2. 諸行無常の響きあり ー桔梗ー
本編"身代わり姫と複雑王子 -風雅の国-"のEp74、"春の夜の夢の如し ー龍樹と桔梗ー" 直後の、桔梗視点でのエピソードとなります。
変わらぬものなんて無い。
それはわかっているけれど。
二六才の春。
神官の奏が亡くなり、埋葬した数日後。
旅に出ると言う、奏の夫で薬師の龍樹と、その息子の幼い玲を見送った後、私の足は、なぜだか神殿に向いていた。
十歳くらいから神殿で一緒に育ってきた奏が……花が散るように命を落とし、龍樹が二人の間に生まれた玲を連れて旅立った。その事実は私の胸に、何か大きな穴を空け、風が吹き抜けるようだった。
どうしてこんなにも、私は喪失感を感じているのだろう?
「きーきょ!」
まだ桔梗、と発音できない二歳の玲が、たどたどしく私を呼ぶ声が蘇る。
別れ際、満面の笑顔で「だいすき!」と言われた。
そのような無垢な愛情を受けたことは、たぶん私は初めてだった。
神殿の裏口の扉を開けると、ちょうどかまどの前で、何か……おそらく預かっている子供達へのおやつか何かを作っているらしい、背が高くて細く見えるのに筋肉質な、僧医になった清涼の背中が目に入った。
私はすたすたと真っ直ぐ進み、そのままぽん、と清涼の背中に額をつける。
身長が158 cmしか伸びなかった私は、いつのまにか176センチくらいになっていた清涼とは、頭ひとつ弱くらいの差があった。
「……桔梗?」
振り向かずに、どうして私とわかるのかと思う。
私は低く、言った。
「……龍樹が旅立ちました」
「玲も一緒に?」
清涼の落ち着いた声に、私は黙って頷く。
「……とても今は、龍樹はここで暮らせないんだろうね」
いつも通りの落ち着いた清涼の声が胸を満たす。私の胸の穴を埋めるかのように。
視線を落としたまま、私はただ頷いた。
振り返った清涼、顔を上げないままの私を見て少し笑った気配を感じた。
私は彼を見上げる。
そうだ。奏に救われたんだ。
十三のとき。
あのとき、私が大怪我をしたことで死ぬかと思ったと言って、清涼はわんわん泣いていた。
私と目を併せて、清涼は微笑む。
「……ちょうど、龍樹が以前教えてくれた、クッキーという菓子が焼けたから……桔梗も食べていくといい」
私は黙って頷き、そして言った。
「……では、私がおいしいお茶を淹れてあげます」
「それはうれしいな」
清涼は、どうしてか私が淹れるお茶を好んでいるようで、私がこの国の執政になったいまも、翡翠宮の執務室に時々飲みにくるほどだった。
勝手知ったる神殿の厨房で、急須と湯飲みを用意しながら、私は呟くように彼の名を呼んだ。まるで何か……心の奥の、たったひとつの拠り所のように。
「……清涼」
その名を呟けば、立っていられるような気さえした。
「うん」
誰に対しても丁寧な言葉遣いをする清涼は、私にだけはくだけた話し方をする。
コポコポと、お茶を注ぐ音が静かな部屋に響いた。
私は言った。
「私より先に死んだら許しませんから」
自分でも、どうしてそんなことを言ったのかわからない。
私はこれまで、何にも、執着や愛着を感じたことがなかったから。
でも、奏がいなくなり、龍樹も玲も去ったとき、思ったのだ。
清涼だけは……絶対去ったりしないと心のどこかで知ってはいるが……私の前からいなくなってほしくない、と。
神殿の隣、私が働く翡翠宮の裏にいつもある、美しい湖のように。
常に傍らにあってほしいと。
清涼は、なぜだか少しうれしそうに笑った。
「俺も同じ事を桔梗に言いたいが……まあ、そういう希望なら、桔梗のことを看取ってから息絶えることを自分に課しておこうかな」
「老衰で頼みます」
「……確約はできないが」
全然笑い話じゃないのに、くすくすと笑う。
私は相変わらずの真顔で、淹れ終えたお茶を清涼に渡す。
湯飲みを受け取った彼は、その香りを堪能するように少し目を閉じて、そして、言った。
「……ああ、やっぱり桔梗の淹れるお茶がいちばん香りがいいな。
もし、ふたりとも老衰で死ぬんだとしたら……今、俺たちは二六だから……あと五十年くらいこれを飲めるかと思うと、幸せすぎるな」
「五十年って七六ですか? ……この国の平均寿命は六十ですよ。三十年でしょう」
「まあ、そう言わず」
くすくす笑う。
「……幸せな想像ではありますね」
つられたのか私も、口の端が少しほころんでいた。
「さ、焼けたかな」
かまどから、甘い匂いのする焼き菓子が乗った天板を丁寧に取り出して、清涼が木製の大きなテーブルに置く。
それをそっと剥がして、小皿に二枚入れて私に渡してくれた。
私はありがとう、とそれを受け取って一口かじり……龍樹が教えてくれたという、そのほろほろとした食感の甘い菓子に、なぜだか奏と龍樹と玲が幸せそうに笑っていた日々を思い出し、祈るような気持ちになった。
これからも日々は続いていく。
でも。
神官の奏が呪いで亡くなった。
基本的に神官職は世襲制だ。次代の神官には玲がなるだろう。
もう、今回のようなことを二度と繰り返しはしない。
私は言った。
「行く前の龍樹に、言いました。
今後、こんなことが絶対に起こらないよう、玲が神官になるまでに……人材を育成し、この国の基盤を整える、と」
自分も一枚、つまみ食いをしていた清涼、静かな瞳で私を見つめた。
私は清涼と目を合わせる。
湖の底のような深さをたたえた清涼の瞳は、私をまっすぐ捉え……彼は言った。
「じゃあ俺は、龍樹が、街の農家の子供も参加できるようにして行った学び舎で……その人材育成の土台を整えよう」
二人で目を見合わせ、私たちは頷いた。




