第10話 『逆算の解法』
1 仮面の解除:離宮の素顔
王宮の重苦しい廊下を抜け、人目を忍ぶようにして辿り着いた離宮。
その重厚なオーク材の扉が背後で静かに閉まった瞬間、ヴィオラの目の前で、信じがたい光景が繰り広げられた。
「お母様! お兄様! ヴィオラ様をお連れしました!」
先ほどまで、冷徹なまでの理知と完璧な王女としての気品を纏い、ヴィオラに王宮の現実を突きつけていた第一王女リーゼロッテ。その彼女が、声のトーンを弾ませ、年相応の無邪気な笑顔を浮かべてサロンの奥へと駆けていったのだ。
その背中には、王宮特有の息の詰まるような緊張感も、隙を見せまいとする防御の姿勢も一切ない。
『えっ……!? 嘘、さっきまでの冷たいリーゼ様と全然違う……! 王宮の重圧が、ここには一切ない……!?』
ヴィオラは目を丸くし、立ち尽くした。
王妃マルガレーテの執務室で感じた、人間をパーツとしてしか見ない絶対零度の空間。教育係から叩き込まれた、無駄を強要する非効率な礼儀作法。グラクトとセオリスが作り出す、他者を排除した狂信的な密室。
それらすべてが、この扉一枚を隔てただけで、まるで嘘のように消え去っていた。暖炉には火が爆ぜ、部屋全体が柔らかな光と温もりに満ちている。ここは、血統と品位という名の人治システムが機能停止する、完全なる安全地帯だった。
「リーゼ、おかえり。……よく来てくれたね、ヴィオラリア嬢」
サロンの奥、書棚の影から静かに姿を現したのは、一人の少年だった。
漆黒の髪に、王国の基準では「影」とされる赤い瞳。しかし、その佇まいは不吉さとは無縁の、静謐な知性を湛えていた。ローゼンタリア王国第二王子、リュート・セシル・ローゼンタリア。
「リーゼがいつも君の話をしているよ。王宮の空気に当てられて、随分と疲弊しているようだけれど……まずは座って、息を整えるといい」
『この人が、第二王子……。あの王妃様が異物としてシステムから隔離した、帝国の至宝の息子……』
ヴィオラは、リュートの穏やかな、しかし全てを見透かすような赤い瞳に見つめられ、小さく息を呑んだ。彼が放つのは、グラクトのような無自覚な傲慢さでも、王妃のような冷酷な圧力でもない。ただ純粋に、事象を客観的に観察し、理解しようとする『知の波長』だった。
「……失礼、いたします。リュート殿下」
ヴィオラは、まだ抜けきらない王宮の作法でぎこちなく一礼した。だが、彼女の強張った肩から、少しずつ、確実に緊張が解け始めていくのを、彼女自身が一番強く感じていた。ここは、理不尽なエラーを強要されない、正常に機能する空間なのだと、彼女の直感が告げていた。
2 聖母のセラピー:開発ロードマップの作成
離宮のサロンは、王宮特有の凍てつくような緊張感とは無縁だった。
暖炉の中で薪が静かに爆ぜ、部屋全体を柔らかな橙色に染め上げている。その温かな空間の中心で、ヴィオラの前に繊細な銀のティーセットが置かれた。
「温かいハーブティーよ。王宮の冷気で、すっかり芯まで冷えてしまったでしょう」
静かで、深く透き通るような声だった。
カップを差し出したのは、白百合のように気高く、それでいて底知れぬ慈愛を湛えた女性――第二側妃、ルナリア・ネイア・ローゼンタリアだった。
王妃マルガレーテが「異物」としてシステムから物理的に隔離した『帝国の至宝』。しかし、ヴィオラの目に映る彼女は、王宮のどの権力者よりも血の通った、真の意味での「人間」の温度を持っていた。
カップから立ち上るカモミールと微かな蜂蜜の香りが、ヴィオラの鼻腔をくすぐる。
両手でカップを包み込んだ瞬間、陶器越しに伝わるその温もりが、ヴィオラの中で限界まで張り詰めていた一本の糸を、あっけなく焼き切った。
「……っ、あ……」
気付けば、大粒の涙がヴィオラの瞳から溢れ落ち、絨毯に黒い染みを作っていた。
声を上げて泣くことすら、王宮では「品位に欠ける」と糾弾される。しかし、ここでは誰も彼女を咎めない。リュートは静かに見守り、リーゼは痛ましそうに目を伏せ、ルナリアはただ穏やかに微笑んでいた。
「私……もう、どうしていいか……分かりません……」
