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リーガル・レジスタンス 〜法治国家を目指して〜  作者: ムササビ-モマ
第2章『人知の世』
18/42

第8話  『誤解の謁見』

1 白薔薇のサロン:売約済みの運命


 王宮の奥深くにある「白薔薇のサロン」。

 午後の陽光がステンドグラスを透過し、床に淡い薔薇の影を落としている。

 空気は甘く、しかしその底には、常に権力の均衡を巡る冷たい緊張が張りつめていた。


 銀のティーセットが静かに湯気を立てる中、上座には王妃マルガレーテが座り、一切の感情を表に出さぬ氷の微笑みを浮かべている。その右手に第一側妃ヒルデガード、左手に国王ゼノンが控え、第一王子グラクトは王妃の傍らに直立していた。

 沈黙を破ったのは、優雅に扇を開いたヒルデガードだった。彼女は口元を隠しながらも、その声には隠しきれない満足感が滲んでいた。


「……陛下、王妃様。先ほどのお茶会での顔合わせ、誠に申し分ございませんでしたわ」

 彼女の脳裏には、すでに明確な算段があった。ゼノビア侯爵家の血統がもたらす武門の矜持と、第一王子の母としての実利。クロムハルト公爵家の技術力は有用だが、娘が無害な「影」としてグラクトの傍らに留まる限り、自身の影響力は揺るがない。


「あのように質素で、知の探求にのみ喜びを見出し、王子の言葉を慎み深く受け止める令嬢はおりません。無欲な彼女こそ、グラクト殿下の影として完璧な資質……まさに王家に相応しい、控えめなる伴侶の鑑でございます」

 それは、ルナリアの存在がもたらす影を薄め、息子の周囲を「品位ある無力者」で固めるための、完璧な一手だった。

 グラクトは金色の瞳を細め、母の言葉に即座に同調した。完璧に仕込まれた王族の外面が、その声に自然な響きを与えていた。


「僕も彼女が気に入りました。無駄飾りがなく、僕の話を静かに聞いてくれました。あの落ち着いた様子は、確かに王子妃に相応しいものだと存じます」


 実際のところ――。

 ヴィオラリア・オルネ・クロムハルトはただ頭の中で魔導機関の設計図を延々と描き続け、グラクトの言葉など一切耳に入っていなかった。


 だが、そんな事実はこの場に存在しない。グラクトにとって、静かに頷く少女の姿は「自らの光を敬う無垢なる影」として完璧に映り、王子としての自尊心を心地よく満たしていた。血統の正統性に疑いを持たぬ彼は、相手の本質など検証する必要すら感じていなかったのだ。

 王妃マルガレーテはカップを静かに置いた。氷のような視線が、ヒルデガードとグラクトを行き来する。北のアイギス公爵家が育んだ冷徹な政治家としての理性が、即座に損得を弾き出す。


『……悪くないですね』

 王家の品位を維持し、グラクトの正室候補を早期に固定することで、第三側妃ソフィア派の台頭を牽制する。これは安価で、極めて有効な一手だ。


「そこまでお二人がおっしゃるなら、この後の謁見の場で一気に婚約を決めてしまいましょう」

 マルガレーテは淡々と告げた。


「クロムハルト家は西の技術を握る名門。娘を王家に迎えることで、派閥の均衡も保たれましょう。……無駄な時間を費やす必要はありませんわ」

 国王ゼノンは窓辺の椅子に深く腰を沈めたまま、短く頷いた。言葉は重く、しかし決定的だった。


「うむ。王家の品位に相応しければ、それでよい」

 白薔薇のサロンは、再び静寂に包まれた。

 陽光が薔薇の影を揺らす中、四人の貴人たちは、それぞれの立場と血統が定める合理的な計算だけで、ひとりの少女の運命を「売約済み」と断じた。


 そこに、少女の本質など微塵も介在する余地はない。

 それは、この人治国家の絶対の鉄則だった。




2 謁見の間:王の切り札と親父の裏切り


 重厚な大理石の柱が天井を支え、壁に刻まれた王家の紋章が冷たく輝く「謁見の間」。

 天窓から細く差し込む午後の光は、床の絨毯に金色の帯を落としているが、それは希望の光というよりは、逃げ場のない「檻」の格子のようだった。


 空気は鉛のように重い。権力の重圧が肌にまとわりつく中、クロムハルト公爵ディーゼルは胸を張り、娘ヴィオラリアを背後に従えて立っていた。リバーシ献上の褒美(予算)をもらい、これでようやく工房に戻って実験ができる――そんな安堵が、彼の表情を緩ませている。


