第2話 生きること、それは選ぶこと
――生きてる。
ぬるい煙の匂いと、微かに肌をくすぐる暖かさ。
それが最初に感じた“現実”だった。
意識が戻るのに、どれくらいの時間がかかったのか分からない。
けれど、わたしは確かに、死んではいなかった。
体中が重く、頭が割れるように痛い。
喉は焼けるように渇いていたけれど、土や血の味はしなかった。
代わりに感じたのは、煙と火の匂い。
目を開けると、視界に入ったのは、赤く燃える焚き火。
その向こうに、背の高い男の影があった。
剣を背負い、フードを目深にかぶったその人影は、こちらを一瞥しただけで何も言わなかった。
焚き火の横には、串に刺された魚がじりじりと焼けていて、じゅう、と音を立てていた。
(……助けられた……?)
喉が痛んだ。声が出ない。
けれど、男はわたしが目を覚ましたことに気づいたのか、湯気を立てる木椀を差し出してきた。
中身は水だった。
濁っていない、透明な、水。
言葉が出ないまま、わたしは首を縦に振った。
両手で椀を受け取り、震える指でそれを口に運ぶ。
――沁みた。
水が、全身に染み渡っていく。
冷たいけれど、生命の味がした。
数口飲んだだけで、涙が出た。
それは、あまりにも“生きている味”だったから。
「……ありがとう……」
かすれた声で呟くと、男は視線を焚き火に戻した。
◇ ◇ ◇
魚の串も渡された。
焼かれた魚は焦げていて、身も固かったけど、それでもわたしにはこの世界で一番贅沢な料理に思えた。
骨ごとしゃぶるようにして、全部、食べた。
男は一言も喋らなかった。
でも、火を絶やさず、わたしが眠れるように毛皮の敷物を与えてくれた。
怪我の手当はされていないけれど、少なくとも殺される気配はない。
わたしは、やっと人間として扱われた気がした。
(こんな……ただそれだけのことで、涙が出るんだ……)
身体が震えるのは、寒さのせいじゃなかった。
◇
夜。
焚き火の向こうで、男が言った。
「名は?」
突然の問いに、わたしは少しだけ口を開けた。
「……ほしみや……ゆづき……」
喉が震えて、声が詰まりそうになった。
でも、言えた。
星宮結月。
わたしの名前。わたしだけのもの。
誰にも奪われていない、大切な名前。
男は「そうか」とも言わず、ただ静かにうなずいた。
わたしもそれ以上は何も言わなかった。
言葉は少ないけれど、たしかにそこに“人と人”の関係があった。
◇ ◇ ◇
その夜、わたしは久しぶりに夢を見なかった。
寒さに震えることもなく、泥に埋もれることもなく、
ただ、毛皮の上で、焚き火の明かりに包まれながら――静かに眠った。
◇ ◇ ◇
翌朝。
目が覚めたとき、火はまだかすかに燃えていた。
男はなにかを煮ていた。きっと、朝食だろう。
「……おはよう」
わたしが言うと、男はちらりとこちらを見て、無言で頷いた。
それがどうしようもなく嬉しかった。
この世界で、誰かと“言葉が通じる”ということが、これほどまでに安心をくれるなんて思わなかった。
◇
食事の後、わたしは男に尋ねた。
「あなたの名前は?」
男はしばらく黙っていた。
火の中をじっと見つめるようにして、やがて短く答えた。
「ラザンだ」
「……ラザンさん……」
初めて、呼べた。
この世界で出会った、最初の“名前”。
わたしは、かすかに笑った。
自然と頬が緩んだ。
◇ ◇ ◇
火が消えるころ、ラザンは立ち上がった。
弓を手にし、革袋を背負う。
「……行くぞ。狩りだ」
わたしは一瞬、ためらった。
(ここに残った方が……安全かもしれない。でも……)
焚き火と食事を与えてくれたこの人が、どうやって生きているのか。
それを“見ておきたい”と思った。
「わたしも……行っていい?」
