第71話 クリスマスプレゼントだね。
引っ越してきて一年目――。
去年のクリスマスは何もやらなかった。クリスマスっぽい料理を用意することも、クリスマスツリーを飾ることも、クリスマスプレゼントもなかった。いや、クリスマスから数日経って唐突に思い出した父さんがくれたからクリスマスプレゼントはなかったわけじゃない。
でも、くれたのは父さんが働いている大学で売られているテディベア。外国の大学生が卒業式に着るような、黒いマントに黒い帽子をつけたテディベア。小学六年生の僕にはかわい過ぎた。
八月に戦争が始まって、それから四か月ほどしか経っていなかったというのもある。母さんが外に出ることができなくなって家の中が重苦しい雰囲気だったというのもある。去年のクリスマスにいい思い出はない。
だから――。
「ジングルベール、ジングルベール、鈴がー鳴るー♪」
キッチンから母さんの歌声が聞こえてきて、クリスマスツリーの飾り付けをしていた僕と父さんは顔を見合わせると笑顔になった。
母さんがこんな風に〝いつもどおりの顔〟を見せるのはいつ振りだろう。たぶん、三ヶ月前に大地のおばさんから電話がかかってきたとき以来だ。そのときにおじいちゃんとおばあちゃんが――母さんにとってのお父さんとお母さんが死んだと聞いて、それからずっと泣いていたり、ぼんやりしていたりだった。
僕や父さんが話しかけても、学校や仕事から帰ってきて〝ただいま〟と声をかけても、僕や父さんの方を見ることもなければ返事もない。
だから――。
「今日はー楽しいクリスマスー♪ パパ、佑樹ー! キッチンがいっぱいになっちゃったからリビングにお皿、運んでくれる?」
ちょっと音痴でリズム感もない棒読みな歌声に。明るい声で呼ばれたことに。僕と父さんはすっかり笑顔になっていた。
おばあちゃん直伝の母さんお手製キッシュやクッキー、カップケーキ。それからにぎやかに盛り付けられたポテチやチョコの皿を三人総出でキッチンからリビングへと運んでいるとスマホが鳴った。
母さんのスマホに電話が入った。
「そらちゃん……? そらちゃんだ!」
画面を見るなり母さんがうれしそうな声で言った。それを聞いて僕と父さんはますます笑顔になった。
「クリスマスプレゼントだね」
僕にだけ聞こえる声で言う父さんにうなずいて、僕は母さんへと駆け寄った。大地のおばさんからなら大地とも話せるはずだと、そう思ったからだ。
『……柚樹』
笑顔でスマホの画面をのぞきこんだのはそこに大地も映っているはずだと、そう思ったからだ。
でも――。
「……おば、さん?」
そこに映っていたのは三ヶ月前よりもずっと痩せて細くなったおばさんだった。おばさんだけ、だった。
『……佑樹? 学校は?』
今、こっちは午前十時半だ。僕は学校に行っていて留守だと思っていたのだろう。おばさんがぼんやりとした表情で尋ねる。
その、おばさんが腕に抱えているものを見て僕は頭が真っ白になった。
「そらちゃん……そらちゃん……!」
「クリスマス休暇でこちらは二十日頃から休みに……、……佑樹!」
無言の僕とおばさんの名前を連呼するばかりの母さんに代わっておばさんの質問に答えようとしたのだろう。スマホをのぞきこんだ父さんが僕の腕を乱暴に引いた。それ以上、見せまいとしたんだと思う。
だけど、僕はその場を動かなかった。動けなかった。おばさんが腕に抱えているものから目をそらすことができなかった。
『クリスマス休暇……ああ……もう、そんな時期、なんですね。……だから、そんなにたくさん料理を用意して……にぎやかに飾り付けて……』
母さんだけがおばさんの〝いつもどおりじゃない顔〟に気が付いていなかった。おばさんが胸に抱きしめているものに気が付いていなかった。
おばさんから連絡があった。おばさんが生きていた。それがうれしくて仕方がなかったんだと思う。うれしくて気が付かなかったんだと思う。
だから――。
「そらちゃん、よかった……そらちゃん……そらちゃーーーん!」
母さんはいつもどおりのうれしそうな泣き笑い顔でそう言ったのだ。〝よかった〟と言ったのだ。
『……よかった?』
力のない声とぼんやりとした表情でそう聞き返されて、ようやく異変に気が付いたらしい。
「そら……ちゃん?」
後ろに立っていて顔が見えない僕からもわかるほどに母さんはおろおろとし始めた。
『昨日の夜……井野のおばちゃんのようすを見てきてってお願いしたの。もし、起きてたら水を飲ませてあげてって』