 だが、玉座の配置は、彼らの退路を断つように完璧だった。王妃マルガレーテは優雅に腰を下ろし、一切の隙を見せぬ氷の微笑みを浮かべている。第一王子グラクトはその右手に控え、第一側妃ヒルデガードは扇で口元を隠し、冷ややかな視線を送る。


 そして何より、中央の玉座に深く沈み込む国王ゼノン。その瞳は、獲物を値踏みする老獪な光を宿していた。

 沈黙を破ったのは、王妃マルガレーテだった。その声は鈴のように美しいが、逃げ場のない圧力を帯びていた。


「ヴィオラ嬢。先ほど、グラクトとの語らいの場でどのような思いを抱かれましたか? ……率直に、お聞かせください」

「……っ!」

 ヴィオラリアは一瞬、石化した。前世の日本でさえ社交辞令など一度も必要とされなかった技術者の本能が、即座にシステムエラーを呼び起こす。頭の中は、さっき見た王宮の暖房設備の配管構造で埋め尽くされており、適切な王族賛辞など一バイトも検索できない。


『ど、どうしよう……! 何か褒めなきゃ……!』

 彼女は必死に、グラクトの「物理的な動作」を機械工学の観点から解析し、褒め称えるしかなかった。声はしどろもどろ、しかし技術者らしい正確さが奇妙に混じっていた。


「え、ええと……! で、殿下は、お振る舞いに一切の『ブレ(軸の狂い)』がなく、内なる『出力(熱と魔力)』の制御も完璧でいらっしゃいました……! 無駄な『摩擦エネルギーロス』を全く生まないそのお姿は、まさに……究極の『機能美』かと……!」

 言葉が終わると同時に、ヴィオラの顔がトマトのように赤く染まった。

 背後の父ディーゼルが「し、しまった」と小さく咳払いをしたが、すでに遅かった。


 王妃マルガレーテの瞳が、わずかに細められた。北の武神の血を引く彼女の脳内では、即座に「好意的な超解釈」が施されていた。


『……ブレのない姿勢。内なる情熱の自制。周囲と摩擦を生まない洗練された所作。機能美とはいささか武骨な表現だが、それだけグラクトの王族としての完璧さに圧倒されているということね。……飾らない、素直な称賛だわ』

 彼女は満足げに頷き、視線をディーゼルへと移した。声は穏やかでありながら、決定的だった。


「クロムハルト公爵。娘君の言葉を聞き、わたくしは深く満足いたしました。グラクトの伴侶として、ヴィオラ嬢を王家に迎えることを正式に望みます。……婚約の儀を、この場で執り行いましょう」

 王妃マルガレーテの涼やかな声が、決定事項として響き渡った。

 その瞬間、クロムハルト公爵ディーゼルの顔色が激変した。


「なっ……!?」

 公爵の脳内で、瞬時に警報が鳴り響く。婚約? 娘を王家にやる?

 冗談ではない! ヴィオラは我が家の最高傑作だ! あの天才的な演算能力、〇・〇一ミリを見抜く眼。それを、みすみす王宮の人質になどやれるか!

