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リーガル・レジスタンス 〜法治国家を目指して〜  作者: ムササビ-モマ
第2章『人知の世』
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第9話  『白黒の反転』

1 東屋の茶会:無知という罪と、王女の慈悲


 王宮内の庭園は、午後の柔らかな陽光が蔦の絡まる白い柱を照らし、人目の少ない東屋に淡い影を落としていた。

 風が軽く吹き抜け、甘い花の香りを運んでくる。だが、その甘さの下には王宮特有の冷たい緊張が常に張りつめている。

 銀のティーセットが静かに湯気を立てる中、二人の少女が向かい合って座っていた。


 明日から本格的に始まる、地獄の王妃教育。その前日――リーゼロッテ・ソレイユ・ローゼンタリアは、自ら招いたこのささやかな茶会を、完璧な王女の微笑みで取り仕切っていた。


「ヴィオラリア様。本日はお時間をいただき、誠にありがとうございます」

 プラチナブロンドの髪を丁寧に結い上げ、金色の瞳に穏やかな光を宿した六歳の王女は、淡い水色のドレスを着て背筋を伸ばしていた。声は幼いが、すでに離宮で母や兄から学んだ「理知」が、その所作の端々に滲んでいる。


 対するヴィオラリア・オルネ・クロムハルトは、わずかに肩の力を抜き、薬品の匂いが染み付いた金髪を耳にかけた。技術者としての疲労がまだ瞳の奥に残っていたが、この息苦しい王宮の重圧の中で、初めて出会った「普通に話せそうな年下の少女」に、彼女は心底ホッとしていた。


「堅苦しいのは苦手なので、ヴィオラで結構ですわ」

 ヴィオラが少しだけ肩の力を抜いてそう返すと、リーゼロッテは柔らかく微笑んだ。


「ふふ、分かりました。では、ヴィオラ様。……私のことも、リーゼと呼んでいただけますか?」

「え? あ、はい。よろしくね、リーゼ様」

 ヴィオラは一瞬目を丸くした後、人の良さそうな笑みを浮かべて頷いた。場がわずかに和らぐ。


『よかった……王宮にも、こんな普通に話せる可愛い子がいるんだ。これなら少し、息がつけそうだわ』と、ヴィオラは胸の奥で小さく安堵した。

 紅茶を一口飲んだ後、リーゼロッテは自然に話題を移した。声は優しく、しかし探るような響きを帯びている。


「ヴィオラ様……王宮での生活に、不安はありませんか?」

 その一言で、ヴィオラの「貴族令嬢の仮面」がわずかに緩んだ。

 彼女は元々、裏表のない技術屋だ。気を許した相手(しかも無害そうな年下の少女)には、つい本音が漏れ出てしまう。彼女はカップを置き、肩をすくめて、悪戯っぽく小さく笑った。


「実はね……作法なんてすぐにボロが出るから、適当に落第して実家に帰るつもりなんです」

「落第、ですか?」

「ええ。その間の予算、つまり『研究費』さえ王家から引っ張れればいいので。父上も同じ考えですわ」

 ヴィオラの言葉は、羽のように軽かった。


 彼女にとって、王妃教育など「非効率な摩擦力」の塊に過ぎない。破談前提の資金調達(トンズラ計画)は、親子で合意した「最も合理的なルート」だった。数ヶ月我慢して赤点を取り、クビになれば、潤沢な予算を手土産に愛する工房へ帰れる――そう、無邪気に信じ切っていた。


「…………」

 その瞬間。

 リーゼロッテの金色の瞳から、子供らしい無邪気さが、スッと音を立てずに消え去った。

 冷徹な理知。過酷な後宮を生き抜き、一度は没落の淵を覗き込んだ者だけが持つ、絶対零度の静けさ。


 十歳の少女は、母ルナリアと兄リュートから授かった「実力」を、ここで初めて他者ヴィオラに向けた。声は穏やかだが、一切の甘さを排した、宣告者のそれだった。


「……ヴィオラ様。貴女は、何も分かっていませんね」

「え……?」

 ヴィオラは、目の前の幼い少女から発せられた唐突な圧力に、思わず瞬きをした。


 リーゼロッテは紅茶のカップをソーサーに置き、背筋をピンと伸ばしたまま、事実だけを淡々と並べ始めた。感情を交えず、しかし容赦なく現実を突きつける。


「もし貴女が意図的に落第し、第一王子殿下の顔に泥を塗れば……王家は、西の公爵家を即座には潰しません。技術という『実利』が惜しいからです。ですが……『王族への不敬』そして『契約不履行』として、クロムハルト家に莫大な違約金を課します」

