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祖父の遺言で崖っぷちの私。クールな年下後輩と契約結婚したら、実は彼の方が私にぞっこんでした。  作者: 久遠翠


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第5話「初めての帰省と、偽りの笑顔」

 契約から一ヶ月が経った週末、私たちは契約条項の一つを実行する日がやってきた。

『互いの両親や親族には、円満な夫婦関係を装うこと』

 ――つまり、私の実家『花月庵』への、初めての帰省だ。


「蓮くん、準備できた?」

「はい。いつでも」


 玄関で待っていた彼は、ネイビーのジャケットに白いシャツという、爽やかで清潔感のある服装をしていた。手には、老舗百貨店の紙袋を提げている。中身は、彼が選んでくれた両親への手土産だ。

 どこからどう見ても、非の打ち所がない『出来た旦那様』だった。

 電車に揺られながら、私は落ち着かない気持ちで窓の外を眺めていた。


「緊張、してますか」


 隣に座る彼が、静かに尋ねる。


「……まあ、少しだけ。だって、全部嘘なんだもん。両親を騙すみたいで、ちょっと罪悪感が」

「大丈夫です。僕がちゃんと合わせますから」


 彼は「練習しておきましょうか」と、悪戯っぽく笑った。


「え?」

「美桜」


 不意に、耳元で名前を呼ばれ、心臓が大きく跳ねた。いつもは「美桜さん」なのに。


「な、なに……?」

「うん。自然な反応です。その調子でいきましょう」


 彼は満足そうにうなずいた。私の顔が熱くなっていることにも気づかずに。

 ただの練習。そうわかっているのに、彼の低い声で呼び捨てにされると、胸がぎゅっとなる。

 実家の最寄り駅に着き、商店街を抜けると、古風な暖簾のかかった『花月庵』が見えてきた。


「ここが……」

「うん。私の実家」


 店の前で深呼吸をする私に、彼は「大丈夫」とでも言うように、そっと背中に手を当ててくれた。その手のひらの温かさに、少しだけ勇気が湧いてくる。


「ただいまー」


 店の引き戸を開けると、香ばしい餡子の香りと共に、母がエプロン姿で出迎えてくれた。


「あら、美桜! よく帰ってきたわね。……あなたが、蓮さん?」


 母の視線が、私の後ろに立つ蓮くんに注がれる。


「はじめまして。一条蓮と申します。いつも美桜さんにはお世話になっております」


 彼は完璧な笑顔で、深々と頭を下げた。その姿は、あまりにも自然で、本当に私の夫であるかのようだ。


「まあ、ご丁寧に。ささ、上がってちょうだい」


 母はすっかり上機嫌で、私たちを居間へと通してくれた。奥からは、頑固そうな顔をした父も出てくる。

 蓮くんは、緊張した素振りも見せず、用意してきた手土産を渡し、流れるような口調で自己紹介をした。仕事の話、私の話、そしてこれからの二人の生活について。そのどれもが、まるで真実であるかのように語られる。

 父の厳しい追及にも、彼は冷静に、そして誠実に答えていく。その姿は頼もしくて、私はいつしか、彼が本当のパートナーであるかのような錯覚に陥っていた。


「美桜も、いい人を見つけたじゃないか」


 父がぼそりと言った言葉に、母も嬉しそうにうなずいている。

 両親の安堵した表情を見て、私もホッとした。これで、お店の心配もなくなった。目的は達成されたはずだ。

 なのに、どうしてだろう。胸の奥が、ちくりと痛んだ。

 この幸せそうな光景が、すべて偽りなのだと思うと、たまらなく虚しくなる。


「さあ、お茶にしましょう。うちの看板商品、花しずくよ」


 母が運んできてくれたのは、桜色の練り切りであんこを包んだ、上品な和菓子だった。


「わあ、綺麗ですね」


 蓮くんが感嘆の声を上げる。


「どうぞ、召し上がれ」


 二人で和菓子を口に運ぶ。優しい甘さが口の中に広がり、心がほっと和らいだ。


「美味しいです。甘すぎず、小豆の風味がしっかりと感じられます」

「あら、お口に合ってよかったわ」


 嬉しそうに笑う母を見て、蓮くんも穏やかに微笑んだ。その笑顔は、会社で見せる作り物とは違う、心からのもののように見えた。

 そんな彼の表情を見ていると、私の胸の痛みはさらに増していく。

 この時間が、永遠に続けばいいのに。

 そんな、叶うはずのない願いが、心の片隅に芽生えていた。

 帰り道、夕暮れの空を見上げながら、私たちは並んで歩いていた。


「疲れた?」


 私が尋ねると、彼は「少しだけ」と正直に答えた。


「でも、ご両親、安心されたようで良かったです」

「うん……。蓮くんのおかげだよ。本当にありがとう」

「契約ですから」


 その言葉に、私は現実に引き戻される。そうだ、これは契約だ。今日の彼も、すべて演技だったんだ。

 わかっているのに、心が勝手に落ち込んでいく。


「……美桜」


 不意に、また彼が私の名前を呼んだ。


「今日の君、綺麗でした」

「え……?」


 夕日に照らされた彼の顔は、真剣そのものだった。


「和菓子を食べている時の笑顔、素敵でしたよ」


 それは、演技ではなかった。彼の、本当の言葉のような気がした。

 心臓が、早鐘のように鳴り響く。私は何も答えられず、ただ赤くなる顔を隠すように、うつむくことしかできなかった。

 偽りの夫婦を演じた一日の終わりに、彼はほんの少しだけ、本物の心を覗かせた。その小さな欠片が、私の心をどうしようもなく揺さぶっていく。

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