第3話 『論理の刃』
1 白薔薇の間・数日後
選定会議から数日が経過した頃。
第一側妃ヒルデガードは、自室で扇子を苛立たしげに弄んでいた。
『……誤算だったわ。王妃様が、あそこまでルナリアの拒否権を高く見積もり、逃げ道を用意するような「打診」にこだわるとは』
保守派の突き上げを躱すための政治的プロセスであることは理解できる。しかし、ルナリアが角を立てずに辞退し、王妃がそれをあっさりと受け入れてしまえば、ヒルデガードの最大の目的である「帝国の女の社会的・肉体的な抹殺」は果たされない。
『何としても、あの女自身にこの名誉を強要させ、逃げ場を塞がねば。……情交奉仕者制度のルールの隅々まで洗い直し、あの女を縛り上げる論理の縄をもう一度編み直す必要があるわね』
ヒルデガードは、ルナリアを完全に逃げ場のない盤面へ引きずり出すための次なる一手を求め、深い思考の海へと沈んでいった。
一方、第三側妃ソフィアは自室で優雅に紅茶を楽しみながら、目前に迫った成り上がりの絶好機にほくそ笑んでいた。
『王妃様も私も、あの高慢な帝国女がこの役目を拒否することは確実だと分かっています。彼女が自爆して席を蹴ったその瞬間こそが、私の出番。傷ついた第一王子殿下を優しく包み込み、私が情交奉仕者の座に名乗りを上げる……。これで、後宮の実権は完全に私の手の中に落ちますわ』
そして、当事者である第一王子グラクトはといえば、自室のベッドに寝転がりながら、微塵の疑いもなく甘美な想像に耽っていた。
『あのルナリアが、僕に身を捧げる。いつも澄ました顔をしているあの女が、僕の腕の中でどう鳴き声を上げるのだろうか……』
彼の中には、ルナリアがこの「至高の名誉」を拒絶するなどという可能性は微塵も存在しない。未来の王に抱かれる喜びに打ち震える彼女の肢体を想像し、グラクトの口元には下卑た笑みが浮かんでいた。
◇
――しかし、彼女たちは致命的な見落としをしていた。
この狂った決定が下されたその日の夜、ヴィオラが極秘裏に離宮を訪れ、ルナリアに事の顛末と「王宮の異常な常識」をすべて報告していたという事実を。
王妃は「空気を読んで辞退するだろう」と高を括り、ヒルデガードは「罠に嵌めてやる」と息巻いているが、ルナリアはすでに相手の手札を完全に把握し、完璧な反撃の刃を研ぎ澄ませていたのである。
そして、運命の通達の日。
再び白薔薇の間に、王妃マルガレーテ、第一側妃ヒルデガード、第三側妃ソフィア、婚約者ヴィオラ、そしてグラクトが集結した。
そこに、第二側妃ルナリアが静かに足を踏み入れる。
逃げ場を塞いだ狩人のような、湿った悪意と各々の計算が交錯する密室。
しかし、ルナリアの足取りには一切の戸惑いも怯えもなかった。その背筋は氷の刃のように真っ直ぐに伸び、帝国の虎としての圧倒的な威厳を纏っている。
ルナリアが優雅なカーテシーをして静止すると、上座の王妃マルガレーテが、彼女を見下ろすようにして冷徹に告げた。
「第二側妃ルナリア。グラクトの精通に伴い、貴女に王家至高の義務である『情交奉仕者』の栄誉を与えます」
マルガレーテの氷青の瞳は、一切の感情を排した事務的な光を放っていた。
「避妊の処置を受け、グラクトが王立学園に入学されるまでの二年間、心身の全てを捧げなさい。異国の血を引く貴女には本来あり得ない名誉ですが、今回は王家の寛容をもって、特別に許可します」
その隣で、グラクトは誇らしげな、そしてねっとりとした欲情を含んだ笑みを浮かべてルナリアを見つめていた。
『さあ、喜べルナリア。これでこの女も、王宮で確固たる地位を得るのだ。未来の王である僕に抱かれ、庇護される歓喜に打ち震え、感謝の言葉を紡ぐがいい』
王宮の常識という狂気が、絶対的なルールとしてルナリアの頭上から降り注いだ瞬間であった。
2 帝国の虎の論破
王妃からの非情な宣告と、グラクトの傲慢な視線を一身に浴びながら、ルナリアはわずかに赤い瞳を見開いた。
『……なるほど。ヴィオラ様の仰っていた通り、本当にこの狂った打診を「公式な手順」として通そうというのですね』
