第1話 『司法の残渣』
1 「人間の食物連鎖」
東京地方検察庁 特別捜査部 第四係。
午前3時17分。
蛍光灯が微かに唸る取調室の片隅で、私はネクタイを緩めながら、目の前の男をじっと見つめていた。
男の名前は佐伯悠真、32歳。
職業は表向き「投資家」。実際には複数の詐欺グループを束ねる中堅幹部で、今回の事件では高齢者100人以上から合計約17億円を騙し取った主犯格の一人だった。
「……だから何度も言ってるだろ。俺はただの紹介屋だよ。知り合いに『いい話がある』って教えてあげただけ。騙したのは向こうの連中だろ?」
佐伯は肩をすくめて笑う。
その笑顔が、私にはどうしようもなく汚らわしく見えた。
「佐伯さん」
静かに、しかしはっきりと切り出した。
「あなたが最初に電話をかけた被害者、藤田澄江さん。86歳。電話で『息子が事故に遭って手術費が必要だ』と言われて、ほぼ全財産を振り込んだ。その後、あなたは別の電話で『手術は成功したけどリハビリ費用が追加で必要』と追撃をかけ、さらに200万円を引き出させた。通話記録は全部残っています。あなたが直接『お母さん、大丈夫だからね』と声をかけている音声もあります」
「……それが?」
「藤田さんはその金を振り込んだ翌週、心筋梗塞で亡くなりました。遺体が発見されたとき、冷蔵庫には賞味期限切れの納豆が一つだけ残っていました。家族はもう何年も連絡を取っていなかったそうです」
佐伯の目が一瞬だけ揺れた。
しかしすぐにまた薄笑いに戻る。
「へぇ、気の毒に。でもさ、それ俺のせいじゃないじゃん。振り込むって決めたのは本人だし。俺は頼まれてるだけ。需要と供給だよ、これって」
私は無表情のまま、机の上の書類の束を指で軽く叩いた。
「需要と供給、ですか」
「……ああ。世の中、金が欲しい奴と、金をやりたい奴がいる。それを繋ぐのが俺の仕事。悪いことしてるつもりはないね」
その瞬間、私の中で何かが音を立てて切れた。
私はゆっくりと立ち上がり、取調室の壁に寄りかかった。
そして、まるで他人事のように低い声で言った。
「佐伯さん。あなた、今、17億円のうち自分の取り分がいくらか知ってます?」
「……は?」
「グループ全体で回収した17億のうち、あなたが実際に手にしている現金は、およそ4800万円。残りは上納金と中抜きで消えてます。あなたが命を削って集めた金の、72%はあなたの知らない誰かの懐に入ってるんですよ」
佐伯の顔から笑みが消えた。
「…………何が言いてぇんだよ」
「あなたは、自分が『搾取される側』になる瞬間を想像したことはありますか?」
私は一歩近づき、佐伯の目を見据えた。
「藤田澄江さんは、あなたに全財産を渡して死にました。でもあなたは、その金の大半を別の人間に上納して、自分は中抜きされた残りカスで満足してる。結局、あなたも誰かに食い物にされてる『被害者』なんですよ。ただ、その事実に気づきたくないだけ」
佐伯の頬が引き攣った。
「お前……何だよその目は」
「私はただ、事実を並べているだけです」
私は淡々と続けた。
「あなたは人を騙して金を奪い、その金をさらに上の人間に奪われる。そしてその上にはもっと上の人間がいて……結局、誰も本当の意味で『勝者』にはなれない。この食物連鎖の中で、あなたはただのミジンコです」
取調室に、重い沈黙が落ちた。
佐伯はしばらく唇を震わせていたが、やがて吐き捨てるように言った。
「……だったらお前はどうなんだよ。検察なんて、所詮国家の犬じゃねぇか。俺らを捕まえて、上から褒められて、給料もらって満足してんだろ?」
私は小さく息を吐いた。
「そうかもしれませんね」
そして、少しだけ自嘲するように笑った。
「だから私は、いつかこの世界から降りようと思ってるんです。こんな場所で、こんな連中を相手にして、正義ごっこをしている自分が、だんだん気持ち悪くなってきた」
佐伯は目を細めた。
「お前……頭おかしいんじゃないか?」
「そうかもしれません」
私は書類を手に取り、背を向けた。
「次は明日の午前9時から、正式な取調べです。それまでに、少しは自分のしたことを振り返ってみてください。藤田澄江さんの顔を、もう一度思い出してみるといい」
