第2話「二人だけの秘密の契約書」
定時を知らせるチャイムが鳴り響く。私は一日中、上の空だった。一条くんの言葉が頭から離れず、企画書の文字は右から左へと流れていくだけだ。彼に声をかけるべきか、それとも聞かなかったことにして逃げるべきか。
デスクで固まっていると、内線電話が鳴った。
『屋上でお待ちしています』
短く告げられたのは、一条くんの声だった。心臓がどきりと音を立てる。もう、逃げ道はないらしい。
覚悟を決め、私は屋上へと続く階段を上った。ドアを開けると、ひんやりとした夜風が頬を撫でる。フェンスの向こうには、宝石を散りばめたような東京の夜景が広がっていた。
その夜景を背に、彼は立っていた。
「一条くん……」
「お疲れ様です、葉月さん」
振り返った彼の横顔は、昼間のオフィスで見るよりも少しだけ柔らかく見えた。
「あの、お昼の話なんだけど……。からかってる、とかじゃないよね?」
一番聞きたかったことを、恐る恐る口にする。彼は小さく首を振った。
「僕も、結婚を急ぐ理由があるんです」
彼の口から語られたのは、私と同じく親からのプレッシャーだった。由緒ある家柄の一人息子である彼は、親が決めた相手との見合い話を断り続けるのに限界を感じていたらしい。
「既婚者という事実があれば、親も諦めてくれるはずです。ですが、本気で誰かと結婚する気は、今の僕にはありません」
なるほど。彼にとっても、形だけの結婚が必要だったのか。
「葉月さんにとっても、悪い話ではないはずです。僕との結婚は、ご実家の問題を解決する助けになる」
利害の一致。確かにそうだ。祖父の遺言をクリアするには、一条くんは申し分のない相手だ。ルックスも良く、仕事もできる。両親も文句は言わないだろう。
でも、それはあまりにもドライな関係ではないだろうか。
「でも、それって……」
「もちろん、これはビジネスです。恋愛感情は一切不要。期限は一年。一年後には円満に離婚します。それまでの間、お互いの目的を達成するためのパートナーになりませんか」
彼の言葉はどこまでも合理的で、無駄がなかった。まるで新しいプロジェクトの提案を聞いているようだ。その冷静さに、私の心にあったわずかな戸惑いも、少しずつ薄れていく。
「わかった。その話、乗るよ」
気づけば、私はそう答えていた。彼がふっと、ほんの少しだけ口元を緩めた気がした。
「ありがとうございます。では、後日、契約書を作成します」
「契約書まで?」
「はい。後々のトラブルを避けるためにも、ルールは明確にしておくべきです」
彼はどこまでも用意周到だった。
数日後、会社の近くのカフェで、私たちは改めて向き合っていた。テーブルの上に置かれたのは、一条くんが作成した『婚姻契約書』と題された書類だった。
その内容は、驚くほど詳細にわたっていた。
一、婚姻期間は入籍日より満一年間とする。
二、期間満了後、双方は速やかに離婚手続きを行うことに合意する。
三、同居は週三日以上とし、生活費は双方が折半する。
四、互いの両親や親族には、円満な夫婦関係を装うこと。
五、社内においては、結婚の事実を公表しない。
六、互いのプライバシーを尊重し、過度な干渉は行わない。
七、そして、最も重要な項目。――本契約期間中、互いに恋愛感情を抱かないこと。
最後の項目に、思わず目が留まる。
「恋愛感情、か……」
「はい。それが、この契約の根幹です。万が一、どちらかがこの条項に違反した場合、契約は即時破棄となります」
彼のきっぱりとした口調に、私はごくりと喉を鳴らした。
(大丈夫、ありえない)
自分に言い聞かせる。相手はあの氷の王子だ。私が彼に恋をするなんて、天地がひっくり返ってもありえない。
「わかった。それでいいよ」
私はペンを取り、契約書の末尾に『葉月 美桜』とサインした。彼の署名の隣に並んだ私の文字が、どこか不思議な感じがする。彼もまた、流れるような筆跡で『一条 蓮』と署名した。
こうして、私たちだけの秘密の契約が成立した。
そして一週間後。私たちは区役所に婚姻届を提出し、その足で新居となるマンションへ向かった。彼が契約してくれた、都心の2LDK。私の職場からも彼の実家からも、ちょうどいい距離にある場所だった。
「ここが、僕たちの家です」
鍵を開け、ドアを開け放った彼が、淡々と言う。
真新しいフローリングの匂いがするリビングは、まだ家具もほとんどなく、がらんとしていた。これからここで、彼との偽りの生活が始まる。
「こっちが葉月さんの部屋です。僕は隣を」
案内された部屋には、私の荷物がすでに運び込まれていた。
「これから一年、よろしくお願いします。葉月さん」
「……うん。よろしくね、蓮くん」
彼の名前を呼ぶと、彼が少しだけ目を見開いた。
「……下の名前で」
「え?」
「夫婦なんですから。人前でうっかり苗字で呼ばないように、普段から慣れておいた方がいい」
正論だ。でも、急に彼の名前を呼ぶのは、なんだかものすごく照れくさかった。
「わ、わかった。じゃあ、私のことも美桜って呼んで」
「……はい。美桜さん」
彼が私の名前を呼ぶ。たったそれだけなのに、心臓が大きく音を立てた。
(これは契約。ビジネスなんだから)
私は何度も自分に言い聞かせる。窓の外は、すっかり夜の帳が下りていた。
二人きりの、広くて静かな部屋。
これから始まる奇妙な同居生活に、期待よりも大きな不安を感じながら、私は固く拳を握りしめた。