 ディーゼルは、玉座の前であることも忘れ、半歩前に踏み出した。その背中は、娘を庇う父親の激情に震えていた。


「お、お待ちください、王妃殿下! 恐れながら、そればかりは承服できかねます!!」

 謁見の間がどよめく。公爵が王妃に異を唱えたのだ。

 だがディーゼルは止まらない。彼は血走った目で、娘がいかに「王族に向いていないか」を熱弁し始めた。


「ヴィオラは……娘は、まだ王宮に出せるような娘ではございません! いや、むしろ人間として『偏りすぎている』のです!」

「ほう?」

 王妃が片眉を上げる。ディーゼルは必死にまくし立てた。


「あの子は、機械いじりしか能のない『社会不適合者』でございます! 朝は誰よりも早く起きて炉の火加減を見極め、夜は星を見上げて数式を解く……頭の中はネジと歯車のことばかり! ドレスの着こなしも、社交辞令ひとつ満足にできません! あの子は、西の工房という特殊な環境でしか生きられない、『取り扱い注意の欠陥品ジャンク』なのです!」

 ヴィオラは背後で、父の背中を見つめながら、ブンブンと首を縦に振った。


『そうよお父様! もっと言って! 私は社交界のゴミ! 王族の恥! 絶対に王妃なんて無理だって力説して!』

 だが、父のあまりの剣幕と語彙のチョイスに、ふと冷静なツッコミが脳裏をよぎる。


『……でもちょっと待って。「不適合者」はいいとして、「欠陥品」とか「ジャンク」とか、実の娘に対して言葉の選び方が容赦なさすぎない? 私、そこまで酷い? さっきまで西の至宝って呼んでたじゃない! ……ま、まあいいわ! これで婚約が破談になるなら、甘んじて産業廃棄物の汚名を受け入れるわよ!』


 ディーゼルは止まらない。娘の才能を愛しているがゆえに、彼女が「普通の幸せ(王妃の座)」に耐えられないことを知っている。そして何より、彼女は自分の工房にとって欠かせない「メイン回路」なのだ。


「どうか、ご再考を! 娘は……ヴィオラは、私でなければ制御できない『暴れ馬』! そして、西の技術を支えるかけがえのない『心臓部コア』なのです! 彼女を奪われては、西の研究は止まってしまいます!!」

 親子の絆と社会性のなさが、王家の理不尽な要求を跳ね返す――誰もがそう思った、その時だった。


「――公爵よ」

 中央の玉座から、地を這うような重低音が響いた。それまで沈黙を守り、公爵の親バカぶりをニヤニヤと眺めていた国王ゼノンが、ゆっくりと身を乗り出したのだ。


「其の方の娘を想う心、痛いほど伝わったぞ。……確かに、機械しか愛せぬ娘に王族の務めは重かろう。それに、西の技術が止まるのは国益に関わる」

 ゼノンは、わざとらしく「困ったな」という顔を作ってみせた。


「そうなれば、西の技術開発は停滞する……。国にとっても大きな損失だ。其の方が懸念するのも無理はない」

「さ、左様でございます陛下! ですからこの話は……」

「そこでだ、公爵」

 王は、公爵の言葉を遮り、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。それを公爵の目の前にヒラリと落とす。


「娘が抜けた穴を、そのままにしておくわけにはいかぬだろう? ……知っての通り、東の『海運組合』がもたらす税収で、王家の金庫はかつてないほど潤っておる。その海運利益の一部を割き、西のクロムハルト本家に対して『特別技術開発費』として、毎年定額を支給しようと思うのだが?」


「……あ?」

 ディーゼルの動きが、ピタリと止まった。彼の視線が、床に落ちた羊皮紙の数字に釘付けになる。


 そこには、海運事業の莫大な利益を裏付けとした、『新型旋盤が毎年十台は買える額』が記されていた。一時金ではない。継続的な、国家予算規模の支援だ。


「娘が王家のために尽くす間……公爵、『お前』はその金で、より優秀な職人を雇い、より高度な設備を整え、西の技術を守らねばならぬ。……それが、未熟な娘を送り出す父親の『務め』ではないか?」

 それは、悪魔の囁きだった。


「娘がいないと困る?」 ならば、「娘がいなくても困らないだけの金」をやる。新しい回路(娘)の代わりに、もっと高性能な回路(予算)を買えという、逃げ場のない論理。


 その瞬間。

 ディーゼルの脳内から、「娘への愛」や「家族の絆」といった情緒的な回路が、物理的に消滅した。思考時間、ゼロ。葛藤、ゼロ。

 彼は、王の言葉が終わるか終わらないかの食い気味(〇・〇〇〇秒)で、床に額を叩きつけた。


「――謹んでお受けいたしますッ!!!」

「……は?」

 背後でヴィオラが、口をぽかんと開けたまま硬直した。

 え? 今、なんて? 「取り扱い注意」は? 「かけがえのない心臓部」は?


