リリス=アズラーリの旅路には、品と逆転が付き物でして
イリディア――魔法文明の極地。
魔術制度、学問、記録管理すべてにおいて最先端とされる都市。
その中心にそびえるのが、巨大な魔法学園《賢聖院アストレア》だ。
俺たちは、そこにいた。
敵討ちのための情報。
リリスが追う“母の足跡”を記した記録。
それが、この都市の大図書館に眠っているという。
「……あの塔が、図書棟ですか?」
見上げたリリスが、帽子のつばをそっと押さえる。
白と金を基調とした構造。
空を貫くような塔に、無数の魔法障壁が張られている。
「厳重ですね」
「ええ。あれほど“封じる”必要があるということは、つまり……」
「“触れられたくない真実”がある、ということですか」
「ふふ。さすが、レオン」
それだけ言って、リリスは静かに歩き出した。
その時だった。
遠くで、爆音。
「っ……魔力暴走?」
広場で、少年が叫びながら暴れていた。
制御の利かない魔法が、周囲の空気を焼き、商人の屋台が弾き飛ばされていく。
「避難して! あの子、暴走してる!」
「誰か、制止を……!」
市民たちは逃げるが、誰も近づこうとしない。
少年の手から、雷光が暴発する。
このままだと、通りの端まで被害が――
「レオン」
「はい」
リリスは一歩前に出た。
何も唱えず、ただ、手を伸ばす。
風が止まる。
瞬間、少年の足元に魔方陣が出現し、暴走した魔力が静かに“吸収”されていく。
術式は精神封鎖魔法。
魔力量ではなく、意識そのものを安定化させる高等術。
「落ち着いて。……あなたの魔法は、まだ“粗削り”なだけです」
リリスの声が、少年の耳に届く。
暴走は止まった。
少年はそのまま、地面にへたりこむ。
「……魔法、止まった……?」
「嘘……術式すら唱えずに?」
「でもあの子、あの目の色……」
周囲の人々が、リリスの“紫の瞳”を見てざわつきはじめる。
「混じりか?」
「魔族の血……あんな奴に、魔法を扱わせていいのか?」
「いや、今のは……でも、念のため、通報しといた方が……」
リリスは、それらの声に一切反応せず、少年に小さく頭を下げる。
「あなたの魔法は、きっと誰かを守るためにあるわ。――どうか、忘れないで」
その一言を残して、リリスは踵を返す。
「レオン、行きましょう」
「はい、姫」
風が吹く。
誰も近づこうとしない“魔族の瞳”の少女と、寡黙な騎士。
だが、残された者たちの心には、確かにひとつ――疑問が残った。
“本当に恐れるべきは、あの瞳なのか?”
賢聖院アストレア。
魔法都市イリディアの中心にそびえる、大陸最大の魔法学府。
その大図書館には、王国機密に迫る“未開示記録”も保管されているという。
俺たちは、その門前に立っていた。
正門の前には、厳めしい装束の受付係。
傍らには、二名の魔術監視官が控えている。
――明らかに“魔族対策”を意識した配置。
「ご用件は?」
係員の声は、壁のように平坦だった。
リリスは一礼し、丁寧に言う。
「大図書館の閲覧を希望します。一般記録の調査です」
「魔術師資格は?」
「持っていません。市民資格のほうで……」
係員の眉がぴくりと動いた。
「……申し訳ありません。学術閲覧室は、魔術師等級を持たない者の立ち入りはできません」
その時、背後から別の声がかぶさった。
「そうだ。“魔族”の血を引く者に、学問など不要だ」
白衣をまとった男が現れる。
鋭い目つき、整った髪。
名前を知るまでもない――ああいう“テンプレ”は、覚える必要すらない。
「レトス教官。対応をお任せしてよろしいでしょうか」
「構わん」
白衣の男――上級教官レトスは、リリスの瞳を見て、あからさまに笑った。
「その瞳、どこかで見覚えがあると思った。……ああ、“紫”。魔族混血特有の。
この学園は、魔法を使える者のためにある。だが――それ以前に、“人間”のためにある」
周囲の見学者たちがざわつく。
若い学生が数人、通りかかって足を止めた。
「え、今の人……紫の瞳?」
「マジで? 混血ってほんとにいるんだ……!」
「てか入ろうとしてんの? こわ……」
俺は隣に立っていたが、一言も発しない。
リリスもまた、何も言わなかった。
ただ――いつものように、淡く微笑んで、頭を下げた。
「そうですか。ご説明、ありがとうございます」
「ふん。理解が早くて助かる。
魔法都市は、誰にでも門を開いているわけじゃない。――“選ばれた者”だけのものだ」
「……それは、学びにとって、ずいぶん狭い扉ですね」
「何か言ったか?」
「いえ。では、失礼します」
リリスは背を向けた。
その背中を、白衣の男が“勝ち誇った目”で見送る。
だが、その視線の意味を、彼はまだ知らない。
彼女が「勝敗に興味がない」ということを。
“ただ学びに来ただけ”だということを。
俺はその後ろに付き従いながら、小さく呟く。
「……では、別の道から入りましょうか」
リリスはわずかに頷いた。
静かに、淡々と――この街の“嘘の知”を崩す準備は、もう始まっている。
賢聖院アストレアの門を背に、俺たちは静かに歩いていた。
リリスの足取りは変わらない。
拒絶されても、侮辱されても、目的はぶれない。
「――図書塔への直通は遮断されました。では、別の層から調べるしかありませんね」
「地下古書街。あと、非公式の魔術記録を扱ってる露店も」
「ええ。それと、大学区の市民資料館に、分割記録の残りがあるかもしれません」
この街は、魔法によって発展した都市だ。
だがその一方で、“魔法に関わる資格制度”が厳格すぎる。
知識すら階級に管理されている。
だからこそ――抜け道もある。
地下に広がる古書市場は、魔法学園に入れなかった者たち、追放された者たちの知の蓄積場所だった。
値段は高く、信憑性もまちまち。だが、中央記録に載らない“真実”が、そこには眠っている。
「この写本……“精神干渉の上位魔術の理論的逆用”?」
リリスが、古い文献に指を走らせる。
「母上が遺した術式に似ています」
「このページ、消えかけてます。補強しましょう」
「ありがとう、レオン」
そのやり取りを、古書店の老人がじっと見ていた。
「――お嬢さん。君、紫の瞳をしているね」
「ええ。よく言われます」
「そうか……あんたら、あの塔に入れなかったんだろう?」
俺たちは答えなかった。
老人はゆっくりと席を立ち、一冊の革表紙を取り出した。
「昔、そこの学園の教師だったよ。
でも、“見てはいけない記録”を見ちまってね。追われるように出た」
革表紙の記録には、奇妙な印が押されていた。
“閲覧封鎖印”。
――王家か中央の命令で、封印された知識の印だ。
「君が見てる術式の系譜は、ずっと前に存在してた。
それが記録から“消された”んだ。……本当は、学ぶべき者のためのものだったのにな」
リリスは、その言葉を静かに受け止めた。
目を伏せ、小さく一礼する。
「ありがとうございます。……記録が語る以上のものを、聞かせていただきました」
老人はふっと笑った。