 ヴィオラの表情が、ピシリと凍りついた。


「……違約、金?」という掠れた声が、喉から漏れる。

 リーゼロッテは静かに続ける。


「ええ。そして、その返済が終わるまでの間……クロムハルト家は、王家が指定する『利益率の高い、凡庸で退屈な魔導具』を、ただ永遠に作り続けるだけの下請け工場に成り下がるのです」

「なっ……!?」

「お父様も、貴女も、新しい研究をする時間も資金も与えられず。王家の借金を返すためだけに、朝から晩まで、興味もない大量生産品のノルマをこなすだけの日々……。貴女が何よりも愛する『自由な研究』は、その瞬間に永遠に失われるのですよ」

 東屋の風が、ピタリと止まった。


 ヴィオラの顔から、さぁーっと血の気が引いていく。金色の瞳が虚ろに揺れ、指先がテーブルの縁を白くなるほど強く握りしめた。

 彼女の脳内で、完璧だと思っていた「赤点トンズラ計画」の計算式が、ガラガラと音を立てて崩壊していく。


 落第は「トンズラ」の手段ではない。王家が用意した「永遠の枷(借金)」であり、技術者を一生飼い殺しにするための「罠」だったのだ。技術の聖域である愛する工房が、血統と品位という名目の下に、ただの部品製造工場に貶められる――。

 その生々しい絶望が、初めてヴィオラの胸を深く、残酷に抉った。


『……私は、なんてバカなことを……!』

 王宮の庭園は、恐ろしいほど静かだった。

 花の香りが漂う中、ひとりの天才技術者は、己が足を踏み入れたのが、ただの面倒な学校ではなく、失敗すれば家族もろとも奴隷にされる『出口のないデスゲーム』であることを、ようやく悟ったのだ。

 リーゼロッテは静かに紅茶を傾け、目の前で絶望に染まる少女を、ただ見守っていた。


 そこに、安い同情や慰めはない。ただ、残酷な現実を「情報(実力)」として提示し、彼女の目を覚まさせた王女の、冷徹な慈悲だけがそこにあった。




2 冷徹なる盤面:王妃の家内統制


 王宮の深部にある王妃マルガレーテの執務室は、豪奢でありながら、息の詰まるような冷気で満たされていた。壁一面に広がる精緻な王国地図、一切の塵も許されない磨き上げられた黒檀の机。


 そこには、王宮という巨大な機構を動かすための「機能」だけが存在し、人間の温もりを感じさせるものは何一つない。

 週に一度の直接指導。上座の執務椅子に腰を下ろすマルガレーテは、冷ややかな氷青の瞳で、背筋を伸ばして立つヴィオラを見据えていた。


「王妃たる者、個人の情などという不純物は一切不要です」

 マルガレーテの静かな声が、冷たい石室に響く。その言葉には、一切の感情が乗っていない。ただ、冷徹な事実だけが紡がれていく。

「王家の『安定』、そして血統が保証する『品位』。それこそが絶対の価値であり、我が国の屋台骨です。それを乱す要素は、いかなる理由があろうとも、誰であろうとも容赦なく切り捨てる。……それが、王宮における『家内統制』の基本思想です。理解できましたね、ヴィオラ」


「……はい、王妃様」

 ヴィオラは小さく頷きながらも、膝の震えを必死に抑えていた。目の前の女傑が放つプレッシャーは、これまでに彼女が知るいかなる権力者とも次元が違う。物理的な暴力ではなく、冷徹なシステムそのものが服を着て座っているかのような威圧感だった。