せき止めていた堤防が決壊したように、ヴィオラの口から痛みが溢れ出した。
「王妃様には、摩擦を防ぐためだけの『緩衝材』になれと言われました……。作法の時間では、相手を威圧するためだけに、わざと無駄な動きをしろと強制されて……。グラクト殿下のお茶会では、私は完全にシステムの外に置かれて……ただ座っているだけの観葉植物でした……」
嗚咽が漏れる。それは、公爵令嬢としての重圧に対する涙ではない。前世から持ち越した「技術者としての魂」が、非合理と非効率の暴力によって圧殺されかけていることへの、本能的な恐怖と絶望だった。
「計算式が……図面が、頭に浮かばないんです。このままあの場所にいたら、私は私の大好きな『機能美』も『効率』も忘れて、ただ誰かのための都合の良い歯車に……不良品のパーツになってしまう……っ!」
両手で顔を覆い、子供のように泣きじゃくるヴィオラ。
ルナリアは静かに歩み寄り、その震える小さな背中を優しく抱き寄せ、プラチナブロンドの髪をそっと撫でた。
「ええ、怖い思いをしたわね。貴女の知性と理性が、あの狂った法則の中で悲鳴を上げているのよ。……よく耐えたわ、ヴィオラ」
その母性的な温もりに、ヴィオラはしばらくの間、ただ身を委ねて涙を流し続けた。
やがて嗚咽が収まり、呼吸が落ち着き始めたのを見計らうと、ルナリアはヴィオラの肩から手を離し、今度は真っ直ぐに彼女の目を見つめた。
その赤い瞳には、優しい母の光だけでなく、帝国の公爵令嬢としての冷徹な理知が宿っていた。
「ヴィオラ。現状の理不尽さに心がパニックになった時はね、足元を見るのではなく、視線を遠くに置きなさい」
「……遠く、ですか?」
「そう。貴女が本当に手に入れたい『最終的な目標』を明確にし、そこから現在に向かって、順番に遡って道筋を考えるのよ。目の前の障害を一つずつどうにかしようとするから、迷子になるの」
その言葉が、ヴィオラの脳内に雷のように落ちた。
涙で潤んでいた瞳の奥で、停止していた知性の歯車が、カチリと音を立てて再び噛み合った。
『……目標からの逆算。現在地から積み上げるんじゃなくて、完成形の仕様書から必要な工程を割り出していく……。魔導具の開発手順と、全く同じだ……!』
政治も、人間関係も、ただの複雑な物理法則とシステムの構築に過ぎない。
ルナリアの提示した「論理の再起動」によって、ヴィオラの瞳に、技術者としての強烈な理性の光が戻り始めていた。
3 条件の整理:デッドロックの確認
ヴィオラは深く息を吸い込み、目元を拭った。その瞳にはもう先ほどの脆弱な涙はない。ルナリアの言葉によって、技術者としての冷徹な理性が完全に再起動していた。
彼女の顔つきが変わったのを見届けると、リュートが静かに口を開いた。
「落ち着いたようだね。では、君の言う『逆算』……盤面の整理を始めよう。君が手に入れたい最終的な目標、『大前提』はなんだ?」
ヴィオラは淀みなく、はっきりと答える。
「私の、自由な研究時間。誰にも干渉されず、自らの手で魔導具の設計図を引き、組み立てるための『完全な自由』よ」
「いいだろう。では、それを達成するための絶対条件、『小前提』は?」
「クロムハルト家の自治権と、領地の工房を守ること。王家に目をつけられず、不敬という名のペナルティを受けないことよ。実家に迷惑をかけるわけにはいかないわ」
リュートは満足げに頷き、暖炉の炎を見つめた。
「大前提と小前提は揃った。では、その二つの条件をクリアするための『ルート検証』を行ってみよう」
ヴィオラは自身の頭脳をフル回転させ、政治という名のシステムのシミュレーションを開始する。
「ルート1……私が王妃教育を完璧にこなし、最速でグラクト殿下の正妃、あるいは側妃に収まった場合。……駄目ね。王宮の中枢に組み込まれれば、私のスケジュールは分単位で王家に管理される。研究に割けるリソースは完全にゼロになるわ」
「その通りだ」
リュートが肯定する。
「ではルート2。君自身の口から、グラクト兄上との婚約破棄を申し出た場合は?」
その問いには、先ほど王宮の庭園で現実を説いたリーゼロッテが、再び冷徹な事実をもって答えた。