「君みたいな子が、本来は“学びの側”にいるべきなんだがね。……まあ、この国じゃ難しいか」
外に出ると、夕方の光が図書塔の尖塔に赤く当たっていた。
白の学舎が、ほんの少しだけ、くすんで見えた。
「レオン。明日も、地上階層を調べます。
彼らが“封じた”なら――その隙間にこそ、真実があります」
「はい。準備しておきます」
“誰のためにある知なのか”。
その問いに、答える者は誰もいなかった。
翌朝も、俺たちは地上階層の記録室と書店を巡っていた。
魔族討伐の記録。
リリスの母が最後に名を残した戦い。
だが、その詳細はどの記録にも存在しなかった。
“削除されている”というより――最初から“なかったことにされている”。
「……意図的に封印された記録には、いくつか共通点があります」
リリスが調べていたのは、廃棄予定の文献目録。
そこには、王都中央から命じられた“破棄済書類一覧”が載っていた。
「魔族関連の記録のうち、“協定”、“共闘”、“退去後の経過”……こうした記録だけが消されている」
「討伐の記録は残っているのに?」
「はい。“戦果”だけが残されている。理由はひとつ――」
「……都合が悪いから、ですね」
「ええ」
リリスの手が止まる。
そこに記されていた、ある一文。
《東辺境アズラーリにおける魔族鎮圧の詳細:記録削除、封印指定、魔術審問院命令により閲覧不可》
「……母の名前は、やはり、消されています」
その瞬間だった。
塔の裏庭。
花壇の奥から、ひとつの声が届いた。
「お嬢さん。そこにある石碑は……“学園最初の開示宣言”ですよ」
リリスが振り返る。
――黒衣の老人が、そこにいた。
長い杖。落ち着いた白髪。
だが、背筋は伸び、どこか異様な威圧をまとっている。
その瞳だけが、すべてを見透かすように澄んでいた。
「“魔法は万人のもの”。この都市の礎となった言葉です」
リリスは目を細める。
「……知っている人は、少なくなったはずです」
「ええ。忘れてほしくない言葉なんですよ。
特に――資格や血筋で知を測ろうとする者たちにこそ」
老人はそれ以上名乗らず、花壇の縁に座り込んで、空を見上げた。
「空は、見えますか? あの塔の上からは。
……閉ざされた塔では、たとえ学びがあっても、空は見えません」
リリスは黙って耳を傾けていた。
「どうか、その目を曇らせないでください。
本当の魔法とは、“目に見えない何か”を信じることから始まるのですから」
それだけ言って、老人は立ち上がる。
どこかへ歩き出すその背を、リリスはしばらく見つめていた。
「……ただ者では、ないわね」
「はい。俺も、何か……感じました」
その後、記録を手に街を離れると、塔の上の旗が――静かに、風に揺れていた。
誰も知らない。
あの黒衣の老人こそが、この学園の“頂点”に立つ者――エルネスト=ヴァリアンであることを。
賢聖院アストレアの一角、演習中庭。
この日は生徒たちによる公開実技講義の日だった。
一般市民の見学も認められており、俺たちもその“見学者”という扱いで立ち会っていた。
街で集めた情報にいくつかの手がかりがあったため、リリスがもう一度学園の様子を見たいと言った。
「……構造式の再編成にしては、演算が甘いですね」
リリスは魔術陣の展開を見ながら、淡々と呟く。
それを聞きつけたのか、生徒のひとりがこちらを睨んできた。
「なんだよ、外部の癖に口出しかよ」
「“あれ”紫の瞳じゃね? 昨日の……」
「えっ、あの“混じり”が来てんの? マジで?」
ざわざわと、空気が変わっていく。
そこに、あの男――上級教官レトスが現れた。
白衣を翻し、わざとらしくこちらを見る。
「ふむ、君たちはまた来ていたのか。……見学? 資格もないのに、熱心だな」
皮肉めいた笑い。
リリスは相変わらず表情を変えず、ほんの少し首を傾げるだけ。
「学びに資格が要るとは知りませんでした」
「ほう……なら、君に問おう。
この術式――“三重解放型の連鎖構造”の欠点は何か?」
生徒たちがざわつく。
「えっ……それ、教官級の試験問題じゃん」
「というか、魔術師資格持ってないなら絶対わかんないだろ……」
リリスは数秒だけ、空を見た。
そして、静かに答える。
「熱の定着が先行しすぎています。
第二層構造が暴走しやすくなっており、短期展開の際に術者の身体に反動が返るでしょう」
ざわ……っ。
生徒たちが口を開ける。
レトスの笑みが、ぴたりと止まる。
「……本で読んだか?」
「ええ。古書にて、数式構造の反復を拝見しました」
「……学んだのか、それを?」
「学びたいと思いましたから」
それだけ。
他意のない、淡々とした言葉。
だからこそ――
「魔族の血に、学問の意志があるとでも?」
――その返しが、空回りにしか見えなかった。
俺は、剣に手をかけないように、ただ見ていた。
レオンとして、騎士として――“まだ”その時ではない。
リリスは、目を伏せて微笑んだ。
「知は、人に与えられるものではなく、自ら求めるものです。
……あなたが“拒んでいる”のなら、それは、あなたの問題かと」
その場が、凍りついた。
レトスは何か言おうとしたが、リリスはもう背を向けていた。
「レオン、参りましょう」
「はい、姫」
塔の影が伸びていく。
――その場に残された者たちの目に映ったのは、“背中”。
“反論を許さない静寂”こそが、彼女の最大の“逆転”だった。
その夜、月は雲の合間にわずかに顔を覗かせていた。
賢聖院アストレアの図書塔。
昼間は聖性の象徴のように見えた白の尖塔が、今は監視と封印の象徴にしか見えなかった。
「……準備は、整っています」
リリスは、闇に溶けるような旅装に身を包んでいた。
目的はただひとつ。
母の討伐記録に繋がる原文史料の所在確認。
「僕が先行して偵察を」
「いえ。今回は、私が行きます」
珍しく、リリスが自ら出ると言った。
俺はそれに一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに頷いた。
「……では、後方から警戒に徹します」
「ありがとう、レオン」
図書塔の裏手。夜間搬入口から、魔術鍵を用いて静かに侵入する。
リリスは魔力を抑え、靴音すら立てずに塔の螺旋階段を登る。
目指すは、“封印指定資料庫”。
そこは、通常の学生や教官ですら立ち入れない“知の墓所”。
だが――リリスは、入った。
淡い光を灯し、目を走らせる。
そして、一冊の記録に指を置いた。
《【封】第67-A 東辺境アズラーリ:魔族鎮圧記録(個人記録含)》
閲覧権限:審問院・監査官・王族指定者
施封命令発令日:リリィ=アズラーリ戦死確認の翌日
「……やはり、ここに」
ページをめくる。
記されていたのは、“共闘した魔族の存在”と、“撤退交渉”の記録。
そして、その報告者として記されていた名前。
リリィ=アズラーリ
リリスの母――そして、中央から“記録ごと存在を消された”人物。
「母は、最後まで……共存の道を、模索していたのね」
その時――塔の下で、微かな気配。
監視員か。いや、違う。
