第4話 『海運組合の創設』
1 王都オルディナ邸:最初の決裂
王都の一等地に構える、東の雄・オルディナ公爵邸。
その最奥にある当主の執務室は、重苦しい沈黙と、僅かな脂汗の匂いに包まれていた。
「……まさか、第二王子殿下がこのような裏口から、しかもお忍びで来訪されるとは」
重厚な執務机の向こうで、オルディナ公爵は額の汗をハンカチで拭いながら、目の前の少年を見つめていた。
公爵は「臆病」と噂されるだけあり、その風貌は神経質そうで、常に最悪の事態を想定して怯えている小動物のような警戒心を漂わせている。
その対面に座るリュートは、子供の体躯を深くソファに沈め、変装用の眼鏡の奥から、冷徹な観察者の瞳で公爵を値踏みしていた。
傍らには、護衛のカイルが音もなく控えている。
今回の面会は、娘であるアイリスの手引きによって実現した極秘の会談だ。リュートは無駄な挨拶を省き、懐から取り出した「二つの武器」を、革張りのテーブルの上に無造作に広げた。
一つは、ずっしりと重い革袋。
紐を緩めると、中から溢れ出したのは王国の通貨ではない。帝国皇帝の紋章が刻まれた、純度の高い「帝国金貨」の山だった。母ルナリアから託された、国一つを買えるほどの莫大な匿名資本だ。
もう一つは、王宮の封蝋が押された一枚の羊皮紙。
先日、王妃との論戦を制して勝ち取った「特権状」である。
「……単刀直入に申し上げます、公爵」
リュートは金貨の山と羊皮紙を指し示した。
「事業に必要な『血液(資金)』と、王家の理不尽から身を守るための『最強の防壁(特権状)』は、私が用意しました。……あとは公爵、あなたの持つ『港』と『物流網』をお借りしたい」
リュートの提案は、対等なビジネスパートナーとしての要求だった。
公爵は金貨の輝きと、特権状に記された「王家は責任を負わず、介入もしない」という異例の文言を見て、ごくりと喉を鳴らした。
喉から手が出るほど欲しい「王家の免罪符」と「資金」。
だが、公爵の目は、最後にリュートが提示した「船の設計図」で止まった。
「……水面から浮く、魔法の船……ですか」
公爵の声が震えた。彼は設計図から目を逸らし、首を横に振った。
「……お断りします」
拒絶。
だが、リュートの表情は動かない。
「理由は?」
「殿下、理論は分かります。娘のアイリスからも散々聞かされました。ですが……これには『実績』がありません」
公爵は脂汗を拭いながら、しかし当主としての譲れない矜持を口にした。
「我がオルディナ家は、一度海に沈みかけ、そこから這い上がった家です。信用とは、薄氷の上に積み上げるガラス細工のようなもの。……もし、この得体の知れない船が沈めば、積荷だけでなく、数百年かけて再建したオルディナの『信用』そのものが海の藻屑となります」
彼はリュートを真っ直ぐに見た。その目は臆病だが、決して愚かではない。
「私は臆病者です。だからこそ、不確定な未来に、家の運命を賭けるわけにはいきません」
リュートは内心で舌を巻いた。
『……素晴らしい。この慎重さこそが、東の経済を支えてきた防波堤か』
無謀な利益よりも、破滅の回避を優先する。それは経営者として最も重要な資質だ。この男は決して無能ではない。ただ、守るべきものが重すぎるだけだ。
「ご懸念は尤もです、公爵。……信用とは、言葉ではなく事実で積み上げるもの」
リュートは品位ある笑みを崩さず、立ち上がった。
「ならば、『実績』を今ここでお見せしましょう」
「……今、ここで?」
「ええ。邸内の裏手に、大きな私有湖がありましたね? そこをお借りできますか?」
リュートはカイルに目配せをした。
言葉で説得できないなら、物理法則(現実)を目の前に突きつけるしかない。
「百の言よりも、一度の航海です。……あなたの目が、ただの臆病な節穴でないことを祈りますよ」
リュートは不敵に微笑み、扉へと向かった。
