がつきやすいと理解していた。
そして、その計算は完璧に的中する。
「グラクト様を……獣と呼び、赤子と蔑み……さらには我ら誇り高き血統を出来損ないと……!?」
セオリスの脳内では、ヒルデガードの語る明らかな矛盾など、一切処理されていなかった。
彼の耳にはただ、「見境のない獣」「哀れな赤子」「出来損ないの血統」「嘲笑った」という、主君を貶める暴力的なキーワードだけが突き刺さっていた。思考力を持たない猟犬にとって、複雑な論理の整合性などどうでもいい。ただ「グラクトが帝国の女に侮辱された」という事実だけが、彼の脳髄を真っ白に焼き焦がしていく。
「あの子は、生まれて初めてあのような醜悪な悪意をぶつけられ……男としての純粋なプライドを、これ以上ないほど残酷に踏み躙られたのです。だから、あのように……」
ヒルデガードがわざとらしく嗚咽を漏らすと、セオリスの両眼が一瞬にしてドス黒い怒りで血走った。限界まで握りしめられた木剣の柄が、彼の常軌を逸した握力によってミシミシと悲鳴を上げ始める。
「……あの、異国の雌犬が……ッ!!」
理性を完全に手放した猟犬の殺意が、道場の空気をビリビリと震わせた。
ギリギリ、ミシッ……。
極限まで圧縮されたセオリスの怒気が、握りしめられた樫の木剣にひび割れを生じさせる。
その獣のような荒い息遣いを聞きながら、ヒルデガードは『よし、あともう一息ね』と冷酷に計算し、とどめとなる「決定的な一撃」を放った。
「私が……いいえ、グラクト本人が最も許せなかったのは……」
ヒルデガードは、さも思い出すだけで身の毛がよだつというように、自らの腕を抱きしめて震えてみせた。
「あの女が、グラクトの顔をまじまじと見つめて……『クスッ』と嘲笑ったことです。まるで、おむつも取れていない哀れな赤子を汚い物を見るかのように蔑み、鼻で笑ったのです。……誇り高き、神の子であるあの子を……っ」
バキィィィィッ!!
道場に、破裂するような凄まじい音が響き渡った。
セオリスの手の中で、訓練用の分厚い樫の木剣が、握力だけで無残に真っ二つにへし折られていた。砕けた木片が床に散らばるが、彼の手のひらに刺さったトゲや流れる血など、今のセリオスは微塵も感じていなかった。
「……殺す……ッ!!」
喉の奥から絞り出されたのは、人間の言葉というより、理性を完全に喪失した狂犬の咆哮だった。
主君の誇りを、男としての尊厳を、「クスッと笑う」というこれ以上ないほどの侮蔑で踏み躙った異国の女。グラクトがどれほどの血の滲むような鍛錬に耐え、己を高めようとしてきたか、誰よりも間近で見てきたセリオスにとって、それは天地がひっくり返っても絶対に許されない大罪であった。
「今すぐあの離宮に押し入り、あの雌犬の首を刎ねてやる!! グラクト様を愚弄した罪、その命をもって贖わせてやるッ!!」
血走った目で道場の出口へと歩み出そうとするセオリス。
だが、ヒルデガードは悲痛な顔を作り、すかさず彼の屈強な腕にすがりつき、優しく、しかし確固たる力で制止した。
「いけません、セオリス! 早まっては駄目!!」
「お放しください、叔母上! この剣の誓いにかけて、あの女は絶対に生かしておけません!!」
「貴方の忠義は痛いほど分かります! ……ですが、彼女は帝国の公爵令嬢。もし明白な理由もなく命を奪えば、強大な帝国との間に取り返しのつかない戦争が起きます! それこそ、グラクトの王としての立場も、命すらも危うくしてしまうのです!!」
ヒルデガードの言葉に、セオリスの足がピタリと止まった。
「帝国との戦争」や「外交問題」といった複雑な政治的リスクを彼が深く理解したわけではない。ただ、「グラクトの立場と命が危うくなる」という一点だけが、彼の暴走に強烈なブレーキをかけたのだ。
セオリスが奥歯を噛み締め、悔しげに顔を歪めるのを見計らい、ヒルデガードはさらに彼を深く洗脳の沼へと引きずり込む。
「それに……よく考えてみなさい、セオリス。ただ一太刀で殺したところで、グラクトの傷ついた心は救われるでしょうか?」
「……え……?」