ドアを開ける直前、私は振り返らずに一言だけ付け加えた。
「あと、覚えておいてください。私は、あなたのような人間を、これからも何百人と見てきました。だから、あなたがどんな言い訳をしても、もう何も響かないんです」
カチリ、とドアが閉まる音がした。
取調室に残された佐伯は、しばらくの間、ただ机の木目を睨み続けていた。
その瞳には、ほんの少しだけ、初めて見る種類の恐怖が浮かんでいた。
2 「血の味がする遺産」
東京弁護士会所属 私が代表を務める法律事務所。
午後2時45分。
相談室の空気が、重く澱んでいた。
依頼者は70代後半の女性、高橋恵子。
夫を2年前に亡くし、唯一の相続人である娘・美咲(45歳)と遺産分割で揉めていた。
遺産の中心は、都心から少し離れた一軒家(評価額約8000万円)と預貯金約3500万円。法定相続分では母娘で半分ずつだが、美咲は「母はもう年寄りなんだから、家は私が継いで住むべき。母は施設に入ればいい」と主張し、代償金の支払いを拒否していた。
恵子は震える手でティッシュを握りしめ、声を絞り出した。
「弁護士さん……娘が、昨日も電話で……『あんたなんか死ねばいいのに』って……。私、こんなに怖い思いしたの、初めてで……」
私は無言でメモを取っていた。
すでに美咲側からのメールと録音データは入手済みだった。そこには「母の介護なんてした覚えはない」「全部私が面倒見てきたわけじゃないのに、なんで半分もよこすの?」「施設代なんか自分で出せ」「死ねば済む話だろ」という言葉が並んでいた。
「高橋さん。娘さんは、相続放棄の意思表示をしていない以上、法定相続人です。ですが、遺産分割協議がまとまらない場合、家庭裁判所に調停を申し立てることも可能です」
恵子は首を横に振った。
「調停……? そんなことしたら、もっと娘が怒るんじゃないかしら……。でも、もう我慢できないの。あの子は、私のことを『金づる』としか見てないみたいで……」
ドアがノックされ、事務員が美咲を連れて入ってきた。
美咲はブランド物のバッグを肩にかけ、化粧の濃い顔で母を一瞥した。
「母さん、また弁護士に泣きついてんの? いい加減にしてよ。家は私が住むんだから、母さんは老人ホームで余生を送ればいいじゃん。金なら少し分けてあげるよ」
恵子が体を震わせた。
「美咲……あなた、お父さんが亡くなったときも、葬式の費用すら出さなかったじゃない……。私が全部払ったのに……どうしてそんなひどいこと言うの……?」
美咲は鼻で笑った。
「だって母さんが甘やかしてきたからでしょ? 私が働いてる間、父さんの面倒も見てなかったくせに。今さら『家族だから』とか言われてもね。金が欲しいなら、さっさと家を売って分けてよ」
私は静かに口を開いた。
「美咲さん。遺産分割では、法定相続分が原則です。家を単独で取得する場合、相手方に代償金を支払うのが民法の規定です。拒否し続けるなら、調停・審判で強制的に決められます」
美咲は目を細めた。
「へぇ、弁護士さんってそんなに偉いんだ。じゃあさ、母さんが施設に入る費用、私が出さなきゃいけないの? そんなの知らないよ。母さんが勝手に長生きしてるのが悪いんでしょ」
その瞬間、恵子が立ち上がった。
顔は真っ青で、唇が震えていた。
「美咲……! あんた……本当に私の娘なの……? お父さんが生きてた頃は、あんなに優しかったのに……どうして……どうしてこんな……!」
美咲は冷たく言い放った。
「優しかった? あれは演技だよ。父さんが生きてる間は、財産の半分が私のものになると思ってただけ。父さんが死んでみたら、母さん一人が全部持ってるなんてズルいじゃん。だったら私が全部もらってもいいよね?」
恵子は崩れ落ちるように椅子に座り込み、嗚咽を漏らした。
「もう……いい……。全部あげてもいい……。あんたに……私の血が流れてるなんて……信じたくない……」
私は深く息を吐き、書類を閉じた。
「本日ここまでとしましょう。高橋さん、今日はお帰りください。美咲さんも、後日改めてお話を伺います」
美咲は舌打ちして立ち上がり、ドアを乱暴に開けた。
「早く決着つけてよね。母さんがグズグズしてるせいで、こっちの予定まで狂うんだから」