事前に知らされていなければ、ここで激昂して外交問題を引き起こしていたかもしれない。だが、相手の手札も王宮の意図も完全に把握しているルナリアは、一切の怯えも見せず、優雅なカーテシーをとったまま静かに口を開いた。
「過分なる光栄、身に余る思いでございます。……ですが王妃様、私は不適格につき、そのお役目をお受けすることができません」
その涼やかな最初の拒絶に、白薔薇の間の空気がピシリと凍りついた。
すかさず進み出たのは、第一側妃ヒルデガードである。彼女は扇子を優雅に打ち鳴らし、深夜の黒書庫で得たばかりの知識を武器に、ルナリアを無知な異邦人として見下した。
「……帝国の公爵令嬢たるルナリア様には、我が国の深遠なる歴史がご理解いただけていないようですわね。情交奉仕者という制度がいかに神聖で、名誉あるものかをご存知ないのでしょう」
ヒルデガードは、誇らしげに王国の伝統を語り出す。
「この制度は単に欲求を満たすためのものではありません。十五歳の学園入学を控えた未成年の殿下を、悪意ある甘い罠から確実にお守りする『絶対の盾』。そして、精神を導く『第二の母』となる極めて重大な役目なのです。これ以上の名誉がどこにありましょう? それをあっさりと拒むなど、いささか見識が甘いのではなくて?」
歴史の重みと教育という大義を掲げた、見事な演説であった。ヒルデガードは『これで異国の女も反論できまい』と内心で勝ち誇る。
しかし、ルナリアの美しい顔に浮かんだのは、怯えでもなく、感情的な制度批判でもない。相手の論理をそのまま首に巻き付ける、極めて冷徹な「政治の逆手」であった。
「……なるほど。それほどまでに神聖で、王家の未来を左右する名誉あるお役目なのですね」
ルナリアは優雅に首を傾けた。
「ならば尚更、理由は明確です。私は黒髪の異国人ですわ。純血と王家の伝統を至上とする保守派の皆様が、未来の国王の初めての導き手として『異国の血』を選ぶことなど、王家の品位に対する重大な矛盾ではありませんか?」
「……っ」
上座の王妃と、保守派の筆頭であるヒルデガードがわずかに目を細める。自らの派閥の存在意義(純血主義)を盾にされれば、彼女たちは口が裂けても「構わない」とは言えない。
「加えて、私は帝国公爵家の娘です。両国の友好の証として嫁いだ私を『避妊薬を服用させた慰み者』として扱えば、我が国はそれを名誉ではなく、明確な『属国扱い(侮辱)』と受け取ります。保守派の顔を立て、かつ帝国との無用な摩擦を避けるためにも、私はこのお役目に『最も不適格』であるはずです」
王妃の意図した「穏便な辞退」のラインを守りつつ、相手が絶対に反論できない完璧な政治的退路。勉強してきた歴史の大義名分を、現実の政治カードで完封されたヒルデガードは言葉を失った。
だが、ルナリアはここで終わらなかった。彼女は、当事者であるグラクトへと視線を向けた。その瞳に宿っていたのは、未来の王の成長を願うという建前に包まれた、極めて純粋で残酷な「一般論」であった。
「それに、グラクト殿下。殿下はいまだ十三歳、自らの情動を制御する術を学ばれる途上です。『いざとなれば相手が薬を飲んでいるから大丈夫だ』という安全な保険を与えられた環境では、真の自制心など育ちません。己の行動と結果に責任を持つこと。それは、年端のゆかぬ市井の子供たちでさえ、日々の生活の中で転びながら学んでいく当たり前の義務です」
ルナリアの心中には、自らの足で立ち、論理を以て世界を生き抜こうとする愛しき子供たちの姿があった。だからこそ彼女は、「どんな子供でも成長の過程で当然身につけるべき最低限の自律」として、ごく当たり前の真理を口にした。
「失敗させないための無菌室で、情動の処理を他者に委ねてはいけません。殿下には、自らの意志で欲望を律する強い王になっていただきたいのです。……その未熟な歩みを助け、立派な大人へと導くのは、他でもない実のお母様の神聖なるお役目でしょう」
ルナリアは最後にヒルデガードへ視線を向け、「ご自身の大切な息子様なのですから、どうかご自身の手でしっかりと教育なさってくださいませ」と、微笑みかけた。
3 完璧な辞退と、微笑みに隠された執念
――静寂。
白薔薇の間に落ちたのは、絶対零度の沈黙だった。
