第9話「届かない想いと、見えない優しさ」
蓮くんと別れてから、一ヶ月が過ぎた。私の心は、ぽっかりと穴が空いたままだった。
そんなある週末、実家の母から慌てた様子で電話がかかってきた。
「美桜、大変なの! お店が……!」
聞けば、『花月庵』の経営が、深刻な危機に陥っているという。長年取引のあったホテルとの契約が打ち切られ、さらに近くに大手チェーンの和菓子店ができたことで、客足が遠のいてしまったらしい。
「お父さん、もう店を畳むしかないって……」
電話口で泣き出す母に、私は「大丈夫、私、何とかするから!」と力強く言ったものの、具体的な解決策があるわけではなかった。
でも、何もしないわけにはいかない。両親が守ってきた『花月庵』を、こんな形で失いたくなかった。
私はその日から、仕事が終わると実家に通い、店の立て直しに奔走した。
「若い人にも来てもらうには、やっぱりSNSだよ!」
慣れない手つきでインスタグラムのアカウントを作り、綺麗な和菓子の写真をアップする。新しい商品のアイデアを考え、父に提案するが、「昔ながらのやり方が一番だ」と聞く耳を持ってもらえない。
焦りばかりが募り、時間だけが過ぎていく。心も体も、もう限界だった。
そんなある日、疲れ果てて店の裏口で座り込んでいると、母が温かいお茶を持ってきてくれた。
「美桜、無理しちゃだめよ」
「でも、私が頑張らないと……」
「……一人で、頑張らなくていいのよ」
母はそう言うと、何かを思い出したように、ぽつりと言った。
「そういえば最近、蓮さんがよくお店のことを手伝ってくれてるわ」
「え……?」
思いがけない名前に、私は顔を上げた。
「蓮くんが? どうして……」
「さあ? 『美桜さんには内緒にしてください』って言われてるんだけどね。若い人向けの新しい商品の企画書を作ってきてくれたり、SNSの専門家だっていうお友達を紹介してくれたり。この間なんて、休日なのに一日中、お店のビラ配りまでしてくれたのよ」
母の話が、信じられなかった。
彼は、私との契約が終わった後も、ずっと陰で『花月庵』を支えてくれていた?
どうして、そんなことを。
私には何も言わずに。
「あの子、口数は少ないけど、本当に優しい子ね。あなたのことを、本当に大切に想ってくれてるのが伝わってくるわ」
母の言葉が、胸に突き刺さる。
私は、なんて馬鹿だったんだろう。
雨の日、彼が相川さんと一緒にいたのだって、何か理由があったのかもしれない。それなのに、私は彼の話を何も聞かずに、一方的に別れを告げた。
彼の優しさにも気づかず、一人で彼を誤解して、傷つけて。
涙が、あとからあとから溢れてきた。
「お母さん……私、行かなきゃ」
私は立ち上がると、雨が降り出した空のもとへ駆け出した。
彼に会って、謝らなくちゃ。そして、今度こそ、本当の気持ちを伝えなくちゃ。
どこに行けば会える? わからない。でも、なぜか足は、ある場所へと向かっていた。
会社でもなく、彼が住んでいるであろう実家でもない。
私たちが初めて、契約結婚の話をした、あの会社の屋上。
今はもう、彼との繋がりは何もない。いるはずがない。
それでも、私の心は、彼がそこにいると叫んでいた。
びしょ濡れになるのも構わず、私はただひたすらに、走り続けた。