リリスは視線だけで気配の接近を測る。
扉の向こうに立った人影は、だが、何も言わずに立ち去った。
魔力を一切持たない足取り。
だが、全体の気配が“静かすぎる”。
「……あの方」
昨日、花壇で出会った老人のことを思い出す。
何も言わず、咎めず、ただ**“知を守る者”の目**で立っていた。
「見逃してくださったのか、それとも……」
リリスは記録の一部を写し取り、静かに塔を後にする。
外に出ると、俺が出迎えた。
「異常なしです」
「ええ。収穫は充分」
風が吹く。
塔の上部に、赤い警告灯が一瞬だけ点灯し、すぐに消えた。
その意味に気づいた者は、まだいない。
だが、この“知の塔”の中に潜むものは、もう暴かれ始めていた。
翌朝、賢聖院アストレアの空気が――確かに変わった。
教職員たちの動きが慌ただしくなる。
警備の数が増え、空に漂う魔力の層が張り直されている。
「……戻られたようですね」
リリスがそう呟く。
彼女の言う“戻られた方”とは、ただ一人。
学園長、エルネスト=ヴァリアン。
長期外遊、という名目で都市を離れていたこの人物が、学園に戻った。
だが――その動きは、歓迎というより、“警戒”に近い空気を生んでいた。
昼下がり、俺たちは学園から少し離れた市民区画で情報収集を続けていた。
「学園長ってさ、何者なの?」
「だって歳、百近いって話だろ? でも今でも普通に歩いてるって……」
「“魔術師の中でも本物”っていうかさ、なんか“見抜く力がある”らしいよ。あの人にウソは通じないって」
学生たちの会話からも、ただならぬ空気が伝わってきた。
「……あの人が戻ってきて、“騒いでいる”のは、生徒じゃない。教師の方ですね」
リリスの言葉に、俺は頷いた。
「昨日、塔の封印資料室に気配がありました」
「ええ。たぶん――見られていたわ」
だが、咎められることもなかった。
それどころか、静かに通されていた。
それはつまり――
“見極めようとしていた”ということだ。
「……おそらく、次に動くのは、彼らの側」
「はい。焦って、“処分”という形で仕掛けてくるかもしれません」
「それを待ちますか?」
「ええ。私はまだ、“学び終えていません”から」
そのとき、アストレアの塔から、魔術的な鐘音が鳴った。
高く、透明で、そして少しだけ重たい音。
それは、都市に“権威が帰還した”ことを知らせる合図。
塔の上層――中央指導棟のバルコニーに、黒衣の老人が一人、立っていた。
風に衣が揺れ、長杖を静かに持つその姿は、誰の言葉も必要としなかった。
「……あの方が、この都市の“真の知”を守る者であることを、願いましょう」
「ええ。願うだけなら、誰にでもできますから」
リリスの目が、一瞬だけ揺れた。
それは希望か、それとも静かな警戒か――
その意味を知る者は、まだいなかった。
学園内が、目に見えてざわつき始めていた。
上級教官レトスを筆頭に、保守派の教員たちが連日集会を開き、
魔法制度や資格規定の“見直し”を強調する発言を繰り返していた。
だがそれは、“改革”ではない。
――ただの自己保身だ。
「“混血の者が学び舎に関わった”……だと?」
「このままでは、学園の格が問われるぞ!」
「学園長の留守中に入れた者は誰だ! 責任を取らせろ!」
そう叫ぶ彼らの中に、冷静さはなかった。
騒いでいるのは常に、最も“自信のない者”たちだ。
そして、レトスが次に仕掛けたのは――“罪の捏造”だった。
「リリス=アズラーリ。
君が無断で魔法構造式を使用し、精神干渉を行ったという報告がある」
街の講義場。正式な学園手続きの下、通告という形でリリスに対して“調査要請”が届けられた。
「また、当学院の監視記録によれば、夜間に図書塔の制限区域に“似た者”の姿が目撃されている。
これは重大な規律違反であり、場合によっては資格なしでの魔法行使とみなされ――」
「……その処分は?」
リリスは遮るように、淡く口を開いた。
「規定に基づき、“追放”が検討されます」
「そうですか。ならば、判断をお任せします」
レトスは、予想外の静けさに、一瞬言葉を詰まらせた。
「……異議は?」
「ありません。私は資格を持たぬ一般人です。
処分される“所属”も、“名誉”も、私にはありませんので」
教員たちがざわついた。
「ならば、なぜここへ来た?」
「知りたいことがあったからです」
「それは許されない行為だった」
「ええ。――知を守る者にとって、きっと都合が悪かったのでしょうね」
レトスの顔がひきつる。
だがリリスは、もう背を向けていた。
通告は受け取った。処分も拒まない。
けれど、その場に残ったのは――“敗北感”だった。
誰も勝ってなどいないのに、
リリスの背中だけが“見上げる存在”のように、静かに遠ざかっていった。
そしてその日の午後、
上層執務室の扉が、音もなく開いた。
「……なるほど。こう動くか」
黒衣の老人が、そっと記録通告書を机に置いた。
「誰が正しいかではない。
誰が“知の名に恥じぬ行動をとったか”――だ」
杖を手に、学園長が立ち上がった。
静かに。だが、確かに。
学園講堂。
普段は特別な式典か、公開試験のときにしか使われない広間が、
今日は異様な緊張に包まれていた。
学生、教職員、そして見学許可を受けた市民と関係者。
その中心に立っていたのは――エルネスト=ヴァリアン学園長。
黒衣をまとい、長杖を手に。
しかしその立ち姿は威圧でも叱責でもなく、ただ**“在るべきものとしてそこに立つ”**という空気だった。
「今日、私がここに立ったのは、たったひとつの確認のためです」
学園長は、誰を見るでもなく語り始めた。
「我々は、“学び”を誰のために用意したのか。
――それを、今一度問うためです」
静まり返った講堂。
そのなかで、教官の一人が咳払いをして立ち上がる。
「学園長。件の者は、魔術師資格を持たず、さらには魔族の血を引くという噂も……」
「ええ、承知しております」
学園長は遮らず、肯定した。
だがその口調は、まるで“問題ではない”と告げるかのように穏やかだった。
「ですが、私は先日、学園の片隅で出会ったのです。
“知に向き合う者のまなざし”を持った、ひとりの若者と」
その視線が、そっとリリスに向けられる。
リリスは何も言わず、ただ一礼する。
騒がない。語らない。誇示もしない。
ただ、その場に揺るがずに立っている。
「血筋ではない。
資格ではない。
――学ぶ意志こそが、知を扱う資格だと、私は考えます」
会場がざわつきはじめる。
学生たちの顔に浮かんだのは、驚きでも反発でもなかった。
何かが、まっすぐに通ったときの静かな理解だった。
「件の通告――魔法構造式の無資格行使、夜間侵入、精神干渉の疑い。
いずれも記録上の“事実”であるが、そこに**“悪意”はない。**」
そして、学園長は手元の印章を机に置いた。
「本日をもって、リリス=アズラーリ殿に対する通告は“無効”とし、
この者を**“特例研修調査員”として学園に認定する**」
ざわっ……!
