第73話 これで僕の……俺の前世の話はおしまい。
日本から引っ越してきて二年以上、暮らした部屋は細長いマンションの五階、最上階にある。階段を一階分のぼればすぐに屋上だ。日本だとドアにカギがかかっていて出られないことも多いけど、この国はなのか、このマンションはなのか。気軽に屋上に出ることができる。
「うぷっ」
ドアを開けた瞬間、冬の冷たい風を顔面に食らって思わず悲鳴をあげる。
「屋上に来るの、久々だね。引っ越してきた日以来かな」
あの日は屋上に出たとたん、楽し気な笑い声が聞こえてきた。春だったからか。おやつの時間だったからか。白い髪のおばあさん三人が屋上をぐるりと囲う段差に腰かけ、お茶やお菓子を持ち寄っておしゃべりをしていた。
――このマンションやご近所に住んでる人たちだって。
――困ったことがあったら聞きにいらっしゃいって。
――優しそうな人たちがご近所さんでよかったー。
引っ越しのあいさつがてら英語で話しかけた母さんはそう言ってほっとしたように笑っていた。あのときはまだ、当たり前だった〝いつもどおりの顔〟で笑っていた。
今は冬だからか。朝早い時間だからか。屋上には誰もいない。それでよかったのかもしれない。
「……」
玄関を出てからずっとおびえたように首をすくめていた母さんの表情が少しだけやわらいだから。
段差に飛び乗って街並みを見下ろす。いたるところを水路だか川だかが流れていてこの屋上からも水の流れと観光用のボートが眺められる。水の流れと並行して作られた道と、そこを行き交う車や自転車、人の姿も見える。
その中にマンションに向かって歩いてくる父さんの姿を見つけた。手に持っているのは買いに行くと言っていた朝ごはんだろう。
「ねえ、母さん。父さんも屋上に呼んで朝ごはんを……」
朝ごはんを三人で食べようよ。
そう言おうとして振り返った僕は目を丸くした。いつの間にか母さんが真後ろに立っていたからだ。てっきりおばさんに電話をかけていると思ったのに。
いや――。
「そらちゃんに電話がつながらないの……何度かけても出てくれないの」
何度もかけたあとだったらしい。
「そらちゃん、どうして……」
ぼんやりとした表情でスマホをにぎりしめる母さんのようすにうつむいた、瞬間――。
「……っ」
トン、と胸を押されて僕はバランスを崩した。視界が晴れた空の青色に染まる。
空を横切る飛行機が遠くに見えた。戦闘機じゃない。旅行に行く人たちや出張に行く人たちを乗せた飛行機。平和な空を飛ぶ飛行機だ。
飛行機雲を残して小さくなっていく飛行機を眺めながら僕は背中から落ちていった。五階建てのマンションの屋上から。
「佑樹……? 佑樹……佑樹っ!」
母さんの悲鳴を聞きながら。
***
「これで僕の……俺の前世の話はおしまい」
〝ゆうき〟は――ユウキはほとんど手付かずのままだった〝ぽてち〟を一枚つまんで口に放り込んだ。
夜ふかしするときの必需品だから。本当はスキル〝すーぱーのたなか〟で錬成だか召喚だかしたいところだけど、魔力酔いで倒れてしまったら夜ふかしするどころでも話をするどころでもなくなってしまうから。
そう言って小アーリス城の料理人に頼んで作ってもらったものだ。
「やっぱり、ちょっと違うなぁ」
薄く切ったじゃがいもを油で揚げて塩を振った〝ぽてち〟を食べながらユウキはえり首をぽりぽりとかいて苦笑いする。
その苦い笑みのまま――。
「拍子抜けしただろ? 戦争なんてイヤだ、なんて言っておきながら戦場に行ってもいなければ、戦争なんてしてない平和な国でのんきに暮らして、死んだだけの話なんだから」
ユウキは自嘲気味に言った。
「屋上から落ちたときも……死んだときも、一瞬のこと過ぎて怖いともなんとも思わなかった。何が起きたのかわからないまま。わけのわからないまま意識が途切れた感じ」
ユウキは、と言うべきか。〝ゆうき〟は、と言うべきか。困ったように微笑んでほほをぽりぽりとかいた。えり首ではなくほほを。
「でも、前世の記憶を思い出した瞬間、怖い、死にたくないって思った。もう、とっくに屋上から落ちて死んで、転生までしてるのにな」
考え事や困り事があるとき、えり首をぽりぽりとかくのが俺の――リグラス国の末っ子王子であるアルバート・グリーン・リグラスの、乳兄弟のクセだ。小さい頃からのユウキのクセだ。