交渉決裂ではない。これは、相手の想像力を超えるためのデモンストレーションへの招待だった。
2 廊下の決闘:人的担保の合意
公爵との会談を一時中断し、実演のために裏手の私有湖へ向かう道すがら。
オルディナ公爵邸の長い回廊は、静寂に包まれていた。
壁には歴代当主の肖像画が並び、磨き上げられた大理石の床が、リュートとアイリス、そして護衛のカイルの靴音を硬質に響かせている。窓から差し込む斜陽が、空気中の塵を黄金色に染め、邸宅の歴史と重厚さを無言で語っていた。
その静寂を、唐突な怒号が切り裂いた。
「――待て! 黒髪の王子!!」
廊下の角から飛び出してきたのは、一人の少年だった。
アイリスの弟、テオドール・オルディナ。次期公爵候補である彼は、まだ寝間着姿のまま、慌てて引っ掛けたであろう胸当てをガチャガチャと鳴らし、手には稽古用の木剣を構えて立ちはだかった。
「はぁ、はぁ……! 貴様、姉上をたぶらかしに来たな!」
テオドールは切っ先をリュートに向け、涙目で叫んだ。
「外堀から埋めて既成事実を作り、姉上との『婚約』を盤石にする気だろう! 僕は騙されないぞ! 金と権力で姉上を縛り付けるつもりか! 僕の目の黒いうちは、断じて許さんぞ!」
直情型で、姉を崇拝する典型的な「シスコン」の弟。
その剣幕に、背後の公爵や使用人たちが狼狽える。だが、リュートは足を止め、表情一つ変えずに溜息をついた。
『……やれやれ』
リュートはテオドールを見下ろすのではなく、憐れむように変装用の眼鏡の位置を中指で押し上げた。レンズが夕日を反射し、冷ややかな光を放つ。
「誤解だ、テオドール君。君は『婚約』を、そのような情緒的な結合と勘違いしている」
リュートの声は、氷のように冷たく、事務的だった。
「私が検討しているのは、オルディナ家を共同事業体として結合させるための、不履行に対する最強の『人的担保』だ」
「……は?」
テオドールの動きが止まる。聞き慣れない単語に、怒りの行き場を失った顔をする。
リュートは淡々と続けた。まるで法学の講義をするかのように。
「我々の事業は巨額の資本が動く。契約不履行が発生した場合、金銭賠償だけでは補填しきれないリスクがある。ゆえに、違約金の代わりに『配偶者』という資産を差し押さえ、相手家の重要人物をこちらの支配下に置く……最も効率的な抑止力(人質)として、君の姉上の価値を査定しているに過ぎない」
「し、資産……? さ、査定……?」
テオドールが混乱して口をパクパクさせる。
そこへ、リュートの隣にいたアイリスが一歩踏み出した。彼女は扇をパチリと閉じ、弟を氷点下の視線で見下ろした。
「ええ、その通りよテオ。婚姻は最強の『法的結合』であり、相互監視システムよ」
アイリスの声にも、甘い姉の情は一切なかった。あるのは「経営者」としての冷徹な判断だけだ。
「貴方が騒げば騒ぐほど、貴方を私の『資産管理下』から隔離して、親族としての責任能力を剥奪する法的手続きを始めなければならなくなるわ。……邪魔しないで。今、殿下と私は『愛』よりも重い、『数字』の話をしているの」
テオドールは絶句した。
愛だの恋だのという次元の話ではない。目の前の二人は、結婚すらも「ビジネスのリスクヘッジ」として語っている。あまりにドライで、あまりに即物的な「経営統合宣言」。
だが、その冷たい会話の裏で、リュートとアイリスは一瞬だけ視線を交わし、高度な意思疎通を行っていた。
『……助かるよ、アイリス。君の弟のおかげで、周囲への「アリバイ作り」ができた』
『ええ。今、本当に愛し合う婚約者などと噂されれば、王妃派や第一王子派から警戒され、事業ごと潰されますわ』
二人の真意は一つ。「冷徹な実利の結びつき」と周囲に思わせておく方が、政治的に安全なのだ。
金のために手を組んだだけのドライな関係ならば、敵は「愛」という不確定要素を警戒せず、単なる商売敵として過小評価してくれる。これは、二人が生き残るための高度な「擬態」だった。
