第四十五食 恋よりも愛
恋と言うには重すぎて、愛と呼ぶには複雑だ。
けれど、サヤとアルヴィスの関係は、どんな形よりもぴったりと合わさっていた。
──サヤのいない世界なんて、消えてしまえばいい。
心の大部分を失ったかのような喪失感と、色褪せた景色。
サヤと出会う前のように生きていくなど、アルヴィスにはもう……考えられないことだった。
◆ ◆ ◆ ◆
「これが人を食べるという鬼か?」
「はいお坊ちゃま〜。こちらが鬼でありながら、絶世の美貌を持つ人喰いでございます〜」
大富豪であるモーリッシュ家の一人息子が訪れたことで、支配人の男は媚びるように手を揉んでいる。
人身売買を生業とする男だが、人外も扱っているため、その道の者たちの間ではそこそこ噂になっていた。
「食事はどうしている」
「奴隷を三日に一人、与えております〜」
「純血の鬼は力も強く、気性が荒いものも多いと聞きますが」
「いやぁ、この通り反応の薄い鬼なので……。暴れるどころか、食事の時以外はあまり動きさえしないんですよ〜」
座ったまま視線の合わないアルヴィスを、ルイスは興味深げに眺めていた。
側仕えであるロザリーの質問に答えると、支配人の男は「そろそろ食事の時間なので見ていかれますか〜?」と愛想笑いを浮かべている。
「おい、おまえ。本当に鬼なのか?」
ルイスからの問いかけに、アルヴィスが答えることはない。
無礼を叱ろうとするロザリーを制し、ルイスは出された人肉を咀嚼するアルヴィスを、どこか恍惚とした表情で見つめていた。
「人の肉は美味いのか?」
初めて反応を示したアルヴィスは、ルイスを観察するように見返している。
真っ直ぐ合った視線に、ルイスは背筋が粟立つのを感じていた。
手から滴る赤は、人間だったものの血液だ。
耐え切れなくなった支配人の男は、青ざめた顔で視線を逸らすと、「終わったら呼んでください〜」と口元を押さえて去っていった。
「怖くないの?」
「いいや。むしろ、もっと見ていたいくらいだな」
「ふーん」
気まぐれだったのか。
すぐに逸れた視線に、ルイスは物足りなさを感じていた。
天使のような容貌で、人間の肉を食べる様は、ルイスに猛烈な背徳感を与えてくれる。
ルイスは有り余るほどの富を持つ、モーリッシュ家の一人息子だ。
──この時点で、結論はとうに出ていたようなものだった。
◆ ◆ ◆ ◇
ルイスはアルヴィスに屋敷の地下で暮らすよう指示し、三日に一度はメイドを餌として送るようにしていた。
時折ルイス自身も地下に行っては、食事をするアルヴィスの姿をじっと見つめ、満足した様子で帰っていく。
屋敷が嫌になればいつでも抜け出すことはできたが、アルヴィスには食欲以外の欲も気力もなかった。
悪趣味な子供ではあったが、食事を取るアルヴィスを見て怖がらなかった人間は珍しい。
何もせずとも食事が出てくる現状に、アルヴィスは段々と妥協を見出すようになっていった。
しかし、そんな惰性による日々は──突如終わりを告げた。
「あの、落としましたよ」
さらりと流れる濡羽色の髪と、宝石のような紫色の瞳。
転がった腕を平然と手に取り渡してきた少女は、小動物のように可愛らしい外見をしていた。
人間の腕を食べるアルヴィスを怖がっているのかと思えば、「視覚的に複雑」なんて面白いことを言ってくる。
腕に圧縮をかけ呑み込むと、途端にきらきらした目で見つめてくる始末だ。
ころころ変わる表情と、突拍子もない発言。
人喰いにパートナーになって欲しいと提案する図太さには驚いたが、実際のサヤはとても優秀な殺し屋だった。
透明感のある明るい紫も、底なし沼のように暗い紫も、アルヴィスの心をざわつかせるほど魅力的で──。
アルヴィスは多分、あの時にはすでにサヤのことを好いていた。
一目惚れだと話すリリウムに、かつての自分を重ねる程度には、ほんの一瞬で引き込まれる感情に覚えがあったのだ。
ようやく自覚した頃には、アルヴィスの感情はとっくに恋の域を超えていた。
褪せていた世界は鮮やかになり、つまらなかった毎日を楽しいと思えるようになった。
それなのに──。
サヤがいない世界など、考えられない。
能力を使うほど空腹を強く感じるが、アルヴィスは構うことなく進んでいく。
寿命のない神鬼が滅びたのは、飢えという“呪い”があったからだ。
それでも、アルヴィスだけは今もずっと──死ぬことができないままこの世を彷徨っている。
サヤの後を追うことさえ、許されないのだろうか。
自暴自棄になっていく心のままに、アルヴィスは地面にへたり込むリリウムを見下ろし、能力を使おうとした。
「駄目ですよ、アルヴィス」
背中に触れた温もりは、アルヴィスが求めてやまない相手のものだ。
お腹に回された腕に、アルヴィスはぴたりと動きを止めていた。
「……サヤ?」
「はい。何ですか、アルヴィス」
湿った身体は、湖の中にいたためだろう。
振り返ったアルヴィスの視界が、一気に色づいていく。
少し冷えた身体をかき抱いたアルヴィスは、二度と離さないとでも言うかのように、サヤの背にしっかりと腕を回している。
「サヤが……いなくなったと思った」
「いなくなりませんよ。一生面倒を見るって、約束したじゃないですか」
サヤにとっては何気ない会話だったはずだ。
けれど、本当は何もかも分かった上で答えていたのだと知り、アルヴィスはようやく安堵した表情でサヤの身体を離した。
「オラクル、もう大丈夫ですよ」
リリウムを庇うように覆い被さっていたオラクルは、サヤの声に恥ずかしそうな様子で立ち上がった。
「いやぁ、無事でほんとに良かったよ……」
「オラクルも。ひとまず、これを何とかしないとですね」
周りの惨状を見渡したオラクルは、「仮死状態の魔法が発動してるみたいだねぇ」と呟いている。
「まだ生きてはいるし、急いで回復魔法をかければ何とかなると思うよぉ」
真面目な雰囲気になったオラクルは、座り込んだままのリリウムに向けて手を差し出している。
「リリウム様も手伝ってくれますか?」
「……はい、もちろんです」
唇を噛み締めたリリウムは、泣きそうな顔でオラクルの手を取っていた。




