アラフォーの願い
アラフォーの願い
「あのライオン、太田さんっていうんだよ」
分厚いガラスの向こうを指して、彼女は言った。指の先には秋のまろやかな光を浴びて気持ちよさそうに眠る雄ライオン。
「彼、実は人間なの」
「えっ?」
曖昧な笑顔を向けると、彼女は真剣な顔をしていた。風が吹き、彼女は語り始めた。
「それは、ライオンですか?」
ふいに聞こえた声に、亜希子は背後を振り返った。だって目の前にはライオンしかいないのだから。けれど、平日の昼間、しかも気温がゆうに三十度を超え、体温に迫ろうかという猛暑の中とあっては動物園に訪れる人もまばらだった。ライオン舎の周りに人影はない。
亜希子はゆっくりと前を向いた。そんなはずはないのだ。ライオンが、人間の言葉で話しかけてくる訳がない。
「僕を描いてくれてるんですよね?」
また声を聞いた。ガラス越しの、こもったように重たく響く声は、どう考えても目の前のライオンが発しているように聞こえる。人間の言葉で。
声から逃れるように、亜希子は膝の上のスケッチブックに目を落とした。右手の鉛筆をギュッと握る。
「僕は、ちゃんとしたライオンですか?」
「ちゃんとした、ライオンですけど」
軽いタッチで描いた線を撫でながら、亜希子は独り言のように返した。
「よかった」
ほっとしたようなライオンの声。
亜希子は勇気を出してライオンを見つめた。濃く豊かなたてがみ。アンバーというよりはゴールドに近い目の色。丸い瞳孔は陽光の下で鋭く絞られ、見る者を畏怖させる。どこからどう見てもライオンだ。それなのに、彼は言う。
「実は、僕、この前まで人間だったんです。ライオンになってから鏡を見てないし、ちょっと自信がなくて」
「……前世とか?」
おそるおそる尋ねてみる。
「フリーマーケットで」
「着ぐるみ?」
バンッ!と音がして、ライオンの大きな手がガラスに掛けられる。ガラスは厚く大丈夫だとわかっていても怖い。どうやら着ぐるみでは、ないらしい。
「フリーマーケットで、小さな白い石の付いたネックレスを買ったんです。店の主が言ったんです。『このネックレスは持ち主の願いを叶えてくれる』って」
そんな馬鹿なという言葉を呑み込む。
「ああ、ありますよね、そういう……もしかして、戻れなくなったんですか?」思いついて、亜希子は尋ねた。「あるじゃないですか、三回しか願いが叶わないのに、くだらない頼み方で三回とも使っちゃったとか」
「違います」
ライオンは低く言った。
「約四十回です」
「四十回?」
「願いの叶う回数です」
「……太っ腹ですね」
「ええ」
「それなのに、戻れなくなっちゃったんですか?」
「わかりません」ライオンは首を横に振った。「約、四十回なんです。もしかしたら三十五回かもしれないし、もしかしたら四十四回かもしれない」
「アラフォーなんですね、私もです」
声に出してみると可笑しくて、亜希子はちょっと笑った。ライオンは静かに頷くと、
「次が三十六回目なんです」
複雑そうな目をした。
「どうしてそのタイミングでライオンに?」
確実に叶い、また人間に戻れる機会が少なくとも三十回以上はあったのだ。ちょっとした好奇心を満たすためなら、どうしてもっと早く試さなかったのだろう。
「うっかり」
「うっかりライオンに?」
思わず声を上げ、亜希子は口を押さえた。いたずらに興奮させてはいけない。相手は、今は猛獣なのだ。
「はい」
ライオンは力なく頷くだけだった。
「でも、まだ三十六回目なんですよね?もしかしたら戻れるかもしれないじゃないですか。願ってみたら?」
諦めるのは早過ぎる。
「そうですよね。人間には戻れるかもしれない。でも、人間に戻ってから、やっぱりライオンの方がよかったなと思っても、ライオンにはもう戻れないかもしれない」
「ライオンがいいんですか?人間よりも?」
亜希子は訊いてみた。
「思った以上に快適です。野生ならともかく、ここにいればエサにも困らない。清潔な寝床もあって、プライドを守るために他の雄と闘う必要もない」
なるほど、動物園のライオンならそうだろう。
「けれど」と、ライオンは言った。「人間に、全く未練がない訳じゃないんです」
「あの、ライオンさんはいつからライオンに?」
「半年前からです。あ、すみません。僕、太田って言います」
と、彼は名乗った。
「その、願いを叶えるタイムリミットみたいなものはあるんですか?」
「ありません。ネックレスを持っている限り大丈夫だそうです」
「今も?」
「たてがみの中に」と、太田は顎を引いた。「あの……あなたは、亜希子さん?」
「何で知ってるんですか?」
亜希子が驚いて尋ねると、
「何度か見掛けてました。一緒に来られた方がそう呼んでたのを聞いていて」
太田は言った。
「ああ」
(そうか、何度か描いていたんだ。太田さんのことも)
「絵がお好きなんですか?」
「……あの、絵本作家になりたくて」
少し迷ってから、亜希子は打ち明けた。
「見せてもらえませんか? その絵」
太田が、亜希子のスケッチブックに目を向けた。
「これが、そのネックレスなの」
首元のネックレスに触れながら、彼女は言った。
「何で? 亜希子が?」
「もらったの。太田さんに」
事もなげに言う。
「どうやって?」
「『ネックレスが、亜希子さんのものになりますように』って。太田さんの三十六回目の願いは叶ったのよ」
「じゃあ、太田さんは」
ずっと、ライオンのまま?
「このネックレスね、持ち主が変わると願いの回数がリセットされるんだって。だから、また約四十回、今度は私の願いを叶えることができる」
亜希子が言った。
「すごい!」俺は声を上げた。「億万長者だ! 夢だって叶うんじゃない? まだ描いてるんでしょ、絵」
亜希子は持っているスケッチブックにちらりと目をやる。
「そう、描いてる。でもね、あの時描いてたのは、太田さんの絵じゃなかった」亜希子が、太田というライオンを見て言った。「あの時、私が描いてたのは、あなたの絵。私を裏切って、私のお金を持っていなくなったあなたの絵」
亜希子がスケッチブックを開いてよこした。
「どうしてもあなたを捜したくて、よく一緒に来てたここで、あなたの顔を思い出しながら描いてたの」
薄い鉛筆で、そこに描かれた俺の顔を、俺は不思議な気持ちで眺めた。
「俺は……」
「太田さんに話したら、一か八かで私にネックレスを託してくれた」亜希子が微笑む。「だから今日、あなたと会えたの。ここで」
「えっ?」
「私が願えば、あなたをライオンの檻に放り込むことができる」
身体ごと俺に向き直って、亜希子は言った。
「まさか」
笑ってみた口が、引き攣って歪む。
「太田さんがあなたを喰ってくれる」
「そんな」
俺は、思わず後退りした。
「太田さん!」
亜希子が呼びかけると、ライオンは目を覚ました。亜希子は、ネックレスの先の小さな石を握りしめる。
ライオンは大きな欠伸をひとつすると、ゆっくりと立ち上がった。
高い空が、ぐるりと回った。
おしまい




