第4話 血の匂いに引かれて
森の空気が変わった。
ほんのわずかな湿気が、空気の温度を狂わせる。
風はないのに、葉が微かに震えていた。
気づいたときには、すでに、何かが“近くにいる”という本能が警鐘を鳴らしていた。
わたしは歩く足を止めて、無意識にラザンの背に視線を向けた。
ラザンもまた、足を止めていた。
静かに前を見据え、弓の先をわずかに下げたまま、耳を澄ませている。
その姿から、ただならぬ緊張が滲んでいた。
「……どうしたの?」
思わず声をかけそうになったそのとき、ラザンの唇がかすかに動いた。
「気配がある。……構えろ」
わたしの心臓が、ひとつ跳ねた。
森の中は静まり返り、さっきまで聞こえていた鳥のさえずりも、虫の羽音すらも、まるで世界から削り取られたように消えていた。
風も、止まっている。
――違う。
空気が、“音を殺されている”ようだった。
この静寂は、自然のものじゃない。
不意に、鼻をつく臭いがあった。
鉄のような、焦げたような――血と肉の匂い。
そして。
ざわ……ざわ……と、草をかき分ける音。
その音は、最初は細く遠かった。
けれど、次第に確かに、こちらへ向かってくる“複数の足音”だと分かっていった。
ラザンの手が動く。
弓に矢を番える仕草は、静かで、迷いがなかった。
「……血の匂いに……引かれたな」
その一言で、すべてを理解した。
わたしの足。
完全に癒えていない擦り傷。
今も、絆創膏の代わりに巻いてもらった布の中に、滲んだ血がある。
それが――匂いの元だった。
身体が凍る。
やばい。これは、本当にやばい。
息を止めた瞬間――
影が、跳ねた。
灰色の毛並み、歪んだ牙、鈍い金色の瞳。
それは狼のようでいて、狼ではなかった。
異様に発達した前脚と、膨れた胸筋。
背中には、骨のような突起が浮き出ており、口元は涎で濡れている。
――魔物だ。
ただの動物じゃない。
“この世界の獣”――それも、完全に“狩り”をする側の存在。
「ッ……!」
とっさに後ずさったわたしの横を、風のようにラザンが駆け抜ける。
その瞬間、一本の矢がピュンと風を裂き、魔物の眉間を貫いた。
呻き声すら出す暇もなく、魔物はそのまま地面に崩れた。
でも――終わらなかった。
それを皮切りに、周囲の茂みからさらに五体以上の魔物たちが現れた。
「なっ……」
言葉が出なかった。
灰色の毛並みが連なる。
獣の目が、いくつも、こちらを射抜くように光っていた。
群れだ。
完全に、わたしたちは“囲まれていた”。
「……後ろに下がれ」
ラザンの声は低く静かだった。
けれど、かえってその声の冷静さが、この場の緊迫を引き立てていた。
わたしは頷くことしかできず、手近な木の陰へと身を隠す。
その間にも、ラザンの矢が次々と放たれた。
一体、二体、的確に急所を突いて倒していく。
だが――数が減らない。
倒れても、後ろから次の魔物が現れる。
矢が切れた瞬間、ラザンは短剣を抜いた。
素早い動きで喉元を裂き、腹を切り裂くが――傷ついたラザンの腕から、鮮血が飛んだ。
「……ッ」
初めて、ラザンが呻いた。
その瞬間、空気が、わたしの喉に詰まった。
ラザンが負ける――
そう思った。
彼ほどの人が、この程度でやられるなんて思ってなかったのに、
でも今、目の前でその背中が“押されている”。
魔物たちが、連携して動いている。
まるで“狩り方”を理解しているように、囲んで、飛びかかって、傷を負わせる動きを繰り返していた。
ダメだ。
このままじゃ――ラザンが、死ぬ。
わたしが、死ぬ。
「動け――動けっ……!」
身体が震えていた。
恐怖で、寒さで、混乱で――全身が硬直していた。
動かなきゃ。何かしなきゃ。
でも、どうやって?
武器なんてない。
わたしには、何もない。
何もできない。
わたしは、ただの……
――その瞬間。
世界が止まった。




