3. もののあはれ ー桔梗と清涼ー
「賊だ!」
まだ声変わりしている途中のような、少し高い掠れた声が夜の闇に響いた。
ちょうど厠から出て来た私は、ふと私が住む翡翠宮の中庭に、視線を巡らす。
そこでは、見るからに怪しい灰色の頬被りをして作務衣のようなものを着た、夜盗と思われる一人の男と……成長途中の赤毛の少年が対峙していた。
赤毛の少年の名は、滝。
神殿で行われている剣術稽古に私も教師として参加したことがあり、子供の頃からの彼の武勇は知っていた。
軍隊長の黎彩からも、最近、生きのいい若手が入ってきたと聞いていた。すでに軍の中で、黎彩以外で彼に勝てる人間は少ないらしい。
だが、たしか滝は十四歳。まだまだ子供だ。
私は一段高くなっている縁側から、静かに二人を見下ろした。いつも携行している刀は脇に差している。怪しい男を見つけた滝が、賊と判断し壁際まで追い詰めているというところか。
さて、どうするか……。
眺めていると、執政の私と訓練したことを覚えていたらしい滝が叫ぶ。
「桔梗さん!
黙って見てねえで、手伝ってくれ!」
お声がかかったとあれば、と私はかすかに笑う。
「……では、滝。少し下がっていなさい」
「いや、一緒に……」
躊躇する滝に、私は低く命じた。
「必要ない。下がって」
そしてふわりと中庭に、足袋のままで降り立つ。
急に横から飛び降りた、女のような風貌の私に、滝が賊だと叫んだ男は仰天したように私を見つめた。
私は少し首をかしげて微笑んでみせる。
隙だらけだ。
「……翡翠宮の妖魔の噂は知っているか?」
低く呟くと、横で滝が、ひゅうと息を呑む音が聞こえる。私は剣を持つと冷酷さが増すと有名で、いつしか"翡翠宮の妖魔"という異名で呼ばれていた。
私のかすかな笑いを気味悪く思ったのか、じりじりと後ずさる男を見て私は薄く笑ってみせる。
「大方、金目のものが無いかと思って忍び込んだか?
……はっ!」
一瞬で決まる。
思わず深く切り裂いてしまって、しまったと思ったが遅かった。
声も無く男は崩れ、その場に血だまりができる。
やりすぎたな。
……ここ二日、政務の処理が忙しく、ろくに寝ていなかったせいか、寸止めが効かなかった。
「……申し訳ない、滝。ちょっと加減が甘かったようです」
「いや、どうせ賊だし……っと、大丈夫ですか、桔梗さん?」
一言だけ言って、ふらついた私の身体を滝が支えた。十四歳ながら、すでに私の身長を超えていて、たくましい体つきになろうとしていた。
「ああ……大丈夫です。ちょっと根をつめて政務の処理をしていたからかな。
重ねて申し訳ないが、私はこのまま休むので……この男は一人で運べますか?」
急に目の前がくらみ、立っているのもやっとだった。
滝は力強く頷く。
「問題ないっす。こいつあんまりでかくねえし、俺、力あるから。じゃあ、軍の牢の方に運んで、あとは黎彩が取り調べると思うんで、経緯を報告しときます」
「明日の朝、巽将軍には私から、このようなことがあったと伝えておきます」
「頼みます! あ、牢に入れてから、ここの血も掃除しときます!」
荒削りだが礼儀正しい動作で滝が一礼し、軽々と男を運んで去って行く。