「王族への不敬罪による、莫大な賠償金です。お父様もヴィオラ様も、新しい研究をする時間も資金も奪われ、王家の指定する利益率の高い凡庸な魔導具を永遠に作り続けるだけの『下請け工場』に成り下がります」
ヴィオラの顔から、再びスッと血の気が引いた。
頭の中で何度計算式を組み直しても、弾き出されるエラーは同じだった。
「……どっちに転んでも、アウトじゃない。私が王妃になっても私の自由は死ぬ。私から婚約を破棄しても、家と工房が死ぬ」
ヴィオラは長椅子に深く背を預け、絶望的な吐息を漏らした。
「私が自分からアクションを起こした時点で、システムが強制終了する。どう計算してもバグにしかならない……完全な行き詰まり。詰みの状態だわ」
王家の敷いた盤面は、最初から逃げ道など用意されていない完璧な迷宮だった。公爵令嬢として組み込まれた以上、ヴィオラが自らの足で歩こうとする限り、どの扉を開けても「研究者としての死」が待っているのだ。
重苦しい沈黙が、サロンを満たす。自身の無力さを痛感し、ヴィオラが再び俯きかけた、その時だった。
4 影のハッキング:灰かぶり姫のスキーム
完全な手詰まりを前に、ヴィオラが深い絶望の吐息を漏らした直後だった。
暖炉の炎を背にしたリュートが、静寂を切り裂くように、ひどく冷徹で、しかし絶対的な確信に満ちた声を落とした。
「君から婚約を破棄するから、王家への不敬になる。ならば……グラクト兄上に、『王家の品位を一切損なうことなく』婚約を破棄させればいい」
その言葉に、ヴィオラは弾かれたように顔を上げた。
「……は? グラクト殿下に破棄させる? そんなこと、あの王妃様や取り巻きの貴族たちが許すわけないじゃない! 私という『緩衝材』を手放せば、派閥の均衡が崩れるのよ?」
「ああ、普通に考えれば許さない。政治的メリットが皆無だからね」
リュートは一歩前へ歩み出ると、赤い瞳に微かな嗜虐の光を宿し、冷酷なハッカーのように唇を歪めた。
「だからこそ、彼らが自ら進んで君を手放さざるを得ない『大義名分』を盤面に仕込むんだ。政治的メリットを凌駕するほどの、圧倒的な感情と正当性……ヴィオラ嬢、君は『灰かぶり姫』の物語を知っているね?」
突然の童話の引き合いに、ヴィオラは眉をひそめた。
「ええ、知っているわ。身分違いの可哀想な少女が、魔法の力で着飾って舞踏会に行き、最後は王子様に見初められて結ばれる……美しくて非現実的なお伽話でしょう?」
「その通り。大衆が愛してやまない、運命の恋の物語だ」
リュートは冷たく頷き、言葉を続けた。それは、前世の法廷で検察官が矛盾を突く時のような、容赦のない論理の刃だった。
「……だが、これを現実の政治闘争として考えた場合、物語には決定的な『空白』が存在する」
リュートはわざとらしく一呼吸置き、ヴィオラの瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「王子が灰かぶり姫と結ばれた裏で、元々王子にあてがわれていたはずの『高位貴族の婚約者』はどうなると思う?」
ヴィオラはハッとして息を呑んだ。
童話では決して描かれない、権力構造の裏側。王子には当然、国益のために選ばれた婚約者が存在しているはずなのだ。
リュートは冷徹な事実を淡々と告げる。
「もしその婚約者が、身分違いの小娘に王子を奪われたと怒り狂い、彼女を害そうとすれば……王家の品位を傷つける『悪役』として処断され、実家ごと破滅するだろう。それが権力者の論理だ」
そこまで語ると、リュートは再び意図的な間を空けた。
「だが、もしその婚約者が……一切の怒りを見せず、気高く微笑んでこう言ったらどうなる? 『殿下の真実の愛のために、私は喜んで身を引きます。どうか、お二人の幸せを』と」
ヴィオラの脳内で、バラバラだった情報が一本の線で繋がった。
システムを内側から破壊する、極めて悪辣で完璧な「論理のバグ」。
「……彼女は、悲劇のヒロインになる。身分違いの恋というロマンチックな物語において、自らの立場を犠牲にして王子の愛を祝福した……気高く美しい『聖女』として称賛されるわ」
