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リーガル・レジスタンス 〜法治国家を目指して〜  作者: ムササビ-モマ
第2章『人知の世』
12/42

第2話  『離宮の契約』

1 カイルの引き込み:東屋での契約


 離宮の庭園、その奥まった場所にある古びた東屋。

 昼下がりの日差しが蔦の隙間から差し込み、石造りの円卓にまだら模様を描いている。

 リュートは卓上に一枚の羊皮紙を滑らせ、向かいの席に座る男を静かに見据えた。


 離宮警備隊長、カイル。

 彼は羊皮紙に目を落とすことすらなく、死んだ魚のような目でリュートを見下ろしていた。その視線には、明らかな「諦念」と、隠しきれない「侮蔑」が混じっている。不吉とされる黒髪赤眼の、わずか十歳の子供。彼にとって、リュートはその程度の存在に過ぎない。


「……殿下。私のような『汚れ物(左遷組)』に何の用ですか。私と懇ろにされては、殿下の数少ない『品位』に傷がつきますぞ」

 自嘲気味なカイルの言葉に、リュートは無言で羊皮紙をもう一度、指先で叩いた。


「『雇用契約書』の草案だ。目を通せ」

「契約書? ……はっ、おままごとですか」

 カイルは鼻で笑いながらも、暇つぶしと言わんばかりにその紙を手に取った。

 だが、数行読んだところで、彼の眉が怪訝そうに寄せられた。そこには、この王国の常識には存在しない、異質な条項が並んでいたからだ。


『【特定業務委託に関する基本契約(草案)】

 第1条(目的):リュートは、カイルに対し、身辺警護および隠密情報の収集を委託する。


 第2条(報酬および対価):甲は乙に対し、金銭ではなく、以下の「評価基準」を保障する。


 第3条(手段):乙の任務遂行中の行動は甲の名において合法となると保障する。


 ・事実に基づく評価エビデンス・ベース:乙の処遇は、甲の「気分」や「品位」によって変動せず、乙が上げた「成果(事実)」のみに基づいて決定される。


 ・遡及処罰の禁止:乙が契約に基づき行った行為は、事後的な事情(品位など)によって処罰の対象とされない』


 カイルの指が、わずかに震えた。

 だが、彼はすぐにその紙をクシャリと握り潰し、卓に叩きつけた。


「……冗談はやめていただきたい」

 カイルの声が低く唸った。そこには明確な怒りがあった。


「事実に基づく評価? 遡及処罰の禁止? 戯言だ。この国を統べているのは王家の『気分』と、それを取り繕う『品位』という名の嘘ですよ。紙切れ一枚で、何が変わるというのです」

 カイルは立ち上がり、巨体でリュートを見下ろした。その威圧感は、十歳の子供を押し潰すには十分すぎる殺気を孕んでいた。


「努力すれば報われる? 公正なルール? ……そんなものは、温室育ちの子供が見る夢だ。私が騎士団で上官の不正を指摘した時、何と言われたか教えてやりましょうか? 『貴様の端たなき正義感は、王国の品位を傷つけた』……それでおしまいです。私の十数年の努力は、その一言でゴミ箱に捨てられた」

 彼はテーブルに両手をつき、リュートの顔に近づいて嘲笑った。


「さあ、十歳の王子様。お遊びは終わりだ。あなたには私に支払える報酬など何一つない。……それとも何か? この離宮に隠されている『帝国の至宝』――ルナリア様の体を私に提供するとでも言うのですか?」

 その不遜極まりない要求が出た瞬間、周囲の空気が凍りついた。

 背後に控えていたルリカの殺気が爆発し、手が反射的に懐の暗器へと伸びる。


「……下衆がッ!」

「待て、ルリカ」

 リュートは片手でルリカを制した。


 その表情に、怒りはなかった。あるのは、感情を一切排した冷徹な「法家」の思考だけだった。


「なるほど。他人の身体の利用権を目的とした契約か。債権契約の形式としては成立しうるな」

 リュートは事務的なトーンを崩さず、淡々と指を二本立てた。子供の反応ではない。まるで商談で不備のある商品を指摘するかのような態度に、カイルの顔から嘲笑が消える。


「だが、その契約には二つの致命的な瑕疵かしがある。第一に、私にその債務を履行する意思が皆無であることだ。最初から履行するつもりのない約束を交わすのは、信義則に反する詐欺的行為だ」

 リュートは一歩踏み出し、カイルを見上げた。


「そして第二に。私の定義する『契約』において、人間は『権利の主体』であり、取引される『客体モノ』にはなり得ない。人格をモノとして扱う契約は、公序良俗に反する絶対的な無効ナリティだ」

