とある公爵家の仮面夫婦の関係
クロッカス公爵夫妻は仲がいい、と皆は言う。
それはやっかみであったり、羨みであったり、あるいは微笑ましさからの言葉だったりと様々だ。しかし夫婦の関係を疑う者などいない。
――本当に演技が上手だものね、この人は。
そう思いつつ、わたくしは隣に佇む夫を見やる。
女でありながら公爵家当主を務めているわたくしの元へ婿入りしてきて一年になる彼……ジェームズ・クロッカスは、わたくしを溺愛していると有名だ。
銀髪に碧眼、すらりとした長身のいかにもな貴公子然とした美丈夫。かつては多くの令嬢が憧れたという彼は、わたくしだけを見つめ、わたくしへ熱烈な言葉を惜しまない。
『公衆の面前では』という但し書きはつくけれど。
「どうしたのですか、僕の姫君。そんなにまじまじと視線を向けられては照れてしまいます」
「今日も素敵な貴公子ぶりだこと、と思っていたの」
「はは、嬉しいですね。ありがとうございます」
嬉しいなんて本心からは微塵も思っていないくせに、にっこりと口角を歪めるジェームズの表情はあまりに美しくて、ずるい。
今は夜会の最中だから、わざと優しげに振る舞っているだけ。わかっているのに、胸が締め付けられるような思いをしてしまう。
わたくしと彼は本来行うべき夜の営みを済ませていない、仮初の夫婦だ。
そのことを知るのはこの世でたった二人、お互い以外には存在しなかった。
この歪な関係の始まりは、二年ほど前まで遡る。
「どうしてあなたと結婚しなければならないのかしら」
「僕ではお嫌なのですか?」
「当たり前でしょう。あなただって、好き好んでわたくしの元へやって来たわけではないでしょうに。殿下の犬は、殿下の隣で大人しくしていらっしゃればいいのではなくて?」
「……ずいぶんはっきりとものをおっしゃる。さすがはクロッカス家の女当主様ですね」
結婚初夜の寝室にて。
クロッカス公爵家夫妻となるわたくしたちがにこやかな表情で交わしたのは、隠しもしない嫌味の応酬だった。
無理もない話だ。
クロッカス公爵家は反王家派の筆頭。ジェームズの生家は現王家派であり、ジェームズ自身は王太子の側近でもあるのだから。
普通、大々的に反王家を打ち出すのは許されることではない。反感を買うどころか不敬罪で処されてしまうからだ。
けれどわたくしの祖父は王家の血筋だった。だからこそ、真っ向から物申すことができていた。
言わずもがな、王家には良く思われていなかっただろうけれど。
王侯貴族至上主義で、娯楽に贅を費やし、貧民の飢餓を見て見ぬふりする現王家。それは到底容認できるものではないというのが反王家派の考え。
両者は決して相容れることはなかった。
他の子息子女との交流のため、貴族の義務とされた学園でもその派閥は顕著で、王家派は王家派と、反王家派は反王家派ばかりとつるんでいた。
でも、わたくしとジェームズは同じ成績優秀クラス、中でも学園主席を争う仲で。
「殿下につきっきりで勉強時間が取れないのでは? お可哀想に。わたくしはクロッカス家当主の務めの傍でも済ませられているけれど」
「口だけが達者な貴女に負けるつもりはありませんが」
「あら、楽しみね」
などと言い合っていたものだ。
当然、大っぴらに嫌味を口にするわけもなく、二人きりになった時だけだったけれど。
わたくしは彼に勝たなければならなかった。
当然だ。わたくしはクロッカス公爵家の一人娘。反王家派の家の当主とならなければならない身で、王家派の彼に遅れを取るわけにはいかないのだから。
本気で勝ちに行くため、わたくしは彼の観察をした。何の科目を得意分野とし、どのような対策をすれば勝ちうるのかを知りたい、それだけのためだ。
――それだけのため、だったはずなのに。
昼休憩の時間も惜しんで勉学に励む真剣な横顔を見る度、なぜか目を離せない自分に気づいた。
『殿下の犬』に何を見惚れているのか、と思いはしたけれど、どうしようもなく惹きつけられてしまったのだから仕方ない。
試験の時にわたくしに負けると涼しい顔を崩すところも、それでもなおわたくしを妬んだりせずに一生懸命取り組む姿も、陰に陽に見ていたわたくしの目には魅力的に映って。
わたくしは、「負けたくない」と思った。