 マルガレーテは机の上で両手を組み、ゆっくりと目を細めた。


「では、実践として現在の後宮という盤面を俯瞰しなさい。次期王となるグラクト殿下は絶対の核。しかし、その周囲を固める側妃たちは、私にとっては盤面の『駒』に過ぎません」

 王妃は、机の上に置かれたチェスの駒を指先で軽く弾いた。


「現在、第一側妃ヒルデガードが、自らの生家である武門の甥をグラクト殿下の側近に据え、突出しました。結果として、魔導派を束ねる第三側妃ソフィアが反発し、後宮の力学に不均衡が生じている。これは、王家の安定を著しく損なう『欠陥』です」

 ヴィオラは息を呑んだ。実の夫の側室たちを、完全に質量を持った重りか何かのように計算している。


「ゆえに、完全な中立である西のクロムハルト家――つまり貴女を、グラクト殿下の隣にあてがうのです。武にも魔導にも偏らない貴女の存在によって、両派閥の均衡を強制的に固定する。貴女は、この後宮という機構の『緩衝材』として機能しなさい。王家を安定させるための、極めて有用な歯車として」

 その宣告を聞いた瞬間、ヴィオラの脳内で強烈な拒絶反応が警報を鳴らした。


『人間を完全にパーツ扱いしてる……! 私は、血みどろの派閥争いの摩擦熱で焼き切れないための、ただの潤滑油ってこと!? 私の意思とか、研究したいって欲求とか、そんな個人の仕様は全部無視して、ただそこにはめ込むだけ……!』

 それは、技術者としてのヴィオラが最も嫌悪する「非人道的な設計」だった。だが、反論などできるはずもない。相手は、この設計図を引いた絶対的な支配者なのだ。


 重圧に耐えかね、思考が飽和しかけたヴィオラは、ふと、この盤面に欠けている一つの強大な存在に思い至った。純粋な知的好奇心、あるいはシステム全体の構造を把握したいという技術者としての性が、恐怖を僅かに上回った。


「あの……恐れ入ります、王妃様。一つ、よろしいでしょうか」

「何かしら」

「その……今の後宮の力学において、第二側妃様は、どのような役割を担っておられるのでしょうか……?」

 西の領地にまで轟いていた「帝国の至宝」の噂。そして、自身の窮地を救ってくれたという恩義ある女性。彼女がこの冷徹な盤面で、どこに配置されているのか。


 その問いを口にした瞬間、執務室の空気が完全に凍結した。

 マルガレーテの氷青の瞳から、僅かな人間味すらも完全に消失した。絶対零度の視線が、ヴィオラを射抜く。


「……第二側妃ルナリア様は、『帝国の至宝』です」

 声のトーンは変わらない。だが、そこに含まれる拒絶の圧力は、先程までの比ではなかった。


「大国ファブリスとの友好の証として、我々も最大限の敬意を払い、離宮という特別な場所を用意しています。……ですが、彼女はあくまで『外国人よそもの』です」

 マルガレーテは、机の上のチェス盤から、一つだけ色の違う駒を無造作に取り上げ、盤外へと弾き出した。


「王国の血統を持たず、我々の品位の法則に属さない異物。ゆえに、彼女が我が国の政治の中枢……この盤面に関わることは、一切許されません。あれは、ただ飾っておくための美しい美術品に過ぎない」

 王妃は静かに立ち上がり、ヴィオラを見下ろした。


「貴女は、誇り高きローゼンタリアの公爵令嬢です。自身の役割と、立つべき盤面を間違えないこと。……あの離宮の者たちには、決して深く関わってはなりません。それは、貴女の『機能』を損なう致命的なエラーになりますよ」

「……っ! は、はい……肝に銘じます……!」

 ヴィオラは血の気を失い、深く頭を下げた。震える声でそう絞り出すのが精一杯だった。


『うわ、特大の地雷を踏んだ……! VIP待遇なんて建前で、権限からは完全に隔離されてるんだ……。この人たち、自分の理解できない規格外の存在を、システムごと物理的に切り離してる……!』