井野のおばちゃんというのはスーパーのタナカでレジをやっていたおばちゃんのことだ。三ヶ月前にビデオ通話したときに大地やおばさんと同じようにスーパーのタナカで避難生活を送っているんだと言っていた。
あのときは元気そうだったのに、この三ヶ月のあいだに自力で水も飲めないほど弱ってしまったのだろうか。だけど、それをおばさんに尋ねることはできない。
『わかったって言って大地は井野のおばちゃんの顔をのぞきこみに行って……天井が落ちてきて……井野のおばちゃんも、大地も……』
だって、おばさんは幽霊みたいな顔で話を続けるから。抱えているものを大切そうに抱きしめるから。
たぶん、きっと、それは人間の腕だ。人間の腕、だけ。
『すぐそこ……腕を伸ばしたら届く距離だったのに……私は生き残って、大地はがれきの下敷きになって……。ようすを見てきてなんて言わなければ……あと一分でも二分でも言うのが遅ければ……。いつも、そう。毎回、毎回、私は選択をまちがえる。間が悪い』
「……そらちゃん」
『戦争が始まってすぐの頃、柚樹にこっちに来ないかって言われたとき。様子見するなんて言ってないで大地だけでもすぐにそっちに行かせればよかった。……あの人のときもそう』
〝あの人〟というのはおじさんのこと、大地のお父さんのことだろう。おじさんは大地が小学校一年生のときに飛行機事故で死んだ。海外に出張に行って、その帰り道に。
おばさんが飛行機に乗るのも、大地を飛行機に乗せるのも怖くなった原因だ。
でも――。
『まだ大地が小さいうちはってあの人はずっと海外出張を断ってたのに……私があのとき、大地ももう小学生なんだからって、そんなこと言わなければ……』
そんなことがあったなんて知らなかった。おばさんがそんな風に思っていたなんて知らなかった。大地もそんな話、一度もしたことがなかった。もしかしたら、大地も知らなかったのかもしれない。
だけど――。
「違う、そらちゃんのせいじゃない! 大地くんパパのことも、大地くんのことも、そらちゃんのせいじゃない! 絶対に違う……!」
母さんは――おばさんと幼稚園の頃からの幼なじみである母さんは知っていたらしい。聞いていたらしい。泣きながら必死に首を横に振って否定する。
だけど、おばさんはうつむいていて母さんを見ていない。母さんを見ないまま、母さんの言葉を否定する。
『柚樹にはわからない……。飛行機が事故に遭うこともないし、戦争が始まる前に日本から引っ越せた。旦那と息子と今も平穏無事に暮らせてる。そんなにたくさんの料理やお菓子を用意して、クリスマスツリーを飾って……』
おばさんが言うとおり……なのだろうか、と思う。
外に出るのが怖くて、二年近く家の中に閉じこもって、日本に帰りたいと言っていた母さんが。おじいちゃんとおばあちゃんが死んだと聞いてからはベッドから起き上がることもできなかった母さんが。平穏無事に暮らせていたと言えるのだろうかと、そう思う。
だけど、それをおばさんに尋ねることはできない。
『お腹を空かせたまま、大好きなポテチ一つ食べさせてあげられないまま……ようすを見てきてなんて言って、落ちてくる天井の下に行かせて……死なせて……』
尋ねることなんてできるわけがない。日本から遠く離れた場所で。戦争とも空腹とも無縁な場所で。今日も平穏無事に生きている僕に、尋ねることなんて。
僕と同じように後ろめたさを感じているのかもしれない。母さんは背中を丸めてうなだれた。
『どうしてこんなにも選択をまちがえるの……間が悪いの……どうして柚樹の選択はいつも正しいの……こんなにも間がいいの……』
「……そらちゃん」
『わかるわけない……。柚樹に、私の気持ちがわかるわけ……!』
「そんなこと……!」
『だったら! だったら、目の前で自分の子供が自分のせいで死ぬところを見てみなさいよ!』
必死に首を横に振って否定していた母さんが、おばさんの怒鳴り声に動きを止めた。
そのとき僕はソファに座る母さんの後ろに立っていた。だから、母さんがどんな表情をしていたのかはわからない。
ただ、母さんの表情を見たおばさんがハッと目を見開いて青ざめたのが見えただけ。
『ごめん、柚樹! 今のは……!』
おばさんがそう叫んだ直後――。
「そらちゃん……? そらちゃん!? ねえ、そらちゃん!」
スマホの小さな画面に映る映像が乱れ、暗くなり、ぶつりと通話が切れてしまった。