「一瞬の死など、あの女にとっては『苦痛からの逃避』に過ぎません。命を奪ったところで、あの子が受けた『見下された』という屈辱の記憶は決して消えない。殺すだけでは……グラクトの奪われた誇りは、永遠に戻ってこないのですわ」
「な……ならば、どうすれば……! あの女に、グラクト様の受けた屈辱をどう償わせろというのですか!!」
血の涙を流さんばかりのセリオスの叫び。
ヒルデガードの放った毒は、完璧に彼の「忠義の形」を歪め、そして彼自身に「最悪の答え」を導き出させるための土壌を完成させた。
3 尊厳破壊への誘導
「な……ならば、どうすれば……! あの女に、グラクト様の受けた屈辱をどう償わせろというのですか!!」
血の涙を流さんばかりに絶叫するセオリス。
その純粋で暴力的な忠誠心を前に、ヒルデガードは顔を両手で覆い、まるで悲痛な運命に嘆く哀れな母のようにむせび泣いてみせた。
「あの子が苦しんでいるのは、命を狙われたからではありません。男としての誇りを、『帝国の女』に嘲笑われたからです。……ならば、あの女の高慢な鼻をへし折り、誇りを泥に塗れさせ……グラクトの足元で無様に泣いて許しを請う姿を見ない限り、あの子の心は決して癒えないでしょう」
ヒルデガードは指の隙間からセオリスの様子を窺いながら、最後の仕上げとなる「制約」を吹き込む。
「けれど……帝国人に手を出せば外傷(証拠)が残る。外交問題になれば、やはりグラクトを追い詰めてしまう。あの子の心を救うには、あの女の尊厳だけを完璧に打ち砕くしかないのに……そんなこと、私にはどうすることも……っ」
涙声で崩れ落ちる第一側妃。
その完璧な演技と「証拠を残さずに尊厳を砕く」という難題は、セオリスの単純な思考回路に、恐るべき閃きを生み出した。
『証拠を残さずに、苦痛を与え、尊厳をへし折る……?』
セオリスの視線が、ふと道場の床に落ちた。
そこには、木剣の破片と共に、先ほど彼自身がグラクトの治療に使った美しい小瓶――近衛騎士団長家であるゼノビア家からグラクトの治療にのみ支給される、最高純度の『治癒のポーション』の空き瓶が転がっていた。
瞬間、猟犬の脳髄にどす黒い電流が走る。
ポーションは、あらゆる外傷をまたたく間に塞ぎ、痕跡すら残さない。
肉体の傷は治る。だが、骨を砕かれ、肉を焼かれる『圧倒的な苦痛と恐怖の記憶』は、決して消えはしないのだ。
「……分かりました、叔母上。あの女、殺しはしません」
不気味なほど低い声で呟いたセオリスの瞳から、理性という名の光が完全に消失した。代わりに宿ったのは、狂信に裏打ちされたおぞましい使命感であった。
「肉体の死を与えられないのなら、精神の死を与えればいい」
「……セオリス?」
「我がゼノビア家には、いかなる傷も瞬時に消し去る最高純度のポーションが腐るほどある。……何度骨を砕こうと、何度肉を裂いて悲鳴を上げさせようと、その都度治してしまえば、帝国に突き入られる外傷(証拠)は一切残らない」
ヒルデガードの意図を完璧に汲み取り、さらに自らの「武と医療の特権」を最悪の形で結びつけたセオリスは、ひん曲がった笑みを浮かべた。
「あの女がグラクト様を見下したその高慢な『尊厳』を、痛みを以て徹底的に砕き、分を弁えさせてやる。……何度でも壊し、何度でも治す。無様な雌犬に成り果てさせ、グラクト様の足元に縋り付かせることこそが、俺の本当の忠義だ!!」
怒りと狂信に燃え上がり、恐るべき拷問のアイデアに憑りつかれた猟犬は、折れた木剣を蹴り飛ばし、猛然と道場を飛び出していった。
標的は一つ。離宮にいる帝国の虎を、文字通り「雌犬」へと調教し直すために。
バタンッ! と、道場の扉が乱暴に閉まり、再び静寂が降りる。
「…………ふふっ」
その重苦しい静寂の中、ヒルデガードを覆っていた「哀れな母の涙」が、嘘のようにスッと消え去った。
彼女はゆっくりと立ち上がり、優雅な仕草で扇子を開いて口元を隠す。
「ええ、頼みましたよ……私の可愛い、頭の空っぽな猟犬」
自らの手は一切汚さず、己の妄執の矛先を完璧に他人へと誘導しきった第一側妃。
誰もいなくなった道場で、毒蜘蛛は扇子の裏で冷たく邪悪な笑みを深々と浮かべ、ルナリアの凄惨な破滅を確信して喉を鳴らした。