互いの立場は関係なしに、ただ純粋に、好敵手として。
一方的に知って、一方的にそう思っていただけである。だからジェームズにとってわたくしは、最後まで憎い存在だろう。
それでも良かった。
むしろ、互いを認め合うことなど本来は許されていないことだから、内心なんて知られたくなかった。
結局、主席で卒業したのはわたくし。
ジェームズはもちろん二位で、わたくしは勝負に勝ったのだ。
勝利を味わい、歓喜した。
彼ばかり見てしまっていたせいだろうか。負けた腹いせをされるとは、考えもせずに。
学園を卒業して父から爵位を継いだ途端、彼を婿入りさせろと言われた。
王命だった。
「これ以上争っていては国が乱れるから、王家派と反王家派の間の橋渡し役となるように」との余計なお世話つき。
いくら反王家派でも、王命ならば受け入れざるを得ない。本気で拒否すれば断れないこともなかったが、わたくしにその気はなかった。
そういうわけで婚姻は成ったわけだが……。
「悪いけど、これは白い結婚とするわ」
初夜、ひととおりの嫌味を交わしてから、わたくしは宣言した。
とても甘い夜の雰囲気ではなかったことくらい承知の上だろうに、ジェームズがきょとんと首を傾げる。
「なぜでしょう?」
「あなたが信用ならないからよ」
「なるほど。では、信頼を寄せていただけるよう努力するとしましょうか」
信頼なんて寄せられるわけがなかった。
ジェームズを嫌っているわけではないのだ、決して。
ただ……どこまでも『殿下の犬』である事実が気に食わないというだけで。
――本当に、どうしてこんな男と結婚しなければならないのかしら。
胸がむかむかして泣きたいような心地になったが、涙を見せるわけにはいかない。
芽生えてしまっていた淡い初恋からは、目を背けるしかなかった。
公の場では愛し合っている風に演じながら、寝室は別々に分け、一度たりとも閨を共にすることはなく過ごした。
そんな白い結婚生活が二年も続く中、何度ジェームズを受け入れたくなってしまっただろうか。
けれども、絶対に心を許すわけにはいかない。
それを虚しいと思わないわけではないけれど……仕方のないことだ。
――だってジェームズは、わたくしを殺すために来たのだから。
今だって彼の懐には遅効性の毒が詰め込まれている。
閨を共にした途端、こっそり呑ませてじわりじわりと命を奪うつもりだと、ジェームズ自身が言っていた。
よりにもよって結婚式の日に、コソコソ隠れて話していたのを聞いてしまった。
もしそれを知らないでのほほんと過ごせていたら、どれだけ良かったか。
ジェームズはわたくしへ差し向けられた暗殺者である。
あれほど頑張っていたのに、主席で卒業できなかったからと刺客の役目を押しつけられたらしい。
誰から? もちろん、クロッカス公爵家を絶えさせようと考えた王家から。
それとわからない方法で殺し、その上でジェームズが公爵代理となれば、クロッカス家の実権が握れる。
愚かな企みだ。とはいえ、それが確実な手なのは明白。ジェームズ本人が暗殺に対してどのような想いを抱いているかは知らないが、王家の意思に従うだろう。
その事実がたまらなく悔しい。
「何かお考えごとですか」
「何でもないわ。……あら、そろそろダンスタイムね」
煌びやかに彩られたパーティーホールに、美しい音楽が流れ出す。
「一曲、踊っていただける?」
「もちろん。一曲と言わずに何曲でも踊って踊り明かしましょう、僕の姫君」
「ありがとう」
優しい笑顔を貼り付ける彼に、こちらも負けじと綺麗な笑顔を浮かべて、手袋を嵌めた掌を重ねる。
一曲目は緩やかなダンス。二曲目からは少しずつ激しく。
一寸の乱れもない繊細な足捌きで、宙を舞うように踊った。
この時間が永遠に続けばいい。
そう、叶うわけもない夢を見ながら。
◆
曲が止んで、給仕によってワインがテーブルの上に並べられ始める。
それを眺める僕の妻の横顔は、どこか憂いを帯びていた。
クロッカス公爵家当主の彼女は恵まれている部類の人間だ。
地位もあるし美貌もある。頭脳など右に出る者はいないし、唯一の欠点といえば王家から反感を抱かれていることくらい。……だが、故にこそ、表情を曇らせる。