「そう、とっくに死んでるんだ。終わったことなんだ。だけど、考えてしまう。なんで〝僕〟は死んだんだろう、死ななきゃいけなかったんだろうって」
だけど、俺の目の前に座っている人物はほほをぽりぽりとかきながら困ったように微笑むのだ。
「母さんのせい? たしかにあのときのことを……俺を突き落とした手の感触やあの晴れた空の青色を思い出すと怖くなる。だけど、母さんは心を病んでた。戦争のせいで……そのせいで……」
その微笑みはいびつでぎこちない。
「それに最後に見た母さんは〝いつもどおりの顔〟をしてた。真っ青な顔で俺に向かって腕を伸ばしてた。日本で暮らしてた頃の〝いつもどおりの顔〟、母さんの顔をしてたんだ」
だけど――。
「あのあと、母さんはどうなったんだろう。父さんはどうしたんだろう。これも考えたところでどうしようもないんだけどな」
その、いびつでぎこちない微笑みすらも消える。ユウキはほほをかく手を止めてそうつぶやいた。
金色の前髪をくるくると指でいじりながら俺は目をふせた。〝ゆうき〟の両親の幸せなその後を想像するのは難しいだろう。
「なら、おばさんのせい? おばさんがあんなことを言わなければ〝僕〟は死なないですんだ?」
目の前で自分の子供が自分のせいで死ぬところを見てみろ、なんて言わなければ。
たしかに、その言葉がなければ〝ゆうき〟の母親が自分の息子を突き落とすなんて行動に出ることはなかったかもしれない。〝ゆうき〟は死なないですんだかもしれない。
だけど――。
「……俺にはおばさんを責めることも、恨むこともできない」
息子を亡くしたばかりで憔悴している母親の失言を責めることなんて誰ができるだろう。
「おばさんがあんなことを言ったのは大地が死んだからで、大地が死んだのは戦争のせいで……だから、やっぱり〝僕〟が死んだのは戦争のせいなんだ」
〝ゆうき〟がそう結論付けたことをどうして否定できるだろう。
「だけど、考えてしまうんだ。おばさんは心にもないことを言ったんだろうか、って。本当はずっと〝どうして、あなたたちだけが〟って思ってたんじゃないかって。そして、もしかしたら大地も……」
転生して、前世の自分の人生について振り返り、考える時間を与えられる。それはとても残酷なことなのかもしれない。
「あの大地がそんなこと思うはずない。そう思うけど、でも、おばさんが母さんにあんなことを言うなんてこともありえないことだから」
だって、そう話す〝ゆうき〟は顔をゆがめ、口元を押さえている。
「何をするにもいっしょだった一番の親友。そんなのうそだ。大うそ。だって、引っ越してから一度も会ってない。戦争が始まってからはいっしょにアプリゲームをすることも、SNSやビデオ通話で話すこともほとんどできなかった」
前世の記憶について思い出すとき、ユウキはこれまでもこんな風に、今にも吐きそうな顔をしていた。
「ネットニュースやSNSで日本の状況を知ることはできた。でも、日本のあの田舎町で、
戦争が始まってからの二年、大地やおばさんがどんな風に暮らして、どんなことが起こって、どんなことを話して思ってたのかはほとんど知らないんだ」
てっきり、吐きそうになるほどの光景を思い出しているんだと思っていた。でも、違ったらしい。
「だから、わからないんだ。怖いんだ。安全な場所にいた〝僕〟を、空腹で苦しむことのない場所にいた〝僕〟を、大地はどう思っていたんだろう。ビデオ通話してるときの大地は〝いつもどおりの顔〟だったけど本心はどうだったんだろう。〝どうして祐樹だけ〟って思ってたんじゃないかって」
吐きそうになるほどのいくつもの〝もしかして〟を、吐きそうになるほど何度も何度も考えていたのだろう。考えたくないのに考えてしまうのだろう。
どれだけ考えたって〝だいち〟の本心はもうわからないのに。
いや――。
「……それを、知りたくて」
スキル〝すーぱーのたなか〟で〝だいち〟を錬成だか召喚だかしようとしたのだろうか。
「それと、たぶん……罪滅ぼしがしたかった……のかも、しれない」
顔をあげるとユウキは自嘲気味に微笑んでいた。
「……最低な〝親友〟だろ?」
吐き捨てるように言ってユウキは窓の向こうに広がる空を見上げた。〝ひこうき〟とやらが飛ぶことのない、〝ゆうき〟が生きて死んだのとは異なる世界の空だ。
とっくに夜は明けて空は晴れた日の青色に染まり始めていた。