講堂が一斉に揺れた。
保守派の教官たちは顔色を変え、学生たちは思わず声を上げる。
だが――そのどちらでもない、静かな拍手が、ひとつ、二つと起こった。
「魔法は資格で測れるものではない。
そして、“知”とは、閉ざされるべきではない」
それが、学園長の“裁断”だった。
リリスは何も言わなかった。
ただ、最後に一つ、学園長を見て、小さく微笑む。
「……ありがとうございました」
そして、踵を返して歩き出す。
レオンがそれに続き、講堂を去っていく。
その背に、レトスが一歩踏み出しかけるが――学園長の一言が、それを止めた。
「レトス教官。君には別途、王都より査問が下る予定です。
……“資格”を振りかざすという行為が、どれほど“知”を貶めるか、学び直してきなさい」
鐘が鳴った。
それは“授業の開始”ではない。
学び直しの鐘だった。
朝靄の中、白の塔が遠ざかっていく。
賢聖院アストレア。
あれほど巨大だった知の象徴が、今はもう、ただの背景にしか見えなかった。
リリスと俺は、街の東門へと向かっていた。
旅の支度はとっくに整っていたが、今回は少しだけ、歩く速度が遅い。
「……本当に、何も言わずに去るのですね」
俺の問いに、リリスは目を細める。
「ええ。私たちは“何者かになるため”に来たわけではありません。
ただ、“知りたかっただけ”。……それ以上の意味は、要らないわ」
塔の方角から、一つの鐘が鳴った。
昨日と同じ、澄んだ音。
だが、その響きだけは、どこか違って聞こえた。
ふと、後ろから一人の姿が近づいてくる。
黒衣の老人――学園長エルネスト=ヴァリアン。
「旅立つ者に、言葉を残すのも野暮ですが……どうしても一つだけ、伝えておきたくてね」
リリスは足を止める。
学園長は、柔らかな口調のまま、真っ直ぐに見つめてきた。
「……あの塔に、貴女の言葉が“残りました”。
“知とは、与えられるものではなく、自ら求めるもの”――
それは、教本よりも多くの者の胸に届いた」
リリスは一瞬だけ、目を伏せた。
「それが、あなたのお望みなら」
「いいえ。……それは、“知の都”が望んだことです」
風が吹いた。
リリスの髪が揺れる。
しばしの沈黙の後、学園長がほんの少し微笑む。
「真理を求める者は、また来なさい。
貴女が学びたいと望む限り、あの塔は拒まないでしょう」
「……その時が来れば、きっと」
それだけ言って、リリスは踵を返す。
俺も静かに後に続く。
塔はもう見えない。
でも、心に何かが残った。
それは、失われていた“知への敬意”だったのかもしれない。
「レオン」
「はい」
「次は……もう少し静かな場所がいいわね。風の音が聞こえるような」
「探してみます」
旅は続く。
知を求める旅でも、復讐の道でもなく――
ただ、“自分の足で歩く”という、それだけの旅。
――名乗らず、振り返らず。
けれど確かに、あの都には“種”が蒔かれていた。
風が乾いていた。
白い石畳がどこまでも続く巡礼路。
地平の向こうに、尖塔だらけの都市が浮かんでいる。宗教都市ルクスセラ。神の名を冠する聖都だ。
「……ずいぶんと、整った街並みですね」
俺の隣で、リリスがそう呟いた。
顔を上げると、確かに――塔は均等な間隔で並び、塀の角度も狂いがない。まるで“聖性”を建築で表現したかのようだった。
だが、その手前。
巡礼路の脇に、ひとりの老婆がうずくまっていた。
巡礼者の白衣を身につけている。
だが、足が悪いのか、立ち上がれずに苦しんでいた。
人通りはある。だが誰も立ち止まらない。
いや――見ることさえ避けるように、皆そっと視線を逸らして通り過ぎていた。
「レオン」
名を呼ばれて足を止める。
リリスはすでに膝を折り、老婆の傍にしゃがんでいた。
「……このままでは日が落ちます。運びましょう」
そう言って、リリスは自分の外套をそっと脱ぎ、老婆の肩にかける。
「だ、大丈夫ですよ、お嬢さん……巡礼は、苦しみこそ意味が……」
「苦しみは、信仰ではありません」
柔らかい声。
けれど、その言葉には芯があった。
老婆は驚いたように目を開け、そして――すぐに、静かに笑った。
「……あなた、善い子ね」
その一言に、リリスはただ、目を伏せて微笑んだ。
「レオン」
「ええ。背負います」
俺は無言で老婆を背負い上げ、聖都の門へと歩き出す。
白の石畳を踏みしめながら、リリスはその隣を静かに歩く。
塔の影が、ゆっくりと地面を延ばしていた。
白壁の門が、巨大な聖堂を思わせる威容でそびえ立っていた。
宗教都市ルクスセラ。
その正門には、銀の鎧をまとった聖堂騎士たちが四人。
無表情な顔に、同じような冷たい目。
……そしてその奥に控えるのは、白衣をまとった受付役の男だった。
「おい、そこの二人。止まりなさい」
先頭の騎士が手を上げた。
「この街は信仰都市。立ち入りには登録が要る。……それと、そこの者は?」
男の視線が、リリスに向けられる。
彼女は一歩も退かず、静かに一礼した。
「私は――」
そして名を名乗ろうとした、その瞬間だった。
「……紫の瞳? 混じってんのか」
門番の騎士が、眉をひそめた。
その言葉に続き、白衣の聖職者が一歩前に出てきた。
「失礼ながら――この街では、魔族の血を引く者の立ち入りは慎重に扱われています。
紫の瞳は、古き記録で“災いの印”とされておりましてね」
言葉遣いは丁寧だった。
だが、その裏にある“確信”は剥き出しだった。
「……悪いが、その目では、ここじゃ警戒される」
「……うちは“人間”の巡礼者を優先しているものでして」
聞き覚えのある言い回し。
口調こそ柔らかいが、まるで絞首台への誘導のように冷たい。
俺はちらりとリリスを見た。
彼女は――まったく動じていない。
表情ひとつ変えず、微笑すら浮かべたまま。
「そうですか。……では、どうぞお好きなように」
「……?」
「私はただ、旅を続けるだけですので」
その一言で、白衣の男の口が少しだけ歪む。
自分の“裁き”が通用しなかったことに、納得がいっていないようだった。
「身分証などはありますか?」
次の問いに、リリスはゆっくりと小箱を取り出し、中から一枚の札を差し出す。
それは――魔術審問院が発行する許可証。
門番たちが一斉に背筋を正す。
白衣の男も、一瞬だけ言葉を詰まらせたが、すぐに笑みを作った。
「……なるほど。それなら、まあ……特例ということで」
「感謝します」
リリスはそっと礼をして、何も言わずに通り過ぎた。
