1. 闇も、なお ー桔梗と清涼ー
この長編は、"我が世誰ぞ 常ならむ ー桔梗ー"という短編の続編となります。(この話だけ読んでも良いように書いています。)
「桔梗、寝たら駄目だ!」
いつになく切迫した清涼の大きな声が遠くに響いた。
「……せいりょう……」
「そうだ! 僕の名前呼んでろ!」
ぐったりと力の入らない身体は、さっきから清涼の背中におんぶされていた。
抉られた腹の傷からは、生暖かい血が流れ続けている。
清涼の着物が汚れてしまうな……。
「せいりょ……きもの……」
「気にするなバカ!」
バカってなんだよと言いたかったけど、自分の息が荒くて言葉にならなかった。
ざざざあっと、空を渡る風の音が遠くに聞こえる。
薄く開けた目に、夜の風に木々の葉が舞い落ちるところが見えた。
あの時、私は十三歳。少し前に誕生日が来た清涼は、十四歳になっていた。
私が十歳で神殿に住み始めたとき、隣部屋の清涼と知り合った。
私たちは同い年で、勉強や剣術の稽古も同じ位の水準で、いつしか好敵手のように競い合う関係になっていた。
かちかちと歯の根が合わなくなり、自分でも驚く。私の身体は先刻から、かたかたと震えていた。
「……寒いよな……ちょっと待って」
ふいに走り続けていた清涼が立ち止まり、そっと私を下ろして木の幹に寄りかからせる。力の入らない身体はぐらりと傾いだ。
清涼は身につけていた少し大きめの羽織で私をぐるぐると包むようにして、今度は胸の方に私を抱き上げた。最近、急に背が伸び始めた清涼は、男として生まれたが体つきは女子のように細くて小柄な私より一回りほど大きくなっていた。
ひょい、と私を抱き上げ、再び駆け出す。
「……せいりょう、……わたし、は……だいじょ、ぶ……だから……」
「どこがだ! もうすぐ神殿につくから! そこまでがんばれ!」
がんばれもなにも、べつに痛くもないし、震えてるってことは周囲は寒いのかもしれないが、私自身は別に寒さも感じていないし。
言いたかったけれど、自分の呼吸が細くなっているのか、声を出すことはできなかった。
……なんか、目が見えなくなってきた……。
そう思った数瞬後。
私は完全に意識を手放していた。
なにをしていたんだったか……。
たしか、清涼と森の奥にきのこや山菜を採りに行っていたんだ。
危険だからあまり奥には行くなよと、僧医の玄奥から言われていた。
呪いの獣が出る可能性があるから、と。
でも、夢中で採っていて、二人ともわからずに森の奥まで入り込んでいた。
急に霧が出て来たと思ったときは遅かった。
ざああっ!
妙な葉ずれの音とともに、霧の中から一体の風狼があらわれた。
風狼というのは呪いの獣だ。霧や雨の日にあらわれることが多い。
濃い灰色の身体に、禍々しい赤い目を持っていて、牙と爪が鋭い。風みたいに速い獣で、攻撃されて命を落とした者も多くいる。
運良く、私は刀を携行していた。
「桔梗、風狼だ!」
清涼の鋭い声が響いた瞬間、刀を抜いた私はそいつに斬りかかっていた。
速いと聞いていたが、私の方が小柄で速さは上だ。
だが、最後の最後、首を落とそうと振りかぶった瞬間、そいつの爪が私の脇腹を目にもとまらないような速さで抉っていた。
私は子供の頃から、感覚が鈍い。
感情的にも、笑ったり怒ったりということを滅多にしたことがないのだが、恐れや、痛覚みたいなものも薄く、恐怖や痛みもあまり感じたことがなかった。
私は気にせずにそのまま風狼の首を斬り……飛び越すように、清涼から見て風狼を越えた位置に着地した。ゆっくり振り返ると、まさに霧のように、その獣が霧散するところが目に見えた。
「…………せいりょう、けが、は」
無表情のまま、私は言った。どうしてか声が震えた。消えた風狼の向こう……もともと私が立っていた辺りに、驚いたように座り込んでいた清涼、片手を上げて立ち上がる。
「大丈夫だ」
「……そう、か……よかっ……」
「桔梗?!」
なんでだか、清涼はものすごく慌てた様子で私に駆け寄ろうとしていた。
なんで……と言うか、息が、できない……?