賊の処遇は軍隊長の黎彩に任せて良いなと思いながら、私は去って行く彼を見届け、先ほど飛び降りた縁側までふらふらと歩き、そこにどうにか座った。
生まれつき、私は感覚や欲が薄く、痛みもあまり感じないし、食欲や睡眠なども最低限で良い。その体質に甘えて、多忙を良いことに、昨日の昼に少し食べて以来、不眠不休で税務の処理をやっていた。
ある程度片付けることができて、厠に行った矢先の騒ぎだった。
十代や二十代の頃はそれでもよかったが、三八歳ともなると、身体の方が先に悲鳴を上げるということか。
少し寒い感じがする。そして、身体の芯が妙に熱い。
過労がたたって発熱してしまったということか。
立ち上がろうとしたが身体にまったく力が入らなかった。次第に目の前が暗くなり、それ以上考えることができなくなる。そのまま私は縁側に倒れ、意識を失った――。
おぼろげな意識の中、遠くでいくつかの声が聞こえた。
「……桔梗! しっかりしろ!」
気持ちのよいなめらかな声は、玲。十五歳だが、すでに神官になっていて、今年になって翡翠宮に住むようになり、巽将軍から参謀業務も学んでいる。
「……熱が高いな。一緒に治療室に運んで寝かせよう」
冷静で爽やかな声は、夏野だ。玲と同い年で、一緒に参謀業務を勉強している。
その声に割って入るように、聞き慣れた低くて深みのある声が遠くに聞こえた。
「玲、夏野! さっき、神殿で賊を運ぶ滝に会いました。
桔梗が賊を倒したが、具合が悪そうだったと……」
清涼。
まぶたが重くて、目を開くことができずに、でも私は心の底からほっとして意識を手放す。
また心配をかけて怒られてしまうな、と思いながら。
◇
気がついた時に目に入ったのは、白い天井だった。
……治療室か……。
どうやら、縁側で意識を失った私は誰かに運ばれたらしい。
ぼんやりしながら、ベッドの上で半身を起こす。
いつもゆるく結っている髪が解けて、乱れていた。
視線の先、部屋の奥では、湖に面した治療室の裏口にある井戸から水を汲み、かまどを使って、清涼が薬湯を煎じようとしているところが目に入った。
まだ真っ暗だが、窓の外、遠くの山の端が薄く白に光ろうとしている。
明け方か……。
「……清涼?」
どうして清涼がここにいるのか、不思議に思ってその背中に声をかける。
一瞬、私の声で、清涼の肩が震え、彼はゆっくりと振り向いた。その、湖の底のように深い色をたたえた瞳が、いつになく揺れた。十三歳のとき、清涼が号泣した瞬間を思い出す……今回、彼は泣かなかったが、無言で足早に私の方に歩み寄ってきた。
「……?」
黙って清涼を見つめていた私を、彼はそっと、何か壊れそうなものを包むように、静かに抱き寄せていた。
どうやら私は、また清涼にひどく心配をかけてしまったらしい。
でも、何か最も大切なものを扱うようにそっと抱きしめられたとき……清涼の情みたいなものが、私に触れる彼の手の優しさから伝わってきた。
同時に、私の心の奥底に、ぽっと暖かくて小さな灯りがともる。
この、心の奥が満たされるような、何かがいっぱいになって広がっていくような気持ちは何なんだろう……?
それは幼い時に、母が抱きしめてくれた時に少し似ていた。
でも何か、少し違う、親が子に与えるだけではない、双方向の気持ちのような……?