だが、そんな深謀遠慮を知る由もないテオドールは、木剣を取り落とし、膝から崩れ落ちた。
「じ、人的担保……? 隔離……? な、何の話をしてるんだ……」
テオドールはわなわなと震え、そして叫んだ。
「愛はないのかよぉぉぉぉッ!!」
泣きながら走り去る弟の背中を、リュートとアイリスは無表情で見送った。廊下に再び静寂が戻る。
「……行こうか、パートナー」
「ええ。子供の相手をしている時間はありませんわ」
二人はカツカツと靴音を鳴らし、再び歩き出した。その背中は、あまりにもお似合いの「共犯者」だった。
3 夜更けの工房:量産化への試行錯誤と絆
公爵邸の地下にある魔導工房は、深夜になっても熱気と油の匂い、そして羊皮紙のインクの匂いに満ちていた。
翌朝の「実演」に向け、リュートとアイリスは小型艇の最終調整に没頭していた。
工房の作業台には、無数の設計図と計算書が散乱している。アイリスは帳簿を片手に、眉間に深い皺を寄せていた。
「……殿下。この試算、通りませんわ」
彼女は羽ペンを走らせ、冷徹な現実を突きつけた。
「水中翼の素材に『ミスリル合金』を指定されていますが、これでは採算が取れません。ミスリルは高価すぎます。試作機一隻ならともかく、将来的に船団を組んで量産すれば、初期投資だけで赤字……事業として破綻します」
彼女は顔を上げ、リュートを睨んだ。
「性能を落としてでも、安価な鉄鋼に変えるべきです。……空を飛ぶ夢を見る前に、足元の収支を合わせてください」
リュートは油にまみれた手で図面を修正しながら、即座に首を横に振った。
「ダメだ。鉄では強度が足りない。水面からの離着水時、翼には数トンの衝撃がかかる。鉄では金属疲労で三ヶ月も持たずに折れる。……船が沈めば、それこそ事業は終わりだ」
「ではどうしろと!? 赤字を垂れ流しながら海に出ろとおっしゃるの!?」
アイリスの声が荒らげる。彼女も必死だ。公爵家の命運を預かっているのだから。
リュートは手を止めず、脳内の知識を総動員した。
前世の材料工学。複合素材。コストカットと強度の両立。この世界の「魔法」と、前世の「科学」を融合させる解法を探る。
「……なら、こうしよう」
リュートは新しい羊皮紙を引き寄せ、猛烈な勢いで数式と構造図を描き殴った。
「素材は『銅合金』だ。鉄より粘りがあり、ミスリルより遥かに安い」
「銅? 重いうえに柔らかすぎますわ!」
「ベースはな。だが、その表面に『魔導銀』の微粉末を定着させ、強化回路を焼き付ける」
リュートは図面をアイリスに見せた。
「表面硬度はミスリル並み。芯は銅の粘り強さを持つ。これなら強度は確保できる。……コストはどうだ?」
アイリスは目を丸くし、即座に珠を弾く計算盤を取り出した。
パチパチパチパチッ! と乾いた音が工房に響く。彼女の指は目にも止まらぬ速さで動き、数秒後、ピタリと止まった。
「……嘘でしょう?」
アイリスが息を呑む。
「コストは……鉄の約一・二倍まで圧縮できますわ。ミスリルの十分の一以下……これなら、損益分岐点を余裕で超えます」
「採用か?」
「ええ。……採用です。文句のつけようがありません」
アイリスは帳簿を閉じ、ふぅっと深く息を吐いた。そして、改めてリュートを見た。
その顔には、先ほどまでの「疑念」は消え失せ、代わりに戦慄にも似た「敬意」が浮かんでいた。
「……貴方、本当に何者ですの? 王族がなぜ、こんな鍛冶屋のような知識を?」
「ただの『道楽』だよ」
リュートは笑って誤魔化し、顔についた煤を拭った。
ふと見れば、完璧な令嬢であるはずのアイリスの頰にも、黒い汚れがついていた。ドレスの裾は汚れ、髪も少し乱れている。だが、その姿は夜会の時よりも遥かに生き生きとして美しかった。
二人は顔を見合わせ、同時に吹き出した。
「ふっ……あはは! ひどい顔だ、アイリス嬢」