俺も後に続く。
そのとき、背中で白衣の男がぼそっと呟いたのが聞こえた。
「……“混じり”にしては、よくできてるもんだな」
剣の柄に手をかけかけたが――
やめた。
リリスは、もう前を歩いていたからだ。
「……行きましょう、レオン」
「はい、姫」
塔の影の中を、ふたりで歩き出す。
この街が、信仰に値する場所かどうか。
それを見極める旅が、始まったばかりだった。
ルクスセラの街は、神の名にふさわしく美しかった。
白く磨かれた石畳、香の漂う聖堂。
道行く人々は清潔な衣をまとい、祈りの言葉を口にしていた。
空気すら清められているような錯覚すら覚える。
だが、歩を進めるたびに、それは“違和感”へと変わっていった。
「……この整い方、気になりませんか?」
俺の問いに、リリスは小さくうなずいた。
「ええ。……すべてが整いすぎています」
街の中心には大聖堂。その前には施しの場が設けられ、貧しい者たちが列をなしていた。
だが、その施しの列は、衛兵に仕切られ、順番が来るまで座ることすら許されない。
聖堂の高位神官たちは、絢爛な法衣をまとい、祭壇の前で儀式を繰り返している。
だが、祈りの最中、彼らの目は――列をなす者たちを一切見ていなかった。
「神の前に人は平等、か……」
俺の呟きに、リリスが目を伏せる。
「神を語る者が、それを信じているとは限りません」
しばらく歩き、宿を探す。
だが、どこも同じだった。
「――ああ、すいませんね。満室です」
「申し訳ありませんが、“特別な巡礼者”以外はご遠慮いただいております」
断られるたびに、リリスの紫の瞳に視線が集まり、下げられた。
俺は一言も返さなかったが、リリスの表情も変わらなかった。
静かに頭を下げて、別の宿へ向かうだけ。
……それを、すでに四軒目。
「姫、野営の準備を」
「そうですね。……少し、風が強くなりそうですが」
それ以上、誰も何も言わなかった。
この街が、外見だけで成り立っているのだと、言葉にするまでもなく分かっていた。
そしてそのときだった。
遠く、聖堂の鐘が鳴る。
清らかな音が空を渡り、街に染み渡る。
祈りの音に包まれる中、リリスがぽつりと呟いた。
「――神が聞いておられるなら。誰に、その声が届くのでしょうね」
その横顔は、穏やかで、冷たかった。
日が傾きはじめた頃、街の外れで――少女が倒れていた。
ぼろぼろの服。擦りむけた膝。
人々は見て見ぬふりをし、聖堂の方へと急いでいた。
まるで祈りの時間に間に合わないことのほうが、倒れている命よりも重大であるかのように。
俺とリリスがそれに気づいたのは、細い路地を抜けた時だった。
「レオン、待って」
リリスが駆け寄り、しゃがみ込む。
少女は息が浅く、額には熱がこもっていた。
「大丈夫。もうすぐ楽になりますよ」
リリスがそう囁きながら、掌を額に添える。
淡い光が灯り、少女の体が微かに震えた。
魔術――癒しの術式。
宗教都市において、聖職者のみが“許された力”でもある。
だが。
「――なにしてんだ、あんた」
声がした。
母親らしき女が駆け寄ってきて、リリスの手元を見て目を見開いた。
そして――その瞳に気づく。
「……紫の……」
一瞬、沈黙が流れた。
女の表情が、恐怖に、変わる。
「この子に、なにしたの!? やめて、触らないで!」
リリスは静かに手を引き、立ち上がった。
「お子さんは、熱を出していました。今は落ち着いています」
「う、嘘……! やめて、近寄らないで……!」
女は少女を抱きかかえ、背を向けて駆け去っていった。
娘が目を覚まし、母の肩越しにこちらを振り返る。
その目に、怯えはなかった。
ただ――不思議そうに、リリスを見ていた。
「……やるせないですね」
俺がぽつりと言うと、リリスは首を横に振った。
「いいえ。あの子が生きていれば、それで充分です」
その声には、怒りも、悲しみもない。
ただ、いつもどおりの静けさがあった。
街に聖歌が響く。
偽善の香が、空に漂っていた。
その夜。
ルクスセラ郊外の崖沿い、草の上で野営の支度をしていた。
火を起こし、簡単な食事を済ませ、リリスは静かに紅茶を淹れている。
俺は周囲を見張りながら、ふと尋ねた。
「……姫。今日のあの子供、怖がっていたのは母親の方でしょうか」
「ええ。あの母親も、きっと――教わったのでしょうね。紫の瞳は“災い”だと」
リリスは紅茶の香りを楽しみながら、遠くの聖堂を見つめていた。
そのとき。
草を踏む音。
「……よいかしら?」
小さな声が聞こえた。
灯りの外に立っていたのは、昼間助けた老婆だった。
「あなたたちの焚き火、少しだけお裾分けしてくれないかしら」
リリスは頷き、手を差し伸べる。
老婆は礼を言いながら火のそばに座ると、しばらく無言で暖をとっていた。
「あなた、名前は?」
「……ただの旅の魔導士です」
「そう。旅人……ね」
老婆はリリスを見つめたまま、ふっと笑った。
「私はね、“旅人の記録”を見て回ってる者なの。
どの道で、誰が、誰を助けたのか。神が誰に微笑んだのか」
その声は、風のように静かで、どこか凛としていた。
「ルクスセラの人々は、神の名を唱えてばかりいるけれど――
あなたの言葉には、神の“声”があった。そう感じたの」
リリスは何も言わなかった。
ただ、静かに紅茶を差し出した。
老婆はそれを受け取り、ひとくち口に含む。
「……あなた、名前を隠しているわね。いいのよ、それで。
でも、もし誰かに何かを問われたら、こう言いなさい」
そう言って、老婆は自らの外套を開いた。
その胸には――金の十字と七宝石。
それは、聖堂騎士すら逆らえぬ“王家直属の監査官”の証。
「“セラフィーナと約束を交わしました”とね」
焚き火が揺れる。
夜風に乗って、遠くで聖堂の鐘が鳴っていた。
「今のうちに見ておきなさい、この街の本当の姿を。
神の名を借りて、人を裁いてきた者たちの、醜さを」
その言葉を残し、老婆――いや、監査官セラフィーナは、火の外へと歩き出す。
夜の闇へと溶けていく背を、リリスは静かに見送った。
「……レオン」
「はい」
「準備をしておいて。もう少しで、風向きが変わります」
紅茶が、まだ温かった。
夜のルクスセラは、昼とは違う顔を見せていた。
煌びやかな聖堂前の広場では、金色の灯りに照らされた白衣の一団が、豪奢な食卓を囲んでいた。
聖堂騎士たちの“定例祝宴”と呼ばれる、神への奉仕をねぎらう集まり。
だが、その実態はただの特権の宴に過ぎない。
