第6話「初恋の嵐と、嫉妬のさざ波」
実家への帰省から数週間。蓮くんとの生活は、相変わらず穏やかに続いていた。私たちは少しずつ、本当の夫婦のように自然な会話を交わすようになっていた。
だが、その平穏は、一本の電話によって突然破られることになる。
「もしもし、美桜? 俺だよ、橘圭一」
スマートフォンのスピーカーから聞こえてきたのは、忘れるはずもない、懐かしい声だった。
橘圭一先輩。大学時代、私が密かに想いを寄せていた、初恋の人だ。卒業後、海外の支社に赴任したと聞いていたけれど……。
「先輩!? どうして私の番号を……」
「共通の友人から聞いたんだ。昨日、日本に帰国したんだよ。今度、飯でもどうかなって」
突然の誘いに戸惑いながらも、断る理由が見つからなかった。ただの先輩と後輩として食事に行くだけ。そう自分に言い聞かせ、私はOKの返事をした。
その週末、指定されたお洒落なイタリアンレストランに行くと、先輩は昔と変わらない、人懐っこい笑顔で迎えてくれた。
「久しぶり、美桜。綺麗になったな」
その言葉に、顔が熱くなる。
食事の間、先輩は海外での面白い話や、仕事の成功談を次々と聞かせてくれた。彼の話はいつも魅力的で、私はすっかり聞き入ってしまった。
「そういえば美桜、今、彼氏とかいるのか?」
核心を突く質問に、どきりとする。
契約結婚のことは、もちろん言えない。私は曖昧に笑ってごまかした。
「まあ、いろいろと……」
「そっか。実は俺、日本に戻ってきたのは、美桜に会いたかったからなんだ」
真剣な眼差しで、彼は言った。
「学生の頃から、ずっと気になってた。もし良かったら、これから……」
彼の言葉の意味を理解した瞬間、私の頭は真っ白になった。
まさか、憧れの先輩が、私に好意を持ってくれていたなんて。
どう返事をすればいいのか分からず、私が固まっていると、レストランの入り口のベルが鳴った。
ふとそちらに目をやると、そこに立っていたのは、スーツ姿の蓮くんだった。
「蓮、くん……?」
彼は私と先輩を一瞥すると、表情一つ変えずに、私たちのテーブルへとまっすぐ歩いてきた。そして、私の隣に立つと、静かに告げた。
「迎えに来ましたよ、美桜」
その声は低く、どこか怒りを含んでいるように聞こえた。
「え……? あの、どちら様で?」
圭一先輩が、怪訝な顔で蓮くんを見る。
蓮くんは、私の肩を優しく、しかし有無を言わせぬ力で抱き寄せた。
「妻がお世話になっております。一条と申します」
「……妻?」
先輩の目が、信じられないというように見開かれる。
「さあ、帰りましょう。明日は早いんですから」
蓮くんはそれだけ言うと、私の腕を掴み、有無を言わさず店を出てしまった。
店の外に出た途端、彼は私の腕を離した。
「どうして、あそこに……」
「GPSです。何かあった時のためにと、あなたのスマホにアプリをインストールしておきました」
契約当初、彼が「念のため」と言ってインストールしたアプリだ。まさか、こんな形で使われるとは。
「勝手なことしないで!」
思わず、強い口調になってしまう。
「……あの男は誰ですか」
彼は私の言葉を無視して、低い声で尋ねた。
「大学の先輩よ。あなたには関係ないでしょ」
「関係なくありません。あなたは、僕の妻だ」
契約上の、と心の中で付け加える。でも、彼の目は本気だった。見たことのない、鋭い光を宿していた。
「……心配したんです」
しばらくの沈黙の後、彼がぽつりと言った。
「連絡もなしに、知らない男と二人で会っている。何かあったのかと」
その言葉に、私は何も言い返せなくなった。確かに、彼に何も告げずに外出したのは、私の落ち度だ。
「ごめん……」
「……いえ。僕も、少し冷静さを欠きました」
マンションまでの帰り道、私たちは一言も口をきかなかった。
部屋に着いても、気まずい空気が流れる。
いつもなら、彼が何か作ってくれる時間なのに、キッチンに立つ気配はない。
(嫉妬、してくれたのかな)
そんな考えが浮かび、すぐに打ち消す。ありえない。彼は契約を忠実に守っているだけだ。妻が他の男と会っていれば、契約違反になりかねない。だから、確認しに来ただけだ。
そう思おうとしても、レストランで私の肩を抱いた彼の手の力強さと、低い声が、頭から離れない。
あの時の彼は、ただのビジネスパートナーの顔をしていなかった。
それは、紛れもなく『嫉嫉』の色を帯びた、一人の男の顔だった。
そして、そんな彼を見て、私の心が少しだけ高鳴ってしまったことも、紛れもない事実だった。