「貴方こそ。……魔王のような王子様が、まるで炭焼き小屋の少年ですわ」
そこにあるのは、甘い恋心ではない。
「こいつは使える」「この計算は裏切らない」という、実務能力への全幅の信頼。孤独な天才同士が、初めて「数字」が通じる相手を見つけた安堵感。
『……ああ、心地いい』
リュートは思った。彼女となら、背中を預けられる。彼女は僕の設計を否定せず、数字で現実にしてくれる。
アイリスもまた、同じことを思っていた。この方は、私の計算を超える解を出してくる。父のように怯えず、私の数字を武器に変えてくれる。
「……あと数時間で夜明けですわ、パートナー」
アイリスはハンカチでリュートの額の汗を拭い、不敵に微笑んだ。
「準備は整いました。……世界を驚かせてやりましょう」
「ああ。……僕たちの『船』でね」
夜更けの工房で、二人の共犯者は固い握手を交わした。
その手は汚れていたが、どんな宝石よりも輝く「確信」を掴んでいた。
4 湖畔の実演:ハイドロフォイルの覚醒
翌朝、オルディナ公爵邸の裏手に広がる広大な私有湖は、深い朝霧に包まれていた。
湖畔には、分厚い外套を纏ったオルディナ公爵と、数名の重臣たちが不安げな表情で佇んでいる。彼らの視線の先には、一隻の奇妙な小型艇が浮かんでいた。
既存の船とは違う。帆はなく、船体は極端に細長い。船底からは昆虫の足のような金属製の翼が水中に伸びている。
美しくも、あまりに頼りなく見えるその「木の葉舟」に、リュートとアイリスが乗り込んでいた。
「……本当に行くのか? 動力の出力は不安定だぞ」
「問題ありませんわ。昨夜の調整で、銅合金の翼は完璧に仕上がっています」
操縦席のアイリスが魔導機関に魔力を充填し始める。微かな駆動音が湖面に響く。リュートが合図を送ろうとした、その時だった。
「――待て!! 出航は認めん!!」
岸辺から鋭い声が響いた。
テオドール・ルディ・オルディナだ。昨夜の寝間着姿とは打って変わり、公爵家の正式な騎士甲冑に身を包み、水際まで馬を乗り入れていた。
彼は姉に向けて叫ぶのではなく、公爵とリュートに向けて、理路整然と、しかし必死に叫んだ。
「父上! あの船を見てください! あんな華奢な構造で、外洋の荒波に耐えられるはずがありません! 姉上を乗せて沈めばどうするのです! ……言葉で言っても分からないなら、僕が証明して見せます!」
テオドールは杖を構え、湖面に切っ先を向けた。
「水よ、荒ぶれ! 『拒絶の逆波』!!」
ドォォォン!!
テオドールの魔力が炸裂し、静かだった湖面が激しく隆起した。彼の意図は「攻撃」ではない。「海上の荒波」を人工的に再現し、この船がいかに脆く、航海に不適格であるかを証明して、出航を物理的に阻止することだ。高さ二メートル近い波が、船の行く手を阻む壁となって迫る。
「テオ! やめなさい!」
アイリスが叫ぶが、波は止まらない。公爵が狼狽える。
「いかん! あれでは船が転覆する! テオを止めろ!」
だが、リュートは冷静だった。むしろ、口元に獰猛な笑みを浮かべた。
「……構いません、公爵。止めないでください」
彼はアイリスの肩を叩いた。
「好都合だ、アイリス。弟君が『最高の試験環境』を用意してくれたぞ。……見せてやれ。僕たちの船は、波ごときに喧嘩を売ったりしない」
アイリスは一瞬驚いたが、すぐにリュートの意図を理解した。彼女は恐怖を飲み込み、操縦桿を限界まで押し込んだ。
「……ええ、そうですわね。――『全速前進』!!」
小型艇が唸りを上げ、迫り来る波の壁へと突っ込んでいく。
「馬鹿な! 自殺行為だ!」
テオドールが叫ぶ。普通の船なら、波に衝突して砕け散るか、転覆するタイミングだ。
だが、衝突の衝撃は来なかった。
「――浮上!!」
リュートが魔力回路を解放した瞬間、船底の水中翼が揚力を生み出した。
フワッ。
船体が水面から離れ、宙へと浮き上がる。
