第3話「不器用な優しさと、温かい食卓」
偽りの夫婦生活が始まって、一週間が経った。
蓮くんとの同居は、思っていたよりもずっと静かで、平穏だった。彼は契約書通り、私のプライバシーに一切干渉してこない。朝、リビングで顔を合わせれば「おはようございます」と挨拶を交わし、夜はそれぞれの部屋で過ごす。まるで、ルームシェアをしている大学生のようだ。
ただ一つ、予想外だったことがある。
それは、彼が驚くほど料理上手だということだ。
「美桜さん、夕食、できてます」
その日も、残業を終えてへとへとになって帰宅すると、リビングのドアを開けた途端、食欲をそそる良い香りに包まれた。
ダイニングテーブルには、湯気の立つ肉じゃがと、ほうれん草のおひたし、そして炊きたてのご飯と豆腐の味噌汁が並んでいた。
「わあ、美味しそう……! いつもごめんね、蓮くん」
「いえ。先に帰った方が作る。当然のことです」
彼はエプロン姿のまま、当たり前のように言う。その姿は、会社で見せるクールな彼とはまるで別人だった。
私が席に着くと、彼は自分の分をよそい、向かいに座る。
「いただきます」
二人で手を合わせて、食事を始める。この光景にも、少しずつ慣れてきた。
肉じゃがを一口食べると、優しい出汁の味が口いっぱいに広がった。じゃがいもはほくほくで、人参は甘い。お肉にもしっかりと味が染みている。
「美味しい……! 蓮くん、本当に料理上手だね。どこかで習ったの?」
「独学です。昔から、一人で食べることが多かったので」
そう言う彼の声は、いつもと同じように淡々としていたけれど、その横顔がほんの少しだけ寂しそうに見えたのは、気のせいだろうか。
彼の育った環境については、何も知らない。契約書にも『過度な干渉はしない』と書いてある。だから、私はそれ以上何も聞けなかった。
「美桜さんの作る卵焼きも、美味しいです」
不意に彼が言った言葉に、私は驚いて顔を上げた。
「え? あ、ありがとう……」
先日、私が初めてこの家のキッチンに立った時、作ったのはあり合わせの卵焼きだけだった。それも、少し焦がしてしまったのに。
「甘い卵焼き、初めて食べました。新鮮でした」
「そっか。私の実家、和菓子屋だからかな。なんでも甘くしちゃう癖があって」
「なるほど」
彼は小さくうなずくと、また黙々と箸を進める。
会話はそれだけ。けれど、彼のたった一言が、私の心をじんわりと温かくした。
今まで、仕事から疲れて帰ってきても、待っているのはコンビニのお弁当と静寂だけだった。でも今は、温かい手料理と、「おかえりなさい」と言ってくれる人がいる。
それがたとえ契約上の関係だとしても、この温かさは本物だ。
(なんだか、本当に夫婦みたい)
そんな考えが頭をよぎり、私は慌ててかき消した。契約違反だ。恋愛感情は持たない。私たちは、ビジネスパートナーなのだから。
週末、私たちは初めて二人で買い物に出かけた。足りなくなった日用品を買い足すためだ。
スーパーの店内を並んで歩くのは、なんだか不思議な気分だった。周りから見たら、私たちはごく普通の夫婦に見えるんだろうか。
「洗剤は、香りが強くないものがいいです」
「あ、うん。わかった」
彼はテキパキと必要なものをカートに入れていく。その無駄のない動きは、仕事をしている時の彼と同じだ。
野菜コーナーで、私がトマトを手に取って悩んでいると、彼が隣からひょいと別のトマトを取った。
「こっちの方が、ヘタが青々としていて新鮮です」
「へえ、詳しいんだね」
「まあ、多少は」
彼はそう言うと、少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
そんな彼の些細な仕草が、なんだか可愛く見えてしまう。(だめ、だめ)
買い物を終えてマンションに戻る途中、公園のそばを通りかかった。ベンチの下で、一匹の三毛猫が丸くなっている。
その猫を見つけた瞬間、蓮くんの足がぴたりと止まった。
彼の視線は、その猫に釘付けになっている。今まで見たことがないほど、その瞳は優しく、柔らかい色をしていた。
「……猫、好きなの?」
私が尋ねると、彼ははっと我に返ったように私を見た。そして、少し慌てたように「いえ、別に」と首を振る。
でも、その言葉とは裏腹に、彼の目は猫から離せないでいた。
その姿を見て、私は確信した。彼はきっと、猫が好きなんだ。そして、それを私に知られるのが、少し恥ずかしいのかもしれない。
氷の仮面の下に隠された、彼の意外な一面。
もっと、彼のことを知りたい。
そう思った瞬間、心臓がまた、とくんと音を立てた。
これは、好奇心だ。ビジネスパートナーのことを知っておくのは当然のこと。そう、これは決して、恋愛感情なんかじゃない。
私は自分に強く言い聞かせながら、彼の隣を歩いた。彼の手元で揺れる買い物袋の音が、やけに大きく聞こえた。




