第8話「さよならの契約書、崩れる日常」
ずぶ濡れでマンションに帰ったのは、深夜になってからだった。リビングのソファで、蓮くんが私を待っていた。その顔には、今まで見たことのない焦りの色が浮かんでいる。
「美桜さん! どこに行ってたんですか、ずぶ濡れじゃないですか!」
彼は駆け寄ってきて、私の肩を掴んだ。その手は、かすかに震えている。
「……別に。蓮くんには関係ないでしょ」
冷たい声が出た。自分でも驚くほど、棘のある声だった。
彼の瞳が、傷ついたように揺れる。
「関係なくない! 何度も電話したのに……心配したんですよ」
「心配? 私が誰といようと、蓮くんには関係ない。あなたは、あなたの会いたい人に会えばいいじゃない」
相川さんのことを言っているのだと、彼にもわかっただろう。彼ははっとした顔で、何かを言おうと口を開いた。
でも、私はそれを聞きたくなかった。
「もう、やめにしない?」
私は彼の目を見ずに、床の一点を見つめながら言った。
「……何をです」
「この、夫婦ごっこ。もう、疲れたの」
嘘だ。本当は、一日でも長く続けたかった。でも、このまま彼のそばにいたら、私の気持ちはもっと大きくなって、彼を困らせてしまうだろう。
好きだから、離れなくちゃいけない。
こんなに苦しいことがあるなんて、知らなかった。
「私、この契約、解消したい」
絞り出すように言った私の言葉に、時が止まったような静寂が下りた。
蓮くんは、何も言わなかった。ただ、固まったように私を見つめている。その表情は、いつもの無表情に戻っていた。いや、それ以上に、すべての感情が抜け落ちた、能面のような顔だった。
「……わかりました」
長い沈黙の末、彼が絞り出したのは、その一言だけだった。
引き止めてほしかった、なんて。そんな都合のいいことを考えていた自分が、馬鹿みたいだ。
「明日、荷物をまとめます」
「……うん」
それが、私たちの最後の会話になった。
翌日、私が目を覚ますと、彼の姿はもうなかった。彼の部屋は、まるで最初から誰もいなかったかのように、綺麗に片付けられている。テーブルの上には、一枚の紙と、部屋の鍵が置かれていた。
『離婚届に署名、捺印しました。あとは美桜さんの方で提出してください。一年間、ありがとうございました。 一条 蓮』
そのあまりに事務的な文章に、涙がこぼれた。
彼にとって、この一年は、本当にただの『契約』でしかなかったんだ。
私の日常は、音を立てて崩れていった。
一人になった部屋は、驚くほど広く、そして寒々しい。
朝、コーヒーを淹れてくれる人もいない。夜、疲れて帰ってきても、「おかえり」の声も、温かい食事も待ってはいない。
深夜に、あの切ないピアノの音色が聞こえてくることも、もうない。
彼がいた痕跡は、綺麗さっぱり消えたはずなのに、部屋の至る所に面影がちらつき、そのたびに胸が締め付けられた。
会社で顔を合わせても、彼は私を避けるように目を逸らし、業務連絡以外、一切口をきかなくなった。すれ違う時に香る、彼と同じ柔軟剤の匂いだけで、涙が出そうになる。
彼は再び、完璧な『氷の王子』に戻っていた。いや、前よりもっと厚い氷の壁で、心を閉ざしているように見えた。
仕事に身が入らない。簡単なミスを繰り返し、先輩に何度も注意される。
「葉月、最近どうしたんだ? 集中できてないぞ」
「……すみません」
頭ではわかっているのに、心が言うことを聞かない。
橘先輩からの食事の誘いも、断り続けていた。今の私には、誰かと恋愛を楽しむ資格なんてない。
蓮くんと離れてみて、初めてわかった。
彼が私の日常の中で、どれだけ大きな存在になっていたのか。彼と過ごした偽りの日々が、どれだけ温かく、かけがえのないものだったのか。
失って初めて気づくなんて、あまりにも遅すぎる。
雨の日に、どうして彼の話を聞かなかったんだろう。どうして、自分の気持ちをぶつけてしまわなかったんだろう。後悔ばかりが、波のように押し寄せてくる。
テーブルの上に置かれたままの離婚届を、私はただ見つめることしかできなかった。
これを役所に持って行けば、すべてが終わる。
でも、私にはどうしても、その一歩が踏み出せなかった。
この薄っぺらい紙一枚が、彼と私を繋ぐ、最後の絆のような気がしてならなかったからだ。