「な……っ!?」
テオドールが、公爵が、その場にいた全員が目を見開いた。
船は波にぶつかるどころか、波のうねりの「上」を、滑るように通過していったのだ。
波が高いほど、翼の下を通り抜ける空間が広がるだけ。船体は水面の凹凸など存在しないかのように、空中のレールを滑走していく。
水飛沫すら上がらない。
ただ風を切る音だけを残して、船はテオドールの起こした荒波をあざ笑うかのような速度で加速した。
湖の中央を旋回し、戻ってきたリュートは、呆然とする公爵の前に船を寄せ――着水することなく、浮いたまま静止(ホバリングに近い滑走)してみせた。
「公爵、ご存知ですか?」
リュートは船上から、父を見下ろすように語りかけた。
「水は、空気の約八百倍も密度が高いのです。普通の船は、その重たい『泥』の中を、莫大なエネルギーを使ってかき分けて進んでいる。だから波に足を取られ、抵抗に苦しむのです」
リュートは船体を叩いた。
「ですが、この船は違います。重たい泥を捨てて、翼で『風』になったのです。水面に触れていなければ、波などただの凸凹した地面に過ぎない。……これが物理の理です!」
圧倒的な事実。
テオドールの魔法による「荒波」すら無効化した安定性と、見たこともない速度。それは「信用」という概念を、物理現象でねじ伏せる瞬間だった。
公爵は口にくわえていた葉巻をポロリと落とし、震える指でその船を指差した。
「……浮いて……いる……。本当に……魔法の船だ……」
その横で、テオドールはずぶ濡れになりながら、それでも仁王立ちで船を睨みつけていた。リュートは、そんな彼を船上から見下ろし、ふと口元を緩めた。
『……いい度胸だ。あんな至近距離で、姉のために全魔力を放出するなんて』
リュートは離宮育ちだ。周りにいるのは母と侍女のルリカ、そして先日配下に加わったカイルくらい。「同年代の男」など、これまで接点が皆無だった。
『生意気で、うるさくて、情緒過多。……でも、嫌いじゃないな』
リュートの中に芽生えたのは、初めて見る「弟分」への奇妙な親近感だった。
アイリスとの結婚など政治的に面倒すぎて微塵も考えていないが、この「小生意気な義弟(仮)」となら、悪くない関係が築けるかもしれない。
テオドールは肩で息をしながら、リュートを指差して叫んだ。
「……勘違いするなよ! 黒髪の!」
彼は悔しげに顔を歪めながらも、騎士としての誠実さで事実を認めた。
「……その船の性能は、認めてやる! 僕の魔法が通じなかったのは事実だ! だがな、お前自身を認めたわけじゃないぞ!」
テオドールは地団駄を踏み、子供のように吠えた。
「姉上をたぶらかす黒い悪魔め! 船はすごくても、お前なんかに姉上は渡さん! 僕の目が黒いうちは、絶対に『義兄上』なんて呼んでやらないからなーっ!!」
その捨て台詞に、リュートは思わず吹き出した。
「くくっ……。厳しい審査員だ。合格点はまだ遠いらしい」
隣でアイリスが呆れたように額を押さえる中、リュートは心地よい風を感じていた。最強の盾を突破した船は、朝日の中、確かな勝利の輝きを放っていた。
5 最終交渉:有限責任と法解釈
試運転を終え、小型艇が静かに桟橋へと戻ってきた。動力が停止し、周囲に再び静寂が戻る。
「……見事なものだ」
オルディナ公爵が、ゆっくりと拍手をした。
その表情から、先ほどまでの狼狽は消え失せている。そこにあるのは、東の領地を束ねる大貴族としての、冷徹で重厚な眼差しだった。
「物理の理屈は分かりました。波を無効化し、海竜を振り切る速度……確かに、これなら海を渡れるでしょう」
公爵はリュートの目の前まで歩み寄り、低い声で問いかけた。
「だが、殿下。……これは『船』なのですか?」
「……?」
リュートが眉をひそめる。公爵は懐から葉巻を取り出し、火を点けずに指で弄びながら続けた。