 カイルは言葉を失った。怒られるでも、泣き出すでもなく、理路整然と「契約の無効性」を説かれたのだ。その異様な迫力に、彼は思わずたじろいだ。


「な、なんだ、あんたは……」

「カイル。君は『品位』がこの国の秩序だと言った。だが、それは違う」

 リュートの赤い瞳が、カイルの濁った瞳を射抜いた。


「『品位』とは、この国が既に支払えなくなった『負債』の別名だ」

「……負債、だと?」


「そうだ。不祥事を隠蔽し、事実を歪め、無能な貴族を養い続ける。そのために必要な膨大な金と嘘のコストだ。……カイル、君の努力が捨てられたのは、君が間違っていたからではない。君が突きつけた『事実』を受け入れるだけの体力が、今の王国(債務者)にはもう残っていないからだ」

 その言葉は、鋭利な刃物のようにカイルの胸に突き刺さった。


 誰もが彼を「空気が読めない」「不品位だ」と責めた。だが、目の前の少年だけが、その原因を国の方にあると断言した。


「君の騎士としての実績は、君の血と汗で鋳造された『本物』だ。だが、この国が押し付ける『品位』は、中身のないメッキに過ぎない。君が絶望しているのは、本物が偽物に負けたからではない。偽物の維持に、君という『本物』が燃料としてくべられたからだ」

 カイルの眉間が苦痛に歪む。リュートは逃さず、彼の魂の最深部を抉る言葉を叩きつけた。


「この契約書は、国を変えるような大層なものではない。だが、少なくとも『私と君の間』だけには通用するルールだ。ここでは『品位』などという曖昧な基準で君を裁かない。君が剣を振り、敵を倒し、情報を持ち帰る。その『事実』だけを私は買い取り、対価を払う」

 リュートは右手を差し出した。


「君が私に従うのではない。君の持つ『正当な暴力』と、私の持つ『正当な評価』が対等に結託するんだ。……カイル。君の努力を『なかったこと』にさせた連中を、君自身の手で、実力で見返してやりたくはないか?」

 風が止んだ。

   ・

   ・

   ・

 カイルは長い沈黙の後、絞り出すような吐息を漏らした。

 彼は震える手で卓上のペンを握り、自らが否定し続けてきた「ルール」の萌芽たる羊皮紙に、その名を刻んだ。


「……参りましたよ。殿下」

 書き終えたカイルが顔を上げる。その目に、もはや死んだ魚のような濁りはなかった。あるのは、理解不能な「怪物」を前にした畏怖と、武人としての興奮だった。

 

「その冷徹な話しぶり……まるで何千人もの人間を値踏みしてきた商人のようだ。……いいでしょう。この『賭け』、乗らせていただきます。あなたの作る『評価』とやらが、私の努力に見合うだけの重みがあることを、死ぬ気で証明して見せてくださいよ」


「ああ、約束する。……契約成立だ」

 リュートはカイルの手を握り返した。

 その小さな手から伝わる熱は、十歳の子供のものではなかった。

 腐った騎士は死に、今ここに、リュートの最初の「執行官」が誕生した。




2 市場調査:王都の現実と噂


 契約成立から数日後。

 リュートは王宮の煌びやかな世界とは無縁の、土埃と喧騒にまみれた王都の下町・中央市場に立っていた。

 身なりは粗末な麻の服に、深く被ったフード。顔には薄汚れた化粧を施し、どこにでもいる「商家の見習い少年」になりすましている。

 傍らには、同じく傭兵風の外套を纏ったカイルが付き従っていた。彼の目はもう死んでいない。周囲の視線、スリの動き、衛兵の巡回ルートを油断なく監視する、プロフェッショナルの「仕事人」の目に戻っていた。


「……酷い有様ですね、殿下」

 カイルが口元だけで囁く。


「ここを通る荷車の三台に一台が、難癖をつけられて止められています」

 リュートは無言で頷いた。


 市場の入り口にある関所では、王家の紋章をつけた徴税官たちが、東の方角から来た商隊を足止めしていた。


『おい、この荷は申告より重いぞ。超過税だ』

『そんな、規定通りです!』

『うるさい。王家の道を使うなら、王家の「品位」に見合う礼儀(賄賂)を見せろと言っているんだ』

 商人は泣く泣く、懐から金貨袋を取り出し、徴税官の手に握らせる。ジャラリ、と重い音がした。


(……効率が悪い)