そのまま私が地面に膝をつくのと、駆け寄った清涼が倒れかけた私の肩を必死でつかんだのがほぼ同時だった。地面にぱたぱたと血が落ちる……ああ、さっき腹をえぐられて、それか、と私はぼんやり考えている。
「なんっ……なんで、こんな傷を受けて動けた!?」
「……いや、べつに、……痛くない、……から、」
「痛くないわけないだろ、このバカ!」
言いながら、清涼は私を地面に寝かせて、持ってきていたらしい薬草を深い傷に当てて自分の着物の裾を破く。
「……きもの、……どうして……」
「だまれ! 包帯代わりだ!」
言いながらぐるぐると私の腹に布を巻いているが、すぐに血で濡れてしまう。
清涼はめずらしくちっと舌打ちして、急いで私の半身を起き上がらせ、背中におぶった。
「走って帰る! ぜったい眠るな!」
「……ねむくない、から……」
「寝たら死ぬ! 意識保ってろ!」
「……だから、ねむく……」
だめだ、声が出ない。
ヒューヒューと、自分の妙な息の音だけが耳に響いた。どうしてかドッドッドッドッと、心臓の音? もやけに頭に響いている。
ああ、……清涼の走ってる足音、かもしれない……。
「桔梗、しっかりしろ!」
清涼は必死な声で走りながら私の名を叫ぶ。
「せい、りょう……」
「そうだ、名前呼んでろ!」
そうして私は意識を失い、清涼は神殿に駆け戻ったらしかった。
暗いな……。
墨を流したような闇の中に、私はひとり立っていた。
星の無い夜でも、これほど暗くはない気がする。
どちらに進めばいいんだろう。
手探りで歩こうとしていたら、急に片方の手に温かさを感じた。
「……?」
不思議に思って温度を感じた方の掌を見つめようとするけれど、闇が深くてまだ目が見えない。
なんだろう、これ。
私はよほど熱くないと、熱もあまり感じない方なのだけど……。
何かぼんやりとした明るさを感じて目を開けた。部屋にいくつかの行燈。奥の暖炉でぱちぱちと火がはぜている。熱いのは暖炉の火だったのか……?
おぼろげな頭で視線をめぐらせると、熱いと思った片手は、私の枕元で清涼がしっかりと握っていた……。
私は、なぜだかひどく安心するような心持ちで、ほっと息をつく。
「……せいりょう……?」
私の声に、枕元に座ってうたた寝していた風だった清涼が、ぱっと目を開ける。
いつもの理知的な、湖の底のように深いものをたたえたその瞳が、私を捉えた。
……と、清涼、信じられないものを見たと言うような口調で、呟くように、言う。
「……桔梗……気がついた……」
私はその茫然自失としたような清涼に珍しさを覚えて、思わず仄かに微笑した。
「……わたし、……どうしたんだ……?」
私の表情と言葉に清涼は息を呑み、少しの沈黙の後で口を開いた。
「……風狼にやられて……玄奥が手当てしてくれたけど、丸一日、意識がもどらなかっ……」
それだけ言うと、じわりと清涼の瞳に涙が浮かんだ。
「…………うわあああーーー!」
号泣だった。
私は驚いて、言葉も無く、大泣きする清涼を見つめてしまう。
出会って三~四年経っていたが、清涼はいつも優しくて余裕があって微笑んでいて……泣くところを見るのも初めてだったし、号泣するような人だとは夢にも思っていなかった。
「あっ、あの、清涼、……大丈夫、大丈夫だから!」
思わず起き上がり、片手はつかまれたままだったから、空いている方の手で清涼の肩をなぐさめるようになでる。
神殿で一緒に生活するうちに、戦で亡くなった清涼の両親は、彼の目の前で亡くなったと聞いていた。もしかしたら私が目の前で倒れたから、その光景を思い出したのかもしれなかった。
泣き止まない清涼のあまりの大きな泣き声に、隣の執務室から玄奥僧医が慌てて飛んできた。
「どうした、清涼……お、桔梗、目がさめたか」
私を見て、玄奥は笑顔だ。
「めっちゃくちゃ心配して、ずっとついてたからな。緊張の糸が切れてしまったんだろうなあ」
あきれたように、泣きじゃくる清涼を見つめて、玄奥は苦笑する。
「おっと、桔梗はまだ、寝ておかないとだめだ。傷が開いてしまうからな」