ドアが閉まった瞬間、恵子が私に向かって呟いた。
「弁護士さん……私、娘を……憎んでしまう……。こんな気持ちで死にたくないのに……」
私は静かに答えた。
「高橋さん。あなたは、まだ生きています。娘さんが何を言おうと、あなたの人生はあなたのものです。……ただ、残念ながら、人間というのは、金が絡むと、血のつながりさえ簡単に踏みにじる生き物なんです」
事務所の窓から差し込む午後の陽光が、恵子の白髪を照らしていた。
その光の中で、彼女の瞳は、すでに何かが壊れたように曇っていた。
検察時代に味わった「身勝手さ」の次に、今の私は「強欲」という名の怪物に直面していた。
人は、金のために家族を切り捨て、親を「金づる」と呼ぶ。
そしてその怪物は、決して満足しない。もっと、もっと、と貪り続ける。
この世界で、本当に「家族」などというものは、存在するのだろうか。
それとも、ただの幻想で、遺産という餌が撒かれると、仮面が剥がれ落ちるだけなのだろうか。
3 「わがままの報酬」
東京・渋谷 スクランブル交差点付近。夜10時48分。
いつものように事務所からの帰り道を歩いていた。
弁護士になって、もう三年。検察を辞めてから、相続やら離婚やら、金と血の絡む事件を淡々と処理するだけの毎日。
正義などという言葉は、とうに口から消えていた。
その夜、交差点の信号待ちで、視界に一人の男が入った。
見覚えのある顔――かつて検察官時代に自分が起訴した男、山崎健一。
特殊詐欺の受け子。被害者の老女が「息子に会いたいと言われて……」と泣きながら証言した事件。
山崎は実刑4年6月を受け、2年前に出所していたはずだった。
山崎はゆっくり近づいてきた。
手に持っていたコンビニのビニール袋から、缶ビールを取り出し、プシュッと開けた。
「よぉ、検事さん。覚えてる?」
私は無視して歩き出そうとしたが、山崎が肩を掴んできた。
「待てよ。ちょっと話があるんだ」
「用件は?」
山崎はニヤニヤしながら、ビールを一口飲んだ。
「いやさ、俺、出所してからさ、仕事が全然見つからねぇの。履歴書に前科って書くと、全部落ちるんだよ。マジで生活苦しくてさ」
「それは、あなたが選んだ道の結果です」
山崎の目が一瞬だけ細まった。
「結果? ふざけんなよ。お前が俺を捕まえなきゃ、こんな目に遭わなかっただろ? 俺の人生、お前にぶっ壊されたんだよ」
「それは――」
「うるせぇ!」
山崎が突然声を荒げた。
周囲の通行人が振り返る中、彼はポケットから折りたたみナイフを抜いた。
「俺さ、今日、彼女に振られたんだよ。『前科持ちの男なんて無理』って。マジで最悪だろ? 全部、お前のせいだと思ってたら、今日お前見つけたんだ。運命だろ、これ」
「……そんな理由で?」
「そうだよ、そんな理由で! 俺の彼女が戻ってこねぇのも、仕事がねぇのも、毎日酒しかねぇのも、全部お前が俺を捕まえたからだろ! だったらお前も同じ目に遭えよ! 俺の人生ぶっ壊したんだから、お前の人生もぶっ壊してやる! それで少しはスッキリするだろ!」
山崎の声は、まるで子供の駄々っ子のように甲高かった。
次の瞬間、ナイフが私の腹に突き刺さった。
一度、二度、三度。
山崎は機械的に刺し続けながら、独り言のように繰り返した。
「これで俺の人生、少しはマシになるかな……彼女、戻ってきてくれるかな……仕事、見つかるかな……」
私は膝から崩れ落ち、血溜まりの中に倒れた。
視界が赤く染まる中、私は最後に思った。
――人間なんて、みんなこんなものだ。
検察時代に見た身勝手さ。
弁護士時代に見た強欲さ。
そして最後に味わったこの、
「彼女に振られたから」「生活が苦しいから」「俺の気分が悪いから」という、
あまりにも幼稚で、みっともなくて、救いようのないわがまま。
誰も自分のしたことを本気で悔いていない。
誰も他人の痛みを本気で想像していない。
ただ、自分の都合が悪いと、誰かを殺す。
それだけ。
私の意識が途切れる直前、唇が微かに動いた。
「……人間なんて……みんな……わがまま……」
心臓が止まった。
…………。
…………。
…………。
オギャア。




