第1話 私はオモチャじゃない!泥水と絶望の異世界生活
――異世界に転移されられて、今日で三日目。
足は泥に沈み、靴の中はもう感覚がない。
喉の奥が、焼けるように渇いていた。唇は割れ、吐く息は白い。体の震えは、寒さのせいか、恐怖のせいか。いや、もうどっちでもよかった。どちらにしても、もう限界だったから。
わたしは、地面に膝をつき、掌で泥水をすくった。
手のひらの水は、茶色く濁っていた。浮かんだ泡が、何かの卵かもしれないと思ったけど、考えることすら億劫だった。
ごくり、と喉が鳴る。飲み込んだ瞬間、胃が軋むように悲鳴をあげた。
「……まずい……」
呟いて、口を拭う。吐きそうになるのを、奥歯を噛んでこらえた。
(でも、これしかない)
生きるためには、選べない。綺麗な水も食料も、この森にはなかった。
唯一の選択肢は、「死ぬか、生き延びるか」。
そのために、わたしは泥をすすり、虫を追い払って、ひとりで生きている。
(お母さん……お父さん……)
誰にも届かない名前を、胸の中で呼んだ。
――どうしてるんだろう。
あの日、いつも通りに学校を終えて、帰りにコンビニでおにぎりを買っただけなのに。
◇
その日は本当に、なんでもない日だった。
小さな雨が降っていたけど、傘を持つほどじゃなかった。
教室では誰とも話さず、部活も休んで、早めに帰宅した。
夕飯前、小腹が空いて、家の近くのコンビニに行った。
買ったのは、ツナマヨのおにぎりと、紅茶。
お会計をして、店を出た――その瞬間だった。
世界が、止まった。
まばたきをする間もなく、気づけばそこは、真っ白な空間だった。
音も風も、店の照明もなかった。ただ、まるで塗りつぶされた画面の中に一人で立っているような感覚。現実じゃないと思った。夢だと信じた。
でも、目の前に“彼女”が現れたとき、すべては違うと知った。
「やっほー。やっと来たね、君」
声が、響いた。軽い口調。透き通った声。
振り返ると、そこにいたのは、女の人だった。
白い髪、琥珀色の瞳。身体全体から淡い光を発していて、輪郭がぼやけて見えた。美人……という言葉では形容しきれない、不思議な“異質さ”があった。
「……あなた、誰……?」
「わたし? “神様”だよ。わたしは“創世の女神”って呼ばれてる。まあ、説明はあとね」
そう言って、女神はふわりと微笑んだ。
――神様?
そんな馬鹿な。
「ちょっと待って、わたし、コンビニにいただけなんだけど!?」
「うん、知ってる。おにぎり買ってたでしょ? ツナマヨのやつ。あと紅茶」
「……どうしてそれを……」
「見てたから」
さらりと言われて、背筋が凍る。
「君の世界は、わたしたちの世界から“観察できる箱庭”なの。人間の営みを覗くのって、面白いんだよねー」
わたしは、たまらず後ずさった。
でも、足元には地面すらなく、ただ“そこに立たされている”だけだった。
「ちょっと! 意味がわからない! どうしてこんなことに……!」
叫んでも、何も変わらない。
女神はただ、困ったように首をかしげた。
「君は選ばれたの。“読者”たちが、君の人生を見たいって言ったから」
「……読者?」
「うん。わたしの後ろにいる他の神様たち。たくさんの目が、今、君を見てる。君の感情も、選択も、すべて。面白そうでしょ?」
背筋が冷たくなる。
誰かが、どこかで、自分の人生を眺めて笑ってる――そんな感覚。
「ふざけんなよ……!」
「怒って当然。でも、戻れないから。ここからは、君の人生、君が決めて」
「勝手に“転移”させておいて、“自分で決めて”……?!」
「うん。だって、君の人生なんだから」
その瞬間、足元が崩れた。
視界が白から黒に塗り替わる。
耳に風が鳴り、呼吸ができなくなる。
落ちる。どこまでも、深く、遠く。
(やだ、やだ、やだ――!!)