 ディーゼルは娘を振り返りもしない。彼は床に這いつくばったまま、羊皮紙の数字に釘付けになり、恍惚の表情で叫んだ。


「娘は王家のために! 私は技術のために! それが最善の配置でございます! 娘などくれてやります! その代わり予算を! 毎年、確実に、現金で振り込んでくださいませぇぇぇッ!!」

「うむ! 苦渋の決断、大儀である!」

 ゼノン王は、膝を叩いて満足げに笑った。


「国の未来のため、涙を飲んで未熟な娘を託すその覚悟……まさに忠臣の鑑よ!」

『ち、違う……!』

 ヴィオラは心の中で絶叫した。


『こいつ、涙なんか飲んでない! 今、私という生贄と引き換えに手に入れた予算を見て、よだれを飲んだだけよォォォッ!!』

「お、お父様ッ!?」

 ヴィオラが父の背中を蹴り飛ばすが、ディーゼルは「ああ、これで新しい炉が……海運万歳……」とうわ言を呟きながら、羊皮紙に頬ずりしている。完全に、娘を「高値で売れた」ことに満足していた。


「では、決まりですね」

 王妃マルガレーテが冷ややかに手を叩き、ここで初めて、王妃としての「教育的指導」を口にした。


「ヴィオラリア。これより貴女は王宮に留まり、まずはマナーと歴史、そして刺繍の特訓から始めていただきます。……当然、王族となる者が魔導液にまみれるなどあってはなりません。未熟な貴女が立派な王妃になれるよう、わたくしがじっくりと『矯正』して差し上げますわ」

「…………」

 ヴィオラの目の前が真っ暗になった。


 父は予算に夢中で助けてくれない。王妃は矯正(地獄)を宣告してくる。そして、その予算の出処は、リュートが稼いだ金だ。

 グラクト王子が歩み寄り、絶望で白目を剥いているヴィオラの手を優しく取った。


「ありがとう、公爵。君の宝物は、僕が責任を持って守り抜くよ」

 王子の爽やかな笑顔が、ヴィオラには死神の微笑みに見えた。

『……詰んだ』

 こうして、西の天才技術者は、実の父親による「光速の人身売買」によって、リュートが稼ぎ出した「海運利益」という名の高値で売り飛ばされたのだった。




3 控え室の密約:意図的な「落第」計画


 バタンッ!!

 王宮の控え室。厚い樫の扉が閉ざされ、従者たちが下がった、その瞬間だった。

 重苦しい沈黙など、一秒たりとも訪れなかった。


「――ちょっと、どういうつもり!?」

 ヴィオラリアは、父親である公爵の胸倉を鷲掴みにし、ガクガクと揺さぶった。金色の髪を振り乱し、知的な瞳には「殺意」と「絶望」が渦巻いている。前世の技術者としての理性が、今、明確な「損失」として状況を解析し、警報を鳴らしまくっていた。


「娘を小銭で売るとは何事ですかッ! 私の実験時間をどうしてくれるの!? 王妃教育? 刺繍? ふざけないで! あの研究資金など、私の魔導機関の『稼働率低下』に比べれば、ただの燃料ロスに過ぎないわ!」

 彼女の声には、「効率」「ロス」「制御」といった技術用語が自然に混じっていた。


 彼女にとって、王家への婚約など、単なる「非効率な摩擦係数の増大」以外の何物でもない。実験室の魔導炉、回転軸の微調整、熱流体の最適化——それらこそが彼女の存在意義であり、血統や品位など、すべてが無意味な「装飾部品」なのだ。


