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第1話 私はオモチャじゃない!泥水と絶望の異世界生活

 ――異世界に転移されられて、今日で三日目。


 足は泥に沈み、靴の中はもう感覚がない。

 喉の奥が、焼けるように渇いていた。唇は割れ、吐く息は白い。体の震えは、寒さのせいか、恐怖のせいか。いや、もうどっちでもよかった。どちらにしても、もう限界だったから。


 わたしは、地面に膝をつき、掌で泥水をすくった。

 手のひらの水は、茶色く濁っていた。浮かんだ泡が、何かの卵かもしれないと思ったけど、考えることすら億劫だった。

 ごくり、と喉が鳴る。飲み込んだ瞬間、胃が軋むように悲鳴をあげた。


「……まずい……」


 呟いて、口を拭う。吐きそうになるのを、奥歯を噛んでこらえた。


(でも、これしかない)


 生きるためには、選べない。綺麗な水も食料も、この森にはなかった。

 唯一の選択肢は、「死ぬか、生き延びるか」。

 そのために、わたしは泥をすすり、虫を追い払って、ひとりで生きている。


(お母さん……お父さん……)


 誰にも届かない名前を、胸の中で呼んだ。


 ――どうしてるんだろう。

 あの日、いつも通りに学校を終えて、帰りにコンビニでおにぎりを買っただけなのに。



 その日は本当に、なんでもない日だった。

 小さな雨が降っていたけど、傘を持つほどじゃなかった。

 教室では誰とも話さず、部活も休んで、早めに帰宅した。


 夕飯前、小腹が空いて、家の近くのコンビニに行った。

 買ったのは、ツナマヨのおにぎりと、紅茶。

 お会計をして、店を出た――その瞬間だった。


 世界が、止まった。


 まばたきをする間もなく、気づけばそこは、真っ白な空間だった。

 音も風も、店の照明もなかった。ただ、まるで塗りつぶされた画面の中に一人で立っているような感覚。現実じゃないと思った。夢だと信じた。


 でも、目の前に“彼女”が現れたとき、すべては違うと知った。


「やっほー。やっと来たね、君」


 声が、響いた。軽い口調。透き通った声。


 振り返ると、そこにいたのは、女の人だった。


 白い髪、琥珀色の瞳。身体全体から淡い光を発していて、輪郭がぼやけて見えた。美人……という言葉では形容しきれない、不思議な“異質さ”があった。


「……あなた、誰……?」


「わたし? “神様”だよ。わたしは“創世の女神”って呼ばれてる。まあ、説明はあとね」


 そう言って、女神はふわりと微笑んだ。


 ――神様?

 そんな馬鹿な。


「ちょっと待って、わたし、コンビニにいただけなんだけど!?」


「うん、知ってる。おにぎり買ってたでしょ? ツナマヨのやつ。あと紅茶」


「……どうしてそれを……」


「見てたから」


 さらりと言われて、背筋が凍る。


「君の世界は、わたしたちの世界から“観察できる箱庭”なの。人間の営みを覗くのって、面白いんだよねー」


 わたしは、たまらず後ずさった。

 でも、足元には地面すらなく、ただ“そこに立たされている”だけだった。


「ちょっと! 意味がわからない! どうしてこんなことに……!」


 叫んでも、何も変わらない。

 女神はただ、困ったように首をかしげた。


「君は選ばれたの。“読者”たちが、君の人生を見たいって言ったから」


「……読者?」


「うん。わたしの後ろにいる他の神様たち。たくさんの目が、今、君を見てる。君の感情も、選択も、すべて。面白そうでしょ?」


 背筋が冷たくなる。

 誰かが、どこかで、自分の人生を眺めて笑ってる――そんな感覚。


「ふざけんなよ……!」


「怒って当然。でも、戻れないから。ここからは、君の人生、君が決めて」


「勝手に“転移”させておいて、“自分で決めて”……?!」


「うん。だって、君の人生なんだから」


 その瞬間、足元が崩れた。


 視界が白から黒に塗り替わる。

 耳に風が鳴り、呼吸ができなくなる。

 落ちる。どこまでも、深く、遠く。


(やだ、やだ、やだ――!!)