「我が国の『船舶法』および『海運規制法』をご存知か? 新型船の就航には、海運局による厳格な査定と、数年に及ぶ耐航性試験が義務付けられている。さらに、王家の海を使う以上、船籍登録には国王陛下の直筆の許可証が必要だ。……陛下の『特権状』があったとしても、役人が『規則ですから』と検査を盾に時間を稼げば、許可が下りる頃には我々は老いぼれているでしょう」
公爵の目が鋭く光った。
「技術が優れていても、法がそれを殺す。それがこの国の官僚機構だ。……殿下、貴方はこの『船』を、どうやって法の網から逃がすおつもりか?」
それは、臆病だからこその鋭い指摘だった。彼は知っているのだ。王宮の役人たちが、新しい技術を潰すためにどれほど陰湿な手を使うかを。物理的な壁よりも、書類の壁の方が分厚いことを。
リュートは、公爵のその目を真っ直ぐに見返した。
『……ああ、いい目だ。この人は、ただ怯えているだけじゃない。敵の「攻め手」を熟知している』
リュートはニヤリと笑い、懐からあの『特権状』を取り出し、公爵の目の前でパンッ! と叩いた。
「ご懸念は尤もです、公爵。まともに『船』として申請すれば、十年は足止めを食らうでしょう。……ですが、公爵。よくご覧ください」
リュートは背後の小型艇を親指で指し示した。
「先ほどの航行中、船体は水に触れていましたか?」
「……いや。空中にあったな」
「ならば、法的にこれは『船』ではありません」
リュートは平然と言い放った。
まるで今日の天気の話でもするかのように、国の法解釈を捻じ曲げる。
「これは、『水面ギリギリを飛行する、王家の紋章付き馬車』です」
「……は?」
公爵が葉巻を取り落としそうになる。
後ろで聞いていたテオドールや家臣たちが「な、何を言っているんだ?」とざわめく。
リュートは畳み掛けた。
「公爵。王国の法典に、『空飛ぶ馬車』を規制する法律はありますか? ないはずだ。前例がないのですから」
リュートは特権状に押された王家の紋章を指差した。
「そして何より、これは『王家の紋章』を掲げた乗り物です。王家の馬車に、海運局の車検が必要ですか? 役人が王の馬車の車輪を検査し、難癖をつけることができますか? ……いいえ。必要なのは機能の証明ではなく、『王家の品位(紋章)』だけです」
屁理屈だ。
子供の言い訳レベルの暴論だ。「船じゃない、飛んでるから馬車だ」。そんな理屈が通るはずがない。
だが――この「品位」と「前例主義」に支配された王国においては、その屁理屈こそが最強の剣になる。
「王家の馬車を検査する」という行為自体が「不敬」にあたるからだ。
公爵はしばらくの間、呆気に取られたようにリュートを見つめていた。やがて、その肩が震え始めた。
「……く、くくっ……!」
公爵は天を仰ぎ、声を上げて笑った。
「はーっはっはっは!! 傑作だ! 空飛ぶ馬車だと!? 法を破るのではなく、法の及ばない『空』へ逃げるとは!」
彼は涙を拭い、リュートの肩をバシッと叩いた。その手には、対等な男への敬意と、久しぶりに燃え上がる野心が宿っていた。
「……あきれた。貴方はとんでもない『悪童』だ。よろしい。その図太さこそ、私が求めていた『王家への対抗策』だ」
公爵はリュートに右手を差し出した。
それは臣下としての礼ではなく、共犯者としての握手だった。
「乗りましょう、殿下。その『馬車』に。……オルディナ家の全霊を賭けて、貴方のスポンサーを務めさせていただきます」
「感謝します、公爵」
ガッチリと握手が交わされる。
臆病な老政治家が、生涯で一度きりの大博打に乗った瞬間だった。
その横顔は、かつて海を恐れた敗北者ではなく、新しい時代の風を感じる「冒険商人」の顔に戻っていた。
6 全権委任:執行者アイリスへの信頼
太陽が高く昇り、朝霧が晴れた頃。
オルディナ公爵邸の正門前には、東の港町へ向かう豪奢な馬車が待機していた。公爵とテオドール、そして家臣たちが見守る中、リュートは出発直前のアイリスに向き合った。
