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祖父の遺言で崖っぷちの私。クールな年下後輩と契約結婚したら、実は彼の方が私にぞっこんでした。  作者: 久遠翠


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番外編「氷の王子のモノローグ」

『葉月美桜』


 彼女の名前を初めて意識したのは、入社してすぐの頃だった。

 いつも誰より早く出社し、誰より遅くまで残って仕事に打ち込んでいる。その真剣な横顔を見るたびに、胸の奥が微かにざわついた。

 僕、一条蓮は、物心ついた時から感情を殺して生きてきた。親の期待に応えるため、完璧な息子でいるため。笑うことも、怒ることも、いつしか忘れてしまっていた。

 そんな僕の世界に、彼女は突然、鮮やかな色を持って現れた。

 後輩に仕事を教える時の、優しい声。

 プレゼンが成功した時の、弾けるような笑顔。

 企画に行き詰まって、デスクで頭を抱える、悔しそうな顔。

 その全てが、僕の心を揺さぶった。無表情を装いながら、僕はいつも彼女のことを見ていた。

 だから、彼女が駅前で電話をしながら、結婚のことで焦っているのを耳にした時、僕の心臓は大きく跳ねた。

(チャンスかもしれない)

 親からの見合い話を断る、というもっともらしい理由を掲げ、僕は彼女に『契約結婚』を提案した。本当は、ただ、彼女の隣にいるための口実が欲しかっただけなのに。

 同居生活が始まって、僕は彼女の新たな魅力を次々と知ることになった。

 少し焦げた甘い卵焼き。疲れているはずなのに、僕のために淹れてくれるコーヒー。僕が作った料理を、「美味しい」と幸せそうに頬張る顔。


 彼女と過ごす時間は、僕が今まで知らなかった『温かさ』で満ちていた。

 深夜、一人でピアノを弾くのは、昔からの僕の癖だった。言葉にできない感情を、音に乗せて吐き出すための時間。

 あの日、彼女に演奏を聴かれてしまった時、僕は心臓が止まるかと思った。僕の心の最も柔らかな部分に、触れられた気がしたからだ。

「少し切ないけど、すごく優しい曲だね」

 彼女がそう言ってくれた時、僕の凍っていた心が、ほんの少しだけ溶ける音がした。僕の心を、初めて理解してくれた人。

 橘という男が現れた時、僕は生まれて初めて『嫉妬』という感情を知った。

 彼女が、僕以外の男にあんなに楽しそうな笑顔を向けている。その事実が、僕の冷静さをいとも簡単に奪い去った。気づけば、GPSを頼りに、レストランまで駆けつけていた。


『妻がお世話になっております』


 そう口にした時、それがただの演技ではない、心の底からの叫びだと自覚した。彼女は僕のものだ。誰にも渡したくない。

 なのに、僕は素直になれなかった。

 相川さんが現れ、君を不安にさせてしまったあの日。僕は、彼女との過去を完全に清算し、君に本当の気持ちを伝えようと決心していた。

 それなのに、君は「契約を解消したい」と言った。

 君の瞳から光が消えていくのを見て、僕は何も言えなくなった。君を苦しめているのが僕自身なら、僕は君の前から消えるしかない。

 君のいない部屋は、ただの箱に戻った。色のない、静かな世界。

 でも、君のことを忘れられるはずがなかった。

 君が大切にしている『花月庵』が危機だと知った時、僕はいてもたってもいられなかった。君には気づかれなくてもいい。ただ、君の悲しむ顔だけは、もう見たくなかった。

 屋上で、雨に濡れた君が僕の名前を呼んだ時、僕は夢を見ているのかと思った。


「私も、ずっと好きだった」


 君がそう言ってくれた瞬間、僕の世界に、再び光が差し込んだ。

 僕の凍った心を溶かしてくれたのは、紛れもなく君だ、美桜。

 これからは、もう二度とこの手を離さない。

 僕の隣で、ずっと笑っていてほしい。

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