スタンド・バイ・ミー
珍しく登場人物に名前がついています
彼女────
一ノ瀬那月の墓はK市の小さなお寺にあった。
墓石にはところどころ苔が生えており、
手入れが行き届いていないのが見て取れた。
私は額に浮かぶ汗をハンカチで拭き取ると、
水とブラシで苔を丁寧に擦り始める。
枯れた花は近所の花屋で調達した綺麗なキンセンカに取り替えてやった。
「ま、こんなところかな」
満足した私はマッチで線香に火をつけ、
香炉に立てた。
線香の煙が夏の青い空気に溶けていく……
* * *
「ね、知ってる?」
それが彼女の口癖だった。
好奇心旺盛で、同級生よりも精神的に早熟だった那月は、いろんな情報を仕入れては、
それを実践する子だった。
そういうところがクラスメイトの羨望を集めていたのだが、徐々にその好奇心は悪趣味な方へ向かっていった。
「大人のセックスってすごいのよ」
中二になったばかりの頃、そんなふうに打ち明けられた私は、頭が真っ白になった。
当時それがどういう罪にあたるのか、具体的にはわからなかったけれど、とにかくいけないことだというのは、ハッキリと理解していた。
「せ、セックスって…」
「保健の授業でやったでしょう?」
「私たちにはまだ早いと思うけど」
「そんなことないわ、愛しあっていれば、
年齢なんて関係ないもの」
今思うと、彼女が愛というものをどこまで理解していたのか甚だ疑問ではあるのだが、
当時の愚かな私はその大人っぽい回答に感心していた。
* * *
「ね、スタンド・バイ・ミーって映画知ってる?」
中三の、とある暑い夏の日だった。
「知らない」
「私たちの生まれる前の映画だから無理もないわ。
でも、これがすごくロマンチックなのよ」
「恋愛のお話なの?」
スタンド・バイ・ミー
しかし、彼女は意味ありげに微笑むと、
首を振った。
「線路沿いに礫死体を探しに行くお話よ」
嫌な予感がした。
* * *
「ね、やっぱりやめようよ」
「どうして? 気にならない?」
何度か同じ提案をするも、
返事は毎回一緒だった。
「別に気にならないよ。だいたい、電車に轢かれた死体なんて、見たくもない」
「私は一度くらい見てみたいわ」
そう言って彼女は目を輝かせたのだった。
夏の夜空の下、彼女は両手を広げレールの上を歩いた。
私はその後ろをビクビクしながらついていく。
電車の車窓越しに見慣れたはずの枕木が、
近くで見ると思いの外大きく感じた。
「あ、来るわ」
那月は楽しそうに笑うと、レールからぴょんと飛び降りた。
線路の上を走る列車の振動が足に伝わってきたのだろう。
私たちは近くの岩に身体を隠し、
轟音を立てて通り過ぎる列車を見送った。
本能が警戒するような迫力に、
二人青ざめた表情で顔を見合わせたが、
やがて、どちらからともなくイタズラな笑みを浮かべた。
私たちは再びテクテクと歩き出す。
“When the night has come
And the land is dark
And the moon is the only light we see“
那月は丁寧な発音で、
スタンド・バイ・ミーの主題歌を歌いはじめた。
「いい歌だね」
「映画もいいわよ」
「あはは、そのうちね」
私は彼女の歌声に耳を傾けながら
どこまでも続く線路に沿って歩いた。
「あのさ、セックスってどういう感じなの?」
私は前から聞いてみたかった質問を投げかけた。
「何?興味があるの?」
那月は私を揶揄うように、
ニヤニヤと笑った。
「べ、別にただの好奇心」
「ふぅん」
那月が納得していないのは明らかだったが、
それ以上私を追求しなかった。
代わりに、少しだけ悲しそうに
瞳を伏せた。
「大していいものじゃないわよ」
「そうなの?」
人生の一大イベントだと思っていた私は、面食らった。
「ま、個人差はあるだろうけど…」
それきり、彼女は口を噤んでしまった。
* * *
「うーん、ないわね」
どれくらい歩いただろうか、
時間はすっかり0時を回っている。
「ところで、帰りはどうするの?」
私は両親からの不在着信を眺めながら言った。
「線路をたどって帰ればいいじゃない。ま、なんとかなるわよ」
「それよりも、ね、海が近いみたい」
耳を澄ませると、遠くからザァーザァーと波の音が聞こえる。
ほのかに磯の香りがした。
彼女は私の手をとり、駆け出す。
「わぁ、綺麗ね」
海岸に着くと、彼女はさっさと靴を脱ぎ捨て、
海水を蹴り飛ばした。
「ほらほら、由香里も」
両手で水を掬いあげて、私に浴びせようとする。
彼女の指先から弾ける水飛沫に月の光が反射して、夜の闇の中に美しいアートを描き出した。
ひとしきり水遊びをすると、
私たちは横並びになって岸から海を眺めた。
「ね、由香里。聞いてくれる?」
「うん」
「驚かないでね、いい?」
「もう、わかったから……なんなの?」
彼女は一呼吸置くと、砂で汚れた両足のつま先を
擦り合わせながら言った。
「……私、妊娠した」
驚きはなかった。
心のどこかでそんなことだろうと
予感していたから。
波の音がやけに大きく聞こえた。
「相手は誰……」
「Y先生」
「Y先生って担任の?でも、あの人確か……」
先生は既婚者だったはずだ。
教え子を妊娠させただけでも大問題なのに、
その上既婚者だなんて、発覚すれば破滅どころの騒ぎじゃないだろう。
「もしかして、二年の頃から先生と関係を……」
「ええ」
「それで、先生は……」
「俺の子じゃないって」
口調は淡々としているものの、
彼女の肩は震えていた。
どうしよう、どうしようと
繰り返し呟くうちに、
声に湿り気が混じり、やがて彼女は咳を切ったように泣き出してしまった。
なぜか急に心細くなった私は、彼女の肩を抱きしめ、一緒になって泣いた。
そして、二人が泣き止む頃、私たちは一つの決心をしていた。
「ね、キスしてくれる?」
私たちは月明かりの海岸で何度もキスをして、
お互いの体温を確かめ合った。
それから、着ていた服を脱ぎ、
手持ちから適当に紐になりそうなものを見繕うと、
お互いの手首を硬く結びつけた。
* * *
結果は読者の皆様のご想像の通りだと思う。
那月を失った私は
それはもう、目も当てられない状態だったらしい。
何度も死なせて、死なせてと叫び暴れた私は、その度、看護師たち取り押さえられ、安定剤を投与された。
もっとも、治療の甲斐あってか、
長い年月をかけて私の症状は回復していき、
今では生活に支障をきたすことはほとんどなくなった。
そして、体調が回復し大人になるにつれて、私はハッキリとわかるようになっていた。
あんなに大人びて見えた那月も、
所詮、少しだけませた、どこにでもいる少女に過ぎなかったのだ、と。
ただ、時々瞼の裏に焼きついた線路の上を歩く彼女の姿を思い出す度、
私はなんとも言えない、胸の奥に潜む寂寥感を自覚させられるのだった。
* * *
お寺からの帰り道、ひと組の家族とすれ違う。
長女らしき女の子が、弟たちに向かって
自慢げに話した。
「ね、知ってる? お盆っていうのは死者の霊があの世からこの世に帰ってくる時期なんだって」
私は、しばらくその小さな少女をボンヤリ見つめていたが、
やがて踵を返した。
夏の空だけが、燦々と輝いていた。