「ご名答だ」
リュートは満足げに微笑んだ。
「王宮は『品位』を絶対視する。ならば、自己犠牲という最高位の品位を見せつけた令嬢を、どうして不敬罪で裁けようか。裁けば、大衆の支持を得た真実の愛の物語に泥を塗り、王家自身が『悪』に堕ちる。つまり、大衆心理と品位のルールを逆手にとれば、王家のシステムは君を罰することができなくなるんだ」
ヴィオラは背筋にゾクゾクとする悪寒と、それ以上の高揚感が這い上がるのを感じていた。
『王家の敷いた絶対に逃げられない迷宮……その壁を壊すんじゃなくて、迷宮のルールそのものを逆手に取って、管理者(王家)に「出口の鍵」を開けさせる……!』
それはまさに、既存のシステム(人治)を熟知した上で、その構造的欠陥を突く「影のハッキング」だった。
ヴィオラは、目の前に立つ少年が、ただの不遇な王子などではないことを完全に理解した。彼は、この国のシステムそのものを根底から書き換えようとしている、冷酷な怪物なのだと。
5 王族の婚姻記録と「養子縁組」の裏技
リュートの提示した「聖女への昇華」というシナリオの美しさに戦慄しつつも、ヴィオラはすぐに技術者としての冷徹な視点で、その計画の致命的なエラーを指摘した。
「……待って。理論は完璧よ。大衆心理と自己犠牲の品位を盾にして、不敬罪のシステムを無効化する。でも、この王宮の『血統と品位』を絶対視するシステムが、そもそも身分違いの小娘を次期王の妃として認めるはずがないわ。あの冷酷な王妃様が、身元不明の異物を中枢に組み込むなんて絶対に許さない。即座に排除されて終わりよ」
ヴィオラの反論は、王宮の力学において極めて正しい。
しかし、リュートはその指摘を待っていたかのように、静かに、そして深く頷いた。その赤い瞳に浮かんだのは、前世で数多の法廷に立ち、分厚い過去の判例から逆転の糸口を掴み出してきた法曹特有の、冷徹な笑みだった。
「その通りだ。身分という絶対的な要件が足りないのなら、王宮が反論できない正規のルールを用いて『偽装』を当ててやればいい。……ヴィオラ嬢、この離宮の書庫には、王国の歴史とあらゆる法令、そして過去の『婚姻記録』が埃を被って眠っている」
リュートはテーブルの上のチェス盤から、価値の低いポーンを一つ指先で摘み上げた。
「過去の王族の婚姻記録の中に、一つだけ極めて興味深い判例がある。身分違いの娘に執心した過去の王族が、彼女を一旦『公爵家の養女』として迎え入れさせ、形式上の身分を強引に釣り合わせてから婚姻に踏み切った例だ。王家が過去に自ら認めたこの合法的な裏技を、今回も応用する」
「養女……公爵家の?」
ヴィオラは目を瞬かせた。そして、リュートの静かな視線が、他でもない自分に向けられていることに気づき、息を呑む。
「まさか……」
「その『まさか』だ」
リュートは手の中のポーンを、西の公爵家を意味する駒のすぐ隣へと滑らせた。
「兄上が見つけた『運命の相手』を、君の父上……西のクロムハルト公爵家の養女として迎え入れるんだ。無論、そのための裏工作と根回しは僕たちが完璧に行う」
ヴィオラの脳裏に、塞がれていたはずの迷宮の壁が音を立てて崩れ、完璧な逃走経路が構築されていく。
「そうすれば、彼女は書類上、公爵令嬢という『品位と血統の要件』を完全にクリアする。王妃も表立っては拒絶できなくなる。そして君は……」
「『愛する義妹と、殿下の真実の愛のために身を引いた、気高く美しき姉』になる」
リュートの言葉は、冷酷なまでに鮮やかなシナリオの完成を告げていた。
「王宮の大人たちは、君が自発的に身を引いたことで、派閥の均衡を保つための新たな『完全中立のカード(義妹)』をそのまま手に入れる。結果として盤面の不均衡は起きず、君を不敬罪で罰する政治的理由が完全に消滅するんだ。君は華麗に表舞台から退場し、後は新しい緩衝材にすべてを押し付ければいい」
リュートは冷たい紅茶を一口飲み、淡々と締めくくる。
「大衆からは悲劇の聖女と讃えられ、あるいは王宮の保守派からは『王子の愛すら得られなかった不良品』と陰で嘲笑されるかもしれない。……だが、君にとってそんな汚名はどうでもいいはずだ」