酒。肉。金。女。
そして――笑い声。
「それでさ、門番の奴が言うんだよ。“紫の瞳の女が来た”ってな! はははっ、ありゃ傑作だぜ!」
「混血の巡礼者? どっかの田舎領の腐った血か?」
「教会の犬すら尻尾巻いて逃げるわな、あんなの」
騎士たちは、杯を傾けながら下品に笑い合っていた。
その笑いの輪の端に――俺とリリスは、通りがかっていた。
広場の外れを静かに歩いていただけだったのに、酔った一人がこちらを見つけた。
「あー? おい、そこの嬢ちゃん――見たことある顔だな?」
よろよろと立ち上がり、酒臭い息を吐きながら近づいてくる。
「おい、こいつじゃねぇか? 昼に門前で見た“災いの瞳”の……」
リリスは立ち止まった。
だが、表情は変わらない。
「申し訳ありません、通らせていただけますか?」
騎士はにやりと笑い、手を伸ばそうとする――が。
カンッという金属音が、空気を裂いた。
俺は、剣の鍔を、わずかに抜いていた。
「……」
リリスが、首を振る。
俺は剣を静かに収めた。
「姫、こちらへ」
「ええ」
騎士の手をすり抜けるようにして、俺たちは何も言わずにその場を離れた。
だが、その場の空気は、すでに変わっていた。
俺たちの背に、騎士たちの視線が突き刺さる。
「……生意気な小娘だな。あとで締めとけよ」
「ふん、どうせどこかの売られもんだろ」
声が追ってきた。
だが、振り返らない。
リリスは、歩きながら、ぽつりと呟いた。
「……この街は、祈りの声が賑やかすぎるわ」
その目は、すでに“覚悟”の色をしていた。
翌朝。
風向きが変わる。
この街に、“神の名を騙る者”への裁きが下る。
朝が来た。
ルクスセラの街に差し込む光は、相変わらず清らかで、何もかもを洗い流すように見えた。
――表面だけは、な。
俺とリリスは、街の裏路地を歩いていた。
聖堂からは遠い場所。巡礼者の香炉の煙も届かぬ、“聖なる無関心”の外側。
そこにいたのは、祈ることさえ忘れられた人々だった。
痩せた子ども。膝を抱える老人。
そして、朝から食事を探してさまよう若い母親。
だが、この街には“貧しき者への施し”を謳う聖堂がある。
彼らが施しを受けられない理由は、ただ一つ。
「身分登録がされていない」から。
「救いはすべての者に」――そう刻まれた碑文の前で、救われぬ者たちが静かに座っていた。
リリスは、何も言わずに歩いた。
そして、懐から小さな包みを取り出し、そっと数人の手に握らせていく。
乾いた薬草と、水に溶かす回復粉末。
ほんの、数日分の命の支え。
子どもが小さく「ありがとう」と呟いたとき、リリスはかすかに微笑んだ。
だが――その光景を、見ていた者がいた。
「……あんた、なにしてる?」
金属音と共に、聖堂の紋章をつけた男たちが現れた。
巡察役の副官。名前すら知られていない下位聖職者だが、その態度は傲慢だった。
「この区域、巡礼者の立ち入りは禁止されてるんだよ。おまけに、勝手に薬を配って? 違反行為だな」
俺が一歩前に出ようとしたその瞬間、リリスが手を伸ばして制した。
「違反ですか?」
「ああ。ルールにそう書いてある。……それに、その目の色。
紫ってのは、記録上“魔性”を帯びてるんだってな」
リリスは何も返さなかった。
ただ、目を伏せて立っていた。
男たちは、薬を受け取った子どもたちや母親たちを次々と捕らえていく。
「連行して聖堂で事情を聞く。安心しな、お祈りはさせてやるさ」
その場に残されたのは、静かな路地と、薬包みの残りだけだった。
俺は拳を握り、リリスを見る。
彼女は、目を閉じていた。
まるで、祈るように。
だが、それはこの街の神に向けたものではなかった。
「……準備は整いました」
リリスの声は、冷たく澄んでいた。
「ええ。あとは、あの方が舞台を整えてくだされば」
風が、聖堂の方角から吹いてくる。
嘘の香を吹き飛ばすように。
その日、ルクスセラの聖堂広場には、不穏な気配が漂っていた。
騎士たちがざわついていた。
門番が入れ替わり、広場には神官たちの姿が集まりはじめていた。
上からの“視察”が入るという。
そして、その中心に立っていたのは――
「……随分と賑やかですね。まるで、誰かの罪を探すつもりのようだ」
監査官セラフィーナだった。
昼に見た老婆の姿ではない。
金の十字と七宝石を掲げた正装。
背筋を伸ばし、銀の杖を手に、静かに聖堂騎士たちの前に立っていた。
「え、監査官……? このタイミングで……」
「我々は知らされていませんでしたが……」
ざわつく声。
だがセラフィーナは、誰の目も見ず、静かに語り始めた。
「昨日、私はこの街の門前で、巡礼者の一団を見かけました。
彼らは旅の途中で倒れた者を助け、礼を言われることもなく立ち去った。
だが、その後――その者たちが“魔族の血を引く”という理由だけで、いかなる扱いを受けたか。
記録、証言、確認済みです」
聖職者の一人が慌てて前に出る。
「ま、待ってください! それは門番の判断で――我々は、まだ、誰が本当に魔族か……!」
「問うていません」
その声は、雷鳴のように全てを止めた。
「この街における“信仰”とは何ですか?」
誰も答えない。
「祈る姿か。香を焚くことか。
――いいえ。私が見た“信仰”とは、病に倒れた者の手を取り、言葉をかける姿でした」
沈黙。
リリスの姿はどこにもない。
彼女はもう、群衆の影の奥に身を隠している。
「門番、宿屋、聖堂騎士、巡察官――名を持たぬ者に圧をかけ、“災い”と断じた者。
今日から順に調査を行い、必要であれば……王都に召喚します」
「な、なにを……!」
「この証言は、すべて“王家直属の監査官セラフィーナ”の名において記録されました」
白衣の男たちは青ざめた。
「一つだけ、最後に申し上げておきます」
セラフィーナは静かに微笑む。
「神は、目の色で裁いたりしない。
……それを知らない貴方たちは、信仰者ではなく、ただの“使徒ごっこ”です」
その一言が、聖堂の広場を突き刺す。
鐘が鳴る。高く、冷たく。
それは、祈りの合図ではなかった。
――裁きの始まりを告げる鐘だった。
広場から遠く離れた、小高い丘の上。
ルクスセラの全景が見渡せる場所に、俺とリリスはいた。
朝焼けが、白の塔に反射して光を弾いていた。
美しい光景だった。――外見だけは。
背後には、沈黙した聖堂。
そして今なお、余韻の中で震える騎士たちと、正座して祈る神官たちがいる。
「……綺麗な街です」