「……これを持って行け、アイリス」
リュートは懐から、分厚い革袋を差し出した。中には、船の設計図の原本、帝国の資金、そしてあの『特権状』の写しが入っている。この事業の全てであり、リュートの切り札そのものだ。
「船の設計、活動資金、法的防壁。……盤面は整えた。必要なカードは全てここにある」
リュートはアイリスの瞳を真っ直ぐに見据え、静かに告げた。
「アイリス嬢。君を、この海運組合の全権執行者に任命する。現場の判断、資金の運用、航路の決定……実務と運営の全てを君に任せる」
「……全て、ですか?」
アイリスが革袋の重みに少しだけ眉を動かした。
「私の一存で失敗すれば、この資金も特権状も紙屑になりますわ。……私を監視しなくてよろしいのですか?」
「必要ない。君の計算能力は僕以上だ」
リュートは即答した。そして、声を潜めて、彼女にだけ聞こえるように囁いた。
「それに……僕は王都(離宮)から出られない。特権状という『空飛ぶ馬車』の御者台に座って、陛下に金を献上し、政治的な雨風を凌ぐのが僕の役割だ」
リュートは自らの首筋を指先でトン、と叩いた。
「いいかい、アイリス。もし事業が失敗し、王家の不興を買った時は……この首を差し出す。責任は全て発起人である『第二王子の道楽』が被る。君の家には火の粉が飛ばないよう、契約書と遺書はすでにルリカに預けてある」
アイリスが息を呑む。
リュートはニヤリと笑った。それは、愛する女性を守る男の顔ではなく、最強の駒を盤面に解き放つ棋士の顔だった。
「僕の首を担保にする。だから君は、王家の顔色など窺うな。父上の機嫌も、品位も、全部無視していい。……好きにやれ。君のその優秀な頭脳が導き出す『数字』だけを信じて、海で暴れてこい」
恐怖からの完全な解放。
「責任は僕が取る。君はただ、正解を選び続けろ」。それは、臆病な公爵家で育ち、常に「失敗したら家が潰れる」という恐怖に縛られてきた彼女にとって、何よりも欲しかった言葉だった。
アイリスはしばらくリュートを見つめていたが、やがてふぅっと息を吐き、艶やかに微笑んだ。それは、社交界の令嬢の仮面が完全に剥がれ落ちた、野心に満ちた「海の女傑」の顔だった。
「……ふふ。馬鹿なパートナーですこと。自分の命をチップにするなんて、割に合わない賭けですわよ?」
彼女は革袋を宝物のように胸に抱き、不敵に言い放った。
「いいでしょう。その首、私が預かります。貴方が処刑台に上がる前に、私が王家の金庫を金貨で埋め尽くして、陛下に文句の一つも言わせないようにして差し上げますわ」
「頼もしいな。期待しているよ」
「見ていてください、私の王子様。三年後、私たちは海に流す『帳簿上の数字』だけで、この王国を支配してみせます」
アイリスは優雅に一礼し、翻るドレスと共に馬車へと乗り込んだ。
御者が鞭を振るう。
「ハイッ!」という掛け声と共に、馬車が動き出す。窓から顔を出したアイリスは、もう振り返らなかった。彼女の視線はすでに、東の海平線を見据えていた。
◇
馬車が街道の向こうへ消えていくのを、リュートは見送った。
隣で控えていたカイルが、ぽつりと呟いた。
「……行ってしまわれましたな。とんでもない女傑を野に放ったものです」
「ああ。彼女ならやってくれるさ」
リュートは肩の力を抜き、いつもの無害な少年の表情に戻った。
「さて、帰ろうかカイル。僕たちは再び『離宮の檻』に戻り、無害な第二王子の仮面を被る時間だ」
「へいへい。……ですが殿下、退屈はしなさそうですな」
「もちろんだ。水面下で、世界を変える準備は整ったのだから」
リュートは背を向け、静かに歩き出した。
物理的には離れ離れになった二人。だが、その絆は「契約」と「命がけの信頼」によって、どんな鎖よりも強く結ばれていた。
東の空には、新しい時代の風が吹き始めていた。