どうしていいかわからず、清涼と玄奥の二人の顔を見比べている私に、玄奥は優しく言って、ひとまず私の手を握って離さない清涼の手を一旦外してくれ、私を寝台に横たわらせる。
そして、執務室の方に声をかけた。
「ちょうどよかった。桔梗の怪我の状態を緩和するために、奏を連れてきたところだったんだ。
奏、治療室の方に入っておいで」
「……はい」
澄んだ声が聞こえて、奥の扉から、私や清涼と同じように神殿で暮らしている奏が顔を見せた。
奏は十二歳、彼女が九歳だったころに神官だった両親を戦の関係で亡くして、次代の神官として神殿で暮らしていた。とは言え、まだ十二歳、徐々に神官業務を行うようにしていっている最中だった。
長いさらさらの黒髪、光に透かすと深い青にも見える、星空を写したような黒目がちな大きな瞳、長い睫毛、細い手足。
私は幼い頃から、戦を嫌った母から女の着物を着せて育てられ、中性的な見た目と、切るのも面倒で長く伸ばした髪も相俟って、少女のような見た目をしていた。綺麗だと言われたこともあったが、奏は幼い私の目から見ても、幼いながらに誰とも一線を画した、絶世の美女とも言える雰囲気を持っていた。
「……あ、桔梗。気がついたんだ……よかった」
ふわりと、花がほころぶように笑う。
私は思わず奏の笑顔に見入ってしまい、横になったまま穏やかに言った。
「……風狼を斬ったときに、脇腹をやられたみたいで。あまり痛くはないんだけど……」
「そうそう、それを言っておかねばならんと思っていた」
急に、玄奥が真面目な顔で私を見て言った。
「桔梗。おまえは感情も薄いが、おそらく、寒暖差や、痛覚も薄いんじゃないか?
今回は、大人でも叫び声を上げてもいいくらいの重傷だ。
ひとつ覚えておきなさい。人は、血が流れすぎたら死んでしまうんだ。
お前は今後、怪我をした時は、痛くなくても大至急で手当してもらうようにしなければならん。気がつかないうちに手遅れになってはいかんからな」
……なるほど。
それは、異様に納得感のある話だった。
昔から、私は怖いとも、痛いとも、そして暑いとも寒いとも、あまり思ったことがなかったから。
横で、やっと泣き止んだ清涼が、頷いている。
「……間に合ってよかったんだ……死ぬかと思った。……怖かった……」
私の方は見ずにそっぽを向いて、涙を拭っている清涼を見て、私はちょっと悪かったかなという気持ちになっていた。
「……ごめん、清涼」
一言謝ると、清涼は憮然とした顔でちらりと私を見る。
「もうこんな怖い思いは二度とごめんだ」
「……うん。ごめんね」
繰り返すと、もう一度ぎゅっと私の手を握って、清涼は黙って頷く。
やっぱり手が熱い。
もしかして清涼も、熱があったりしないのだろうか……。
そんなことを考えながら寝転んでいると、玄奥が奏を見て、言った。
「じゃ、奏、やるか」
「はい」
涼やかに奏が返事をしている。私も清涼も、意味がわからずに玄奥と奏を見つめていると、玄奥が微笑み、言った。
「奏は幼い頃から神官の祈祷の舞の名手でな。
お前たちはあまり見たことがないかもしれんが、戦の怪我人の前なんかで舞うと、怪我をした人間の生命力を上げることができる。神官固有の能力だ。
ただ、奏自身の生命力を多少削るってことがあり、そうそう乱発はできないんだがな。
桔梗はかなりの重傷だ。
今日は短い三~四分の簡易的な舞だが、奏に舞ってもらおうと思って連れてきたんだ」
私と清涼は、黙って玄奥と奏を見比べる。
言われてみれば、奏は儀式の時などに着る藍色の神官服を身につけていた。
「……黙って、ただ奏を見てろよ。桔梗の意識が戻ってよかった。意識がない時でも底上げはできるが……目で見た方が治りが早いというのがあってな。
じゃ、奏、笛も何もなくて悪いが、はじめてくれ」
「大丈夫です」
奏、にっこり笑う。
そして、すっと水平に両手を広げて……彼女は舞い始めた。
子供の頃、地元の小川に、桜の花びらがぎっしりと落ちて流れていたことがある。
これは花筏と言うのだと、母が教えてくれた。