ルナリアの放った、純粋な善意に包まれた致死量の劇薬。
『僕が、情動すら制御できない未熟者……? 市井の泥に塗れた平民のガキですらできていることが、神の子である僕にはできないと……!?』
グラクトの顔は屈辱で真っ赤に染まり、わななく唇からは声すら出ない。絶対的な特権を疑わなかった十三歳の少年の自尊心は、異国の女の「常識」というハンマーによって粉々に打ち砕かれていた。
そして、その場にいる誰よりも凄まじい感情の渦に呑み込まれていたのは、第一側妃ヒルデガードであった。
ピキッ、と。彼女が顔を隠す扇子の骨が、常軌を逸した握力によって微かに軋む音を立てた。
『この、辺境の生意気な女が……っ! 私が学び上げた王宮の伝統を小賢しい政治論で躱した挙げ句、私の完璧な作品であるグラクトを泥に塗れさせ、私に「母親の真似事でもしていろ」と説教を垂れたというの!?』
怒りで視界が朱に染まる。だが、彼女は宮廷を生き抜いてきた第一側妃である。扇子を下ろした彼女の顔には、貼り付けたような「完璧な淑女の微笑み」が浮かんでいた。ただ、その翠の瞳の奥には、ドロドロとした歪な執念が煮えたぎっている。
『この屈辱、決して忘れないわ。盤面からすべてを奪い尽くし、あの小賢しい口が二度と利けなくなるまで泥に這いつくばらせてやる。私に泣いて許しを乞うまで、その矜持を徹底的にへし折って服従させてやる……!』
ヒルデガードの中で、ルナリアは「いつか必ずその誇りを完膚なきまでにへし折るべき、絶対の標的」へと定まった。
そんな第一側妃の腹の底で渦巻く執念を余所に、上座のマルガレーテ王妃は、内心で深い安堵の息を吐き出していた。
『……見事な手腕ね。助かったわ』
盤面の管理者たる王妃にとって、ルナリアの回答は「百点満点の模範解答」であった。
保守派の血統主義と帝国との外交問題という、誰にも反論できない完璧な政治的盾を用意し、自ら身を引いてくれたのだ。これで王家は「打診はしたが、本人が国を思って辞退した」という完璧なアリバイを得ることができた。
「……貴女の意志は確認しました」
王妃は氷のように冷たく、しかしどこか肩の荷を下ろしたような響きで宣告した。
「本日の打診は、異国の第二側妃による『辞退』という形で、公式に処理します」
「寛大な御心に、深く感謝申し上げます」
ルナリアは静かに一歩下がり、一切の隙のない完璧なカーテシーをとった。王妃が用意したアリバイの幕引きを、優雅に受け入れる。
「では、私はこれにて失礼いたします。……殿下の健やかなるご成長と、王家の弥栄を、心よりお祈り申し上げますわ」
最後に残したその美しい祝福の言葉すら、今のグラクトとヒルデガードにとっては、傷口に塩を塗り込むような極上の皮肉として響いたことだろう。
誰の許しを乞うこともなく、帝国の虎は優雅な足取りで白薔薇の間を後にした。
重厚な扉が閉まる。
後に残されたのは、ホッと胸を撫で下ろす王妃と、プライドを完全に粉砕された第一王子、そして完璧な微笑みの裏でドス黒い支配欲と執念を煮えたぎらせる第一側妃の、重く歪な沈黙だけであった。
――しかし、この圧倒的な敗北と沈黙の空間こそが、身を潜めていた「彼女」にとっては最高の狩り場であった。
4 ソフィアの立候補
重厚な扉が閉まり、帝国の虎が去った白薔薇の間には、ひび割れた自尊心と歪な沈黙が落ちていた。
『……すべて想定通り。王妃様が描かれた「穏便な辞退」という盤面通りに事は運んだわ』
魔導卿の家系に連なる知性派、第三側妃ソフィアは、伏せた睫毛の奥で冷徹に計算を巡らせていた。
王妃が内心で安堵していることも、ヒルデガードが屈辱で硬直していることも、彼女には完全に読み切れている。ここで「王妃様」と名指しで慰めれば、この茶番の真意(アリバイ作り)を理解していない愚か者だと思われる。かといって、ヒルデガードだけを慰めれば無用の角が立つ。
ゆえに、ソフィアは誰の名も呼ばず、ただ室内の淀んだ空気を浄化するように、春の陽だまりのような甘く柔らかな声を響かせた。
「どうか、御心をお鎮めくださいませ」
ソフィアは衣擦れの音も立てずに優雅に歩み出ると、深い憂いを帯びた表情で首を振った。
