第三十二食 それだけの物語
「私を守ると言いながら、どうして止めるんですか?」
「……え?」
人を殺した人間が、殺されるリスクを背負うのは当たり前のことだ。
それなのに、どうして青年は小夜を止めようとするのだろうか。
「この人は両親を殺したのに、私はこの人を殺しちゃいけないんですか? それって、不平等ですよね」
不思議そうに問いかける小夜に、青年が言葉を失う。
両親を亡くしたことで、おかしくなってしまったのかもしれない。
奥歯を噛み締めた青年は、小夜の情に訴えかけようと叫んだ。
「ご両親は、小夜ちゃんが人殺しになることを望んでいないはずだ! だから、ご両親のためにもこれ以上は──」
「それ、誰に聞いたんですか?」
小夜の中で、何かがぷつりと千切れる感覚がした。
温度のない声に、青年が息を呑む。
「死んだ人は、言葉も話せなくなるんですよ。望んでいるかいないかなんて、誰にも分からないじゃないですか」
今の小夜を止められる者がいるとしたら、それは両親だけだ。
けれど、両親はもういない。
小夜が青年に守ってほしかったのは、小夜の立場ではなく、心だった。
振りかざした包丁が、犯人の背中に再び突き刺さる。
同時に、小夜の腕を弾丸が貫いた。
「小夜!」
悲痛に近い叫びが上がる。
「やめてください先輩! あの子は……っ、小夜は……!」
両親はもっと痛かっただろう。
飛び散った血液に両親の姿が思い返されて、小夜の目から一粒の雫が流れていく。
結局は、これもまた復讐だったのかもしれない。
刺されても動かない犯人を見て、小夜は無事だった左腕で包丁を拾った。
復讐をいけないことだなんて思わない。
小夜は、復讐がもたらすものを無意味だとは思っていなかった。
「小夜、お願いだから……! 頼むからもうやめてくれ!」
銃を捨てた青年が、小夜へと駆け寄っていく。
「……っ、バカ野郎! 離れろ!」
先輩の言葉も、自分が警察だということも、青年を止める理由にはならなかった。
包丁を振り上げた小夜の目に、手を伸ばす青年が映る。
正しい道に戻そうとなどしなくていい。
結局、この世界は小夜にとって、生きづらい場所でしかなかったのだ。
小夜は包丁の刃先を、青年の方へと向けた。
薄く微笑んだ小夜が、包丁を振り上げる。
直後に響いた銃声は、小夜の胸元に真っ赤な花を咲かせた。
殺すつもりがないことは、青年にも伝わっていただろう。
倒れた小夜を抱きしめ泣き叫ぶ青年の声が、段々と遠ざかっていく。
走馬灯だろうか。
幼い小夜に本を読み聞かせる青年の姿が、点滅する明かりのように映っては消えていく。
異世界なんて信じていない。
それでも、もし死の先に続きがあるのなら、次はもっと生きやすい世界に行ってみたいと思う。
小夜としての人生は、これで終わりだ。
青年は、小夜の運命になることはできなかった。
それだけの──物語だったのだから。
◆ ◆ ◆ ◆
真っ暗な視界は、光を失った小夜の心を表しているかのようだった。
どちらに行けばいいのかも分からず、ただ彷徨い歩き続ける。
不意にひたりと鳴った足音が、小夜の傍まで近づいてきた。
輪郭さえも見えない暗闇の中で、小夜は音の聞こえた方をじっと見つめる。
「そんなに見つめないで。照れてしまうから」
若い女性の声だ。
大地のように広く、空のように澄んでいる。
軽やかでありながら深い声は、神様と言われても納得してしまうほどの壮大さを感じさせた。
「……あなたは誰ですか?」
「私は死の神よ、可愛い子」
可愛い子と呼ばれ、小夜がきょとんと目を瞬かせる。
「ふふ。神という言葉よりも、そっちの方が気になるのね」
心を見透かしたかのように笑う死の神は、「いらっしゃい」と言いながら小夜の手を引いた。
「あの……私、小夜って言います」
「知ってるわ。人間の言語では、小さな夜と表すのでしょう? 私、夜が特に好きなのよ」
優しく手を引く死の神が、くるりと身体を半回転させた。
その瞬間、小夜の目にぞっとするほど美しい少女が映った。
「どう? これで見えるかしら」
太ももまで伸びる真っ直ぐな黒髪と、横に切り揃えられた前髪。
切れ長の目には同色の瞳がはまっており、小夜の前に広がる暗闇のように光がない。
黒いセーラー服を着た少女は、小夜と同じくらいの年齢に見える。
しかし、妖艶で圧倒的な美貌は、とても同い年とは思えない雰囲気を漂わせていた。