奏の舞は、そんなたくさんの花びらが……あるいは、晴れた冬の日に、はらはらと太陽の淡い光に照らされて雪が舞うような……艶やかで、何か観る相手の心に希望や光みたいなものを喚起させる、そういった類いのものだった。
うれしいとも、楽しいとも、あまり感じたことが無い私の心に、光の粉が降り積もる。
うつくしい花のように。薄い光に照らされた淡雪のように。
思わず途中で起き上がり、見終わった後、私も清涼も絶句して、思わず拍手を送っていた。
そして、気付く。
起き上がろうとすると身体が重い感じがしていたが、明らかに軽くなっていることに。
清涼が言った。
「すごい、なんか、めちゃくちゃ身体が軽くなった……!」
そう言っている清涼の手を、思わず私は握っている。
一瞬、清涼は照れたようにびくっとして、でも、私が手を握るにまかせた。
……よかった。やっぱり、さっきは熱があったのかもしれない。
触れた清涼の手は、まったく熱さを感じなかった。
まあ、私は鈍いから、平熱以上なのかもしれないが、さっきほどには熱を感じない。
ほっとした私は、少し顔が青くなっている奏を見つめて、伝えた。舞が神官の生命力を削るという玄奥の話を思い出す。
「……さっき、清涼の手が熱いんじゃないかと思っていたけど、熱くなくなってます……。ありがとう、奏。私も、起き上がるのが、かなり楽になりました……」
いつもの丁寧な言葉遣いが復活している私に、奏は微笑む。
「……よかった。
でも、桔梗はまだ休んでいてね。傷が深いから、無理をするとすぐ熱が出てしまうから」
私はそんな奏に微笑んで、再び横になる。
昔は微笑んだこともあまりなかった。
でも、ここにいると……清涼も、奏も、玄奥も、私にいろんな感情を教えてくれる。
満ち足りた、とか。
よかった、とか。
清涼の熱が下がって、うれしい、とか。
再び横になった私に、優しく布団をかけてくれながら、清涼が言った。
「……僕は明日の朝、また桔梗の様子を見にくるから……おとなしく寝ておけよ」
私はそんな清涼にも微笑んでみせた。
「うん。……そうします。
でも、清涼が怪我をしなくてよかった……」
そう言ったら清涼はなぜかまっ赤になって、食事をしてくる! と言って治療室の外に出て行った。
◇
「……それで清涼は、もうこんな怖い思いをするなら大事な女なんか一生作らない、と言っていましたね」
思い出していたらなんだかおかしくなってきて、微笑みながら、私は言った。
目の前には、奏の一人息子で神官になった十七歳の玲と、その玲と同い年で神殿で兄弟のように育ち、参謀兼医師見習いをしている夏野が、面白そうに私の思い出話を聞いている。
あれから長い時が流れ、私も清涼も四十歳になっていた。
今では私はこの国の執政を、清涼は僧医を務めている。
「清涼は禁欲的な感じだから、単に女に興味がないのかと思ってたな」
感心したように夏野が言う。
すると、玲がじっと私を見て、言った。
「……でもまあ、それって……本命は桔梗なんじゃないか?」
私は首をかしげて穏やかに反論する。
「まさか。
私は恋愛には興味が無いですし……今まで一言も、清涼から『好きだ』などと言われたことはありません」
私は続けた。
「清涼は両親も、戦で目の前で亡くしたようですし……これ以上、大事な人を作りたくないのではないかなと私は思っていますよ」
断定すると、玲と夏野は顔を見合わせた後、何か意味ありげな視線で私を見つめた。
そして、少し目を伏せるようにして、玲が言った。
「……ま、心の奥に持っている気持ちなんて、他の人間にはわからないよな」
それを聞いて夏野が笑う。
「おまえの気持ちは結構モロバレだけどな」
「言ったな! 今何考えてたか当ててみろ」
「……薫の顔でも見に行くか、ってところだろ?」
涼しい顔でそう言う夏野に、いらだったように目を細めて玲が立ち上がる。
薫とは彼の恋人の名前だ。
私は面白いなと思い、聞いてみた。
「それで、どこに行くのですか? 玲」
扉を開けようとしていた玲は、背中を向けたままで答えた。
「薫の顔を見に行ってくる」
そのなめらかな声に、私と夏野は顔を見合わせてくすくすと笑った。