「……ええ。最高よ。自由が手に入るなら、不良品のレッテルなんて安いものだわ」
ヴィオラは震える唇に、微かな、しかし確かな弧を描いた。
王家が絶対とする「血統のシステム」を、過去の記録(判例)という正規のルールを用いて合法的にハッキングする。誰も血を流さず、誰にも責任を問わせず、ただ盤面だけが都合よく書き換わる完璧なフェードアウト。
これが、目の前の少年が描く「盤面の支配」だった。圧倒的な知性と論理が、王宮の理不尽を凌駕した瞬間であった。
6 離宮の思想と、自己決定の契約(覚悟の確認)
完璧な逃走経路の全貌を提示した後、リュートは意図的に言葉を切った。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが、静寂に包まれたサロンに響く。それは、ヴィオラにこの計画の持つ「真の重み」を理解させるための、計算された沈黙だった。
やがて、リュートは前世の法廷で見せていたような、冷徹な契約者の顔つきで再び口を開いた。
「過去、真実の愛などという感情論だけで強引に身分の壁を突破しようとした愚かな王は、結果として国内に凄惨な派閥争いと血の雨を降らせた。だが今回は違う。僕たちが盤面の下で完全に根回しを行い、王宮のシステムが『自発的に』君を手放すよう、あらゆる論理と状況を整える」
リュートの赤い瞳が、ヴィオラを真っ直ぐに射抜く。
「……だが、これを実行に移すかどうか、最終的に決断するのは君だ」
「私、が……?」
「そうだ。僕たちはあくまで、盤面を覆すための『選択肢』を提示したに過ぎない。他人に与えられた自由など、いずれまた別の誰かに奪われる。離宮の思想は自己決定だ」
リュートは一歩前に踏み出し、ヴィオラに最後の条件――この契約における最も過酷な代償を突きつけた。
「この計画を完璧に成功させるには、一つだけ絶対に譲れない前提条件がある。それは君が、あの非効率で狂った王妃教育を完璧にこなし、誰の目から見ても『非の打ち所のない、気高く美しい公爵令嬢』を演じ切ることだ。君が完璧であればあるほど、後から現れる灰かぶり姫への『無慈悲な譲渡』が悲劇性を帯び、君を不敬罪から守る絶対の盾(聖女の称号)となる」
それはつまり、自由を手に入れるその瞬間まで、あの精神を削り取る地獄のような教育と、自己を殺す非合理な作法に耐え続けなければならないという宣告だった。
「僕たちは君の退路を作る。だが、そこへ至るまでの道を歩き切る苦痛を代わってやることはできない。……自らの意志で、あの理不尽に耐え抜き、自らの自由を勝ち取る覚悟があるか?」
リュートと、その傍らで静かに見守るリーゼの真っ直ぐな視線。
少し前まで、王宮の重圧に押し潰され、自己崩壊の縁で涙を流していた少女は、もうそこにはいなかった。
ヴィオラはゆっくりと、しかし確かな力強さで、自身の足で立ち上がった。
その瞳には、絶望の濁りなど微塵もない。複雑な数式を解き明かし、誰も見たことのない機構を組み上げようとする、生粋の技術者としての強烈な光が煌々と宿っていた。
「……上等よ」
ヴィオラの唇が、不敵な弧を描く。
「非効率な作法も、中身のない茶会も、全部完璧に計算して出力してやるわ。研究さえできるなら、大衆が私を聖女と呼ぼうが、王宮の連中が私を王子の愛を得られなかった不良品と嘲笑おうが、どっちでもいい。……私の自由は、私自身の手で買い戻すわ」
一切のブレのない、論理と覚悟に裏打ちされた宣言。
それを見届けたリュートは、満足げに、そして同類の共犯者を迎える冷たい笑みを浮かべた。
「……契約成立だ。ならば、君にもこの同盟における『仕事(責任)』を果たしてもらおう」
リュートはただの慈善で彼女を救うわけではない。冷徹な等価交換こそが、彼らの関係を最も強固にする。
「この先、王宮の盤面を完全にコントロールするためには、既存の利権を破壊するほどの莫大な資金と、抗いがたい影響力が必要になる。君にはその『研究の成果』をもって、僕の計画を手伝ってもらうぞ。これは投資だ」