 リュートは冷徹に観察する。


(現物貨幣(金貨)は重く、輸送コストがかかる上に、こうして物理的にカツあげされるリスクが高い。あの『貨物引換証』があれば、こんな理不尽な搾取は回避できるはずだが……)

 リュートは市場の中を歩き回り、東の特産品を扱う店をいくつか覗いた。


 だが、どこにもあの「魔法の紙片」は見当たらない。ここ王都での決済は、すべて古臭い金貨と銀貨で行われていた。

 やはり、あれは『領内限定』として徹底的に管理されている。


 リュートは、荷下ろしをして休憩中の初老の商人に目をつけた。馬車にはオルディナ公爵家の紋章。彼は先ほどの関所で、ごっそりと売上を持っていかれ、地面に座り込んで毒づいていた。


「……まったく、やってられねえ。これじゃあ利益なんざ出やしない」

 リュートは子供の無邪気な仮面を被り、とてとてと駆け寄った。


「おじさん、大変そうだね。お水、飲む?」

 革袋の水筒を差し出す。商人は驚いた顔をしたが、リュートのあどけない笑顔に毒気を抜かれ、礼を言って水を受け取った。


「ありがとよ、坊主。……はぁ、王都は魔窟だ。汗水垂らして運んでも、右から左へ税金に消えちまう」

「酷い話だね」

 リュートは隣に座り込み、世間話のように切り出した。


「でも不思議だな。おじさんの雇い主は、あの東のオルディナ公爵様でしょう? 噂じゃ『経済の怪物』って呼ばれる大貴族だって聞いたよ。王様に掛け合って、税金を負けてもらったりできないの?」

 商人は水を吹き出しそうになり、苦々しい顔で手を振った。


「はっ! 『怪物』だあ? どこの馬鹿だ、そんな寝言を吹いて回ってんのは」

 商人は声を潜め、周囲を警戒しながら吐き捨てた。


「いいか坊主。あのお方はな、誰よりも王家を恐れている『臆病公爵』だよ。先代の失敗で家が傾いて以来、王様の顔色を窺うことだけに必死で、新しいことには何一つ手を出さない。関所でいくらむしり取られようが、公爵様は『王家の不興を買うよりマシだ』って、へらへら笑って頭を下げるんだ」

「ふうん……。頭を下げるのが好きなんだ」

 リュートの相槌に、商人は呆れたように続ける。


「情けない話だろ? でもな、領内の商売だけは妙に手堅いんだ。噂じゃ、公爵様じゃなくて、長女のアイリス姫様が裏で帳簿を回しているらしい。あの便利な『引換証』も、姫様が『お父様が王家に叱られない範囲なら』って条件で作った、苦肉の策なんだとよ」

「へえ……。その姫様が、本当のボスなんだ」


「しっ! めったなこと言うな。公爵家の顔はあくまで旦那様だ。……ま、俺たちにとっちゃ、誰がボスでもいいから税金をどうにかしてほしいもんだがな」

 商人は「喋りすぎたな」と立ち上がり、荷あしらいに戻っていった。 


 リュートはカイルと視線を交わし、静かにその場を離れた。

 雑踏に紛れながら、リュートの瞳が鋭く光る。


(……なるほど。「へらへら笑って頭を下げる」、か)

 リュートは商人の言葉を鵜呑みにはしなかった。


「誇り高い貴族」が頭を下げることを恥としないのなら、それは無能なのではなく、「利益のためならプライドすらドブに捨てられる」という強烈な信念の表れだ。


(公爵もまた、僕と同じだ。「無害で臆病な臣下」を演じ、王家の警戒を解くための「擬態」をしている可能性がある)

 だとすれば、あの「引換証」の考案者が誰なのかも慎重に見極める必要がある。


 本当に娘のアイリスが天才なのか。それとも、自分の才覚を隠すために、まだ政治の表舞台に出ていない娘の名前を隠れスケープゴートに使っているのか。


(……どちらにせよ、公爵(本丸)のガードは堅い。だが、アイリスなら隙がある)