「落ち着けヴィオラ! 首が、首が取れる!」

 ディーゼルは娘の手を振りほどき、公爵としての威厳……ではなく、狂った科学者の目で娘を見つめ返した。今この瞬間、娘の未来より「領地の技術革新(予算)」が優先されるのは、彼の中では絶対的な正義だった。


「いいか、よく聞けヴィオラ。これは『娘を売った』のではない。『短期出向による資金調達』だ」

「はあ!? 何よそれ!」

「計算してみろ。お前のガサツさ……いや、『独創的な性格』なら、王家の窮屈な礼儀作法など、三ヶ月と持たずに破綻するだろう?」

 ディーゼルは、ニヤリと悪党の笑みを浮かべた。


「つまり、これは『王妃教育で失敗して、向こうから婚約破棄されること』を前提とした契約だ。王家は面子があるから、すぐには追い出さん。だが、お前が刺繍の針で指を刺し、ダンスで王子の足を踏み、マナー講座で居眠りをすれば……いずれ向こうから『願い下げだ』と言ってくるはずだ!」

「……!」

 ヴィオラの動きが止まった。彼女の脳内で、即座にシミュレーションが回る。


「その間、王家からは『研究資金』が西に流れ続ける。お前が破談になって戻ってくる頃には、我々の金庫はパンパンだ。最新の設備、最高級の素材……すべてが揃った状態で、お前は再び研究に戻れるのだ!」

 ディーゼルの論理は明快だった。


『予算だけもらって、製品ヴィオラは納品しない(返品させる)』。

 これは、王家に対する史上最大規模の「食い逃げ詐欺」である。

 ヴィオラは、ハッとした顔をした。


 前世の記憶が蘇る。予算確保のためだけに体裁を整え、実行段階でうやむやにして逃げる「デスマーチ案件の損切り戦術」。政治的報復? 家門の破滅? そんな「政治的変数ノイズ」は、彼女の機能主義の世界観では計算外だ。


『……なるほど。意図的に「赤点エラー」を出して、強制終了(退学)させればいいのか。それなら……王宮での生活は、ただの「有給休暇付きの出張」になる!』

 ヴィオラの瞳から怒りが消え、代わりに冷徹な計算の光が宿った。


「……つまり、お父様。私は王宮で『無能な令嬢』を演じ、王妃様の期待を裏切り続ければいいのね? そして、愛想を尽かされたところで、慰謝料(手切れ金)代わりに予算を持ってトンズラすると」

「その通りだ! お前の『社会不適合スペック』をフル活用しろ! 素のままでいれば、三ヶ月で放り出される!」


「失礼ね! ……でも、その計算は正しいわ」

 ヴィオラはゆっくりと息を吐き、ニヤリと笑った。そこには、先ほどまでの悲壮感はない。あるのは、システム(王家)のバグを突くハッカーのような、歪んだ共感だった。


「……わかったわ、お父様。破談前提の資金調達。……効率は悪くないわ」

「うむ! さあ、行ってこい我が娘よ! そして盛大に失敗して、笑顔で帰ってこい!」


 ガシッ!!


 二人は力強く握手を交わした。政治的リスクを完全に無視した、技術者特有のバグった思考回路。血統と品位を絶対視する王国において、これほど危険な「無自覚な劇薬」はない。

 娘を売った父と、売られた娘は、互いにこれが「合理的な勝利」だと信じて疑わなかった。


 扉の向こうでは、まだ王妃マルガレーテの冷徹な指示が響いているかもしれない。だが、この控え室で交わされた密約は、すでに王家の盤面に小さな、しかし致命的な亀裂(勘違い)を刻み始めていた。

 彼らはまだ知らない。王妃マルガレーテの教育スパルタが、「赤点を取って逃げる」などという甘えを許す生易しいものではないことを。そして、一度入ったら二度と出られない「王宮」という名の監獄の恐ろしさを。