俺の言葉に、リリスはそっと頷いた。
「ええ。外から見れば、何もかもが整って見えるわ」
「でも、その中身は」
「――空っぽ」
その言葉に、俺は何も言い返さなかった。
リリスは静かに歩き出し、ポーチからひとつの香包みを取り出す。
中には、昨日の貧民街で配ったのと同じ薬草がひと握り。
「この街で、“神に祈る”とは、“声を出すこと”を意味していた」
リリスの言葉が、淡く風に流れる。
「でもね、レオン。声を出さずに、人の痛みに手を伸ばせる人もいるのよ。
この街の人は、きっとそれを知らないだけ」
遠く、聖堂の鐘がまた一つ、鳴った。
その音を聞きながら、リリスはほんの少しだけ、瞳を閉じた。
そして、その背に近づく者が一人――
セラフィーナだった。
「……行くのね?」
「ええ。ここは、私の場所ではありませんので」
リリスがそう返すと、セラフィーナは微笑み、肩にそっと手を置いた。
「信仰とは、心の在り方。
貴女のような者が、聖堂に立つ日が来れば――この国は変わるかもしれない」
「それは……少し、荷が重いです」
「そう? でも、私はずっと見ています。……どこにいても」
その言葉を最後に、セラフィーナは去っていった。
俺とリリスは、再び二人きりになる。
静かな丘の上。旅支度はもう整っていた。
「……行きましょうか」
リリスが一歩を踏み出し、俺はそれに続く。
そして、ふと。
「レオン」
「はい」
「この街で、“神の言葉”って……誰のためにあると思う?」
唐突な問いだった。
俺は少し考え、そして答えた。
「――誰のためにも、ならなかった者たちのために」
リリスは、微かに目を細めて笑った。
「……正解、かもね」
聖堂の鐘が、最後の音を鳴らした。
俺たちは、街の外れにある巡礼路へと戻ってきた。
昨日と同じ石畳。
けれど、朝の光がそれをまったく違うものに見せていた。
広場ではまだ、騎士や神官たちが整列し、監査官の命に従いながら記録と聴取を続けている。
だが俺たちがそこに立ち会うことは、もうなかった。
やるべきことは――すでに、終わっていた。
「……静かですね」
リリスの声に、俺は頷く。
「鐘も、もう鳴らない」
「ええ。今日の鐘は、“人”のために鳴るようになるかもしれません」
彼女の言葉はいつも静かで、そしてとても遠くを見る。
聖都ルクスセラ。
偽りの信仰と形式だけの祈りが支配していたこの街に、確かに風は吹いた。
それは“彼女”によって起こされた、小さな革命。
誰もそれを知らない。
彼女自身ですら、名を語ることはなかった。
ただ、通り過ぎただけの“流れの魔導士”。
「……鐘が、綺麗ね」
リリスがぽつりと呟いた。
その声に、俺は返す。
「――今度は、どこに行かれますか?」
リリスは歩き出しながら、ほんのわずかに笑った。
「祈りのない場所を。……願いだけが残っているところへ」
風が吹く。
白の街を背に、俺たちは再び旅路を進む。
その歩みは静かで、けれど確かに、誰かの心を変えていた。
その街は、小さな祭典の最中だった。
古い神殿の再興を祝う儀式。
地方での開催にもかかわらず、今回は“勇者パーティ”が招かれているとあって、広場は大いに賑わっていた。
「――彼らが、勇者様か」
人々の歓声の先に、白銀の鎧を纏った青年がいた。
赤いマント、まっすぐな眼差し。
その姿はまさに絵に描いたような“英雄”。
だが――俺たちは、少し離れた場所から、その様子を眺めていた。
「……どうも、振る舞いが軽すぎる気がします」
「ええ。少なくとも、“見られている”という自覚は薄そうね」
リリスの言葉に、俺は頷く。
そのときだった。
群衆の間を抜け、リリスがふと角を曲がった先――
勇者パーティの一団と鉢合わせた。
「あ……」
最初に声を上げたのは、パーティの一人、神官風の少女。
その目が、リリスの瞳に注がれた瞬間、表情が引き攣った。
「……紫の瞳?」
次の瞬間、勇者本人が、あからさまに顔をしかめた。
「おい。魔族か? 何でこんなとこに紛れ込んでんだ」
その声は、大して大きくもないのに、やけに耳についた。
リリスは目を伏せる。
何も言わず、ただ軽く頭を下げただけだった。
「……私たちは通りがかっただけです。どうぞ、お構いなく」
「お構いなく? いやいや、構うだろ普通。
紫の瞳なんて、俺ならすぐ排除してるぞ。
……ってか、お前ら、こいつ止めろよ。誰か通報しろよ」
従者たちは苦笑し、誰も止めない。
だが――そのとき、パーティの後方で黙っていた一人の男が、静かに顔を上げた。
黒衣の上から白のマントを羽織り、背筋を伸ばした老境の男。
その目だけが、どこまでも澄んでいた。
彼は、何も言わなかった。
ただ、リリスを見て、わずかに頭を下げた。
「……」
リリスは、その目を見返して、一拍の間の後にまた軽く頭を下げ返した。
それだけのやりとり。
けれど俺には、はっきりと分かった。
このパーティの中で、本物は“あの人だけ”だ――と。
「姫、行きましょう」
「ええ。ここにいる理由もありませんしね」
俺たちはそのまま通り過ぎた。
背後で、勇者の嘲笑が聞こえたが、もう意味はなかった。
なぜなら、“あの人”が見ていたからだ。
翌日。
俺たちは神殿の資料室で、封印魔法の古記録を閲覧していた。
リリスの目的は、母の仇討ちに繋がる痕跡を探すこと。
昨日の出来事など、彼女にとっては些事に過ぎない。
……だが、祭典はまだ続いていた。
「おい、聞いたか? 昨日、勇者様が混血女に絡まれてたって」
「まさか魔族が紛れ込んでたなんてな。街の結界はどうなってんだよ」
「勇者様がいなかったら、あの場どうなってたか……」
廊下を通る者たちの声が耳に入る。
――嘘が、もう“事実”として流され始めていた。
レオンとしての俺は、剣を抜くようなことはしない。
だが、胸の内で冷たく判断する。
この街の空気は、すでに“勇者の言葉”を鵜呑みにする準備ができている。
「レオン。……抑えてくれて、ありがとう」
リリスが、そっと俺に視線を送る。
「私は慣れていますから。……あなたが怒ってくれることが、少し嬉しかったわ」
「……姫は、何も悪くない」
「知っています。でも、“そう言われる”のが常なんです。……ふふ、ひどい仕組みでしょう?」
そのとき。
神殿前の広場から、大きな怒声が響いた。
「こんなところで魔法を使ってんじゃねえよ!!」
広場に出ると、勇者が一人の老神官に声を荒げていた。
「説明が長ぇんだよ! 回りくどい!
