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祖父の遺言で崖っぷちの私。クールな年下後輩と契約結婚したら、実は彼の方が私にぞっこんでした。  作者: 久遠翠


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第10話「雨上がりの告白、永遠の契約」

 息を切らしながら、屋上へと続く最後の階段を駆け上がる。錆びついたドアを、震える手で押し開けた。

 ひやりとした夜風が、火照った頬を撫でる。

 雨は、いつの間にか小降りになっていた。

 そこに、彼はいた。

 フェンスに寄りかかり、雨に濡れた東京の夜景を、一人で静かに見つめていた。

 まるで、私が来るのをわかっていたかのように。


「……蓮くん」


 声をかけると、彼はゆっくりとこちらを振り返った。その顔は驚きに見開かれ、そして、すぐに切なそうに歪んだ。


「どうして、ここに……」

「お店のこと、お母さんから聞いたの」


 私は彼のもとへ歩み寄る。


「どうして、黙って助けてくれたの? もう、私たち、関係ないはずなのに」


 彼は視線を逸らし、雨に煙る街を見つめたまま、ぽつりと言った。


「……関係なくない」


 それは、いつか聞いたのと同じ言葉だった。でも、その響きは、あの時とは全く違って聞こえた。


「君が、大切にしている場所だから。僕にとっても、大切な場所に決まってる」


 雨粒が、彼の長いまつ毛で光っている。


「契約なんて、最初からどうでもよかった」


 彼は、ついに私の方へと向き直った。その翡翠色の瞳が、まっすぐに私を捉える。


「初めて会った時から、ずっと君を見てた。仕事に一生懸命な姿も、時々見せる不器用な笑顔も。気づいたら、目で追っていた。君ともっと一緒にいたくて、君の力になりたくて……だから、あんな馬鹿げた契約を口実にしたんだ」


 彼の口から、堰を切ったように言葉が溢れ出す。


「君と暮らした日々は、全部、本物だった。君の作る卵焼きが好きだった。君が楽しそうに話すのを聞いてるだけで、幸せだった。君が他の男と会っているのを見て、どうにかなりそうなくらい、嫉妬した」


 氷の王子が、初めて見せる、むき出しの感情。その一つ一つが、私の心に深く染み渡っていく。


「あの雨の日、相川さんに会っていたのは、君との関係をはっきりさせるためだった。『僕には、本気で愛したい人ができた』って、彼女に伝えに行ったんだ。なのに、君を傷つけた」

「……そうだったの」

「君を失って、わかったんだ。僕の世界は、君がいないと、もう色がない。……契約なんて関係ない。ただ、君が好きだから」


 彼のクールな仮面が、完全に外れた瞬間だった。

 その瞳から、一筋の雫がこぼれ落ちる。

 私も、もう涙を堪えることができなかった。


「私こそ、ごめんなさい。あなたの話を何も聞かないで、ひどいこと言って……。私も、ずっと好きだった。蓮くんのことが、大好き」


 やっと言えた、本当の気持ち。


「契約なんかじゃない。私、蓮くんと、本当の夫婦になりたい」


 私がそう言うと、彼は驚いたように目を見開き、そして、次の瞬間、力強く私を抱きしめた。

 彼の腕の中は、雨で冷えているはずなのに、信じられないくらい温かかった。


「……美桜」


 耳元で囁かれた声は、愛おしさで震えていた。


「僕も、君と本当の家族になりたい」


 私たちは、雨上がりの澄んだ空気の中で、どちらからともなく唇を重ねた。

 それは、今までの空白を埋めるような、優しくて、長いキスだった。

 顔を離すと、厚い雲の切れ間から、月が顔を覗かせていた。月明かりに照らされた彼の顔は、今まで見たどんな顔よりも優しく、愛に満ちていた。

 氷のように冷たかった契約は、二人の愛で完全に溶けた。

 これから始まるのは、契約書のない、心だけで結ばれる、本当の物語だ。

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