叫ぶ声すら、風にちぎれて消えていった。
◇ ◇ ◇
――そして今。
泥を啜りながら、わたしはこの異世界で、生きている。
あの女神の言葉は、脳裏に焼きついて離れない。
「面白そうだから、君を選んだの」
(面白そう、だと……)
あのときの怒りも、恐怖も、もう擦り切れそうになっている。
残っているのは、ただ、寒さと、空腹と、喉の渇き。
それでも、わたしは生きている。
殺されるように“転移”されたこの世界で――
いつかきっと、この運命を“見返してやる”ために。
◇
森の空は重たい灰色だった。
朝だというのに太陽は見えず、空気は湿り気を帯びて、地面はいつまでもぬかるんだまま。
足を踏み出すたびに、泥がズブリと吸いついてくる。
昨日も、今日も、わたしは同じような場所をさまよっている。
自分がどこにいるのかも分からない。
北も南も、地名もなければ地図もない。
神様は、「がんばって」しか言わなかった。
「……本当に……ふざけんな……」
わたしの声は、森の湿った空気に吸い込まれていく。
せめて何か武器でもあれば――
せめて、この世界の“知識”があれば――
でも現実は、制服姿のまま、スマホも鞄も持たず、異世界に放り込まれた女子高生ひとり。
“冒険者”でもなければ、“選ばれし者”でもない。
まして、“強い魔力を秘めた特別な存在”――なんて、そんな都合のいい設定も与えられてはいなかった。
ただ、なんの前触れもなく、「面白そうだから」と言われて選ばれた。
自分ではない“誰か”の都合で。
◇ ◇ ◇
二日目の夜――
小川のほとりで、わたしは倒れていた。
水の音に惹かれて近づいたが、滑って転び、足をひねった。
ぬるい水は泥を含み、口に入れた瞬間、えずいた。
それでも、飲んだ。飲まずにはいられなかった。
木の根元に体を寄せ、枝と枯葉を積んで風を防ぐ。
焚き火なんて無理だった。火の起こし方も知らない。
生きるための知識なんて、今までの生活にはなかったから。
眠ってしまえば、寒さで命を落とすかもしれない。
それでも、眠ってしまった。
夢を見た。
コンビニのレジ。
ツナマヨおにぎり。
紅茶。
温かい蛍光灯の下で、店員さんが笑っていた。
「ありがとうございますー」
その声で、わたしは泣いていた。
戻りたい――
もう一度、あの平凡な日常に戻れるなら。
何もいらない。ただ、家に帰りたい。
◇ ◇ ◇
――三日目の朝。
夢から目覚めたとき、頬に泥が貼りついていた。
どこからか漂う獣のにおいに気づいて、身を縮める。
小さな黒い影が茂みの奥を横切っていく。野生の生き物か、それとも――
この世界では、動物がそのまま魔物だったりすることもあるのかもしれない。
でも、わたしにはそれを見分ける力も、逃げ切れる体力もない。
「……っ……!」
足をかばいながら歩き続ける。
倒れたら、死ぬ。
動きを止めた瞬間、すべてが終わる気がした。
転倒。出血。感染。野生動物。
どれも、“死”に直結する要素だった。
けれど――
(どうしても、あの言葉だけは……許せない)
あの神様の最後の一言が、頭の中でずっとリピートしていた。
「じゃ、楽しんできてね。面白そうだから」
その軽さ。その無責任さ。その残酷さ。
わたしが今、泥を飲んで、足を引きずって、死にそうになっているこの時間さえ――
彼女たちにとっては“エンタメ”の一部なのかと思うと、怒りがこみ上げてくる。
「……そんなの……ぜったいに、許さない……」
誰が見ていようと。
どんな神様が読んでいようと。
“面白がって”いい命なんて、一つもない。
だったら、わたしは見せつけてやる。
この命が“わたしだけのもの”だってことを。
◇ ◇ ◇
その日の昼。
ついに、体が言うことをきかなくなった。
足を滑らせ、地面に倒れた。
泥まみれの顔に葉が張りつく。目を開けようとしても、視界が霞んで焦点が合わなかった。
何も見えない。
何も聞こえない。
でも――ほんのかすかに、遠くで“誰かの足音”が聞こえた気がした。
わたしは、声にならない声で叫んだ。
「……たすけて……」
でもその声は、風に飲まれて消えた。
そして、わたしの意識は、そこで途切れた。




