第4話「月夜のピアノと、揺れる心」
蓮くんの意外な一面は、猫好きだけではなかった。
それは、同居を始めて二週間ほど経った、ある平日の深夜のことだった。
仕事のトラブルで帰りが遅くなり、私がマンションに着いたのは、日付が変わる少し前。リビングの明かりは消えていて、蓮くんはもう寝ているのだろうと思った。
そっと自室のドアを開けようとした、その時。どこからか、微かにピアノの音が聞こえてきた。
音の出どころは、リビングの隣にある、今は物置として使っている部屋からだった。不思議に思い、私はそっとドアに耳を当てる。
聞こえてきたのは、切なくて、それでいてどこか温かい、優しいメロディーだった。一つ一つの音が、まるで夜の静寂に溶けていくように美しく響く。
私は吸い寄せられるように、ドアノブに手をかけた。ほんの少しだけドアを開けると、隙間から月明かりに照らされた彼の背中が見えた。
部屋の隅に置かれた電子ピアノ。彼がいつの間に運び込んだのか、私は全く知らなかった。彼は鍵盤の上を滑るように指を動かし、一心不乱に音を紡いでいる。
その姿は、昼間のクールな彼とはまるで別人だった。氷の仮面を脱ぎ捨て、むき出しの感情を音に乗せているかのようだ。その旋律は、彼の心の叫びのように聞こえた。
私は息をすることさえ忘れ、その演奏に聴き入っていた。
曲が終わり、最後の音が静寂に消えていく。その余韻に浸っていると、彼がふっと息を吐くのが聞こえた。
「……いつからそこに?」
振り返らずに、彼が静かに言った。見られていたことに気づき、心臓が跳ねる。
「ご、ごめんなさい! 起こしちゃった?」
「いえ。起きてました」
彼はゆっくりと立ち上がると、こちらに向き直った。月明かりに照らされたその表情は、どこか儚げで、いつもよりずっと年下に見えた。
「ピアノ、弾けるんだね。すごく上手」
「……昔、少しだけ習っていただけです」
「素敵な曲だった。なんていう曲なの?」
「……名前のない曲です。僕が、勝手に作ったものなので」
そう言って、彼は少し照れたように視線を落とした。
自分の作った曲。だからあんなに、彼の心の声が聞こえるような気がしたんだ。
「そっか……。なんだか、少し切ないけど、すごく優しい曲だね」
私がそう言うと、彼は驚いたように顔を上げた。その翡翠色の瞳が、月光を反射してきらりと光る。
「……そう、ですか」
彼はそれだけ言うと、ピアノの電源を切り、部屋を出ていってしまった。
一人残された部屋で、私はまだ胸の高鳴りが収まらないのを感じていた。
彼の作る料理。猫を見つめる優しい眼差し。そして、今聴いたピアノの旋律。
私が知っている『氷の王子』は、彼のほんの一部分でしかない。本当の彼は、もっと不器用で、温かくて、そして少し寂しがり屋なのかもしれない。
知れば知るほど、彼という存在が、私の心の中で大きくなっていく。
(これは契約違反だ)
頭の中の冷静な部分が、警鐘を鳴らす。でも、一度動き出してしまった心は、簡単には止められなかった。
ベッドに入っても、彼の奏でたメロディーが耳から離れない。
あの旋律は、何を語っていたのだろう。彼の心の中には、どんな想いが隠されているのだろう。
考えれば考えるほど、眠れなくなってしまった。
翌朝、リビングで会った彼は、いつもの無表情な『一条蓮』に戻っていた。
「おはようございます、美桜さん」
「お、おはよう、蓮くん」
昨夜のことは、まるで夢だったかのようだ。彼はピアノのことには一切触れず、いつも通りコーヒーを淹れている。
私も、何事もなかったかのように振る舞った。
でも、わかっていた。私たちの間には、昨夜を境に、何かが確実に変わり始めていた。
ただのビジネスパートナー。そのはずだったのに。
彼の淹れてくれたコーヒーを飲みながら、私は自分の気持ちから目を逸らすように、窓の外の青空を見つめた。この胸のざわめきに、まだ名前をつけたくなかった。