 叫ぶ声すら、風にちぎれて消えていった。


◇ ◇ ◇


 ――そして今。

 泥を啜りながら、わたしはこの異世界で、生きている。


 あの女神の言葉は、脳裏に焼きついて離れない。


「面白そうだから、君を選んだの」


(面白そう、だと……)


 あのときの怒りも、恐怖も、もう擦り切れそうになっている。

 残っているのは、ただ、寒さと、空腹と、喉の渇き。


 それでも、わたしは生きている。

 殺されるように“転移”されたこの世界で――


 いつかきっと、この運命を“見返してやる”ために。



 森の空は重たい灰色だった。

 朝だというのに太陽は見えず、空気は湿り気を帯びて、地面はいつまでもぬかるんだまま。

 足を踏み出すたびに、泥がズブリと吸いついてくる。

 昨日も、今日も、わたしは同じような場所をさまよっている。


 自分がどこにいるのかも分からない。

 北も南も、地名もなければ地図もない。

 神様は、「がんばって」しか言わなかった。


「……本当に……ふざけんな……」


 わたしの声は、森の湿った空気に吸い込まれていく。


 せめて何か武器でもあれば――

 せめて、この世界の“知識”があれば――


 でも現実は、制服姿のまま、スマホも鞄も持たず、異世界に放り込まれた女子高生ひとり。

 “冒険者”でもなければ、“選ばれし者”でもない。


 まして、“強い魔力を秘めた特別な存在”――なんて、そんな都合のいい設定も与えられてはいなかった。


 ただ、なんの前触れもなく、「面白そうだから」と言われて選ばれた。

 自分ではない“誰か”の都合で。


◇ ◇ ◇


 二日目の夜――

 小川のほとりで、わたしは倒れていた。


 水の音に惹かれて近づいたが、滑って転び、足をひねった。

 ぬるい水は泥を含み、口に入れた瞬間、えずいた。

 それでも、飲んだ。飲まずにはいられなかった。


 木の根元に体を寄せ、枝と枯葉を積んで風を防ぐ。

 焚き火なんて無理だった。火の起こし方も知らない。

 生きるための知識なんて、今までの生活にはなかったから。


 眠ってしまえば、寒さで命を落とすかもしれない。

 それでも、眠ってしまった。


 夢を見た。


 コンビニのレジ。

 ツナマヨおにぎり。

 紅茶。

 温かい蛍光灯の下で、店員さんが笑っていた。


「ありがとうございますー」


 その声で、わたしは泣いていた。

 戻りたい――

 もう一度、あの平凡な日常に戻れるなら。

 何もいらない。ただ、家に帰りたい。


◇ ◇ ◇


 ――三日目の朝。


 夢から目覚めたとき、頬に泥が貼りついていた。

 どこからか漂う獣のにおいに気づいて、身を縮める。

 小さな黒い影が茂みの奥を横切っていく。野生の生き物か、それとも――


 この世界では、動物がそのまま魔物だったりすることもあるのかもしれない。

 でも、わたしにはそれを見分ける力も、逃げ切れる体力もない。


「……っ……!」


 足をかばいながら歩き続ける。

 倒れたら、死ぬ。

 動きを止めた瞬間、すべてが終わる気がした。


 転倒。出血。感染。野生動物。

 どれも、“死”に直結する要素だった。


 けれど――


(どうしても、あの言葉だけは……許せない)


 あの神様の最後の一言が、頭の中でずっとリピートしていた。


「じゃ、楽しんできてね。面白そうだから」


 その軽さ。その無責任さ。その残酷さ。


 わたしが今、泥を飲んで、足を引きずって、死にそうになっているこの時間さえ――

 彼女たちにとっては“エンタメ”の一部なのかと思うと、怒りがこみ上げてくる。


「……そんなの……ぜったいに、許さない……」


 誰が見ていようと。

 どんな神様が読んでいようと。

 “面白がって”いい命なんて、一つもない。


 だったら、わたしは見せつけてやる。

 この命が“わたしだけのもの”だってことを。


◇ ◇ ◇


 その日の昼。

 ついに、体が言うことをきかなくなった。


 足を滑らせ、地面に倒れた。

 泥まみれの顔に葉が張りつく。目を開けようとしても、視界が霞んで焦点が合わなかった。


 何も見えない。

 何も聞こえない。

 でも――ほんのかすかに、遠くで“誰かの足音”が聞こえた気がした。


 わたしは、声にならない声で叫んだ。


 「……たすけて……」


 でもその声は、風に飲まれて消えた。


 そして、わたしの意識は、そこで途切れた。

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― 新着の感想 ―
やっほ♪ 星空りんさん、Xから遊びに来ました^^ とってもいい書き出しですね。 チートも無く、ある日いきなり異世界に放り込まれたら、こーなるのが当たり前。 身も心もついていけないハズ。 なのに怒りを忘…
「君は選ばれたの。“読者”たちが、君の人生を見たいって言ったから」 わたしはラブコメの神じゃ〜 お主(主人公)の続きを見せてもらうぞー
……せめてツナマヨおにぎりと紅茶は持たせてあげて(泣)
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