 圧倒的な政治的統制と、異物を徹底して排除する王国の閉鎖性。ヴィオラは、自分が放り込まれたこの「王宮」という名の迷宮が、どれほど狂気的で、冷酷な法則で動いているのかを、骨の髄まで理解させられていた。背筋を這う悪寒が、いつまでも止まらなかった。




3 非効率の極み:品位の牢獄


 王宮の教育室は、先ほどの執務室とは全く別の意味で、ヴィオラから呼吸の自由を奪う空間だった。

 床に敷き詰められた豪奢な絨毯、壁を彩る重厚なタペストリー。しかし、ヴィオラにとってここは拷問室に等しかった。彼女は今、ただ目の前のテーブルに置かれたティーカップを手に取る、という行為を数十回にわたって繰り返させられている。

 本来ならば一秒にも満たないその動作に、優に五秒の時間をかけることを強要されていた。


「やり直しです、ヴィオラリア様。指先の角度、そして腕を伸ばす速度が『実用的』に過ぎます」

 分厚い教本を手にした初老の教育係が、氷のように冷たい声でピシャリと撥ね付けた。彼女は王家代々の礼儀作法を叩き込んできた、いわば「品位の番人」である。教育係は自ら手本を示すべく、テーブルの前に立った。


「よろしいですか。品位とはすなわち、他者に対して圧倒的な『余裕』を見せつける物理的証明なのです」

 教育係は、カップへ向かって直角に手を伸ばさない。まず手首を優雅に反らせ、空気を撫でるようにゆっくりと腕を浮かせ、不自然なまでに緩やかな曲線を描きながら、ようやく持ち手へと指を添えた。流れるような、しかし著しく遠回りで非効率な動作だった。


「領民や下賎な者たちは、今日を生きるために『効率』を求め、無駄を省きます。しかし、王家の傍らに立つ者は違います。あえて三つの無駄な所作を挟む。効率などという貧相な概念を完全に無視できるほどに『時間的、そして物理的な消費』こそが、相対する者に圧倒的な格の違いを錯覚させ、畏怖を植え付ける最大の武器となるのです。息をするように優雅にこなす。それが権力者の作法です」

 その滑らかな説明を聞きながら、ヴィオラの脳内では技術者としての理性が悲鳴を上げていた。


『相手を威圧するために、わざと稼働工程を増やして遅延を作れってこと!?』

 ヴィオラは引き攣りそうになる頰の筋肉を必死に抑え込んだ。彼女の思考回路は、目の前の光景を致命的なバグとして処理している。

『つまり、「私は優雅に見せられるだけ暇だから無駄な動きができるのよ」とマウントを取るためだけに、最短距離の運動エネルギーを意図的に放棄してる。設計思想としてあり得ない! 目的達成のための最適解をわざと外すなんて、最低最悪な欠陥設計じゃない!』


「さあ、もう一度。今度は呼吸を止めず、しかし関節の動きを見せないように」

「……はい、先生」

 ヴィオラは再び右手を浮かせた。頭の中の計算式が「無駄だ」と叫んでいるのに、肉体には不合理な軌道を描くことを強制しなければならない。


『伝導効率が……合理性が死んでいくぅぅ……!』

 無駄な動きを美しく見せるためには、本来使わなくてもいい筋肉を極度に緊張させ続ける必要がある。物理的な疲労以上に、自身の根幹を成す「機能美」と「効率」への信仰を、自らの手で全否定させられる反復練習。それはヴィオラの精神をゴリゴリと削り取っていく、終わりの見えない苦行だった。


「違います。まだ『目的』に向かって急いでいるように見えます。貴女の時間は優雅さの前に無限であると、その身で体現しなさい」

 無慈悲な指摘が再び飛ぶ。

 血統と品位による人治国家――そのシステムは、法律や制度だけでなく、個人の肉体の動かし方に至るまで、非論理的な呪縛として張り巡らされている。ヴィオラは、この狂った箱庭の中で、自らの知性が徐々に窒息していくのを感じていた。




4 地獄の三人茶会と、置いてきぼりの技術者


 王宮の空中庭園に設けられた白亜のテラス席。眼下には美しく区画された王都の街並みが広がり、吹き抜ける風が心地よい。本来であれば、ここは未来の王と公爵令嬢が親睦を深め、優雅な逢瀬を楽しむための完璧な舞台であるはずだった。


