第三十一食 普通でありたかった子
犯人の背筋に、悪寒が走った。
殺しを楽しむ犯人とは異なり、小夜からは何の感情も感じられない。
手に握られた鋭利な包丁が、犯人の方へと向けられる。
殺す側から、殺される側へ。
小さく漏れた悲鳴は、本能による警笛だったのかもしれない。
犯人は勢いよく小夜に突進すると、車外に逃げようと飛び出した。
「止まれ! 止まらないと撃つぞ!」
護送車の陰から、拳銃を構えた警察官が現れる。
無線で応援を呼んでいたのだろう。
反対側には、別の警察官が拳銃を構えていた。
「たっ、助けてくれ! 殺されちまう……!」
「動くなと言っている!」
パニックを起こす犯人の姿に、警官たちの緊張も高まっていく。
自分じゃないと何度も叫ぶ犯人の背後で、膝丈のスカートがふわりと舞った。
「いでえええええ! いでぇよおおお!」
背中を刺された犯人が、痛みで暴れている。
制服姿の少女は、犯人の頭を地面に押し付けると、背中から包丁を引き抜いた。
手を拘束されているとはいえ、少女は犯人の身体をしっかりと押さえつけている。
犯人が必死に抵抗するも、細い身体のどこにそんな力があるのかと思うほど──殺しを決めた者の力は強かった。
「……さや、ちゃん……?」
拳銃を構えていた警察官の片方が、信じられないと言わんばかりに目を見開いている。
慕っていたお兄さんの声に、小夜がゆっくりと顔を上げた。
「……なんで……。どうして小夜ちゃんが……」
「落ち着け新人! 銃を下ろすな!」
先輩の叱責に拳銃を構え直すも、青年の手は小刻みに震えている。
「……小夜ちゃん、復讐なんてやめるんだ……。今すぐ手に持った物を下ろしてくれ……!」
懸命に訴える青年と、小夜の目が合う。
青年を映した小夜の目に、僅かだが光が宿った。
小夜の動機は、復讐とは少しずれていた。
法を重んじなさい。
ルールを守りなさい。
礼儀正しくありなさい。
これは全て、両親が小夜に言い聞かせてきたことだ。
厳しくも愛のある両親は、小夜の心を照らす光だった。
生まれつき感情に疎かった小夜を、他と変わらない普通の子だと言い切り、宝物のように慈しんでくれた。
両親の存在は、小夜という人間を構築する上で、欠かせないものだったのだ。
しかし、両親を失ってからの小夜は、ずっと暗闇の中を彷徨い続けている。
真っ暗な世界に堕とされ泣いていた幼子は、いつしか疲れ果て、擦り切れそうになっていた。
守るものがなくなった人間ほど、怖いものはない。
かつて誰かが口にした言葉は、今の小夜を体現しているかのようだった。
「……お兄さんは、私を守ってくれるんですよね?」
あの日、小夜を抱きしめた青年は、これからは両親の代わりに自分が小夜を守ると約束してくれた。
「ああ……! 守るよ! 絶対に守るから、まずは武器を地面に下ろしてほしい」
武器を捨てて、投降しろ。
青年の言葉を要約するならこうだ。
小夜の反応に希望を見出した青年が説得に集中する反面、もう一方の警察官は、もはや犯人ではなく小夜の方に拳銃を向けている。
出血により、犯人は抵抗する気力さえないようだった。
少しずつ距離を詰めようとする青年に、小夜の目から僅かな光さえも失われていく。
青年は、小夜を分かっていなかった。
そして何より、甘く見ていた。
心細いであろう小夜の傍にいてあげたい。
そんな思いで、青年は仕事が終われば毎日、小夜のもとを訪れるようにしていた。
しかし、犯人が捕まったあの日──青年はどうしても小夜を安心させたくて、勤務中にも関わらず小夜に会いに行ってしまったのだ。
先輩からかかってきた電話に、青年は急いでリビングを出る。
ドアを閉じ、スマホを耳に当てた青年は、小夜の両親を殺した犯人の護送について知らされた。
業務的な会話が終わり、先輩は護送車の手配が面倒だと呟いている。
苦笑する青年に、先輩は「しっかり支えてやれ」と口にした。
厳しい先輩だが、情に厚い人でもある。
一人残された小夜のことを、気にかけているのだろう。
先輩に感謝を伝え、電話を切った青年は、完全に油断していた。
まさか、ドア越しに小夜が会話を聞いていたなんて、みじんも疑っていなかったのだ。




