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祖父の遺言で崖っぷちの私。クールな年下後輩と契約結婚したら、実は彼の方が私にぞっこんでした。  作者: 久遠翠


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第7話「すれ違う雨、濡れた本心」

 橘先輩の一件から、蓮くんとの間には、目に見えない壁ができてしまったようだった。会話は必要最低限になり、温かい手料理が並んでいた食卓も、今ではコンビニのお弁当や、それぞれが個別に食べる日が増えていた。

 心地よかったはずの静寂が、今はただ重苦しく感じる。

 そんなある日、追い打ちをかけるような出来事が起こった。

 会社のロビーで、蓮くんが見知らぬ女性と話しているのを見かけたのだ。

 その女性は、モデルのようにスタイルが良く、華やかな雰囲気を持っていた。蓮くんと親しげに話す様子は、ただの知り合いには見えない。

(誰だろう……)

 胸がざわつくのを感じながら、私は物陰から二人を窺った。


「蓮、久しぶり。相変わらず素敵ね」

「……何の用だ、志穂さん」


 蓮くんの声は、いつもよりさらに冷たく聞こえる。


「ひどいなあ。元カノが会いに来たっていうのに。私、まだ蓮のこと……」


 元カノ。その言葉が、私の心に鋭く突き刺さった。

 彼女は、相川志穂さん。蓮くんの大学時代の恋人だと、後で同僚から聞いた。

 どうして今さら、彼の前に現れたんだろう。二人はどんな話をしているんだろう。

 聞きたくないのに、耳を塞ぐことができない。

 結局、私は二人の会話を最後まで聞くことができず、その場から逃げ出してしまった。

 仕事中も、二人の姿が頭から離れない。蓮くんは、彼女と復縁するつもりなのだろうか。そうなれば、私との契約は……。

 考えれば考えるほど、胸が苦しくなる。

 これは、契約が破綻することへの不安? それとも……。

 その日の夕方、天気予報通りに雨が降り出した。傘を持っていなかった私は、ずぶ濡れになりながらマンションへ急いだ。

 早く帰って、蓮くんの顔が見たい。彼が、いつも通り「おかえりなさい」と言ってくれるだけでいい。そうすれば、この不安も少しは和らぐはずだ。

 しかし、マンションのエントランスで、私は信じられない光景を目にした。

 一台のタクシーから、蓮くんと、昼間見た相川志穂さんが降りてきたのだ。一つの傘に、二人が寄り添うように入っている。その距離の近さが、私の心を締め付けた。

 私は咄嗟に、柱の陰に身を隠す。

 二人は、私に気づかずにマンションの中へと入っていった。

(どうして、家にまで……?)

 頭が真っ白になる。雨音が、やけにうるさく聞こえた。冷たい雨粒が、頬を伝う。それが雨なのか、涙なのか、自分でもわからなかった。

 しばらくその場に立ち尽くしていたけれど、部屋に戻る気にはなれなかった。二人がいるであろうあの場所に、今の私は帰れない。

 私は踵を返し、雨の中を当てもなく歩き始めた。

 公園のベンチに座り、降りしきる雨をただ見上げる。

 どうしてこんなに胸が痛いんだろう。

 契約上の妻でしかない私が、彼の元カノに嫉妬するなんて、お門違いだ。彼が誰と会おうと、誰を家に連れてこようと、私には関係のないことのはずなのに。

(違う)

 心の奥底から、声が聞こえた。

(もう、とっくに気づいてるじゃないか)

 そうだ。私は、いつの間にか本気で蓮くんのことが好きになっていたんだ。

 彼の作る料理が、彼の弾くピアノが、猫を見つめる優しい瞳が、そして、時折見せる不器用な優しさが、たまらなく愛おしい。

 契約違反だ。わかっている。でも、この気持ちに嘘はつけない。

 雨はますます強くなり、私の身体を芯から冷やしていく。でも、それ以上に、心が凍えるように冷たかった。

 どのくらいそうしていただろう。スマートフォンの着信音が、私を現実へと引き戻した。画面には『一条 蓮』の文字。

 私は震える指で、通話を拒否した。

 今、彼の声を聞いたら、泣いてしまいそうだったから。

『契約違反は、即時破棄』

 契約書の条項が、頭の中で何度も繰り返される。

 この恋を認めた瞬間、私たちの関係は終わってしまう。

 雨に濡れた本心は、あまりにも切なくて、痛かった。このまま雨に流されて、全部消えてしまえばいいのに。そう、本気で思った。

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