4 後宮調整室の攻防:通学(自由)の死守


 王宮の奥深く、「調整室」。

 午後の薄明かりが重いビロードのカーテンを透かし、机上の羊皮紙に淡い影を落としていた。壁に刻まれた王家の紋章が冷たく輝き、空気は墨と古い薔薇の香りに満ちている。


 ここは王妃マルガレーテ直属の、後宮の秩序を司る聖域。

 権力の形式が息苦しく張りつめるこの部屋で、ヴィオラリアは父ディーゼルの袖を無意識に強く握りしめ、顔面を蒼白にしていた。

 彼女の目の前に座るのは、王妃付き首席礼典調整官、イゾルデ・レン・ヴァルンハイム子爵夫人。一切の情を排した冷徹な眼差しを持つ、後宮の教育と管理を取り仕切る辣腕の女傑だ。

 イゾルデは手元の書類を一枚ゆっくりとめくり、氷のような声で宣告した。


「ヴィオラリア嬢。王家への婚約が正式に決定した以上、候補者として『後宮内住み込み』が宮廷正典の原則です。朝の起床から夜の就寝まで、宮廷の空気の中で王妃教育の全課程を体得していただきます。……これより、その生活に入っていただきます」


「――っ!」

 ヴィオラリアは息を詰めた。彼女の脳内で、巨大な警告音が鳴り響く。


『す、住み込み!? 二十四時間監視!? 冗談じゃないわ! それじゃ工房に帰れない! スパナも触れない! 機械油の匂いを嗅がずに三日も放置されたら、私の精神回路が焼き切れて死んじゃう!』

 彼女の「機能主義の本能」が、生存の危機を訴えていた。先ほど父と結んだ「赤点を取って退学する」という密約も、自室(工房)という安全地帯があってこそ成立するものだ。監獄のような王宮に二十四時間閉じ込められては、ストレスで計画を遂行する前に発狂してしまう。


『断らなきゃ! 何としても「通い」に持ち込まないと! でも、どうやって!? 「エンジン回せないと死にます」なんて言ったら即座に不敬罪でしょ!? ええと、貴族の言葉! 脳内辞書検索! 相手を刺激せず、かつ私がダメになることを伝える「品位ある言い訳」を……!』

 小さな肩を震わせ、ヴィオラは冷や汗を流しながら必死に言葉を紡ぎ出した。


「……し、子爵夫人閣下。どうか、ご容赦くださいませ」

『よし、出だしはOK! 次! 「無理です」の丁寧語!』

「王宮での住み込みは、私には……と、到底、叶いません。私のような者が、慣れない石の部屋で、その、毎日王妃教育を受ければ……必ずや、第一王子殿下の『品位』を……汚すことに、なると存じます……」


『翻訳:慣れない環境で二十四時間稼働させられたら、確実にバグを起こして殿下の顔に泥を塗る大暴走をしますよ!』

 ヴィオラは震える声で哀願した。挑発ではない。切実な、命乞い(メンタル防衛)だった。「工房を離れ、図面と実験に触れられなければ、私の頭はまったく働かなくなる」という事実を、慣れない貴族語のオブラートで必死に包み込んで訴える。


「どうか……王都の邸宅から『登城』する形を……っ。お許しいただけないでしょうか……!」

 必死に頭を下げる娘の姿に、ディーゼルも慌てて援護射撃に入った。彼にとっても、娘が完全に王宮に軟禁されてしまっては、夜間の「極秘プロジェクト(新内燃機関の開発)」が進まなくなってしまう。


「む、娘の申す通りです! クロムハルト家の技術は、工房という土壌でこそ花開きます! 王都の邸宅からの『登城』――日中の教育と会談のみを王宮でこなし、夜は工房に戻る形であれば……王家の実益も損ないません!」

 イゾルデ子爵夫人は、細い眉をピクリと寄せ、書類に目を落とした。


 王妃の指示は「候補者を宮廷に閉じ込め、ルナリア派など外部の影響を断つこと」だ。

 だが、クロムハルト家の技術力という「実利」は無視できない。無理に環境を奪って娘を壊し、西の公爵家との関係(ひいては海運利益から還流する予算)に亀裂を入れるのは、王家の計算に合わない。