この国、ほんっとに“頭でっかち”な奴ばっかだな!」
彼の声はよく通る。
その場にいた者たちが、戸惑いながらも誰も止められない。
「勇者様……その方は神殿長で……」
「はあ? 何それ。偉いの? だったらなおさら、もっと分かりやすく喋れよ。
“神の代理”だかなんだか知らねぇけどよ、戦場に出たことあんのか?」
そのとき――
昨日、沈黙していた“あの男”が、また静かに前へ出た。
白のマントが、広場の光を受けて微かに揺れる。
「言葉が理解できないのは、話し手の責任ではない。
“聞く耳を持たぬ者”の方に、問題があると心得なさい」
勇者が振り返る。
「は? 何だよ、じじい。お前……パーティにくっついてきただけの書記官だろ?」
「……そう思うなら、それで構いません。
ただ、あなたがその言葉を口にしたことは、記録しておきます」
男はそう言って、再び静かに神官に頭を下げた。
「私からもお詫びを。
この方はまだ、“言葉の重み”を知らぬ若者です」
リリスは、その光景を少しだけ遠くから見ていた。
「……あの方、本物ね」
「ああ。口を開かず、見て、待ち、必要な時だけ言葉を選ぶ」
「レオン。――私たち、“見つけた”かもしれないわ。
今の勇者ではなく、“残すに足る言葉を持つ人”を」
俺たちは、まだ何もしていない。
けれど静かに、舞台は整いつつあった。
午後の神殿前広場は、ちょうど子どもたちの魔法教室が開かれていた。
初歩の防御結界、簡易回復術、集中力の訓練。
市民に開かれた教室は、リリスが調査の合間に見学を希望した場所でもあった。
「かわいいですね。ああして魔法に向き合う姿」
「緊張しながらも、信じてますからね。自分にも力があるって」
俺たちが静かに見守るその横で――
騒ぎが、唐突に起きた。
「なぁにやってんだこいつら。ぬるい、ぬるすぎる」
広場に現れたのは、またしても“勇者”。
彼は笑いながら、子どもたちが組んだ小さな結界を一蹴した。
「結界ってのはな、こうやって……叩き割って入ってくんだよ!」
風圧と共に、子どもの詠唱が崩れる。
「やっ……!」
転んだ子どもを、リリスがすかさず抱きとめる。
「大丈夫。……怖くありませんよ」
勇者はそんな彼女を見て、また鼻で笑った。
「なんだよ、また“混血女”か。お前らって、こういうの好きだよな。“弱者に優しい”とかさ。
でも、正義ってのは“戦える奴”の側にあるんだよ?」
それを聞いた瞬間、
昨日まで黙っていたあの男が、ついに歩み出た。
杖も剣も持たない。
ただ静かに、勇者の前に立ち、口を開いた。
「……あなたが正義を語るなら、
その言葉に見合うだけの“矜持”を持ちなさい」
「……は?」
「私は王家直属・対魔審問局筆頭、“グレイ審問官”」
「あなたの言葉と行動は、すべて記録され、王都へ提出されます」
勇者の顔色が変わった。
「なっ……そんなの聞いてねえ! お前、ただの記録係じゃ――」
「誰が、あなたにそう言ったのですか?」
その声音は、凍てつくほど冷たかった。
「レオン」
「はい、姫」
「……もういいわ。この場に“意味”はなくなったから」
リリスは、膝を擦りむいた子どもに微笑みを向け、軽く結界の残りを整えてやる。
「怖がらなくて大丈夫。……魔法は、守るために使うものです」
そして、静かに歩き出す。
誰も、止められなかった。
勇者は、ただ呆然と立ち尽くし、
その背後にいた“本物”だけが、深く静かにため息をついていた。
神殿上層――賢聖院の会議室。
正面に王家の紋章、左右に審問局と聖堂の代表席。
その場に集められたのは、勇者とそのパーティ。
そして、“名指しされた”当事者、リリス=アズラーリ。
だがリリスは、この場に招かれたことにさえ、驚いた様子を見せなかった。
むしろ、最初からすべてを知っていたように、整った姿勢で座っている。
「本日の議題は、“神聖式典中における不適切な言動と行為”についての聴取です」
そう開会を告げたのは、グレイ審問官。
王家直属の特権を持ち、正規の騎士でも止められぬ“知の裁き人”。
勇者は顔をしかめ、椅子に踏ん反るように座った。
「チッ……なんだよ、たかが混血の女一人に。
こっちは命張って戦ってんだぜ? 戦場を知らねぇ学者に何がわかんだよ」
その言葉に、周囲の空気がぴたりと止まる。
グレイ審問官は、静かに口を開いた。
「……あなたが語った“戦場”とやらは、
市井の子どもに魔法を向け、神殿長に暴言を吐き、
混血と見れば魔族と断ずるほど、狭い世界なのですか?」
勇者の顔が引きつった。
「っ……あ、あれは……! おかしなやつがいたから注意を――!」
「私はすべてを見ていました。
……あなたの“英雄”という名の仮面が、
人を傷つけるために使われていたことを」
レオンがその横で小さく息を吐いた。
「……裁きは、もう終わっているようなものですね」
「ええ。あとは形式だけ。……“どう落とすか”だけです」
リリスはそれでも、何も言わなかった。
審問官は、最後に静かに言葉を告げる。
「本件により、勇者ラウル・フェリスタの称号は保留とし、
王都における再教育および、言動の見直しを義務づけます」
ガタッと椅子の音が響く。
「待てよっ!? 俺は勇者だぞ! 国に選ばれた英雄だぞ!? なんでそんな――!」
そのとき。
今まで何も言わなかったリリスが、はじめて口を開いた。
「“国に選ばれた”という言葉で、人を見下すのであれば――
あなたの“勇者”とは、誰のためにあるのですか?」
その問いに、誰も答えられなかった。
勇者パーティの聖女が、うつむきながら涙を拭い、
魔術師が「……すまない」とだけ呟いた。
リリスは、何も追わず、何も罵らず、
ただ一礼し、静かに席を立つ。
それは、
裁かれたのは“言葉”ではなく、“人”だったという、無言の示しだった。
あの裁きから、三日が過ぎた。
街の喧騒は次第に落ち着きを取り戻し、
勇者一行は予定より早く、王都へと戻ったという。
再教育、称号保留、旅の一時中断。
――形としては、それだけの処分だった。
けれど、それで充分だった。
「もうこの街に、私たちの用はありません」
リリスはいつも通りの落ち着いた声でそう言い、旅支度を整えていた。
宿の主人は、何度も頭を下げていた。
「こんなことになるなら、あのときもっと強く言っていれば……申し訳ありません」
「いえ、何も。……私は、別に傷ついてなどいませんから」
リリスの微笑みは静かで、けれどどこか遠くを見ていた。
俺たちは東門へと向かう。
人の少ない道。
いつものように、誰にも見送られずに。
……だが、門を出る直前、
そこに一人、佇んでいた男の姿があった。
「……お二人とも」
グレイ審問官――いや、“王家直属審問局筆頭”の彼が、
杖を手に、ほんの少しだけ微笑んでいた。
「ご挨拶をと思いまして。……本来、私の立場からはするべきではないのですが」
「……お別れに来てくださったのですか?」
「ええ。ほんの短い間でしたが、私は貴女から“敬意の意味”を学びました。
それだけで、出会った価値があると、私は思っています」
リリスは、少しだけ目を伏せて、
「……ありがとうございました。
あなたの言葉があったから、私は何も言わずに済みました」
「私の言葉など必要ありませんでしたよ。
“あなたが黙っていたこと”こそが、あの場で最も雄弁でした」
それ以上、何も交わされることはなかった。
ただ、深く丁寧に交わされた一礼。
それだけが、すべてのやりとりだった。
やがて、俺たちは街を後にする。
街の背後には、白い神殿の尖塔が遠くに見えていた。
「レオン」
「はい」
「……また、どこかで誰かに見下されるのでしょうね。きっと」
「そのときも、黙って通り過ぎますか?」
リリスは、ほんの少しだけ唇をゆるめた。
「ええ。どうせ最後は、頭を下げてくるのだから」
風が吹いた。
彼女の髪が揺れ、旅の匂いがまたひとつ、静かに始まった。