「あの帝国の女に、王族の繊細な御心を理解することなど、最初から無理な相談だったのです。自らの非礼を正当化するために詭弁を弄する者に、我が国の輝かしい未来をお任せするなど、到底できることではございませんわ」
そして、ソフィアはそっとグラクトの前へと歩み寄り、膝をついた。十三歳の少年の目線に合わせ、とろけるほど甘い瞳で彼を見つめる。
「グラクト殿下は何も間違っておられません。あのような無理解な言葉に、御心を痛める必要など一切ないのです。殿下は神の子であり、誰よりも気高く、素晴らしい方……。すべては、あの女が見識不足であっただけのこと」
ルナリアの氷のような正論に打ちのめされ、自我が崩壊しかけていたグラクトにとって、ソフィアの差し出した「無条件の肯定」は、砂漠で見つけた甘露も同然であった。
「……ありがとうございます、ソフィア妃」
グラクトは、ソフィアの柔らかな手にすがりつくように力を込めた。その瞳からは先ほどの屈辱の涙が引き、代わりに、自分を無条件で肯定してくれる存在への盲目的な熱が宿り始めていた。
「ああ……あなたこそが、僕に相応しい」
少年は、自らの意思で甘い蜘蛛の巣へと絡め取られていく。
グラクトの心身を完全に掌握したことを手の中に感じながら、ソフィアはゆっくりと立ち上がり、上座のマルガレーテ王妃へと向き直った。
息子の精神的な依存先を奪われたヒルデガードを横目に、ソフィアは完璧な淑女の礼をとる。彼女にとって最も重要なのは、この盤面の絶対的支配者である王妃からの「正式な承認」を得ることだ。それがなければ、すべては絵に描いた餅に過ぎない。
「王妃様。もしお許しいただけるのなら……魔導卿の血を引くこのソフィアが、傷つかれた殿下の御心を癒やし、お守りするという聖なるお務めを、喜んでお引き受けいたしますわ」
それは、ルナリアが手放した役目を引き継ぐという、王妃にとっても最も安全で合理的な「予定調和の提案」であった。
マルガレーテ王妃は、静かにソフィアを見下ろした。王妃の冷たい瞳と、ソフィアの優しげな瞳が交錯し、互いの高度な政治的打算が音もなく通じ合う。
「……魔導卿の娘たる貴女であれば、王家の伝統と、殿下の繊細な御心を正しく理解していることでしょう」
王妃は、事もなげに頷いた。
「ソフィア妃。第一王子グラクトを導く情交奉仕者の任、貴女に命じます。ゆめゆめ、その期待を裏切ることのないように」
「はっ。身命を賭して、殿下にお仕えいたしますわ」
ソフィアは深く頭を下げた。
王妃の承認という絶対の免罪符を得て、グラクトをヒルデガードの手から完全に引き剥がした第三側妃。その伏せられた口元には、王宮の新たな権力を手中に収めた、妖しくも美しい毒蜘蛛の笑みが浮かんでいた。
5 ヴィオラの沈黙と葛藤(すれ違う歯車)
(数日前――離宮、ルナリアの私室)
「……というわけで。数日後の茶会で、ルナリア様に『殿下の情交奉仕者となれ』という公式な打診が行われます。ヒルデガード様が仕組んだ罠です」
ヴィオラは声を潜め、王宮の裏で進められているシナリオをルナリアに告げた。
話の内容が「王族の性的なお役目」という生々しいものであったため、十二歳のリュートには「大人の政治のお話ですから」と一時退席してもらっている。
室内に残っているのは、ヴィオラとルナリア、そして本宮での仮面を外し、冷たい瞳で茶器を見つめているリーゼロッテだけであった。
「……実の息子に、父の側妃をあてがうという王宮の狂った制度。第一側妃は、その正当性を盾にしてルナリア様を完全に支配下に置き、兄様の王位を盤石にするおつもりなのですね。反吐が出ます」
リーゼロッテが、冷徹な政治的打算と、それに利用される制度そのものに心底からの嫌悪を滲ませる。離宮勢力にとっても、グラクトの王位継承は生存圏確保のための大前提であるからこそ、この盤面は厄介だった。
しかし、当のルナリア本人は、優雅に紅茶のカップを傾け、ふわりと余裕の微笑みを浮かべていた。
「ご心配には及びませんわ、ヴィオラ様、リーゼ。……相手がどのような大義名分を用意しようと、反論できない政治的理由(建前)をもって、優雅に辞退するだけのこと。何も問題はございません」