 彼女はゆっくりと息を吐き、冷徹な計算のもとに妥協の線を引いた。


「……王妃殿下のご慈悲により、特別に認めましょう。王都のクロムハルト邸からの『登城(通い)』を許可します」

「っ……!」

 ヴィオラと公爵の顔に、パッと希望の光が差す。

 だが、イゾルデの言葉は終わっていなかった。


「ただし、条件があります。第一王子殿下との定期的な交流――『週に三度の茶会と散策』。および、住み込みと同等レベルの『王妃教育の詰め込み式課程』を、すべて完遂すること。……万一、遅刻や態度に不備があれば、猶予なく直ちに『住み込み』に切り替えます」

 イゾルデの目が、刃のようにヴィオラを射抜いた。


「これが、王家の品位を損なわぬ、最低限の譲歩です」

「……っ、承知……いたしました……」

 ヴィオラは唇を噛み締め、深く頭を下げた。王妃教育の詰め込み。王子との強制デート(週三回)。スケジュールは絶望的なまでに過密になるだろう。


『でも、工房ホームへの帰宅権……自由時間だけは死守できたわ!』

 彼女の瞳に、深い疲労と、しかし計算された冷たさが宿る。これで「破談前提の資金調達」を実行する最低限の環境は整った。技術者の聖域を守るための、歪んだ、しかし絶対に必要な勝利だった。

 調整室の扉が静かに閉ざされる。外では、王宮の鐘が重く鳴り響いていた。


 王家の枠組みは、依然として鉄のように固い。だが、ひとりの天才技術者の「バグった生存本能」が、そこにわずかな亀裂(通い婚という特例)を生じさせたのだ。

 この小さな歪みが、完璧な王宮のシステムにどれほどの致命的なエラーを引き起こすか――まだ、誰にも予測できなかった。




5 離宮の夜会:妹の決意と、家族の絆


 離宮のルナリアの私室は、夜の帳が下りた頃、柔らかなランプの光で満たされていた。

 暖炉の火が静かに揺れ、部屋全体を温かな橙色に染めている。空気は甘い薔薇の香りと古い書物の匂いが混じり合い、王宮の冷たい緊張とは無縁の、静かで絶対的な「守りの場」だった。


「……あの令嬢と父君の様子を、控えの間の遠くから見ていました」

 淡い水色のドレスを着たリーゼロッテが、小さな椅子に腰を下ろして口を開いた。プラチナブロンドの髪が肩に落ち、金色の瞳には、昼間に王宮で目撃した光景の残滓が揺れている。


 ルリカが無言で銀のティーセットを運び、温かい紅茶を三人の前に置いた。

 リーゼロッテはカップを両手で包み、一息ついてから続けた。その声はまだ幼いが、すでに過酷な現実を知る「王女」としての理知が宿っていた。


「あの人は、何も分かっていません。……わざと落第して婚約を白紙に戻せばいい、くらいに軽く考えているようです。王家の『品位』というシステムに一度組み込まれたら、無傷で逃げることなど絶対にできないのに」

 彼女の言葉に、部屋の空気がわずかに重くなった。「失敗」すればどうなるか。第一王子の顔に泥を塗った罪で、反逆者として家ごと焼かれる。……それは、かつて没落の危機に瀕し、リュートに救われたリーゼロッテ自身が、誰よりも骨の髄まで理解している「王宮の毒」だった。


「お兄様、お母様」

 リーゼロッテは紅茶を一口飲み、視線を母と兄に向けた。その瞳に、揺るがぬ意志が宿る。

「あの人は、たぶん悪い人じゃありません。ただ、王宮の毒を知らないだけ……。あの方が王妃教育で、心がすり減って壊れてしまう前に、私から彼女を『お茶会』に誘ってもいいでしょうか? 王家の品位がどれほどのものか、ただ事実だけを……伝えてあげたいのです」