 だが、ヴィオラにとって、この定期的な会談デートは、礼儀作法の特訓とは別のベクトルで精神を摩耗させる地獄の三者面談と化していた。

 円テーブルを挟んでヴィオラの対面に座るのは、眩いばかりの金髪と完璧な微笑みを湛えた第一王子、グラクト・アルバ・ローゼンタリア。そして、未来の王と妃候補の甘やかな空間であるはずのこの場において、グラクトの背後には巨岩のような体躯を持つ近衛騎士、セオリス・デイル・ゼノビアが、暑苦しいほどの忠誠心を放ちながら直立不動で控えていた。


 グラクトは白磁のティーカップを優雅に置き、王族としての完璧な気品をもってヴィオラに微笑みかけた。


「王宮での生活には慣れたかい、ヴィオラ。王妃様からの学びも多いだろう。最近の調子はどうだい?」

「はい、グラクト殿下。毎日が新しいことの連続で、王家の歴史や――」

 ヴィオラが、徹夜で暗記した『無難で品位のある回答』を口にしようとした、まさにその瞬間だった。


「殿下!!」

 セオリスが一歩前に踏み出し、テラスの空気を震わせるような大音声で割り込んだ。ヴィオラの言葉など、小鳥の囀りほどにも認識していない強引さだった。


「本日の修練場での殿下の剣捌き、まさに獅子奮迅! 踏み込みの鋭さ、太刀筋の美しさ、どれをとっても歴代の王に勝るとも劣らぬ見事な武威でございました! このセオリス、感動のあまり魂が震え上がりましたぞ!!」

 ヴィオラは口を半開きにしたまま、瞬きを繰り返した。公爵令嬢の発言を平然と遮るという、貴族社会においてあり得ない非礼。しかし、セオリスの瞳には純粋な狂信しかなく、悪気すら存在しない。彼にとってこの世界には「グラクトの偉大さ」しか映っていないのだ。


 そして、さらにヴィオラを絶望させたのは、グラクトの反応だった。

 未来の王は、自身の妃候補が会話を遮られたことへのフォローをするでもなく、ぱぁっと顔を輝かせてセオリスの方へ身を乗り出した。


「そうだろう、セオリス! 僕も今日の太刀筋は冴え渡っていると感じていたんだ。特に、あの三合目の切り返しの時の重心の移動……ゼノビア侯爵が体現する武門の型を、完璧に模倣できたと思うのだが、どうだろうか!?」

「流石は殿下!! 仰る通り、あの重心移動こそ我がゼノビア家の奥義に通ずるもの! ああ、殿下の剣術の才はまさに天賦の……!」

 そこから先は、ヴィオラにとって完全に未知の言語だった。


 踏み込みの角度、筋肉の躍動、騎士道精神の体現。二人の男たちは、周囲の景色すら見えなくなるほどの熱量で、「剣術・騎士道トーク」という名の密室空間を構築し始めた。


 第一側妃ヒルデガードが、なぜこの男をグラクトの側近に据えたのか。ヴィオラには痛いほど理解できた。グラクトは、自らを全肯定し、盲目的な称賛を浴びせ続けるセオリスという存在に、精神的に完全に依存しているのだ。王家という重圧の中で、彼の自尊心を満たしてくれる唯一の酸素。それがこの異常な主従関係の正体だった。


『……私、ここにいる意味ある?』

 二人が熱いキャッチボールを交わしている横で、ヴィオラは完全に蚊帳の外に置かれていた。彼女は、冷めかけた紅茶を音を立てずにすすり、虚ろな目で宙を見つめた。


『王妃様は私を「緩衝材」だって言ってたけど、これじゃ緩衝する隙間すらない。完璧に出来上がった男子校の部室に、間違えて配置された観葉植物なんだけど。……空気の清浄化機能すら果たせてないわよ、これ』