「言うじゃない。王家のシステムをハッキングする天才策士からのご指名だもの、受けて立つわ」
ヴィオラは完全に気力を取り戻し、自身の頭脳に眠る無限の設計図を誇示するように、堂々と笑い返した。
「世界をひっくり返すほどの最高の魔導機を、私が作ってあげる」
暗く冷たい王宮の片隅、忘れられた離宮のサロンにて。
前世の法曹知識で国家を書き換えようとする冷徹な支配者と、前世の技術で世界を更新しようとする合理主義の令嬢による、王家を欺くための「対等な同盟」が、ここに成立した。
7 聖域の約束
夜霧が王都を包み始める頃、ヴィオラはついに離宮を後にしようとしていた。
重厚な扉へ向かう彼女の背中は、数時間前に逃げ込んできた時のように丸まってはいない。そこには、自らの意思で地獄の迷宮を歩き抜く覚悟を決めた、誇り高き技術者の芯が通っていた。
「ヴィオラ」
見送りに立ったルナリアが、ふわりと香る白百合のような気配と共に近づき、ヴィオラの両手をその温かな掌でそっと包み込んだ。
「ここでは、誰も貴女の思考を縛らないわ。王宮の狂った法則に息が詰まりそうになったら、いつでもここへいらっしゃい。ここは貴女の心を整え、知性を守るための『聖域』よ」
慈愛に満ちたその言葉に、ヴィオラは深く頷いた。ルナリアの存在は、冷徹な盤面における唯一の絶対的な精神的支柱だった。
「はい……ありがとうございます、ルナリア様。私、もう折れたりしません」
背後では、リュートとリーゼロッテが静かな笑みを浮かべて彼女を見送っている。
ヴィオラは一礼し、自らの戦場たる本宮へと繋がる暗い回廊へと足を踏み出した。その足取りには、もはや一切の迷いはなかった。
――それからの日々は、ヴィオラにとって壮絶な自己欺瞞(偽装)の連続であった。
表向きの彼女は、王妃マルガレーテの監視下のもと、あの精神を削る『礼儀作法の教育』に全力で応え続けた。極限まで無駄を要求される非効率な動作も、グラクトとセオリスの熱狂的な会話に置いてきぼりにされる中身のない茶会も、すべては「後で気高く身を引くための完璧な布石」だと論理的に割り切った。彼女は自身の感情を完全に切り離し、システムが要求する「完璧で従順な公爵令嬢」という役割を寸分の狂いもなく実行し続けたのだ。
その見事な適応ぶりに、あの冷酷な王妃すらも「西の娘は極めて優秀な歯車になり得る」と満足げに評価を下すほどだった。
しかし、その完璧な仮面の裏側で、ヴィオラは離宮の二人の共犯者たちと密かに結託していた。
王宮の監視の目が行き届かない離宮への訪問を「精神の休息」と称して合法的に確保し、彼女はその聖域で猛烈な勢いで設計図を引き続けた。リュートが東のアイリスと共に構築しつつある王都の隠れ家や物流網を利用し、ヴィオラの頭脳に眠る異世界の技術は、少しずつ、しかし確実に盤面を覆す物理的な『力』として具現化への道を歩み始めていた。
表舞台では「絶対的な人治」に従属するふりをしながら、水面下では「法治」による革命のための物理的リソースを蓄積していく。血統と品位のシステムを内側から食い破るための猛毒は、誰にも気づかれることなく、静かに、そして濃密に醸成されていった。
――そして、一年後。
冷たい王宮のパワーバランスが表面上の均衡を保ち続ける中、リュートたちの「生存圏」は、水面下で確実に広がりつつあった。
東の海ではアイリス率いる海運組合が莫大な利益を循環させ、王都の隠れ家ではヴィオラの異端の技術が密かに形を成し始めている。
王家が絶対視する『品位』という名の理不尽なルール。彼らはそれを真正面から否定するのではなく、完璧に遵守するふりをしながらハッキングし、自分たちの首輪を解くための「鍵」へと変えようとしていた。
(盤面は整いつつある。僕たちの居場所は、もうこの狭い離宮だけじゃない)
リュートは窓の外、静かに広がる王都の街並みと、その向こうに続く広大な世界を見据えた。
血統や身分ではなく、法と論理という新たなルールでこの国の深部を喰い破る。その赤い瞳には、静かなる支配者の熱が煌々と宿っていた。
(第2章 完)