どうされたのです?と問いかけようかと考えたが、こちらに迫ってきた人影を見て、やめた。
人影――彼女の憂いの元凶の一つでもあるそれが、パチパチと拍手を響かせた。
「やあ。いつもながら見事なダンスだったな、クロッカス公爵夫妻」
「……ごきげんよう、殿下。今宵はお招き下さいましてありがとうございます」
「君たちも何やかやで忙しいようだから、たまには羽を伸ばしてゆっくりしてもらおうと思ってな」などと言うのは、夜会の主催者であり国の王太子でもある男。
こんなのが僕の主だなんて、信じたくない事実だ。
侯爵家の生まれといえど嫡男ではない僕の地位は安泰ではなく、王族の側近になっておいた方が安心である。そういう風に親に言われた。
ただそれだけ。ただそれだけの理由で僕は王家にこき使われ続けた。
王家の利になること、従うこと以外、生きる意味を与えられてこなかった。『殿下の犬』と言われても仕方がなかったと思う。
学園で、彼女と知り合うまでは。
「女公爵殿、ワインはいかがだろうか?」
「殿下の手からお渡しいただくなんて名誉、わたくしにはもったいないですわ。ただでさえご縁を結んでいただきましたのに」
ワインの誘いをはっきり断って、「積もる話もあるでしょうから」と気を回した彼女は、僕の元を去ってどこかへ行ってしまう。
残されたのは僕と王太子の二人きり。
王太子は僕に気持ち悪く擦り寄って、囁いてきた。
「暗殺計画はどうなっている?」
彼が僕に与えし使命は、彼女を殺すこと。
僕はその命令を実行できていない。もう、課せられてから二年も経つのに。
「彼女の警戒心が強く、なかなか実行に移せておりません」
「……別室とはいえ、無警戒に眠っている深夜なら殺せるだろう。いつまでも待ってはおれんぞ」
「申し訳ございません。僕は『殿下の犬』と呼ばれている身。迂闊な行動を起こせば、殿下にご迷惑がかかりますので」
淡々と言い返しつつ、懐の毒にさりげなく触れた。
「ですが、必ずや、いつか亡き者にしてご覧に入れましょう」
「期待しているぞ」
王太子はニヤリと口角を歪める。
僕が亡き者にしたいのが自身である可能性に思い至れないのが、どこまでも滑稽だった。
――誰が、愛しい相手を殺すものか。
「お可哀想に」と初めて心から憐れんでくれたのが彼女だった。
僕の対抗意識を煽り、それまで無意味だった勉強に価値を見出すきっかけとなったのも。悔しさという感情を教えてくれたのも全て、彼女だ。
気づけば目で追っていた。
気づけば好きになっていた。
彼女はただ僕を厄介な相手と考えていただけかも知れない。不本意な結婚に憤り、あるいは涙したかも知れない。
だというのに、王家から命じられた結婚を心から嬉しく思ってしまった僕は馬鹿だ。
一応、彼女が望むなら離縁できるようにしていた。
あえて結婚式で王太子と話すことで、僕が暗殺者なのだと彼女に知らせておいたのだ。夫が暗殺者なのだと周囲に公表すれば、いくら王家が結ばせた縁談とて、なかったことにできる。
しかし離縁にはならなかった。それはきっと、彼女の優しさで。
一方的な想いのままでいいから、嫌われていてもいいから、ずっと傍にいたい。
僕はそう思ってしまった。
彼女は殺さない。絶対にだ。
その代わりとなるのは王太子。遅効性である故に毒味係にはわからない。じわりじわりと殺めるのは簡単である。
そのまま絶えるのは王家の方だ。
けれど毒を失えば、彼女の夫である意味が立ち消えてしまう。暗殺者でなくなってしまったら、どういう名目で僕は公爵家の夫でいればいい?
わからない。わからないから、僕は何もできない。
できることといえば、己の情けなさと歯痒さを噛み締め、愛しい彼女の顔を思い浮かべることくらいだった。
◆
――わたくしは知らない。ジェームズから想いを向けられていることを。
――僕は知らない。彼女が、実はずっと前から僕を好きでいるなんて。
二人が互いの心を知らないまま、今日もまた仮面夫婦生活を送り続ける。
お読みいただきありがとうございました。
ご好評であれば加筆してみたいとも思いますが、作者の時間的都合により、ひとまずこのような終わり方となりました。
ほんの少しでも面白いと思っていただけましたら幸いです。