ラザンは、わたしをじっと見た。
その目の奥に、何かを見極めるような静かな光が宿っていた。
そして、短く、頷いた。
◇
森に入る。
獣道を進みながら、わたしは何度も転びそうになった。
でも、ラザンは何も言わず、ただ歩調を合わせてくれた。
枝が頬をかすめ、足元のぬかるみに足を取られながら、それでもわたしは前を向いて歩いた。
(生きるって、こういうことなんだ)
泥水じゃない水。
死ぬためじゃなく、生きるために歩く。
わたしは今、確かに――この世界に、立っている。
◇ ◇ ◇
森を歩くラザンの背中は、変わらず大きかった。
無駄な言葉はなかったけれど、彼の動きには迷いがなく、音を立てずに進む姿は“生きている人間”そのものだった。
わたしは、少し遅れてついていく。
地面はぬかるんでいたけれど、昨日のように足を取られて転ぶことはなかった。
腹の痛みも治まってきて、手足の震えもなくなっていた。
それだけで、自分が“回復してきている”と分かった。
焚き火と水、ただそれだけで、ここまで変われるんだ。
そして、心のどこかで思った。
(……わたしも、いつか……誰かを助けられる人になれるだろうか)
◇
小さな鹿のような動物が、罠にかかっていた。
足首を絡め取る縄。苦しげな呻き声。
血が地面に滲んでいた。
「……」
ラザンは近づくと、静かに弓を構えた。
逃がすつもりはない。仕留めるだけ。
けれど、そのとき。
わたしの足が、勝手に動いていた。
「待って……!」
声に、ラザンの動きが止まる。
自分でも、なぜ言ったのか分からなかった。
でも、たしかにわたしは、その命に、手を伸ばしていた。
「……どうして……こんなふうに、殺されなきゃいけないんだろう……」
ラザンは何も言わなかった。
ただ、視線をじっとこちらに向けていた。
その視線は、問いかけでも、責めでもなかった。
ただ、“どうするかはお前次第”と言っているようだった。
わたしは、鹿のそばにしゃがみこんだ。
手を伸ばす。小さな角に触れる。
鹿は、恐怖と痛みで震えていたけれど、逃げようとはしなかった。
わたしには、何もできない。
手当も、魔法も、癒しの力もない。
ただ、そこにいる命を前にして、震える指を伸ばすことしかできなかった。
そして――
「……ごめんね……生きたいのは、わたしも同じだから」
そう呟いたあと、わたしは顔を背けた。
ピシッ。
乾いた音がして、すべてが終わった。
◇
焚き火の上で、肉が焼かれていた。
わたしは黙ってそれを見つめていた。
涙は、出なかった。
命をいただく。
その意味が、やっと身体に入ってきた気がした。
ラザンは、一切の無駄を省くように、きれいに肉を分け、骨を煮込んでスープにしてくれた。
わたしにも分けてくれた。何も言わずに。
「……ありがとう」
そう言って、わたしはスープを啜った。
温かくて、塩気はないのに、涙が出そうだった。
◇ ◇ ◇
夜。
火の明かりの中、わたしは毛皮をかぶって座っていた。
眠れそうになかった。
ラザンはすでに目を閉じていたが、いつでも起きられそうな様子だった。
火の前で、ひとりで呟いた。
「……わたしに、何ができるんだろう」
誰も答えてはくれなかった。
けれど、風が木々を揺らし、火の粉がふわりと舞った。
その瞬間――空が、きらりと光った。
見上げると、雲の切れ間に、小さな星が瞬いていた。
さっきまで曇っていた空に、ほんの一瞬だけ現れた、小さな光。
それは、どこか“見られている”感覚を呼び起こした。
◇
――読者の神々が、星宮結月の人生に、目を向けはじめた。
彼女がこれから得るべきものは何か。
与えるなら、どの加護か。
試練か。救済か。あるいは、別の何かか。
この夜、三つの可能性が、静かに浮かび上がる。