 極端な武門偏重の空間。論理的な対話など介入する余地のない、感情と熱狂だけの閉鎖回路。これが、この国の未来の頂点に立つ男たちの姿だった。


『……帰りたい。設計図面、引きたいなぁ……。歯車の噛み合わせを計算している方が、この人たちの人間関係より、よっぽど合理的で美しいよ……』

 華やかな王宮のテラス席で、ヴィオラは一人ポツンと、機能不全を起こした王国の中枢システムを眺めながら、ただ静かに精神のメモリをすり減らしていた。



5 限界突破と、聖域への誘い


 王宮の豪奢な控え室。その部屋の中心に置かれたベルベットの長椅子に、ヴィオラは糸の切れた人形のようにぐったりと倒れ込んでいた。

 一日の教育課程と、精神を削り取る「地獄の茶会」を終えた彼女の顔には、はっきりと濃い隈が落ちている。かつて知性の光を煌めかせていた瞳は虚ろに濁り、焦点の合わない視線が天井の精緻なフレスコ画をただ彷徨っていた。


「……もう、駄目……」

 ひび割れた声が、静寂の部屋に落ちる。


「公式が……頭に浮かばない。王妃様の重圧、非効率の極みみたいな作法の反復、意味不明な空間でのデート……。脳のメモリが、完全にパンクしてる……」

 前世の知識を持ち、技術と論理の美しさを何より愛する彼女の精神基盤が、王宮という巨大な「非合理の暴力」によって根本からへし折られようとしていた。ここでは、効率を求めること自体が罪であり、無駄を演じることが権力なのだ。


「工具の冷たい感触も、忘れそう……。私が、私じゃなくなっていく……」

 物理的な疲労ではない。自己のアイデンティティが、システムの歯車として強制的に書き換えられていく恐怖と絶望。ヴィオラは自身の知性が音を立てて摩耗し、崩壊していくのを感じていた。


 その時、控え室の重厚な扉が音もなく開いた。

 足音すら立てずに室内に入ってきたのは、第一王女リーゼロッテだった。

 彼女は、生気を失い自己崩壊の縁に沈む公爵令嬢の姿を、静かな金眼で真っ直ぐに見つめた。


『……このままでは、王宮の狂った重圧が、彼女の持つ美しい知性を完全に押し潰してしまう』

 リーゼの胸の奥が、鋭く痛んだ。


 それはかつて、彼女自身が実母ヒルデガードから「不完全な駒」として扱われ、心を殺されかけた記憶と重なっていた。知性や個性が蹂躙され、ただの「機能」として消費されることの絶望。それを救ってくれたのは、あの書庫でのリュートの言葉であり、ルナリアの無償の肯定だった。


『彼女の心が、完全に壊死してしまう前に――』

 リーゼは、王女としての完璧な気品と、母ルナリアから受け継いだ深い慈愛をその身に纏い、ヴィオラの傍らへ歩み寄った。

 そして、氷のように冷え切って微かに震えているヴィオラの両手を、自らの小さな、しかし温かな両手でそっと包み込んだ。


「……っ、リーゼ様……?」

 虚ろだったヴィオラの瞳が、ゆっくりとリーゼを捉える。

 リーゼは、春の陽だまりのような、それでいて確固たる意志を持った微笑みを浮かべた。


「ヴィオラ様。……今日はお家へお帰りになる前に、少しだけ私の『秘密の場所』に寄りませんか?」

 その声は穏やかで、しかし王宮の息の詰まる冷気を確実に押し返す力を持っていた。


「そこなら、ゆっくりと深呼吸ができますわ。誰にも、貴女の思考を邪魔させない場所です」

 ヴィオラにはもう、現状を分析する余裕も、反発する気力すら残っていなかった。ただ、その手から伝わる確かな『人間の温もり』にすがりつくように、ふらふらと小さく頷いた。

 立ち上がった彼女を、リーゼは優しく、しかし絶対に離さないという強さで引いていく。


 向かう先は、王宮の狂った常識も、非効率なシステムも一切通用しない、この王国における唯一の絶対的不可侵領域。

 冷徹な観察者たる兄リュートと、慈愛にして盤面の支配者たる母ルナリアが待つ『離宮』への、初めての招待であった。

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