第四十四食 特別のとくべつ
「リリウム様って、こういう男が好きなん?」
絵巻物を見ていたオラクルが、描かれた絵の一部を指した。
「そうですね。憧れない理由がないですから。わたしもいつか、この絵のような殿方と出会ってみたいのです」
「……へー。やっぱ顔がいいん?」
どこか声が沈んだオラクルは、絵巻物を閉じると、元の場所に立て掛けている。
オラクルの様子にくすりと笑みをこぼしたリリウムは、「顔だけでなく、強さも大切ですよ」と話していた。
「それよりもオラクル、なぜここにいるのですか? 魔法の修行は終わったのですか?」
「い、いやぁ。それはその〜」
視線を泳がすオラクルに、リリウムは何かを察したような雰囲気になった。
オラクルの名前を優しく呼ぶと、正面から視線を合わせている。
「オラクルは、エルフの中でも特に魔法の才能があると、先生がおっしゃっていました。期待されているのですよ。いつか、わたしをも超える魔法の使い手になるのかもしれませんね」
リリウムが魔法の使い手として優秀なことは、エルフであれば誰もが知っていることだった。
エルフは魔法の力量によって評価される。
最も優秀な者が、次代の長に選ばれることもあるくらいだ。
リリウムは長の娘であり、長を除いて、現時点で最も優れた魔法の使い手でもあった。
「もし……そうなったらさ、リリウム様はあの絵の男より、俺の方が好きになったりとかするん……?」
「んー、それはどうでしょうか」
なけなしの勇気を振り絞ったオラクルは、苦笑するリリウムを見て崩れ落ちそうになっている。
やはり望みはないのかと表情を曇らせるオラクルに、リリウムは「ですが──」と柔らかく言葉を続けた。
「もしもオラクルがそうなった日には、ときめいてしまうかもしれませんね」
はにかんだ笑顔を浮かべるリリウムの姿が、オラクルの目に焼き付いていく。
──いつか必ず。
脈打つ鼓動に誓うように、オラクルは胸に手のひらを当てていた。
◇ ◇ ◇ ◇
光の届かない場所にも関わらず、湖の底はぼんやりと明るかった。
目を覚ましたサヤは、息苦しさの消えた身体を起こすと、不思議そうに辺りを見回している。
照らしているのは水晶だろうか。
六角柱状の結晶は、まだ削られる前の形をしていた。
底を埋め尽くすほどの水晶が、不意に黒く染まり始める。
共鳴していくように色が変わるにつれ、周囲も闇に閉ざされていった。
「また会えたわね、可愛い子」
長い髪は闇の如き黒さで、水中を漂うように広がっている。
光のない目がサヤを見つめ、唇がゆるりと吊り上がった。
「死の神さま……?」
「その呼び方は、なんだか他人行儀よね。せっかくお揃いにしたのに味気ないわ」
不服そうに唇を尖らせた死の神は、「そうねぇ」と思案顔で呟いている。
「私のことは『ヨル』と呼べばいいわ。どうせなら、名前もお揃いにしましょう」
どうかしらと微笑んだ死の神は、素直に頷いたサヤを見て機嫌を良くしたようだ。
サヤの手を取ると、ダンスを踊るかのように水中でくるりと回っている。
「それにしても、驚いたわ。まさかサヤが、神鬼を相手に選ぶなんて」
驚いていると話す割に、死の神の声には微塵もそれらしい感情が混じっていない。
「じんき、ですか?」
「神を喰う鬼のことよ。正確には、神の能力を喰う鬼のことをそう呼ぶの」
アルヴィスのことを言っているのだろうか。
目を瞬かせるサヤの前で、死の神が水の一部を鏡に変化させた。
地上の光景が映し出され、サヤの視界にアルヴィスの姿が飛び込んでくる。
金色に煌めく瞳と、陥没した地面。
リリウムの方へと近づいていくアルヴィスの足元には、横たわったまま動かないエルフたちの姿があった。
生きているのかも分からない。
微動だにしないエルフたちには目もくれず、アルヴィスは立ち塞がる者を圧倒的な力で排除していく。
魔法、異能、加護。
初めて見る能力のオンパレードに、サヤは思わず賞賛の言葉を口にしていた。
「アルヴィスは、本当にすごいです」
「ふふ、サヤも負けてないわよ。私の唯一の使徒だもの」
死の神が、初めて使徒にしたいと望んだ存在。
後にも先にも、こんな魂は現れないかもしれないと思うほど、死の神はサヤのことを気に入っていた。
「この子のことが大切なのね。だから、あのエルフの言ったことが気になっているのでしょう?」
──どうせ長くは生きられないのに。
湖に沈める直前、リリウムはサヤを見下ろしながらそう呟いていた。
人間と鬼では、寿命が大きく異なっている。
長寿である鬼やエルフからしてみれば、人間の寿命など刹那にも等しいものだろう。
サヤはアルヴィスを、すぐに置いていってしまう。
けれどリリウムなら、アルヴィスと同じ時間を生きることができるかもしれない。
「ここまで会いに来てくれたご褒美に、良いことを教えてあげる」
目を伏せるサヤの腰を引き寄せ、死の神が妖しい笑みを浮かべた。
脳に直接囁かれた言葉に、サヤは思わず死の神を見つめている。
「──そういえば、儀式をしていないのに、どうしてヨルと会えているんですか?」
死の神を見つめていたサヤだったが、今の状況に疑問が湧いてきたようだ。
ふと思い出した様子で尋ねている。
「水晶は、この世界と神を繋ぐための媒体なの。水晶を通して触れることで、神の言葉を聞くことができる。でもそれは、この世界の話にすぎないわ。私たちの側からなら、媒体さえあれば自由に接触することができるのよ」
フォルレンシストは、水晶が豊富に採れる場所だ。
死の神がサヤとの接触を行えるほど、湖の底には充分な資源が溢れていた。
納得したサヤの視線が、不意に鏡の方へと向けられる。
サヤの意識が逸れたことを察し、死の神はわざと拗ねた顔でサヤを睨んだ。
「サヤってば、私といるのにあの子のことが気になるのね」
「あ、ごめんなさい! その……」
妬けるわと眉を寄せた死の神に、サヤが慌てた口調で謝っている。
「ふふ、まあいいわ。サヤのおかげで、最近は食卓も潤ってるもの」
ころりと表情を変えた死の神は、楽しげに笑みを深めると、指先でサヤの頬を撫でた。
「それに──私のサヤが、並大抵の相手を選ぶよりよっぽどいいわ」
水中でも自由に会話が行えるのは、死の神が一時的に、辺りを自らの領域にしているからだ。
とはいえ、あまり長居をするのは影響が大きすぎると判断したらしい。
残念そうに頬から手を離すと、死の神は水面に向けてサヤの背を押した。
「行ってあげなさい。いずれまた、会える時も来るでしょう」
水晶が元の色に戻っていく。
闇が光に溶けるように、死の神の姿もその場から消え去っていった。