言語化できずに沈黙したままの私の頭の上から、清涼の声が響いた。
少し苦しいような、絞り出すような口調で。
「……無理をするなと言っても、自覚していないから仕方ないんだろうが……一体、どういう状態が重なって倒れた?」
私はふと息をついて身体を離し、立ったままの清涼を見上げる。
清涼は苦笑するような、どこか痛みのある視線で私を見ていて、私はぼんやりと、子供の頃からこんなとき、ずっと彼に守られてきたことを知る。
でもどうして清涼は、傷ついた動物みたいな目をしているんだろう。
私は不思議に思って首をかしげて清涼を見つめながら、答えた。
「ちょっと税務処理で根を詰めていて……二日ほどあまり寝てなかったんですよね。その関係か、昨日から食欲も無くて、昨日の昼、果物を食べてそのまま」
「寝ていないし、食べてもいない?」
あきれたように枕元の椅子に座る清涼に、私は頷く。
「若い頃はそれでもさほど問題なかったんですが……年をとりました」
「それだけじゃない。発熱してる」
言われて私は、ああ、と頷く。
「道理で。意識が遠のく前に、身体の中心が熱いと思って……それに、いつもは賊を斬るにしても寸止めするんですが、必要以上に傷つけてしまった。滝にも言いましたが、悪いことをしました」
「まあ、賊だからな。翡翠宮の妖魔の名が響き渡って、効果はあるかもしれないが」
いつになく投げやりな冷たい感じの言い方に、少し清涼の声に怒りがにじんだような気がして、私は清涼を見る。
清涼は、私と目を合わせようとしない。
やはり怒っているのだな。
こういうときは先に謝るに限る。
「心配かけてごめん」
怒りの原因は、心配なのか? 翡翠宮の妖魔という私の異名が轟くことか?
はて、と思いながら私が言うと、清涼は肩をすくめて。
「いや、もうおまえの心配をするのは慣れてる」
とだけ、言う。やはり心配の方だったか。
「そうですか」
頷く私の背に手を回して、清涼はやさしく私を再び横たわらせた。
「ひとまず寝てろ。いま、薬湯を作ってるから、できたら飲ませる。食前に飲むものだから、ちょうどいいだろう。それで、その後……もう明け方だから、厨房は動き出してる頃だ。料理長の桐矢に頼んで、粥か何かもらってくるから……頼むから何か腹に入れてくれ」
「……そうします」
布団をかぶって素直に答える私に、清涼は意外そうな目を向ける。いつも、熱があるときは私が何も食べないと知っているのだ。だが、少し眠ったからか、胃の辺りがぐうと鳴ったことに私は気付いていた。
それにしても……。
私は思わず微笑んでいる。
「なにがおかしい?」
つっけんどんな言い方で尋ねてくる清涼に、私は言った。
「いえ、清涼が怒ることは滅多にないので……見ていたいなあと」
そう言うと、清涼はかちんと来たのか、眉根を寄せて井戸の方に向き直った。
「余計なことを考えてないで、黙って寝ててくれ。俺は眠い」
言われて、ああ、そうだったなと思い出す。
清涼は、眠い時は不機嫌になるのだ。
「……じゃあ、……今日は日曜……ここで少し仮眠していけばいい……」
今までのやり取りで、清涼が怒っている雰囲気だと感じているにもかかわらず、私は安心してうとうとしている。遠くで清涼のため息が聞こえ……かたかたと音がして、彼はもう一度、薬湯の準備をはじめたようだった。
しばらく私は浅い眠りの中にいた。
睡眠と、このやり取りの心地よさで熱は少し下がってきた気がしていた。
静かな足音がして、清涼が近づいてくる。
……と、いつもは後ろでゆるく一つに結っている私の長い髪……それが、一連の出来事で紐が解け、寝台に広がっていた。彼はかたんと薬湯の入っているだろう椀を寝台の脇の台に置き、静かに傍に腰掛ける。私は清涼が傍に座ったことには気付いていたが、そのまま安心して微睡んでいた。
すると清涼は、一房、寝台の脇にこぼれおちていた私の長い髪を持ち上げて……。
それにそっと、ほんのわずかに口づけた。
普通だったら、男性がそのようなことをしてきたら……私も見た目は女のようだが、男として生まれているし、即座に拒絶するのだろうか。
だが私は、清涼がやっていることには気付いていたが、そのまま寝たふりをしていた。
どうしてか、昔見た奏……もう十年以上も前に亡くなった玲の母、神官だった奏の、花びらが舞うような艶やかな舞の姿や、最近の玲が時折、祈祷の時に舞う満天の星空のような舞が思い出された。
何かとても神聖な、儀式のようなものに感じて、声をかけることができなかったんだ。