ルナリアの頼もしい言葉にホッとしつつも、ヴィオラにはふと別の疑問が浮かんだ。
「あ、あの……ちなみに、同じ年頃のリュート殿下の……その、情動の管理などはどうされているんですか? 本宮の者がそこを突いて、彼に情交奉仕者を送り込んでくる可能性は……」
すると、ルナリアは全く悪びれずに微笑み、背後に控える護衛のルリカに視線を向けた。
「問題ないわよね、ルリカ?」
「はい。リュート殿下は夜な夜な、ご自身で適切に『処理』されておりますので、付け入る隙はございません」
ルリカの淡々とした報告に、ヴィオラは純粋な心配から一転、「あ、はい……」と口ごもった。
『そっか、いくら頭の回転が早くて大人びて見えても、中身は普通の思春期の男の子だもんね……お疲れ様です』
ヴィオラは、少しばかり同情の混じった生温かい目を向ける。
一方、兄を完璧な存在として信じ切っていたリーゼロッテは、ボンッと音が鳴りそうなほど顔を真っ赤にして硬直していた。
「お、お兄様が……ご自身で……ふ、不潔ですわ……っ!」
「男の子だもの、当然よ」
鷹揚に笑うルナリア。
この場において、彼女たちにとってこの問題はその程度の「よくある生理現象」に過ぎなかった。だからこそ、ルナリアもヴィオラも、王宮の狂気をどこか甘く見てしまっていたのだ。
◇
(現在――白薔薇の間)
「では、私はこれにて失礼いたします。……殿下の健やかなるご成長と、王家の弥栄を、心よりお祈り申し上げますわ」
バタン、と。
ルナリアが優雅に退室し、重厚な扉が閉まる。
一部始終を壁際で見届けていたクロムハルト公爵令嬢ヴィオラは、表面上は完璧な貴族の微笑みを貼り付けたまま、内心で盛大な頭を抱えていた。
『ルナリア様、完全論破! ぐうの音も出ないほどの完璧なロジック! ……でも、ああもう、面倒なことになった!』
王妃が「穏便な辞退」として裁定した以上、ヒルデガードが即座に暗殺といった物理的暴挙に出ることはない。ルナリアも王妃も、そこは「論理的な損得勘定」で線引きをして高を括っている。
だが、前世の記憶を持つヴィオラは、理不尽な人間関係のバグ(嫌がらせ)の恐ろしさを知っていた。
『この狂った王宮で、正論で管理者のプライドをへし折ったら、絶対に面倒な裏工作をしてくるのに。直接的な手出しはなくても、あのヒルデガード様のことだから、ネチネチと陰湿なちょっかいをかけてくるの確定じゃない……』
さらにソフィアがちゃっかりとグラクトを取り込んでいるのを見て、ヴィオラの中で葛藤が生まれた。
『……このお茶会の詳細、やっぱりリュートにも相談しておくべき? あの子、王宮の陰謀に囲まれて育ったせいか妙に勘が鋭いし、言えば何か良い対策案を思いつくかも……』
だが、ヴィオラはすぐにその考えにブレーキをかけた。
ヴィオラは前世の記憶を持つ、精神的にはとうに成人を超えた女である。対するリュートは、優秀とはいえまだ十二歳の普通の少年だ。
いくらなんでも、「第一側妃がお前の母親を、お前の兄の性処理兼教育係にしようとして論破された」などというドロドロの昼ドラ以上に生々しく醜悪な話を、思春期真っ盛りの少年に直接するのには、日本人としての強烈な抵抗感(倫理観)があった。
『私自身、あの子から「自分の足で立て」って背中を押されたばかりじゃない。何でもかんでも彼に頼ろうとするのは違う。……ルナリア様も自信満々だったし、王妃様もリスクヘッジしてくれたんだから、当面は私たちが注意して見ていれば大丈夫なはず』
それが、ヴィオラの出した結論だった。
理知的な者たちが「愚者の感情」を侮った隙。そして、ヴィオラが「良識ある大人」として引いた境界線。
その小さな判断の保留が、リュートから「最悪の事態(ルナリアの暗殺)を未然に防ぐための情報と時間」を奪うことになるとは、この時のヴィオラは知る由もなかった。
白薔薇の間に満ちる、権力者たちの歪な熱気。
この日、リュートに相談しなかったという些細な引け目は、やがて取り返しのつかない悲劇を以て彼女の魂を打ち砕き、一生消えない『贖罪の十字架』として、彼女を冷徹な王妃教育へと駆り立てていくことになるのである。