 社交界デビュー前の令嬢。まだ政治の表舞台に出ていない彼女なら、接触もしやすく、本音を引き出しやすいはずだ。


 もし彼女が本物なら手を組む。もし彼女がただの看板なら、そこから公爵本体への糸口を探る。


「……カイル。ターゲットが決まったよ」

「ほう。あの『臆病公爵』ですか?」


「いや、その娘だ。公爵は古狸すぎて尻尾を掴ませないだろう。まずは窓口(娘)から攻める」

 リュートは東の空を見上げた。


「……帰ろう。招待状チケットを手に入れる準備が必要だ」

 リュートは外套を翻し、離宮への帰路についた。その背中には、明確なターゲットを定めた狩人の気配が漂っていた。




3 母の愛と武装:夜会への出立


 離宮のルナリアの私室は、今宵も甘い白百合の香りと、暖炉の柔らかな火に包まれていた。

 リュートは母の前に立ち、静かに切り出した。


「お母様。東のオルディナ公爵家が主催する夜会に、出席したいのです」

 ルナリアが刺繍の手を止め、ゆっくりと顔を上げた。


「あら……。珍しいわね。あんなに人混みを嫌っていた貴方が」

「はい。以前お話しした『道楽』……あの船の事業には、どうしても協力者パートナーが必要です。公爵家の令嬢に、少し『ご挨拶』をしておこうかと」

 リュートはあくまで「道楽のため」という建前を崩さなかった。


 だが、ルナリアはその奥にある息子の決意――獲物を定め、その喉元に食らいつくための第一歩であること――を瞬時に察したようだ。

 彼女の赤い瞳が、妖艶に、そして歓喜に揺らめいた。


「……ふふ。ついに、リュートの社交界デビューね! 待っていたわ、この時を!」

 ルナリアは立ち上がり、ウォークインクローゼットの奥から一着の礼服を取り出した。


 それは王国の流行とは一線を画す、帝国の最新モードを取り入れたものだった。

 深く艶やかな漆黒のベルベット生地に、細密な銀糸で蔦模様の刺繍が施されている。王国の貴族が好むパステルカラーや金ピカの装飾とは対極にある、冷たく、鋭い美しさ。


「さあ、着てごらんなさい。王国の人形たちは、貴方のその黒髪と赤い瞳を『不吉』だなんて言うけれど……」

 ルナリアは着替えを終えたリュートの前に跪き、その襟元を整えながら、愛おしそうに頰を撫でた。


「教えてあげるわ。帝国ではね、黒は『夜の支配者』、赤は『鮮血と生命』を象徴する、最も高貴な色なのよ」

 鏡の中に映るのは、不吉な忌み子ではない。


 闇を纏い、冷たい銀の光を放つ、若き魔王のような少年の姿だった。

 その姿は、周囲を威圧し、同時に目を離せなくさせる危険な魅力を放っていた。

 ルナリアはリュートの額にキスを落とし、耳元で甘く、しかし狂気じみた声で囁いた。


「ああ、なんて美しいの……! 胸を張りなさい、リュート。誰よりも気高くありなさい。もし、誰かが貴方の髪の色を笑うようなことがあれば……お母様が、その家ごと地図から消してあげるから」

 その愛は重く、深く、そして過剰だった。

 普通の子供なら押し潰されてしまうかもしれない。だが、冷たい離宮で育ったリュートにとって、この狂気じみた愛こそが唯一の「体温」だった。


(……ありがとう、母上。貴女のその重い愛だけが、僕の心を凍らせずにいてくれた)

 リュートはその愛を「鎧」として受け入れ、静かに微笑んだ。

「行って参ります、母上。……貴女の息子として、恥じぬ振る舞いをしてきます」


   ◇


 重厚な扉を開け、廊下に出ると、そこには護衛用の礼服に身を包んだカイルが待っていた。

 彼はリュートの姿を見るなり、小さく口笛を吹いた。


「へぇ……。馬子にも衣装とは言いますが、これじゃあ『魔王の御曹司』ですな」

 カイルは皮肉っぽく笑ったが、その目には明確な称賛の色があった。


 ただの子供ではない。王国の常識(カビの生えたセンス)をねじ伏せ、場を支配するだけのカリスマ性が、その漆黒の装いによって完成されていた。


「似合っているかい、カイル」

「ええ。これなら、あの古臭い貴族どもも腰を抜かすでしょうよ」

 カイルは恭しく一礼し、エスコートの手を差し出した。


「参りましょうか、殿下。……獲物は東の令嬢でしたな」

「ああ。行くぞ」

 リュートはカイルの前を歩き出した。

 その背中は、もはや離宮に閉じ込められた被害者ではない。明確な意志を持って盤面を動かしに行く、プレイヤーの背中だった。


「これが僕たちの、最初の『戦闘服』だ」

 二人の影が、長く廊下に伸びる。

 冷遇された第二王子と、腐った元エリート騎士。


 王国の異物たちが今、華やかな夜会という名の戦場へ、静かに出撃した。

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