 その言葉を聞いた瞬間、ルナリアは静かに立ち上がり、リーゼロッテをそっと抱き寄せた。


「お母様……?」

「リーゼ。貴女は本当に優しくて、強い子に育ったわね」

 ルナリアは、愛おしそうに娘のプラチナブロンドの髪を撫でた。血の繋がりなどない。だが、そんなことはこの母娘にとって何の意味も持たなかった。冷たい後宮で共に身を寄せ合い、生き抜いてきた絆は、どんな血筋よりも濃く、深い。


「自分のことだけでなく、他人の痛みまで想像し、手を差し伸べようとするなんて……お母様、誇らしいわ。貴女は私の、自慢の娘よ」

 ルナリアの温もりに包まれ、リーゼロッテはわずかに体を震わせたが、すぐに安心したように背筋を伸ばした。母の深い愛が、彼女の小さな肩に確かな力を与えていた。

 その光景を見守っていたリュートもまた、静かに立ち上がり、妹の頭を優しく撫でた。十二歳となった少年の赤い瞳には、妹の成長に対する深い信頼と、冷徹な愛情が満ちている。


『……正直に言えば、完全に一杯食わされた気分だ』

 リュートは内心で、苦々しく舌打ちをした。西の天才技術者を自分の陣営に引き込もうと計画を練っていたのに、ターゲットが自ら権利を投げ捨て、王家の胃袋(婚約)に飛び込んでしまったのだ。盤面を引っ掻き回された挙句、欲しかった人材を横取りされたのだから、影の支配者としては「完全なる敗北」である。


『だが……』

 リュートは、自分を見上げる妹の真っ直ぐな瞳を見て、ふっと不敵な笑みを漏らした。


「やってみな、リーゼ」

 兄の声は低く、しかし絶対的な安心感に満ちていた。

「君の言う通り、クロムハルトの技術は惜しい。僕も喉から手が出るほど欲しい。……だがそれ以上に、僕の可愛い妹が『助けたい』と思ったのなら、それが一番の理由だ」

 リュートは頼もしく微笑み、その瞳に影の王としての凄みを滲ませた。


「思い切りやってくればいい。万が一、王妃やヒルデガードが口出ししてきて、君に少しでも危険が及びそうになったら……その時は僕が、盤面ごと全部ひっくり返してやる。離宮の影を怒らせたらどうなるか、あの古狸どもに教えてやるさ」

 兄の絶対的な後ろ盾と、母の温もりに背中を押され、リーゼロッテはゆっくりと顔を上げた。金色の瞳に、理知的で凛とした王女の光が宿る。

 守られるだけだった少女は、すでに自らの「実力」を身につけ始めていた。


「はい、お兄様。私、ヴィオラ様に王家の『品位という規範』がどういうものか、事実だけをお伝えしてきます」

 リーゼロッテは、ドレスの裾を少しだけ握りしめ、力強く宣言した。


「これは、ただの同情ではありません。彼女を助けたいという私の『意志』と、王宮の茶会という盤面で、規範を正しく扱い場を支配する『実力』……それを用いて、彼女自身に、生き残るための道を選択していただきます」

 その言葉を聞いた瞬間、リュートとルナリアは静かに顔を見合わせた。二人の瞳に、深い喜びと誇りが浮かぶ。

『あの子はもう、ただ庇護されるだけの小鳥じゃない。自らの意志を持ち、それを達成するための実力と賢さを、確かに身につけたのだ』

 部屋の暖炉の火が静かに揺れ、ランプの光が三人の影を長く伸ばした。


 離宮の守りは、血統や品位といったカビの生えた外側ではなく、絶対的な「家族の愛」と「実力」によって、静かに、しかし確実に強さを増していた。


 リーゼロッテの決意は、腐敗した人治国家への小さな抵抗の種であり、リュートの修羅の道を支える、新たな一歩だった。

 夜は深まり、ティーカップから立ち上る紅茶の湯気だけが、穏やかな時間の中で静かに揺れ続けていた。

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